「科学信仰」の限界と目に見えないものを見る視点

鈴鹿短期大学名誉学長 佐治 晴夫

<梗概>

 東日本大震災は人々に大きな思考の転換をもたらしたが,自然の前に人間は謙虚な姿勢で立ち,その宇宙史・自然史を素直に見つめてそこから学ぶことが大切だ。間違った「科学信仰」を質していく必要があるが,金子みすゞや過去の先人たちは,そのことを文学作品や言い伝えなどの真の知恵をもって警告していた。それは宗教の教えの本質にも通じるもので,その一つにクレメンティア(「寄り添う」の意)がある。袋小路に陥っている現代文明を切り開くためには,そうした目に見えないものを見る視点を回復することが一つのヒントになると思われる。

1.東日本大震災の教訓

(1)「天災は忘れた頃にやってくる」
 東日本大震災から早3年が経過しようとしているが,この震災では私自身,知人や教え子の学生がずいぶん被災しており他人事ではなかった。そこで地震の後,被災地に出向いてみた。知人の地震学者は,歴史を遡って貞観地震(9世紀)のときにどれくらいの津波が襲ったかをすでに調べていたが,最近の地震研究はコンピュータを駆使した理論的研究が優先されていて,地震現場の土を掘って調べることは二番手のように見られていたという。しかしそれは大きな間違いであって,今回の津波にしても,過去の歴史を調べれば,十分予測可能なものだった。
 そのときに思い出したのが,「天災は忘れた頃にやってくる」という(趣旨の)物理学者・寺田寅彦(1878-1935年)の言葉だった。それを裏返せば,「忘れなければ天災はやってこない」となる。
 今回の大震災に関連してわれわれが反省すべきことは何か。「自然界はウソをつかない」ということだ。すなわち,自然は自分がやったことの証拠を(隠さずに)残すが,人間の世界は,ウソをつくし,証拠隠滅を図ろうとする。ゆえに,自然界をしっかり観察しておくことが災害対策には何より重要だ。あるいは観察をしていても,それに十分注意を払わず,評価しなかったことも反省点だ。これが大きな(人為的な)ミスだった。

(2)マニュアルに頼ることの限界
 もう一つのミスは,「初動対応」とも関係することだが,現代社会はすべてがマニュアルに従って対応することになるが,そのマニュアルの扱いの問題であった。マニュアルだけではどうにもならないのが現実であり,そこにアクシデント(事故)が起こる余地がある。その認識が薄かったと思う。
 マニュアルは,基本的に「平常時」においてアクシデントを想定しながら作成する。何かが起きてからマニュアルを作る人はいない。それゆえどうしても「抜け」が出てくる。今回の東日本大震災を見ても,政府をはじめ東電は,マニュアル・既定命令系統通りにやることが最重要視されたために,かえって災害が拡大したように思う。日常生活でも何かアクシデントが起きたときに,マニュアル通りにやればそれで済むものではなく,非常時のときは,むしろマニュアル通りにやれないことが少なくない。
 2011年5月27日にJR北海道石勝線のトンネル内で,札幌行きの「スーパーおおぞら14号」の脱線・火災事故があった。あのとき運転士・車掌が取った措置はマニュアルに則ったものだったろう。すなわち,火が見えなければ「火災」と判断しないから,「火災」として(司令部に)無線報告しなかった。実は,煙が出ているという事実を冷静に考えれば,「火災」の可能性もあるわけで,マニュアルだけに頼っていてはダメだ。マニュアル通りにことが運ばないがゆえに,マニュアルにないことをやって上手く解決したという事例をたくさん聞いている。
 例えば,米国のNASAが打ち上げた「ハッブル宇宙望遠鏡」のカメラに(ピントが合わないなどの)故障が見つかりうまく作動しないことが分かったことがあった。そこでスペースシャトル「アトランティス」に乗って宇宙飛行士が修理ミッションに飛び立った(2009年5月)。ハッブル宇宙望遠鏡は,観音開きの扉の中に望遠鏡が設置されているが,扉を開いて修理をした後,再び扉を閉めるとき問題が起きた。「扉が閉まらない!」宇宙空間では,太陽光を受ける側面は摂氏130度くらいになるが,太陽光が当たらない側面ではマイナス100度くらいになり,温度差が200度を超える。そのため扉が変形してしまったのだった。
 そこで管制センターでは,マニュアルに基づきながらいろいろ検討して宇宙飛行士に指示を出して試みたが,すべて失敗だった。ところが宇宙飛行士が,マニュアルにないことをやって上手く扉を閉めることができた。宇宙飛行士が扉に体当たりして閉めたのだ。宇宙開発最前線でも,マニュアル通りにやっても成功しないことが少なくない。 
 日本では,「はやぶさ」の例がある。「はやぶさ」には,4つのイオンエンジンがあるが,全部のエンジンが壊れることは想定していなかった。ところが全部のイオンエンジンが壊れてしまった。これを担当した人は,「全エンジンがダメになる」ということで夜も眠れず,上司の許可も得ずに,密かに回路を作り直してしまった。幸いAエンジンはプラスが壊れマイナスが生きており,Bエンジンは逆だった。そこでそれらをクロスさせて運転させたらいいのではないかと考えて,実際やってしまったのだ。これは初期設計にはないことだった。その結果,ようやく帰還することができたが,もしそれで失敗でもしたら大変なことになりかねなかった。
記者会見で「はやぶさ」の開発を担当した川口淳一郎氏が「『はやぶさ』はもう帰還出来ないかもしれない」と発表した時に,隣にいた國中均氏は「自分が勝手に直したから帰還できるかも知れない」と告げた。結果的にはうまくいったわけだ。しかし,彼はマニュアルにないことをやったことで,それなりの処分を受けたという。
 人間はオールマイティーではない。変化する状況の中で想定外のことが起ったときにどのように判断し対処すべきか。それは現場の者が(経験的にも)一番よく知っている。3.11の福島第一原発事故でも,現場の指揮官に任せていたら,もう少しよい方向に展開していたかもしれない。しかし,現場ではマニュアルにないことをやるわけにはいかなかった。

