「強国」の夢を追う中国

元国際貿易投資研究所理事長 小林 進

<梗概>

 西暦1000 年から18 世紀までの世界GDP における中国のシェアは約三分の一だったとい われる。しかし19 世紀から低下の一途をたどり新中国成立直前には1%まで落ち込んだが,改 革開放政策以降,そして21 世紀に入り急激な経済成長を遂げた。習近平主席は「中華民族の 偉大な復興の夢」,すなわち,経済強国,海洋強国の実現を掲げ,民衆の信頼確保および軍と の連携強化を図っている。

 中国の日本に対する外交姿勢は,予想外に 強硬だ。アダム・スミスが『国富論』で述べて いるように,経済発展に伴って,軍事力は増大 する。それがまた人々の自信を支えることにな る。一方で,貧富の差が拡大し,中国共産党 による事実上の一党独裁体制が揺らいでいる, との見方も有力である。本論では,中国側が 使用する表現に特に留意したが,ソフトな日本 語訳では,ハードな真意も,中国人の抱く対日 「イメージ」の変化も,理解が難しい。外国に 対する「イメージ」がその国の外交を左右する, という国際政治理論がある。そうした観点から 中国の対外姿勢を見ることにする。

1.「中華民族偉大復興的中国夢」

 現在,中国の流行語は「夢」(漢語の発音は meng)である。何にでも「夢」がつけられる。 戦後すぐの日本では,歌謡曲の中で最も頻出 する言葉は「夢」と「まぼろし」であった。そ れは「はかなさ」あるいは「かなわぬもの」を 意味していたが,中国における「夢」あるいは 「夢想」(mengxiang)は実現の可能性が高い という,自信に満ちたものである。日本語の「夢 想」は空想の意だし,夢と言えばキング牧師 が1963 年のスピーチで“I have a dream”と 言ったのが有名だが,中国の識者はもちろん, これを知っていて,米国ではこの種の「夢」は 実現しないと,文明批評している。
 中国共産党は各地にその教育機関として「党 校」をもっているが,北京にある「中央党校」 の周天勇教授は2011 年6 月に『中国夢与中 国道路』(社会科学文献出版社)を出している (英語書名はThe China Dream & the China Path )。周教授は資源環境に主軸を置きなが ら,土地,税制,金融,国有経済など多方面

