キリスト教精神と21世紀「新文明」の方向性
―西洋中世哲学・神学からの発想

哲学者 八木雄二

<梗概>

 現代日本人のキリスト教理解には,その固有の核心部分からずれたところに目を向けていることが多い。さらに西洋中世の大きな遺産を抜きに西洋近代の哲学・思想を理解しようとして,自分独りの解釈の陥穽に陥っている。キリスト教文明から生まれた現代文明が「文明的危機」に遭遇するいま,西洋中世に確立したキリスト教神学・哲学を基にした西欧文明の本質にもう一度目を向け,その限界をも認識することを通して,あえて言えば,環境と人間が調和していく道となる,これからの時代を拓く生態系存在論の視点を見出すことができるに違いない。

1.日本人のキリスト教理解の「誤解

(1)「復活」がキリスト教信仰の核心
 一般に哲学史研究というと,哲学者の著書を読んで単純に研究する営みと思われているが,哲学史研究においても,個人的な体験というものを確かな基盤としながらテキスト(著書)を読んでいくことが重要だと思う。つまり本に書いてあることを忠実になぞるだけでは不十分で,自分の経験に基づきそれと対話しながら読み込んでいくことが大切だ。
 私は永年,西洋中世の哲学・神学を研究してきたが,あるときキリスト教の理解において「誤解」していたことに気づいた。日本仏教の中でも浄土真宗は他の宗派と比べてキリスト教の信仰心と似たところがある。私は無自覚のうちに,そのような仏教的な精神性をもとにキリスト教を理解してきたように思う。
 キリスト教と言えば,とくに『新約聖書』の中でも「福音書」がその理解にとって重要だが,その中に描かれたイエスの教えの中でもっとも重要なメッセージは「罪の許し」である。もう少し言えば,「罪深さの自覚」と「罪の許し」というテーマである。そこには浄土真宗・親鸞のいう「悪人正機説」に通じる部分がある。「悪人正機説」では,自分が悪であると自覚している悪人こそ,救いの必要性を切実に感じて罪の許しを受けることができる。実際キリスト教には,「罪の告白=懺悔」という儀式がある。それは罪を自覚させる儀式である。ところで,「懺悔」というのは,元々原始仏教の儀式であったという。このようにキリスト教の本質的な部分には仏教とも共通するところがある。そのため日本人は仏教的理解をもとにキリスト教を理解しがちである。しかしそれでは,西欧のキリスト教理解からの“ずれ”が生じる。
 実は,キリスト教信仰では,イエスの生前の教えよりむしろ十字架で亡くなったイエスの蘇り(復活)が最大の核心である。それ以外の教理(洗礼,三位一体論など)は,それにともなうもので,二次的な義務のようなものだ。つまり,イエスの復活を信ずることができるかどうかが,キリスト教徒になれるかどうかのカギになる。そもそも一般信徒が福音書にあるイエスの教えの中身そのものを本当に理解しているかはあやしいものだ。もっとも,これは仏教など他の宗教についても言えることだ。
 日本人は,近代以降取り入れたヨーロッパ文明のイメージを背景にして,キリスト教を高度な宗教であるかのように考えがちだ。しかしその核心部分は,復活を信ずる信仰であり,他の宗教と同様に,非常に素朴なものなのである。

