国造りに対して国際社会はいかに関与すべきか

元駐トルコ・駐ミャンマー大使 山口洋一

<梗概>

 現在の国際社会は,国連における国家関係がそうであるように,国民国家は国の大小にかかわらず平等で,(国際法に反しない限り)内政不干渉の原則に立っている。しかし現実にはその国の政治状況によっては,国際社会が内政にまで関与する場合がある。一つの価値観にだけ基づき当該国の実情を無視して一方的に介入した場合には,ときにその国にとって不幸を招くこともある。その一つのよい例が,ミャンマーである。さらに古代ギリシアの歴史を振り返っても同様の経験があり,現代国際政治へのよき教訓ともなるものである。

1.国際社会の関与の在り方

 世界中の国々は,先進国であろうが途上国であろうが,それぞれが置かれた状況の中で国造りに取り組んでいるが,国際社会はこれに対してどのように関与すべきであろうか。一国の国造りの努力に対して,どのような関与が適切で,効果的なのであろうか。
 国家体制の根幹となる政治制度については,その国の置かれた状況に照らして最適の選択をしなければならず,それには当事国自身が一義的な責任を持ち,自ら推進するのが最善と考えられる。一国の国家体制は,その国の歴史,伝統,文化,国民性に即応して構築されなければならず,こうした事情に疎い外国がこの問題に介入するのは,有難迷惑の余計なお節介にしかならない。
 考えてみれば,これは当たり前のことであり,どこの国においても,国造りの責務を担う為政者は,常に自国が置かれているその時々の状況に照らして,如何にして最善の国家経営をするかに心血を注いでいる。
 例えば,群雄割拠の戦国時代,天下人になって,朝廷の権威のもとに日本をとりまとめようと日夜奮戦している織田信長のところに,お節介な西洋人がやってきて,「信長さん,そんなに戦ばかりしないで,民主主義をおやりなさい」と勧めたところで,当時の状況下では全く意味をなさないのは言うまでもない。信長としては,戦以外の選択肢などあり得なかったのである。
 従って,政治面での国家体制の構築については,国際社会は当事国の努力を見守り,これを側面的に支援するのが好ましいあり方と言える。具体的には,貿易,投資,技術移転,観光,学術文化交流など,支援の手段は多岐にわたり,とりわけ当事国が途上国である場合には,政府開発援助(ODA)の供与が効果を発揮する。

2.欧米によるミャンマー・バッシングの誤謬

(1)欧米の独善的な価値観の押し付け
 近年,急激な変貌を遂げて世界の注目を集めている国の一つがミャンマーである。この国では ①公正に選出された議員による連邦議会が機能し,②言論の自由,労働組合活動,経済統制などの面で,規制の緩和・撤廃による自由化が促進され,③政治犯の釈放が行われ,④少数民族との和解も進む等,好ましい方向を目指しての著しい進展が見られている。
 このような状況の変化に応じて,欧米諸国はミャンマー政策を大きく転換しつつあるが,ここに至る長い期間,彼らはこの国に厳しい制裁を科し,締め付け一本槍のミャンマー・バッシングを続けてきた。その言い分は「軍事政府が政権にしがみついて,民主化を怠っている」という点にあった。とりわけ「1990年の選挙結果を無視して,政権移譲を行わなかったのは怪しからん」というのである。
 この間における日本の政策も,制裁こそ実施しなかったが,政府開発援助(ODA)を極端に制限する等,欧米と協調し,基本的には彼らの政策と平仄を合わせてきた。
 欧米諸国は「冷戦に勝利したことは,民主主義,自由,平等,人権尊重,市場経済といった自分たちの基本理念こそ<正義>であり<善>であることが証明されたのだ」との確信を抱くようになった。そして彼らは,この基本理念はアジアでもアフリカでも妥当すべきものと考え,これに背馳している怪しからん国には非難の矛先を向けるようになり,ことに米国は,場合によって軍事介入をも辞さずに,これを押し付けるという態度をとるようになった。
 ミャンマー・バッシングはまさにこうした風潮の中で続けられてきたのである。