 にわたる改革を提唱している。20 世紀半ばま での100 年,民族独立と人民解放のために奮 闘し,工業化・現代化の政治前提と社会環境 を作り上げてきた。その後の100 年のうち残り は約40 年,「人民富裕,国家強盛,社会安定, 生態環境優美的社会主義強国」を建設するこ とによって,「中華民族在21 世紀的偉大復興」 の実現をめざすべきだし,世界の誰もこれを 阻止できない,と主張している。
 昨年11 月の人事で政治局常務委員のトップ である総書記に就任した習近平氏は,それまで 中央党校の校長を兼任していた。したがって, この本を読んでいるはずだ。11 月29 日,他の 常務委員とともに国家博物館の「復興之路」展 を見た折に,新中国成立(1949 年)からすで に60 年を過ぎているが,100 年を迎えるまで には,「中華民族の偉大な復興の夢想を実現で きる」と語った。彼は今年の全国人民代表大 会で国家主席に選ばれたが,3 月17 日再び「 国夢」を口にし,「国家富強,民族振興,人民 幸福を実現させる」と述べている。
 では, 「復興」という場合,いつの時代を念頭 に置いているのか。『人民日報』(海外版,2013 年4 月1日)は次のように解説している。英国 の経済学者アンガス・マディソン(Angus Maddison, 1926-2010 年)の推計によれば,中国 は西暦1000 年以降,世界のGDP(国内総生産) の3 分の1 以上を占めてきたが,「老大帝国」 (清国)は屈辱にまみれた姿で近代史入りした。 19 世紀,列強から押しつけられた条約などに よって,中国の国家的地位が低下しただけでなく,中国人の民族的地位も低下した。落後, 敗北,抗争の中で,民族復興が近代中国の主 要テーマになった。革命も建設も改革も,この 目標実現のためであった。20 世紀初め,オリ ンピック開催が叫ばれたし,進歩的青年は小 説の中で万国博覧会開催を描き,革命分子は チベット鉄道を計画した。今日,いずれの夢も 実現した。さらに,「飛天夢,潜海夢,航母夢」 も実現した。「民族復興之夢」は空中楼閣では ない。国家が上昇局面にあるか否かは,その 国の「造夢」能力によるし,さらに国民が自信 をもって自分の夢を語り始めるか否か,にかか っている,と『人民日報』は主張する。
 中国経済のめざましい発展と国際的地位の 向上をみると,もう十分ではないかと思われ るが,『人民日報』が回顧しているように,西暦 1000 年すなわち北宋で王安石が活躍していた 時代から18 世紀の清朝最盛期の乾隆帝時代 までが,中国本来の国際的地位だとすると, 取り戻すべき余地はまだある。西暦1000 年以 降,18 世紀までの中国の世界GDP に占めるシ ェアは,実際のマディソン推計では,約3 分の 1 である。マディソンは1995 年,世界199 カ国 について,1820 ~ 1992 年のGDP 推計を発表し たあと,中国政府の依頼で,過去2000 年にわ たる中国のGDP を推計した(Chinese Economic Performance in the Long Run ,1998)。これ を基に,汪中求と王篠宇が作成したのが図表1 である。原図は1750 年から始まるが,1800 年 までのシェアは32% の横這いなので,18 世紀 は割愛した。なお,1750 年における欧州5 大 国(イギリス,フランス,プロシア,ロシア,イ タリア)合計は17% である。当時の中国の人口 は2.4 ~ 3 億人で,世界総人口の3 分の1 であ った。それまでは,いずれの国も産業構造は 農業主体で,一人当たりの生産力に大差ないた め,人口のシェアすなわちGDP シェアになる。
 イギリスで産業革命が始まり,工業の生産力 が飛躍的に上昇すると,先進国と後進国で差 が生じた。2 度のアヘン戦争,太平天国の乱と 続いて,中国のGDP シェアは急坂をころげ落ち るように低下した。しかし,それでも,西欧か らみれば,中国は大国であり,アジアにおけ る強国であった。それが幻想であることを明ら かにしたのは,中日甲午戦争(日清戦争)であ る。汪と王の共著によれば,日本は「強国之名」 を得て「後発先至」となり,他方,大清帝国では, それまで30 年にわたる「変革図強的心血」(い わゆる洋務運動)もこの一戦で消滅し,「屈辱」 と「災難」が相次ぐことになった。すなわち, 「瓜 分」(列強の中国分割競争)と中国人蔑視が始 まった。知識人たちはこの時から,強国復興 の夢を見ることになった。