(2)組織としての教会の信仰観
 キリスト教はその誕生の時代に,ローマ帝国からの激しい迫害を経験した。その影響は大きく,それが信仰共同体の結束力を強化する触媒となった。別の表現で言えば,その信仰共同体に入り込めない人,すなわちイエスの復活や三位一体論などを信じきれない人が排除されたともいえる。そこにはユダヤ教から受け継がれた「選民思想」があるが,ユダヤ教のそれとは違い,「信仰心」による選民意識である。
 その後キリスト教は,4世紀になってローマ帝国に受け入れられるようになった。ローマ帝国が内乱と分裂の様相を呈していたころ,ローマ皇帝・コンスタンチヌス大帝は,ミルウィウス橋の戦いに向かう行軍中に,太陽の前に逆十字とギリシア文字XとP(ギリシア語で「キリスト」の先頭2文字)が浮かび,「この印と共にあれば勝てる」というギリシア語が浮かんでいるのを見たという。彼はこれをきっかけに,初めてのキリスト教徒のローマ皇帝となった。さらに4世紀末にはキリスト教が国教となり,ローマ帝国支配者層にも受け入れられて,キリスト教会の立場がそれまでとは全く異なることになった。
5世紀に西ローマ帝国は滅んでしまうが,キリスト教会はローマ帝国の名誉・栄誉・威光をもち続けた。その後,アルプス以北の世界に信仰を広げる伝道が行われ,修道院を核としてヨーロッパのキリスト教中世社会が形成されていく。当時すでにギリシア哲学もその一部を手にしていたので,修道院はギリシア,ローマの哲学的文化も伝えていった。
 西ローマ帝国を滅ぼした異民族の中の騎士階級は,武力はもっていたが平和な時代を治めていく国家秩序形成の「知恵」はもっていなかった。それに対してキリスト教会はローマ帝国の法律や統治方法などの知恵をもっていたので,その知恵によって,「神」を背景とする中世ヨーロッパにおいて王の王の立場を得ることになった。さらに中世のキリスト教は,ギリシア哲学を取り入れたことによって,世界全体を説明するシステムとしての神学を作り出した。

(3)近代哲学と中世哲学の関係
 日本人にありがちなもうひとつの誤解は,近代哲学と中世哲学との関係である。実は,19世紀までの近代哲学は,実際には中世に出来上がった「キリスト教神学」の傍流のようなものだった。
 例えば,デカルト,カントやヘーゲルは,中世に出来上がった総合的なキリスト教神学体系(世界観)を前提にしながら,近代科学の発展に伴い時代にそぐわなくなった部分を論じたに過ぎない。土台にはキリスト教神学が残っている。デカルトは当時,有名なイエズス会の神学院(ラ・フレーシュ学院)でスコラ哲学を学んだ上で,彼の哲学理論を展開していた。
 キリスト教信者が(疑問に思い)説明してほしいと考える部分に関しては,中世のうちに(トマス・アクィナスやスコトゥスなどの神学者が)理論を整えていた。13世紀から14世紀初めまでに,法的問題,経済問題などに関する見解・方向性も提示されていて,神学は近代の科学とも矛盾しないほどの理論体系を備えていた。
 そのためヨーロッパでは,19世紀後半まで中世の神学・思想が生きていた。中世の神学思想が消えていく原因となったのは,近代哲学の力というよりも産業革命だった。産業革命は一般の人々の生活に利益をもたらしてその世界観を大きく変化させた。それを生み出したのが,近代科学がとくに理論づけた機械・技術の進歩発達であった。そのためにその科学・技術によって人類社会は明るい未来に向って発展していくという「科学信仰」が文明社会に生まれた。
 しかし産業革命によって利益や便益を享受した人々がいた一方で,「犠牲を蒙った人々」もいた。ヨーロッパは,産業革命のための資源確保と商品の販路・市場としての新世界を見出した。しかし植民地の人々からすれば,産業革命は「悪魔の革命」に過ぎない。日本は運よく被植民地にならずに済んだことで,かえって利益を得る側に立つことができた。それゆえにヨーロッパ文明の素晴らしさ,科学文明信仰を素直に受け止めることができたと思う。
 しかし現代では,科学の進歩に伴い兵器が発達することによって戦争犠牲者数がますます増える様相を見せている。確かに大規模な戦争は減ったかもしれないがその周辺で多くの紛争が引き起こされ,残虐な行為が行なわれている現実がある。にもかかわらず,われわれの眼にはあまり触れることはない。それは臭いと衝撃を弱めるメディアのフィルターがかかっているからである。

