清国における万国公法の受容とその適用

韓国・鮮文大学校教授 柳 在坤

<要約>

 19世紀の東アジアは,西洋のアジア進出によって大きく揺さぶられ,近代への取り組みを迫られた。清国はアヘン戦争などを通じて不平等条約を結ぶ過程で,強者と弱者の間に展開する当時の国際秩序が「万国公法」を基礎とすることを認識した。弱者の国が強者と列するためには機械・技術の導入といった「末」だけでは不十分で,「本」である抜本的な制度改革を通じて万国公法上,対等に伍することのできるところまで発展させなければならないと痛感した。とくに日清戦争での敗北は危機感を強め,改革に向けた多様な思想活動を展開するきっかけとなった。儒教の観点から言えば,万国公法の目指すところは,孔子の理念の具現化であるとみなすことができる。

1.序論

 西洋を中心とする19世紀後半の国際秩序との自覚的対峙,そして当の国際秩序への主体的参入が,この時代の中国の思想営為,そしてその中からあらわれた各種の変革論(および変革反対論)の主軸をなしたと考える。そして,清朝中国が「万国公法」的な国際秩序を知り,「交渉」(主権国家間の外交)の機能と意義について考えるうえで重要な転機をなしたのが,1861年(咸豊11年)に新設された総理各国事務衙門である。
 この総理衙門は,第二次アヘン戦争(1856~60年)が招いた清朝中国の対外危機を調整するために,伝統的な官僚機構の外に増設された一種の外政機構で,その後,清朝対外交渉の中枢として重要な役割をはたしたばかりでなく,国内における一連の「洋務」の推進にも深くかかわることになった。総理衙門が,設立後まもなく着手した施策の一つが,『万国公法』の紹介と翻訳であり,「万国律例の刊行を要請する上奏文」にあるように,米国人宣教師のウィリアム・マーティン(William Martin,1827~1916)が,ヘンリー・ホイートン(Henry Wheaton,1785~1848)の国際法の解説書(Elements of International Law)を1864年に『万国公法』の書名で刊行した。
 1869年,マーティンは同文館の総教習(校長)に任命され,以後ほぼ4半世紀にわたって同文館の教育を指揮し,同文館における万国公法の教育と清国社会における万国公法の普及にあたった。当時,宣教師たる教習が同文館で宗教教育を行うことは厳禁されていた。マーティンにとって万国公法の教育は,実質的に布教活動に代替するものだったのである。
 万国公法の授業は彼の担当であり,学生を督励して万国公法関連の書物を翻訳させ,自らが監修者となった『公法便覧』(T. Woolsey ,1877年),『公法会通』(J.K. Bluntschli,1880年)などが含まれている。
 『万国公法』は清国人に国際法を体系的に紹介した最初の書物であり,国際秩序を規律する基本法典としてあたかも国内秩序における「大清律令」と同様の意義を有する書物と見なされる傾向があった。万国公法という言葉が清国人によって広汎に用いられたのは,19世紀後半から20世紀初頭にかけてのほぼ半世紀期間である。
 『万国公法』が北京で刊行されると,それは直ちに日本にも伝わり,開成所で六冊が翻刻され,以後版を重ねたほか,松江,延岡,出石,金沢,神戸などの諸藩でも翻刻本が出された。また,重野安繹(しげのやすつぐ)『和訳万国公法』などの訓点本や堤穀士志(つつみこくしし)らの和訳本,さらに高谷龍洲(たかたにりゅうしゅう)『万国公法蠡管』といった注解書が次々に出されて,日本の開国と明治維新にも大きな役割をはたした。その影響力の深さと広がりは,発信地である中国を超えるものがあったとされる。

2.万国公法の受容

 清国は列強との間に,南京条約(1842年),天津条約(1858年),北京条約(1860年)など,一方的に不利な不平等条約を締結していた。
鄭観応(1842~1922)の万国公法に対する認識は次の通りである。

 万国公法は各国がともに遵守するものだが,完全に遵守されるわけではない。国の強弱が等しければ万国公法に基づいて関係を取り結ぶが,強弱がきわめて不均衡である場合には,万国公法は必ずしも実行されるとは限らないのである。……万国公法は虚理に憑るものであって,強者は万国公法を用いて相手を拘束できるが,弱者は隠忍して屈従せざるを得ないのである。(「公法」,『盛世危言』)