2.「経済大国」から「経済強国」へ

 世界のGDP に占める中国のシェアは,義和 団事件のあった1900年の6 % で底打ちし,中 華民国誕生(1912 年)後,第1 次世界大戦に よる戦争景気で11.8% まで回復した。その後 は軍閥割拠,国共内戦,日中戦争,再度の国 共内戦を経て,共産党主導の新中国が誕生し た1949 年には,1% まで落ち込んだ(世界人口 に占める割合は当時21.8% で,1990 年の21.6% までほぼ横這い)。統一すなわち国内平和がよ うやく実現し,社会主義をめざしながらも,当 面は経済の主要部分を政府が掌握する「国家 資本主義」(劉少奇,鄧小平などの現実路線) で経済再建を果たすはずだったが,生産関係 (所有に根ざした階級関係)の変革なしには生 産力(今日の言葉でいえば潜在GDP)の向上は ありえない,とマルクス経済学に立脚した毛沢 東の主張で,職業,家柄,言説などを判定基 準にした階級闘争(文化大革命)に明け暮れ ることになった。正確な計算はもちろん出来な いが,中国のGDP シェアは0.7% に落ちたとも いわれる。鄧小平が再び職務についた1977 年, ようやく文革が終息した。
 中国は「地大物博」(土地が広く物産が豊 富)で,外国貿易は最小限でよい,とする経 済思想は明朝,清朝以来のもので,西欧思想 の流入を嫌う毛沢東体制もこれを受けついだ。 1978 年,世界輸出総額に占める中国の割合は わずか0.7% であった。鄧小平はこうしたアウ タルキー(自給自足)経済を打破し,アダム・ス ミスが『国富論』第4 編第9 章で論じた方向 に舵を切ったのである。スミスは,18 世紀中 国の国内市場の大きさはヨーロッパ全体に劣ら ないとみている。これに外国貿易が加われば,「製造業の生産能力はいちじるしく改善するだ ろう。海上交通が拡大すれば,中国人は外国 で使用されている,あらゆる機械を使用,さら には製作する技術を学ぶことになるだろう」と 述べている。スミスの経済学では,国内・海 外の市場拡大は製造業の分業を促進し,国富 を増大させる。
 だが,改革開放の80 年代,中国経済は息 を吹き返したとはいえ,高成長の世界経済の 中にあっては,依然として,みすぼらしいもの であった。1985 年の世界GDP に占める各国の シェアをみると,日本の10.5% に対して,中国 は2.4%。中国からみると,日本は4.5 倍の経 済大国であった。一人当たりGDP では,日本 は中国の38.4 倍。日本人労働者一人の賃金で, 中国人を40 人雇えるといわれた。
 経済の改革開放が軌道にのったと思われ た矢先,1989 年天安門事件の影響で,中国 のGDP シェアは1.8% に低下。鄧小平の南巡講 話(1992 年)で再び活気を取り戻し,1995 年 のGDP シェアは2.5% に回復した。日本が他国 に先んじて経済協力を再開し,日本企業の第 1 次対中投資ブームが貢献したのである。アジ ア通貨危機の影響は軽微で,1998 年のGDP シ ェアは3.4%,WTO 加盟の前年,2000 年は3.7% であった(人口は12.69 億人で,世界人口に占 める割合は20.7%)。この年,日本のシェアが 14.6% にはね上がった。人口1.27 億人,世界 人口に占める割合はわずか2.6% で,これ程の 経済規模を築きあげたことは,世界経済史上, 特筆すべきである。WTO 加盟が起爆剤になっ て,2000 年代半ばの中国の成長はすさまじく, 2010 年,米国に次ぐ第2 の地位が日本(1968 年以降)から中国に入れ替わった。
 北京駐在の日本人記者は2011 年2 月17 日, 中国商務省の報道官の定例会見で,この日中逆 転をどう思うか,と質問した。報道官は,鄧小平が日本の新幹線に登場した写真(1978 年10 月) を示して,中国の発展に日本の資金と技術が必 要,と指示があったことを紹介,高成長の基礎 となった外資導入の幕明けだった,と回顧して いる。
 その頃,中国は自己診断の転機を迎えてい た。それまでは「大而不強」(大きいが,強くは ない)という,自戒の言葉が一般的であったが, 外国人の中国を見る目に変化が生じたのである。 「日中逆転」公表の1 カ月前,週刊誌『瞭望』の 新年号(2011.1.3)に, 「中国如何追赶超越美国」 (中国は如何にして米国に追いつき追い越すか) という論説が掲載された。筆者は著名な経済 学者・胡鞍鋼教授で,次のように述べている。 “赶超美国”は毛沢東が我々に提示した“中国 夢”あるいは“強国夢”である。50 年前,彼 は党の会議で,50 〜60 年後に米国に追いつき, 追い越す,という戦略構想を提唱した。「中国は 世界最強・最大の資本主義国すなわち米国を 追い越すのだ。50 年(2006 年)か60 年(2016 年)の時間があれば,成し遂げられる」(60 年 代初め,毛沢東は「偉大的空話(ほら)」を吹く, と馬鹿にされたこともあったが…)。
 胡教授によれは,毛沢東は資格条件として, 次の3 つをあげている。第1 が国土面積で, 米国と大差なく,資源も似たようなものだが, 利用効率を高めれば自然資源基盤となる。第 2 の10 億を超える人口は人的資源基盤として, 第3 の社会主義の優越性は制度基盤として, いずれも米国を追い越すのに必要かつ十分で ある。フルシチョフのソ連も大きな目標をたて たが,人的資源が不足だった上に,1991 年の ソ連解体で社会主義の優越性が失われた。50 年代から80 年代にかけての日本は米国に追い つきはしたが,3 条件不足で追い越すことがで きなかった。インドは将来,人口で優位に立 つだろうが,他の2 条件が備わっていない。こうしてみると,米国を追い越す「資格」のある のは,中国だけになる。
 2011 年初は,GDP「米中逆転」予測でに ぎわった。米証券会社ゴールドマン・サック スは2030 年GDP を, 中国31.73 兆ドル, 米 国22.92 兆ドル,そしてインド,ブラジルのあ との第5 位・日本5.85 兆ドルと予測した。日 本の三菱総合研究所は「米中逆転は2025 年」,英スタンダード・チャータード銀行のエ コノミストは,これを2020 年(東京オリンピ ック開催)と予測した。そうなると,「日中逆 転」は通過点にすぎない。世界第2 位は, 手放しで喜ぶ程のニュースではなかったらしい。 今日の中国人の目には,日本経済は日本人が 考える程の大きさには映っていないのではな いか。