(3)マニュアルのつくり方
 マニュアルとして比較的よくできているのが,鉄道運転士のマニュアルだ。以前私は,北海道の陸別にある「ふるさと銀河線」で本物の列車を運転させてもらうために,鉄道学校の運転士養成講座で使うテキストを使って勉強したことがあった。通常のマニュアルは,並列的な並びで説明されているのだが,このマニュアルはよくできていて,こういう場合にはこうするというようにツリー状に書かれている。しかもプロの運転士がそばにいて指導してくれる。ちなみに,警笛を鳴らすのは一種の快感だが,警笛の鳴らし方でその人の性格がわかるという。
 外国製測定器などの機器を購入してそのマニュアルに接することがよくあるが,日本のマニュアルは非常に詳しく書かれていてほとんど使い物にならないのとは対照的だ。マニュアルを1ページから見ていくと,最初から初めてみる言葉がたくさん出てくるが,その言葉の定義(意味)がわからない。そこで索引を使って調べてみるのだが,そのたびにあちこちのページをめくることになり大変だ。マニュアルの書き方が日本は遅れている。
 一方,米国製測定器のマニュアルを見ると,非常に単純な説明だ。まず「スイッチを入れよ」から始まる。日本のものは注意事項から始まる。携帯電話やカメラなどみなそうだ。そのうちにいやになってしまう。そして学生に文句をこぼしたら学生から「マニュアルは読むものではなく,まず(機器を)自分でいじってみて,わからなくなったときに,辞書のように使うものだ」と言われ,「なるほど」と思った。
 また,あるメーカーに協力して,ある機械のマニュアルをばらばらにして最低限必要なものを残してみたら,厚さが四分の一になった。そのメーカーの研修会でそのことを紹介した。そのときわかったことは,マニュアルは一人の人が作っていないということ。多くの人が章ごとに作りそれを寄せ合わせるために膨大なものになってしまう。そこで私は,「説明書をタダであげるからいけない。有料化すれば,作る人も責任を持って作るに違いない」と提案した。本当は(文章力はあるが)使い方がわからない人が作ればいいものができるに違いない。この辺に欧米と日本の違いが現れているようだ。