 万国公法が規範として有効に妥当するのは「力の均衡」という限られた条件の下においてである。このことは,この時期の少なからざる清国知識人によって共有された認識でもあった。

 ……為政者は発憤して自強につとめ,(清国が)万国公法の利益を享受できるようにしなくてはならない。積弱不振のままでは,万国公法があっても何の助けにもならないのである。(「公法」,『盛世危言』)

 鄭観応は「力」の裏付けをもたぬ限り清国は万国公法の恩恵に浴することができないと考え,そのために自強の必要性を強調した。
薛福成は万国公法について次のように認識している。

 強盛の国の場合,自らは万国公法を超越しようとし,他国を万国公法で拘束しようとする。衰弱した国の場合,自らは万国公法に合致した行動をとろうとしても,他国は万国公法に則った対応をしない。  然りと雖も,各国の大小強弱が斉しいというのはあり得ないことなのだから,万国公法によって斉しくするほかない。そうすれば,戦争をなくすることができ,弱小の国家であっても,万国公法に依拠して自存することができる。(「論中国在公法外之害」)

 彼は,万国公法を無意味なものと決めつけることは容易だが,そうなれば「力の支配」は野放しになり,「衰弱の国」である清国は「強盛の国」に屈するほかない。清国が列強の圧迫に対して存続を保ち,少しでも事態を改善するためのよりどころは,万国公法しかないのであると主張する。

3.万国公法の適用

 この時代の多くの清国人は,西洋国際社会は力の支配の横行する場であるとみなしていた。それは,西洋国際社会と春秋戦国時代の清国社会とを重ねて理解していたからである。
 初代駐英公使の郭嵩燾(1818~91)は万国公法に関して次のように述べている。

 近年イギリス,フランス,ロシア,アメリカ,ドイツなどの諸大国は,互いに並んで競い合い,しかも万国公法を創って相互の審議を優先し,国家間の交際における情誼を重要視している。彼らは情を致し,礼を尽くすのであって,質と文を兼ね備えている。春秋時代の列国の関係と比べて,遥かに勝っている。(『使西紀程』光緒2年12月初6日)

 郭嵩燾は,西洋国際社会においては万国公法が存在し,各国が相互の信頼関係を重視している事実を指摘している。また,清国でなく西洋諸国が「本」と「末」を兼ね備えていると断定した。西洋諸国を文明において夷狄と見なすべきでなく,清国と同様の文明国と見なすべきであると承認している。
 彼の万国公法に対する高い評価は,西洋諸国を文明国と見なし,西洋人の行動が「道理を踏まえた」ものであるとみなしたことが,万国公法を文明諸国間の交際の基本準則としてとらえることを可能にしたからである。
 しかし,士大夫層は,官界において自分を売り出す絶好の機会でもあったので,「郭嵩燾を弾劾する上奏書」を相次いで提出した。 
 一方,薛福成は1889年,英・仏・イタリア・ベルギー4国駐在公使として欧州に赴任する以前,「中体西洋論」的認識の中から,万国公法の重視という態度を導き出していた。
光緒帝の詔に応じて,提出した「応詔陳言疏」は「治平六策」と「海防密議十条」という二大項目からなっているが,後者の中に含まれる「条約諸書を宜しく州県に頒発すべし」という箇条で,地方官に万国公法の十分な知識をもたせることが外交紛争の解決に役に立つと主張した。
 これはその10年ほど前,恭親王が「『万国公法』の公刊許可を願う上奏文」を提出し,西欧諸国との交渉を担当する清国人が万国公法の知識を持つことは,外交交渉において清国側を有利にするとの見解の延長線上にあるものであった。
 薛福成は,外交交渉における信義を重視し,その結果,信義のよりどころとしての万国公法を重視したのである。
 公使在任中の薛福成の最大の業績は,英国外務省と交渉し,清国は万国公法に基づいて領事を駐在させる権利を有すると主張して,華僑保護のため英領アジアの諸地域に清国領事が駐在することを承認させた。
 彼が領事問題に固執したのは,第一に,清国側が万国公法を援用するという事実そのものが相手国の清国認識を変え,長期的に見て不平等条約の改正に貢献することが期待されており,第二に,領事問題を清国と西洋諸国との間の不平等関係の象徴的争点と見なしたことである。第三に,清国が「公法外の国」であることが不平等条約の原因であるなら,不平等条約を解消するためには清国が「公法内の国」にならなくてはならない。
 冊封・朝貢関係を基盤とする清国と周辺諸国の関係は,何よりも清国皇帝と当該国王の君臣関係であり,冊封にせよ朝貢にせよ本質的に儀礼行為であった。清国の定める儀礼行為の体系の中に周辺地域の支配者を位置づけ,彼らに儀礼を遵守させることを通して,清国を中心とし,皇帝を頂点とする世界秩序が成立する。そこには,そもそも外交という観念そのものが存在しなかった。このため,完備した礼の有無こそが,清国人の目から見て,文明国たる最大の条件にほかならなかった。
 薛福成は,礼にかなった本国の外交官の態度こそが西洋外交本来のスタイルであり,清国駐在の外交官が無礼な振る舞いをするようになった原因は,清国政府の倒錯した外交にあるとした。その上で,相互の約束である条約は尊重しつつ,なお万国公法に基づいて本来あるべき「自主の権」として主張し得ることは断固主張し,力による脅迫には決して屈しないというのが彼の考える清国外交の在り方であった。