3.「擱置」できる程度の問題か

 尖閣諸島をめぐる日中対立をみていると,ス ーザン・シャーク(2000 年代半ば北京の米大 使館に勤務)『中国・危うい超大国』(2007) の中に引用されている『環球時報』の記事を思 い出す。二千年の日中関係をみると,強い中国 と弱い日本,あるいは弱い中国と強い日本とい う組み合わせはあったが,今日のように両者と も強い,ということはなく,したがって,日中の当局者はいずれも,国内事情から相手に弱 みを見せられない,という論説である。
 それでは,今後,どうなるのか。シャークは ぞっとするような話と断った上で,あるエコノミ ストの見立てを紹介している。中国がナンバー ワンであることがはっきりすれば,日本は現実 を受け入れ,両国関係は改善する,と。中国 の昨年来の姿勢をみていると,中国の指導部 はそのような「釣島夢」を抱いているのではな いか。
 2010 年「日中逆転」したGDP 比較は,現在 どうなっているのか。アベノミクスによる円安 で,今年上半期の日本のGDP は中国の62% で ある(2012 年72%)。円相場は110 円まで円安 になる,と予測する為替専門家がいるが,そ うなれば日本のGDP 規模は中国の半分というこ とになる。13 年7 月の参院選後の記者会見で, 安倍首相は「日本の存在感を世界にしっかり示 したい」と述べたが,中国人の対日「イメージ」 はどうだろうか。
 2000 年の世界輸出総額に占めるシェアでは, 日本(7.4%)は中国(3.9%)の倍近くであったが, 2012 年の中国(11.2%)は日本(4.4%)の倍以上。 2007 年に米国を抜いて世界最大の輸出国にな り,世界最大の貿易黒字国である。貿易面で の国際競争力という点では,中国は完全に最 強国だ。