(2)各国の実情・伝統との調和をどう図るか
 民主主義は,それが理想的な形で機能すれば,好ましい政治制度と言える。しかしこれが機能するには,所要の前提条件が満たされていなければならない。国家の統一と安定が確保され,国民の生命・財産が保障されていることは,なによりも大切な大前提である。内戦によって国の安定が損なわれ,統一が危殆に瀕し,国民の安全が保たれない状態では民主制度は機能し得ない。統一と安定が確保された状態で,最低限国民が餓死しない程度の経済の営みも必要となる。こうした状況が満たされた上で,ある程度国民の教育水準が向上し,政治意識が高まっていることも重要である。
 このような前提条件が欠落したまま,ただ闇雲に形だけ民主的政治制度を採用してみたところで,政治家は利権に狂奔して政争に明け暮れ,選挙民は金や暴力や社会的因習に禍されて行動するのが落ちとなる。現にミャンマーでは,1948年に独立して初代のウ・ヌー政権が議会制民主主義を実施したが,こうした前提条件が不十分であったため,この政治制度が機能せずに立ち往生してしまい,ネ・ウィンのクーデター(1962年)となった苦い経験がある。
 これまでの欧米によるミャンマー・バッシングの最大の理由は,1990年の選挙で,アウン・サン・スー・チー女史の国民民主連盟(National League for Democracy)が圧勝したにも拘わらず,民政移管をしなかったという点にあった。しかしこの時点で,ミャンマーでは18の少数民族武装勢力が反政府闘争を繰り広げていたのである。
 軍主導の政府でなければ,到底この内戦を収拾することはできない状況にあった。なにしろアウン・サン・スー・チー女史は国軍を散々非難し,発砲事件を起こした軍の責任者を裁判にかけるとまで豪語して,選挙戦を勝ち取ったのである。このような人物が率いる政府ができても,軍が身を張って内戦収拾に当たることはおぼつかなくなってしまうに違いない。従って,もしこの時,軍が政権を手放していれば,カレンやカチンなどの少数民族が分離してこの国は四分五裂し,もはや今日のミャンマー連邦共和国は存在していなかったであろう。軍の当局者はこの点についての強い危機意識をもち,まず何を措いても国の統一と安定の確保に専心することとした。
 そこでミャンマーの軍事政権は,自国の統一と安定を図りつつ,自分たちに合ったやり方で民主化を進めて行くという方針を打ち出し,国造りに取り組むこととした。このような発想のもとに制定された現行憲法では,連邦議会の議員の四分の一は軍から出すとか,国防,内務,国境の三大臣は軍が指名するなど,軍が政治に関与する規定が設けられている。これは完全な民主制度に到達する中間段階の制度であり,この段階を経て,やがて最終的な民主的政治制度を実現するというのが,この国に合ったプロセスなのであり,軍の当局者も今後自国が辿るべきこのような道筋を公言している。
 しかし欧米は,国際マスメディアの歪んだ報道にも禍されて,こうした事情を理解せず,政治面での露骨な干渉をする一方,制裁を科して締め付けを続けてきた(詳しくは拙著『ミャンマーの実像』『<思いこみ>の世界史』『歴史物語ミャンマー・上下二巻』を参照)。国際社会の望ましい関与のあり方として,本稿の冒頭に記した「政治制度の構築は当事国自身の責任に委ね,国際社会は援助,貿易,投資などで側面的にその努力を支援する」という対応とは,全く逆のことをしてきたのである。
 この意味で,欧米との協調路線をとってきた日本の政策も,到底適切な対処ぶりとは言えなかった。
国際社会はミャンマーのケースのような個々の国の実情には,もっと理解を示すべきであり,形だけの民主主義を押し付けようとする欧米の態度は,彼らの独善と言わざるをえないし,このような欧米の政策と足並みを揃えてきた日本政府のやり方も,欧米同様に,好ましくない対処振りであったと言わざるを得ない。国際社会のこのような関与の仕方は有害無益でしかなく,この国の国造りの進展を妨害し,遅らせる結果となってしまった。
 以上,欧米が西洋的価値観至上主義の妄信に駆られ,相手国の事情如何にかかわりなく,民主主義の押し付けを強行してきた様子をミャンマーのケースについて述べてきた。このように,それぞれの国が置かれた状況を無視して,自分たちの理念や価値観を一方的に押し付け,形だけの民主主義を実施させようとしたところで,有難迷惑の内政干渉となり,かえって混乱を招く結果にしかならないのである。