 衰弱の国(トルコ)は,ひとたび戦争が始まると,敵国のみが利益を貪ろうとするのでないことを初めて知った。名目的には味方の国までが,利益を貪るのである。識者はこの事態を指して,万国公法は恃むに足りないと嘆いている。(『出使英法義比四国日記』光緒16年4月14日)

 万国公法が法規範としての実効性をもつのは,ヨーロッパの大国間の関係においてのみであって,ヨーロッパの弱小国やヨーロッパの諸国に対しては,万国公法は強者の支配の道具に堕してしまうのかという問いに対して,弱小国が独立国として存続する拠り所となるのは万国公法以外にないとする薛福成は,大国の抑圧をはねのけ,万国公法の恩恵を享受するのに足るだけの実力を,清国につけさせること,すなわち,「衰弱の国」でなくすることであると主張する。
 そこで清国を「衰弱の国」から救う方法として彼が提起したのは,制度改革によって清国を強化する「変法自強」であった。洋務運動期の官僚たちが主張してきた機械・技術の導入だけでは不十分であるとし,教育制度の改革や議会制度の導入などの抜本的な制度改革が自強のために不可欠であるとの結論に達した。

 日清戦争(1894~95)で敗北した清国が受けた衝撃とは,第一に,日本に完膚なきまで敗れたこと自体であった。
 第二に,敗戦の結果,清国政府は朝鮮が「独立国」であることを承認させられた。
 第三に,敗戦の結果,調印された講和条約の下関条約が,清国にとってはなはだ苛酷であり,かつ屈辱的なものであった。
 敗戦の衝撃は,清国人の危機感を高めるとともに,それまで存在した士大夫層の思想や言論の自己規制をゆるめる効果をもち,日清戦争後の清国に多様な思想活動(厳復による西洋思想,康有為による儒教の根本的な再解釈,変法運動の開始)が誕生するきっかけとなった。
 第二次アヘン戦争時の主戦論者は,「天朝の定制」の保持に最大の関心があったが,日清戦争時の主戦論者は,「保国」-清国という国家の存続―に最大の関心があった。日清戦争の敗北で清国の弱さを目撃した列強は,いっせいに清国への侵略を拡大した。
 その結果,「万国公法はしょせん強国が弱国を支配する道具に過ぎない」という悲観的な見解が蔓延する条件が整っていった。
 かつて洋務運動は,中国に不足している「末」を西洋諸国から導入し,清国自身を「本」と「末」がかね備わった状態にするための運動であった。
 それに対して,康有為ら日清戦争後に誕生した変法派が試みたのは,単なる制度の変革にとどまらず,変革の正当化原理それ自体の変革であった。
 変法派は,第一に,清国を取り巻く国際環境が,西洋諸国の進出を契機に,システムとして「一統垂裳」(清国皇帝を頂点とする中華国際秩序を象徴する概念)の世界から「列国並立」(諸国家が条約によって結びつけられたヨーロッパ国際秩序を象徴する概念)の世界への転換として定立化される。
 第二に,存続と発展を図るべき対象である国家の在り方について,強い問題関心を持っていた。
 第三に,変法派の文明観の特色は,文明の条件から,人種や民族といった実体的なものを徹底的に排除しようとしたところにある。
 変法派にとって,文明は段階的に発展するものであった。康有為はそれを「三世(「拠乱世」,「昇平世」,「太平世」の三つを指す-『春秋公羊伝』)進化」の説として定式化した。「拠乱世」とは人類がいまだ野蛮な状態にある世界を指し,「昇平世」とは,世界は文明の進んだ地域と野蛮にとどまる地域に分かれる。「太平世」は,世界全体が文明化され,諸国家間には完全な平和が実現するとともに,諸国家の内部では君主権力そのものが否定され,民主制が実現する。世界はこのような三段階の過程を経つつ文明を「進化」させるのであり,その「進化」の極みにユートピアとしての「大同」の世界であると康有為は見ていた。
 第四に,変法派の人々は,この文明化の過程を,儒教の本来の理念を実現する過程と意味づけた。
 康有為の構想を要約すると,「大同の始基」である「拠乱世」においては,主権国家の存在を前提した上で,各国の代表による「公議会」が設けられる。「大同の漸行」である「昇平世」に至って,初めて「公政府」が作られ,その権限拡大と反比例する形で各国の主権は制約を受けることとなる。そして,「大同の成就」である「太平世」において,主権国家そのものが消滅し,世界は単一の「公国」となる。
 康有為の構想において,万国公法は「大同」世界を実現するために常に推進的役割を果たすものであり,万国公法が「大同」世界実現の度合いを測定する尺度でもあった。すなわち,康有為の構想する「大同」世界は,国家や家族を含め,あらゆる特殊主義的集団を消滅させて人類を無差別平等化し,差別と争いを消滅させた世界である。そのような「大同」世界を実現することが文明化であり,文明化は人類の究極目的である。
 康有為の構想の基礎にある「三世進化」の理想は,『春秋』に盛り込まれた孔子の独創的理念であり,他方,万国公法はグロチウスによって創られたものであった。
 世界の文明化を目指す万国公法は孔子の理念を具現したものでもあった。「万世の公法」たる『春秋』や万国公法の意義は,人類社会のあるべき秩序の理念を包括的に提示したことにあり,その意義は,社会規制の道具としての有用性とは別個の次元に存在するものであったと康有為は見ていた。