 日本の対中輸出を中国の通関統計の輸入で みることにする。どこの国でも,輸入は原産国 で計上される。中国の対日輸入には,日本か ら直接,中国大陸に仕向けられた財貨のほか に,香港経由も含まれる。また,分業の進ん でいる広東省では加工段階の転売は付加価値 税がかかるので,いったん香港に輸出して,そ のまま輸入する,といった方式がみられる。今 年上半期でみると,輸入総額に占める中国産 品の割合は8.2% にのぼる。そこで,この分を 除いて作成したのが図表3 である。昨年9 月, 日本政府が尖閣諸島を国有化したあと,日本か らの対中輸出が大きく減少したが,中国の貿易 専門家はそれ以前から,「日本品の輸入は減少 傾向」と指摘していた。
 中国の輸入総額(中国産品を除く)に占める 日本のシェアは1985 年35%,その後低下した とはいえ,2010 年は13.7% で首位を保っていた。 だが,対日輸入金額は2011 年に対EU を下回り, さらに昨年後半に対ASEAN(東南アジア諸国連 合),10月に対韓,今年1月に対台湾を下回った。 各国別でみると,今や韓国が中国にとって第1 位の輸入相手国である。中韓関係は急速に緊 密度を増している。
 このままでは日中ともに,経済損失を蒙る, と日本の誰もが危惧している。中国にも「和則 両利,闘則俱傷」(和すれば双方が利,闘え ば共に傷つく)という言葉がある。しかし,国 際関係論には,「非対称的相互依存」というの があって,相手国に対する依存度が高い方の 国がこうした場合,深い痛手を蒙る。香港の中 共系経済誌『経済導報』(2012.9.24)は,「経 済では,日本の中国に対する偏重は,中国の 日本に対する偏重よりも,はるかに大きい」と いう。貿易,投資,観光など「日本偏於中国」 (日本は中国に偏っている)を示す統計数字が, 次々と新聞,雑誌に報道された。日中対立で 深手を負うのは日本,という印象を民衆に与え るためであろう。なお,日本の輸出仕向け先と しては,2008 年までは米国が首位,2009 年中 国に入れ替わり,今年再び米国に戻った。日 中関係が希薄になる一方,日米関係の緊密度 が増している。中国にはこれまで,日本が過度 な対米依存にならないように,日本を中国側に 引きつける,という戦略があったが,今はそう した声は聞かれない。
 尖閣諸島を巡る日中の緊張を解きほごす,う まい手立てはあるのだろうか。『「領土問題」の論じ方』(岩波ブックレット,2013 年1 月)で最 上敏樹氏は,武力行使を避けるには,「棚上げ」 が「当面の現実的方法」と説いている。「当面」 とは,いつまでのことか。当面の先に何がある のか。
 岩波『国語辞典』で「棚上げ」をみると,「問 題を一時保留して,解決・処置をあとにのばす こと」とある。中国語では「擱置」(漢語の発 音はgezhi)というが,周恩来首相が田中首 相にこの言葉を使用したとされるのが1972 年, 次に鄧小平副首相が訪日の際に,これを確認 したのが1978 年,「一時」にしては,ずいぶん 時を経たものだ。「擱」は「置」と同意で,「さ しあたり,そこに置きなさい」といった会話の 中で使われるが,「擱置」となると,問題や案 件の処理に使われる。いずれにせよ,「一時」 的なものである。
 さらに,小学館『中日辞典』には,「這件事 情非常重要,千万不能擱置」(これはたいへ ん重要な事なので,放っておくことはできない) という文例がのっているように,重要度が低 い場合に限られる。つまり,周恩来や鄧小平 の時代には,中国側にもっと重大な案件があ った。そのため,釣魚島は「擱置」されたの だ。周恩来の時は,激化する中ソ対立を背景 に,米国(ソ連の冷戦相手)および日本(当時 の中国からみれば,脅威)との和解を急いだ。 500 億ドルといわれた対日賠償さえ放棄した(当 時,日本の外貨準備は約100 億ドル)。鄧小平 の時は,上述のように,日本の経済支援を必 要とした。だが今日は,こうした事情はない。 中国はこれまで「核心利益」を台湾やチベット, 新疆ウィグル両自治区に限定して使っていたが, 今年4 月26 日外務省副報道局長は「釣魚島問 題は領土主権の問題なので,当然,核心利益」 と明言した。「いかなる国であれ,我々が核心 利益よりも貿易を選ぶ,などと思ってはならない」という論説もみられる。
 中国の主張は,明・清の時代,琉球王国へ の册封使の記録の中に,釣魚島など一連の島 嶼を望見したとの記載があることを根拠にして いる(発見の法理)。他方,日本の主張は明治 政府の閣議決定(1895 年1 月14 日,当時は不 公表)と,その後の実効支配を根拠にしてい る(先占の法理)。問題は,当時の状況である。 閣議決定の頃,日清戦争の勝敗はすでに明ら かで,清国政府は日本政府に和睦の大使派遣 を打診していた。したがって,同年4 月のいわ ゆる下関条約には明示されていないが,釣魚 島は日清戦争のドサクサの中で「窃取」(コソ 泥の意)された,というのが中国の理解である。 カイロ宣言(1943 年11 月)で,日本が清国か らstealした土地は中国にもどすことになって いるし,この点を引きついだポツダム宣言(1945 年7 月)を日本は受諾した。したがって,釣魚 島返還は当然で,それを怠っている日本は国 際法違反,というのが中国の主張だ。日清戦 争をきっかけに中国の国際的地位が大きく低下 したことは既述の通りで,それにからむ釣魚島 の奪還は,「中華民族偉大復興」に欠くことの できない重要項目である。