3.古代ギリシアに学ぶ

(1)古代ギリシアの民主的政治制度
 実は,歴史の中でもこのような事例は見られたところであり,古代ギリシアではこんなことが起きている。
 古代ギリシアでは,その都市国家であるアテネの民主的政治制度が知られている。しかし,この政治制度にたどり着く道のりは長かった。紀元前9世紀頃に建国された当初のアテネの政体は,建国初期の国々の例にもれず,王政だった。その後紀元前8世紀頃に貴族政に移行したが,紀元前7世紀に入ると,土地所有に経済力の基盤を置く貴族階級に対して,商工業によって力をつけはじめた新興階級が徐々に台頭し,自分たちが国政に参加できない貴族政への不満を強めてきた。そしてやがて,これらの「デモス」と呼ばれる市民たちの不満を背景に,断行されたのが「ソロンの改革」という大改革であった。ソロンは人口調査を行って,そこで明らかにされた不動産所有の多寡に比例して,国政に参加する権利を与えることとしたのである。紀元前594年のことである。
 こうして国政参加の権利が出身階級に左右されることがなくなり,民主政への第一歩が踏み出された。地中海世界ではどの国よりも先んじた「ソロンの改革」が,アテネを貴族政から脱却させ,「資産の多寡に応じた参政権」という制約はあったものの,初めて民主政の都市国家に移行させたのである。
 しかし,こうして折角生まれた民主政も,ソロン自身が健在の間はなんとか続いたが,やがて彼が引退するや,政治家たちが政争に明け暮れする無政府状態同然の混乱に陥り,「ソロンの改革」が生んだ民主政は30年余りの短命に終わってしまった。
 アテネはここで,ペイシストラトス(Peisistratos)による独裁の時代を迎えることとなったが,この独裁は,アテネに平和と秩序を回復しただけではなく,経済面では,空前の繁栄をもたらしたのである。アテネは商工業の発展を起爆剤にして,対外的にも積極的に進出し,エーゲ海の島々からイオニア地方にまでも勢力圏を広げ,ペルシア帝国とは友好関係を結んだ。
 しかし,独裁政というものは,独裁者個人の力量によって,その命運が左右される。ペイシストラトスがこの世を去り,その息子の時代となると独裁政はほころびはじめ,紀元前510年に打倒されて,再び民主政が復活した。しかも独裁政打倒の先頭に立ったクレイステネス(Cleisthenes)は,「ソロンの改革」を復活させたばかりでなく,より民主的な政体にする方向へ,一段と改革を進めた。こうしてアテネは紀元前6世紀末にいたって,文字通りの民主政体を確立することとなったのである。今や市民集会には,20歳以上のアテネ市民全員が出席し,一人が一票をもつようになった。この市民集会は国の最高機関とされ,開戦の賛否,講和条約締結の可否,他国との同盟締結,さらには政府の役員の選出といった重要事項がすべてここで決められることとなった。こうして世界史上はじめて,一般市民が国政に直接参加できる政体が誕生したのである。
 これに加えて,独裁政に逆戻りすることを避けるため,「陶片追放」の制度も設けられた。市民は追放したいと思う人物の名を陶片に記して投票し,追放と決せられた人物は,10年間国外に追放されることとなったのである。もっとも,この制度の方は,紀元前417年に廃止された。政敵を追放しようとたくらむ政治家の画策や民衆の偏った「思いこみ」によって,有為の士が追放されるケースが何回か起こり,国益に反する結果を生むと考えられるようになったのである。

(2)ペルシア戦役
 やがて紀元前5世紀に入ろうとする時代,オリエント全域の征服に成功したペルシア帝国が,その視線を西の方に向け始めていた。
 紀元前490年,ペルシア王ダリウスは,ギリシアの各ポリス間の離反を策して,都市国家群が共同歩調をとれないようにする巧妙な外交戦略を駆使し,ギリシアを支配下に置こうとした。こうしてペルシア王は陸海合わせて25,000の軍勢を派遣してギリシア攻略を試みたが,この時の襲撃は,ギリシアの各都市国家が連携を図り,なんとか防戦に成功して,ペルシアの遠征軍を押し返すことができた。
 だが,ペルシアがこれでギリシア攻略を諦めるとは誰も考えなかった。次なる攻撃になんとしても備える必要がある。各都市国家は軍備の増強に努めた。
そしてダリウス王の襲撃から10年後の紀元前480年,ダリウスの遺志を継いだペルシア王クセルクセスは,自ら30万の兵と1000艘の軍船を率いてギリシアに侵攻してきた。ギリシア側は,アテネとスパルタを中心とした大同団結を成立させ,アテネのテミストクレス(Themistocles)が総司令官となって奮戦したが,一時は全ギリシアの国土の三分の二がペルシアに蹂躙されるまでの窮地に立たされた。しかしギリシアは,テミストクレスの奇略に富んだ作戦によって,ペルシア軍をサラミスの海戦に導き,この戦闘で見事ペルシア軍を打ち破り,敗退させたのである。自分たちの独立と自由を守る決意に燃えたギリシア兵の戦意は高く,ギリシア都市国家連合軍は,こうして見事大敵ペルシアの遠征軍を打ち負かしたのである。
 更に,この翌年にもペルシアの遠征軍は雪辱戦を挑みにやってきたが,再びギリシア側はこれを押し返し,こうして自信をつけたギリシア軍は,同年,こんどは逆にギリシア側が攻勢に出て,エーゲ海を東に向かい,小アジアに攻め込んで,勝利に輝いた。かくてペルシア戦役は紀元前478年をもって終わったのである。