4.結論

 以上のように,清国における万国公法の受容とその適用について検討した結果次のような結論を得ることができた。
 第一に,鄭観応は「力」の裏付けをもたぬ限り清国は万国公法の恩恵に浴することができないと考え,自強の必要性を強調した。
 第二に,清国が列強の圧迫に対して存続を保ち,少しでも事態を改善するためのよりどころは,万国公法しかないのである。
 第三に,郭嵩燾の万国公法に対する高い評価は,西洋諸国を文明国と見なし,西洋人の行動が「道理を踏まえた」ものであるとみなしたことが,万国公法を文明諸国間の交際の基本準則としてとらえることを可能にしたからである。
 第四に,地方官に万国公法の十分な知識をもたせることが外交紛争の解決に役に立つと主張した。
 清国を「衰弱の国」から救う方法として薛福成が提起したのは,制度改革によって清国を強化する「変法自強」であった。洋務運動期の官僚たちが主張してきた機械・技術の導入だけでは不十分であるとし,教育制度の改革や議会制度の導入などの抜本的な制度改革が自強のために不可欠であるとの結論に達した。
 第五に,康有為の構想する「大同」世界は,国家や家族を含め,あらゆる特殊主義的集団を消滅させて人類を無差別平等化し,差別と争いを消滅させた世界である。そのような「大同」世界を実現することが文明化であり,文明化は人類の究極目的である。世界の文明化を目指す万国公法は孔子の理念を具現したものでもあった。

(2013年9月30日受稿,10月16日受理)

プロフィール Yoo Jae-kon
京都大学法学部卒業,韓国精神文化研究院(現・韓国学中央研究院)韓国学大学院修了。文学博士。現在,鮮文大学校教授。専門は,近・現代日韓関係史。

参考文献
胡繩『中国近代史 1840-1924』平凡社,1974年
復旦大学歴史系・上海師範大学歴史系 編『中国近代史1 アヘン戦争と太平天国革命』
同『中国近代史2 洋務運動と日清戦争』
同『中国近代史3 義和団運動と辛亥革命』三省堂,1981年
范文瀾『中国近代史』中国書店,1999年
佐藤慎一『近代中国の知識人と文明』東京大学出版会,1996年
村田雄二郎編『万国公法の時代-洋務・変法運動』(新編 原典中国近代思想史2),岩波書店,2010年