 だが,日本の立場は,「不存在争議」(争う べき問題は存在しない)である。「棚上げ」と いう以上は,「争議」(異論,論争の意。他方, 日本語の「問題」は漠然としている)の存在 が前提だ。そこで,「棚上げ」という認識が日 本側にあったか否かが争点だが,中国側が「擱 置」を従前通りに続けるといっているわけでは ない。なお,郎咸平教授(香港中文大学)はゲ ームの理論の観点から,日本側では政府と経 済界が意見不一致と分析している。
 香港の雑誌『争鳴』は反共の立場で(深圳 税関で没収される),信憑性は不確かだが,中 国指導部に関する記事が多い。昨年10月号は,東京都が尖閣所有に動いていた8 月上旬の共 産党政治局常務委員会(当時9 名,現在7 名) の模様を載せている。軍部の提案と思われる が,「釣魚島を省軍区に編入し,先遣隊を進駐 させ,軍艦を配置する」とともに,「擱置争議, 共同開発」を正式に終息させる,との議案が 討議された。「棚上げ」はやめて実力行使する, との趣旨だ。呉邦国,習近平,李克強の3 人 が賛成,胡錦濤など6 人が反対,結局,否決 されたが,「棚上げ」や「共同開発」を高く掲 げる時代は終わった。
 その前月の7月中旬,党,政府,軍の合同 会議が開かれ,釣魚島の件について,次のよう に決まった。これまで領海の範囲が規定され ていなかったが,法律で「領海基線」を定め る。これを根拠に,海洋監視船が「巡邏」する。 しばらくの間,政府関係者の訪日を停止すると ともに,民間の訪日活動も中止させる(例えば, 中国人ピアニストの横浜公演がキャンセルにな った)。海,空,ミサイル部隊は実戦演習など を実施する。このような『争鳴』の記事内容は, 尖閣国有化以後,現実となり,1 年後の今日も 変っていない。
 それでは,中国側にはどのような解決策があ るのだろうか。軍部は武力行使である。日本 が先に手を出せば話は簡単だが,中国が先に 軍事行動をおこした場合,米国は本当に介入し てくるのか。日本人は安保条約を根拠に当然 視しているが,中国では,米国の態度を「模糊 立場」とみている。だからこそ,今年9 月のサ ンクトペテルブルグの「G20」の際,習近平国家 主席はオバマ大統領に,日中対立では中立の 立場をとるよう求めたのである。米国は結局の ところ,「一“魚”釣二国」(釣魚島問題で,日 中両国から利益をあげている)だけのことだ, との冷めた見方がある。日中問題に詳しいジョ セフ・ナイ教授は,「日中関係が悪化して紛争に向かえば,米国はいくつもの,きわめて厳し い選択を迫られる」と述べている(『アメリカン・ インタレスト』2013 年3・4 月号所載の「われら が太平洋における苦悩」)。この論文の翻訳者・ 会田弘継氏に,ナイ教授は「弱い日本では困る」 と語ったらしい。「強国」をめざす中国が問題 なのではなく,経済力が低下している日本が問 題なのだ。
 武力行使が論外とすれば,次は海洋裁判所 への提訴だが,王秀英『海洋権益論―中日東 海争議解決机制研究』(2012 年7 月)の判断 では,裁判所は発見の法理よりも先占の法理 に傾いているし,その上,中国と台湾が一緒の 席に着くことにでもなれば「二つの中国」にな ってしまう。台湾統一を待たざるをえない。な お,孫崎享・元外務省国際情報局長は,戦後 の裁判事例では,条約が重視される傾向にあ るので,日本は必ずしも有利ではない,と判断 している。
 王秀英氏が最良の策とするのが,「分割」で ある。中国はロシアなどとの領土問題処理で は,懸案の領域を2 等分する方式をとってきた。 たしかに,これが最も穏当だが,尖閣諸島は 東西に点在する8 つの島嶼から成り,地図上 で2 分すれば,日本の取り分は大正島のみ。 台湾に近い最大の魚釣島にしても冷戦時代の ベルリンのように東西2 分する程の広さはない。 王氏はまた,「共治」も一案というが,戦後の 日本占領を見ても,いずれかの国が主導権を 握ることになるので,新しい紛争になる。「共 同開発」でも,これは同じだ。
 中国が現在採用しているのは,「打撃日本的 実際控制」である(控制は力で支配下に置くこ と)。日本側の言い分である実効支配を骨抜き にする方策だ。中国の海洋監視船が連日巡回 している上に,中国軍艦が通過する。日本の 漁船はもはや近づくこともできない。中国漁船の接近がなくなったのは,中国側としては,本 件を民間レベルではなく,国家レベルの問題と して対処していることの意思表示だ。『人民日 報』(2013.2.20)は次のような論説を掲載して いる。「釣魚島問題の解決は,第1 に持久戦, 第2 に国家実力,第3 に意志決心にかかって いる。この3 点からみて,時間は中国に味方し ている」。「収復釣島失土才不是夢」(失った釣 魚島の土地を取り戻すのは,もはや夢ではな い)。