(3)古代ギリシアにおける他国への有難迷惑な干渉
 大敵ペルシアを破って,ギリシアに勝利をもたらしたテミストクレスの人気は絶大で,彼にはギリシア全土の人たちから信望が寄せられた。
 しかし,大敵ペルシアの脅威から解き放たれると,やがて全ギリシアの都市国家が打って一丸となっていた都市国家の連合体には亀裂が生じはじめた。アテネを中心とした「デロス同盟」とスパルタを中心とする「ペロポネソス同盟」への分裂である。そして紀元前431年には「ペロポネソス戦争」が火を噴くこととなるが,それまでの47年間はいわば冷戦状態の睨み合いが続いたのである。アテネ中心の民主派勢力とスパルタ中心の強権的国家主導派との対立である。まさに第二次大戦後の米ソ両陣営の対立と似ている。
 こうした状況にあって,時代の寵児テミストクレスは,もはや敵はペルシアではなく,いずれはスパルタとの対決が避け難いと考え,アテネの覇権をギリシア全土に及ぼそうと意気込んだ。
そこで彼は,スパルタ傘下のポリス群がスパルタから離反し,「ペロポネソス同盟」が瓦解することを狙って,「民主政体を樹立するならば,アテネは援助を惜しまない」との方針を打ち出した。そればかりか,スパルタ国内の被支配階級である「ヘロット」と呼ばれる農業奴隷たちにも,民主政体下での自由を説いて働きかけ,彼らを暴動に立ち上がらせようとした。
 更に彼は,こうした政策を強力に押し進めるには,お膝元のアテネでの権力を磐石にしておく必要を感じ,そのために,アテネの「第四階級」に属する市民を優遇して,彼らの人気を得ようとした。アテネでは資産の多寡により全市民を四階級に分け,市民としての権利義務に差異が設けられていた。無産とされた「第四階級」の市民は,選挙権は有しても,被選挙権は与えられず,兵役の義務が課せられていたのである。この階層は,財力はなくても,ペルシア戦役では海軍兵士としての活躍目覚しく,勝利によって意気軒昂であり,誰よりも指揮官であったテミストクレスを尊敬している。この連中を味方につければ,テミストクレスの権力は揺るぎないものとなると読んだのである。
 ところが,テミストクレスのこうした画策は,アテネの穏健な保守派に危惧を与えた。彼らは,自分たちの階層の利益が損なわれることを怖れたのである。そこで穏健保守派は,テミストクレスに対して,「ペルシアという大敵を忘れ,同じギリシアの友人同士であるスパルタを敵視するとは何事ぞ」と言って非難の矢を向け,テミストクレスの失脚を画策した。その際,活用したのは,もちろん「陶片追放」である。こうして彼らの目論見はまんまと成功し,ペルシア軍を敗走させて,人気絶頂だったテミストクレスは,哀れその7年後の紀元前471年,アテネからの追放という憂き目に遭った。
 彼の唱えた反スパルタ主義は,他のポリスでも容れられていなかったので,危険人物視されたテミストクレスはギリシア内には行き場がなく,ついには,こともあろうにペルシアに亡命先を求めざるを得なくなった。
 ペルシア王は,かつての敵将を礼を尽くして迎え入れ,テミストクレスはこの地に10年間,安穏に生き長らえることとなった。しかし,こうしてペルシアで70歳を迎えた紀元前460年,彼は毒杯をあおって自殺するのやむなきに至った。彼はペルシア王から,アテネ海軍との戦いに向かうペルシア海軍の指揮をとって欲しいと懇請され,流石に祖国に弓を引くことはできず,進退に窮した末に自殺を遂げたのである。
 このようなアテネでの民主政体確立の経過を振り返ると,まさに現代のアジアや中近東,アフリカの国々が当面する国造りの難しさを彷彿とさせる。つまり,欧米諸国の押し付けで,過早に形だけの民主主義を導入させてみたところで,必ずしも国民はこれを歓迎せず,かえって混乱を招くばかりの有り難迷惑にしかならない。民主政体の定着は,それぞれの国の実情に合わせて,時間をかけて地道にとり進めるべきものなのである。
 そして,アテネの民主政を他のポリスにも押し付けようと,やっきとなっていたテミストクレスの生き様を見ると,「今から2,500年の昔にも,昨今の欧米諸国の指導者と同じような発想の人物がいたのか」と思わずにはいられない。もっとも現代の欧米人指導者は,元祖テミストクレスが辿ったような悲運の人とはならないであろうが・・・

(2013年2月27日)