2.神の視点と人間の視点

(1)神の摂理観と「完了形」
 文明とは,civilizationという英語(=市民化する)からも分かるように,人間の生活を自然生態系の中の生活から都市の生活に変えていくことを意味する。都市の生活は,そこで使うものを遠く離れたところから買ってきて消費する生活である。そこでは(生命が)犠牲になる姿が見えない。見たくないものは見えないところ,周辺部に追いやられてしまう。ここに文明の「根源的悪」がある。しかし多くの人々は,そのような生活を快適で文明的な生活だと考えた。
 キリスト教の摂理史観によると,この世は「世の終わり=終末」を迎えるとき選ばれたキリスト教徒だけが「復活」に預かるという預言がある。これがイエスの死後,キリスト教会という信徒の集団がもった信仰であるが,イエスがもっていた信仰とはおそらく違うものだ。つまり組織としての教会の信仰である。信仰集団が生きていくために作り出された信仰であって,イエスが本当に伝えようとしたメッセージを純粋に受け継いでいるとは言えない。人間の組織は規模が大きくなると宿命的に組織の論理が作用する。キリスト教会も例外ではなかった。
 伝統的キリスト教神学によると,(個人から社会,国家に至るまで)あらゆる歴史は神の予定に従って展開するとされ,神はそれをすべて見通しているという(予定説)。このように永遠に予定する力をもつ神の下では,未来は過去と同様に「決められている」。つまり過去から未来まで神の目から見ればすべてはすでに「完了」しているのである。このような「予定説」は,カトリックを含めてキリスト教一般がもつ基本的な観念である。
 しかしその説明だけでは納得できない部分がある。人間には自由意志とそれに伴う未来に対する責任がある。人間の自由な判断によって,次の時代展開が変わっていく可能性を秘めている。この点をどう説明するのか。これに対して絶対的な神の予定論はどうかかわるのか。
 欧米の言語には「完了形」という文法形式があるが,日本人には理解するのに戸惑うことが多い。確かに日本語でも,古語に遡れば完了形があったから,現代でもそれが使われていれば欧米の完了形の概念も理解しやすかったかもしれない。
 私たちのように神の計画と完了が意識されないのなら,事実はたんたんと単純過去や現在,未来の予想として表現される。欧米人の人間観からすれば,完了形を意識しないでいる人間は非文明人であり,神の計画や立案,あるいは決め事が頭に入らない単純素朴な人間,組織運営を知らない人間だと映るのである。
 実際,神の摂理という観念は中世に限らず欧米の世界観に深い影響を与えている。地球全体に広がったヨーロッパ型の現代社会では,経済活動,外交戦略などあらゆることがらに計画の立案が求められ,それができなければ侮蔑の対象となる。こうした価値観の違いを乗り越えるためにも,中世神学・哲学を理解する必要性がある。

(2)予定説と自由意志
 われわれの感覚で見ている世界は,縦・横・高さの3次元に時間軸を加えた4次元の(4つのものさしで測定できる)世界である。ところが最近,重力の粒子といわれるヒッグス粒子が発見された。その発見に際して基礎となった数学理論によれば,この世界は本来10次元,あるいは11次元という多次元の世界だという。4次元を超えた世界とはどのような世界なのか,われわれの普通の感覚ではわからないけれども,数学上の論理からはそのような結論が導かれている。ヒッグス粒子が発見された以上,その数学的説明にも妥当性があると考えられる。先端科学の立場から宇宙を見ると,10(11)次元の視点から見る必要があり,われわれの感覚(4次元)は限定されていることになる。つまり,われわれが見ているこの世界は,10(11)次元空間に浮ぶ4次元空間という発想である。
 このことから類推して,「神の見る視点」と「人間の見る視点」の関係を考えてみることができる。神の視点は10(11)次元で,人間の視点は4次元となり,10次元的に立てばあらゆる現象について説明できるが,限定された4次元の空間からは説明不可能なことが多々存在する。そう考えると人間の視点から説明できないことがらや存在があったとしても当然だろう。
 もしこれが事実だとすれば,矛盾を生じる問題も説明が可能になってくる。既に述べたように,神が永遠的に世界を見ていること(予定説)と,人間には自由があってそれによって歴史が生じたと見る見方とは矛盾するが,10次元世界の視点から見れば矛盾なく説明できるのかも知れない。
 神にとって永遠と瞬間は同じに見えているのかもしれない。4次元の世界に生きる人間にとって,永遠は長い時間である。しかし,長い時間が永遠であるかどうか。1秒を重ねていけばそれがいつか永遠になるのか,ということだ。無限(小)はゼロとほとんど同じである。ゼロは大きさで測れず,無限大も有限の大きさで測れない。そう考えるなら,神における瞬間(ゼロ)は,永遠(無限)でもあるだろう。
 自由意志と予定説の関係を説明しようとするときに,神はどう関わるのか。人間の自由意志の働きは一瞬の働きだ。人間の一瞬の判断が次の結果を生み出すが,神はそれを知っている。その一瞬を見ながら,その何十年後,何百年後の先を一瞬にして神は見通している。これは4次元的な尺度の中からは説明できないが,神には一瞬が永遠として語られる物差しがあると考えるなら,矛盾とはならないだろう。