4.儒教の復活とその役割

 中国は「復興」という一方,それ以上を目指 している。「隴を得て蜀を望む」の類だ。大国 興亡の世界史をみても,スペイン,イギリス, 米国いずれも「海洋強国」である。中国は古来, 陸の大国であったが,「海洋強国」になって初 めて世界の「強国」,という発想である。中国 はアジア国家であるが,太平洋国家ではない。 日本,台湾,フィリピンが太平洋進出の壁にな っている。釣魚島はその突破口の位置にある。 習国家主席は今年6 月,オバマ大統領と会談, 「広い太平洋には,中米両大国を受け入れる空 間がある」と語り,日本を無視した。
 「中国夢」は「不覇夢」だともいう。軍事力 については,詳細に紹介する本は何冊もあるが, 軍が何を考えているのかは,軍機密に属する ので,周辺情報から察するほかない。
 戦前,日本の軍部は統帥権を振り回して, 政府の政策に横槍を入れ,しまいには政府そ のものを乗っ取ってしまった。中国では, 「軍権」 (武装勢力を統率する権限)という。それを握 っているのは,政府の頂点に立つ国家主席で はなく,党の軍事委員会である。軍委主席の 地位は,毛沢東,華国鋒,鄧小平,江沢民, 胡錦濤,習近平と受けつがれてきたが,国家主席とは限らない。建国後の数年,国軍だっ たが,その後は党の軍隊だ。現在,軍委は主 席のほかに,副主席2 人,委員8 人で,国防相 や陸海などの各部署のトップが就任している。
 胡鞍鋼教授は民主化という観点から全国人 民代表大会の出席者比率を取りあげ,農民は 百万人に1人だが,軍人は1 万人に1人だ,と 問題視している(2000 年の代表総数2,979人, うち軍人268 人)。『争鳴』によると,2005 年 4 月の全人代開会中,58 名の軍区代表が連名 の血書を党中央と軍委に提出し,釣魚島接収, 対日断交,日貨排斥などを要求し,胡錦濤主 席が慰撫したという。戦前日本の青年将校を 思わせる話だ。こうした状況では,軍事費予 算の増大は抑えられない。
 日本では,中国崩壊を予言する本が人気を 集めているが,最初に話題になったのが,2001 年に在米中国人ゴードン・チャンが発表したも ので,台湾問題で米中戦争が起き,中国が敗 けて,共産党政権が倒れる,という筋書きで ある(The Coming Collapse of China )。最 近は,在米中国人の中に,釣魚島問題で米中 戦争になり,勝てない現政権に対する民衆の 不満で,体制が崩壊する,と予言する人がいる (その後の民主体制成立で米国は手を引き,最 後は対日勝利,という筋書き)。祖国に帰れな い人々が抱く夢である。他方,香港では,中 国の経済社会にみられる深刻なゆがみを羅列 した胡喬英『2014 年大崩壊』( 三角地出版, 2012 年12 月)が話題になっている。
 中東の動乱をみてもわかるが,民主化が徹 底していない国では,軍の帰趨が体制の運命 を握っている。習近平氏が党総書記就任後ま もなくの昨年12 月に行った講演内容は,興味 深い。「ソ連共産党はなぜ瓦解したのか。1つ の重要な原因は,理想・信念が動揺したことだ。 …軍隊が『非政治化,非党化,国家化』されたため,党の武装が解除された。…エリツィン(当 時,ロシア共和国大統領)が戦車の上で演説 したのに,軍隊は全く関心を示さず,いわゆる 『中立』を保った。結局,ゴルバチョフがソ連 共産党解散を宣言した」(『金融財政ビジネス』 2013.3.28)。その後,今年4 月の全人代で国 家主席に就任した習氏は,「党の領導に従い, 戦えば必ず勝つ,強い軍をつくる」との目標を示 した。党と軍が一枚岩といいきれない現状を 危惧しているのか。2011 年1 月,ゲーツ米国 防長官(当時)が来日の際,「中国軍と文民指導 者の間で意思疎通がないことがわかってきた」 と講演している。軍事費の増加とともに,軍で も腐敗がすすんでいるようだが,表面は「党指 揮槍(銃すなわち軍)」,実は「党依頼槍」と いう陰口の中で,習政権の対処能力が注目され る(『争鳴』2013 年2 月)。
 政治改革がなければ,民衆の不満が昂じ, 経済発展が行き詰まる,という説が有力であ る。中国でも,80 年代から言われている(趙 紫陽は,それを言いすぎて失脚)。しかし,生 産関係は生産力に優先する,と考えた毛沢東 のマルクス経済学と同じではないのか。選挙制 度はあっても,候補選定は共産党の意向による もので,全盛期のソ連と同じだが,それが経済 発展の桎梏になるのだろうか。今日,政治学 で有力な学説は“political liberalization without democratization”で,多党制は中 国の伝統に反するとし,共産党をrule of law (法の支配)の下におこう,というものである。
 現在進行しているのは,支配階級の権力構 造に手をつける政治改革ではなく,被支配階 級の社会倫理を変えることである。漢の高祖 が儒教に目を向けたのは,気荒な武将たちを 統御するための手段として,礼法の必要性を感 じたからだ。以後の王朝は,専制政治の精神 的支柱として,儒教を利用した。これを全面的に否定したのが五四運動(1918 年)であり,共 産党もその中から生まれた。
 それが近年,儒教の大復活である。2006 年 の中国は「孔子熱」「国学熱」「于丹紅現象」 に湧いた。最後のワードは,テレビ・メディア 論が専門の于丹(女性)・北京師範大学教授 がテレビで,論語を講義し,語り口が余程上手 だったのか,大人気を博したことをいう。『于 丹〈論語〉心得』(2006 年)はこれを一冊にし たもので,その年のベストセラーになった。彼 女の孔子解釈には,学者の間で異論があるよ うだが,体制側としては全体的に好都合な内容 である。その一端を次に紹介する。
 子貢が孔子に「政治とは何か」と問うと,孔子 は「食糧を十分にし軍備を十分にして,人民に 信を持たせることだ」と答えた。子貢が「どれ か捨てざるをえない場合は」と問うと,その答え は「まず軍備,次が食糧,しかし『民無信不立』 (民,信なくば立たず)」。これは国家存立の要 件を問うもので,于丹の解釈によれば,国家 の富強はGDP のような物質で表わされるもので はなく,「最も恐るべきは,国民が国家に対し て『信仰』を失ったあとの崩壊と弛緩である」。 「民無信不立」には昔から複数の解釈があるが, わかりやすいのは,「民衆が為政者を信じなけ れば,百の施策もすべて行われず,国は滅亡す る。そこで為政者は民衆の信頼を失わないこと を第一の仕事とする。信頼のもとになるのが, 為政者の倫理的な清潔さである」(山下龍二『孔 子を語る』NHK ラジオ・テキスト1993 年)。
 一方,于丹が強調するのは,政府への信仰 である。彼女はまた,顔淵の貧苦に甘んじる 生き方を例にして,欲ばらないことで精神安定 が得られる,と説く。仏教の本を読んでいるよ うな気分になる。「向銭看」(お金優先)の風 潮を正すねらいだろうが,論語の骨子である支 配者(君主とその家臣)の在り方に関する章句は取りあげられていない。
 孔子というと,我々は「文」(学問好き)の面 だけしか知らないが,これは徳川政権が採用 した朱子学の影響である。ところが,直接の 弟子たちは孔子について,「文武並び用い,兼 ね通ず」,しかも,その戦法はとても理解しき れない,と尊敬している(『孔子家語』巻之九)。 「民を7 年教えれば,戦場へ出せる」と軍事訓 練を重視し,自身も「御」(馬車すなわち戦車 を走らせる術)や「射」(弓)に秀でた長身の 人物であった。2 年前に上映された映画「孔子」 は孔子の「武」が主題である。冒頭に孔子が 弓の試合で魯国随一の武将に勝つ場面が出て くる(弓は「御」とともに,士たる者の必須科目・ 六芸【りくげい】の一つ)。あとは,戦略家としての名声が 上がり,各国に招聘される話。映画は最後に, 「国が弱ければ,仁も意味がない」と孔子に言 わせている。「強国夢」には,四千年の歴史が あるのかもしれない。

(2013 年9 月20 日)

プロフィール こばやし・すすむ
1953 年東京大学経済学部卒。同年通産省に入省。 64 年香港総領事館領事,その後,経済企画庁調 査局海外調査課長,経済企画審議官などを経て, 83 年アジア経済研究所理事,88 年日EC 産業協力 センター専務理事,90 年国際貿易投資研究所理事 長,94 年東洋学園大学教授などを務めた。専攻は, 中国経済,景気循環。主な編著書に,『ひらけゆく 中国経済』『香港と中国』『台湾の前途』『新秩序 を求める世界』ほか。