3.心の目

 現代文明は,われわれが自分の欲望を満たすことによって利益を得ようとする世界である。例えば,おいしいものが食べたいという欲望があれば,それに見合ったモノが売買され,それに必要な労働が集められる。そしてこの動きを推進する(経済成長)ために文明は「欲望を満たす」ことが,即ち「心(魂)を満たす」ことだという価値観を抱くように人間を仕向けている。
 しかし人生を経験してみると,欲望を満たすことが必ずしも心を満たすことにつながらないことがあることを知る。一般に欲望は4次元の世界内のものだから,欲望の満足は一時的な充足感に過ぎない。欲望を満たしてもさらに次の欲望を求めることにつながっていくだけで際限がない。それに対して心を満たす次元は,4次元を超えていてある種の永遠性を持つものである。
 欲望を一時的に満たすことを否定はしないが,それが心を満たすこととは違うこと,別の次元があることを知っておく必要がある。そのような「心の目」を持っていないと,(文明に)騙され続けていくだけだ。更に言えば,われわれは知らないところで「加害者」の立場に立ち続けていくことになりかねない。文明社会の経済成長は見えていない世界の貧困に支えられているし,環境破壊に支えられている。
 さらに自然保護活動をしていてもそのような陥穽に陥る可能性がある。自然保護活動それ自体はいいことであるが,それを自分の欲望の対象としてやると,活動の間に心を満たすものを見つけられずどこかで挫折する。森の生態系を守ろうと活動をして,思ったとおりにならない場合は失望感に終わるし,仮に実現してもいいことをやっているという自己満足のレベルで終わってしまう。自然の一つひとつから永遠の輝き(美)を感じ,それを次元の異なったものとして受け止め,この世の時間とは別次元の喜びを実感できることが大切だ。そうでないと持続可能なものにはならない。
 途上国に行ってかわいそうな人に何か援助をしてくるときに,却って被援助者の態度や言葉から大きな感動を得ることがある。欲望に基づくボランティアが手にするものは,援助をすることでの一時的な自負に過ぎないが,相手から受け取ることができる心を満たす喜びは,それとは別次元のものなのである。

4.関係性の中に生きる人間と永遠の喜び

 数年前に私の母に膵臓ガンが見つかり,医師から「先は長くない」と告げられた。ガンの進行によって辛い痛みがあるとも聞いていたが,病院に入れずに家で看ていこうと考えた。最近の説によれば,ガンを除去しようとして医療行為をほどこすとかえって逆効果なことも多いという。入院すれば病院(医師)は何らかの処置をせざるを得なくなるが,それに伴う痛みが新たに生じる。ケースにもよるだろうが,緩和の処置をすれば,放っておいてもそれほど本人を苦しめるものではないようだ。緩和医療の病院と連携して自宅療養を行なったが,母が少しつらそうだったのは死ぬ直前の数時間くらいだった。
 自宅療養に対して周囲からは大変だろうと同情された。しかし,病院に入れて治療した場合と比べて果たしてどうだったか。いま緩和医療は非常に進んできて,看る立場にとっても(金銭的なものも含めて)非常に充実したものになっている。
 それ以上に,母親と親密に語る場が生まれ,これまで話したこともなかったことや母親が心の奥底に“宝物”のように大切にしまって置いたことなどについても聞くことができた。
 普通は,もしものことがあったらどうしようという心配が先立って,病院に預ける道を選んでしまう。しかしたとえ入院して本人が生きている時間が長くなったとしても,それによって患者は孤独になり自分が患者と接する時間が少なくなるならば意味がない。心を満たす次元を考えていれば,経済優先のシステムに乗せない選択肢もあるはずである。いまは自宅で看るための介護用の器機やサポートのシステムが充実してきているので,自宅に居られるだけ居て看取ることの方が,お互いの心を満たすことが可能となる。
 生命は,他の命とのかかわりの中で発展してきた。一般に科学は実験室という限られた条件の下で真理探究を行なうが,それはもともと存在していたものを(宇宙・自然から)切り取って閉鎖系の実験室に閉じ込めて観察しているにすぎない。もともとの自然の中における相互関係を捨象してしまっている。例えば,サルを研究している人は,サルが何を食べるかは関心をもって観察するが,サルに食べられる側の生態系の変化には目を向けない。サルが生態系の中で「生きている」のは,「サルが食べる」ことが生態系を支えているからである。つまり食後の生態系がサルが食べる理由(目的)であって,サルの欲望が食べることの理由ではない。
 人間はなぜ雑食性なのか。生態系の高い地位にある人間は,生態系全体のバランスを保つために(バランスを崩すほどに)余ったものを食べる,これが雑食性の意味だと思う。欲望として欲しいものを食べるのが,人間の役目ではない。自然の生態系を守るために,例えば,シカが多すぎたらそれを獲って人間が食べて生態系バランスを維持するのである。欲望を満足させるために食べるようになった人間は,どうかなってしまったといえる。
 北米の海洋にいるシャチは体が大きく獰猛だとされる。しかし現実のシャチは海の中の食べる対象が少ない時には食べることはないという。北米先住民は,そのようなシャチの習性を体験的に知っていたようで,「シャチほどやさしい動物はない」と言い伝えてきたが,欧米の人々は「シャチは獰猛だ」と考えた。しかし,最近の生物学者のシャチ研究によって,先住民の言っていたことの方が正しかったことが証明された。
 地球の生命は,基本的に植物の光合成を基盤として成り立っているので,動物もその原則を守らなければ自分も存在できなくなってしまう。生きていくことは,自分の欲望の問題ではない。自然が美しくあるとき,はじめてそこに心を満たすものが見出され,人はそこに生きがいを感じる。人間が進化したのは,多様性をもつ豊かな自然の美のおかげであるから,それを守っていくことに喜びがある。ところが人間は,欲望に走りその多様性を壊して自分たちの生きがいを喪失している。
 心を満たす行為は,経済活動には直結しない。自分の経験を思い起こしてみると,心を満たしたできごとが,数秒間のできごとであったか,1時間のできごとであったかは関係ない。心を満たすことは,思い出してみると「あーよかったな」という思い出だけだ。それは多次元的発想であって,1時間よかったから,さらにあと1時間よかったらいいのにという量の話ではない。この4次元的ではない喜びこそが永遠に心を満たしてくれる。そのことを考慮に入れれば,哲学上の困難な問題や利益を超えた生態系の問題などが説明できるようになるのではないか。人類は無思慮に欲望を満たすことに走る(経済の活発化)のではなく,神の視点に近づいて欲望を満たすものと心を満たすものとは次元が違うということを,深いところで悟る必要がある。
(2013年11月22日)
(『世界平和研究』No.200,2014年2月1日号より)