(4)生きた「人間の知恵」を見直す
 前述の寺田寅彦の言葉の後に出てくることだが,(何事もものごとの)根本的・原理的なことを理解していれば,想定外のことが起こるかもしれないことは十分予測できることである。
 そもそも日本列島は,大きなプレートのぶつかり合いから,つまり「地震発生のおかげ」で誕生した。地震国であることを前提に考えれば,それに伴うさまざまな「危険」を当然予測しておかなければならない。
このことについて警鐘を鳴らしていたのが,大正から昭和にかけて彗星のごとく現れた天才童謡詩人金子みすゞ(1903-30年)だった。ここに「しけだま」という詩がある(「しけだま」とは赤い暴風雨警報標識のこと)。

 夕焼のなかに,
 しけだまが赤いよ。
 しけだまの下では,
 仔牛(べえこ)があそぶよ。
 もういつからか,
 あがったきりだよ。
 誰もうはさも,
 しなくなったよ。
 夕焼のそらに,
 しけだまは赤いよ。
 いつか來る,
 いつか來る時化(しけ)を知らすよ。

 この詩はものすごく教訓的だ。金子みすゞをはじめ,昔の人たちは津波の記憶を世代を越えて伝える営みをやってきた。それが上手く継承されていなかったところに問題があった。地元のお年寄りと話をすると,「昔はここまで津波が来た。津波が来たら人のことは構わず一刻も早く逃げなさいという言い伝えがある」と必ず話してくれる。現代社会には,「科学信仰」という側面があって,(昔の言い伝えや本能的な判断を軽んじて)自治体のサイレンなどを待ってから行動しようとする。
 サルと人間の大きな違いは,過去の経験に学んだ教訓を伝承するかどうかだという。お年寄りの言い伝え,おばあちゃんの知恵である。基本中の「き」が抜けたことが,東日本大震災では災害を拡大させた。
 また,今度の震災をきっかけに,多くの人々の価値観に変化がもたらされたことがある。例えば,「ふんだんに電気を使っていいのか」という思いを多くの人が持つようになり,電気があることの意味を再認識させられたと思う。物質的な豊かさを無自覚的に享受・謳歌していいのか。文明・文化のあり方,人間の生き方,生き様に対して変革を迫る大きな「気づき」のチャンスだった。私は「災害をどのように収束させるか」を考えることも重要だが,それとともに「文明・文化の価値判断の座標を変えないと,もはややっていけないのではないか」ということを強調したい。
その一方で,今回の震災の経験を通して,混乱の中にあっても秩序を守ったということなど,新しく発見された「日本人らしさ」「日本人のよさ」もあったと思う。そのようなことは,素直に「いいこと」として認める必要もあるだろう。
 東日本大震災では「想定外」という言葉が流行ったが,「想定外」を使ってもいいのは,科学の世界だけだ。「科学」が想定されることを追究していては「科学」にならないが,「技術」には想定外があってはならない。「科学」は想定内でないことを追い求めることを本務とするからである。私が言いたいことは,「科学」と「技術」の概念区分が必要だということだ。例えば,「科学技術庁」などというように,二つの用語を一つの単語の如く使うことにはずっと疑問を感じていた。
 「科学」(science,ドイツ語Wissenschaft)は,昔から学問上は哲学の一部門に属していた。ドイツ語のWissenとは「知る」という意味であり,scienceの語源であるラテン語のscientiaは,未知のものを知って自分の世界を広げるという意味だ。一方,technologyは,いろいろな材料を集めて組み立てる意味だ。ゆえに,原発はテクノロジーの問題であるから,今回の災害は,科学の問題ではなく技術の問題なのである。

2.目に見えないものを「みる」

(1)相互依存関係を基礎とする宇宙秩序
 大震災に際して「ボランティアとは何か」ということも考えた。ボランティアは重要だが,押し付けでは困る。イエスの教えの中に「(自分が)人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい」(マタイ福音書7:12)という黄金律がある。しかしそのもととなったユダヤ教の教えからキリスト教へと移行される時に,逆の言い回しになったとも考えられている。もともとのユダヤ教の教えでは「自分がして欲しくないことは人にしてはいけない」と書かれてあったようだ。「自分がして欲しいこと」と「人がして欲しいこと」が一致するとは限らない。ユダヤ教の表現の方がより論理的であるように思う。
 ジャイナ教,儒教,道教など,大半の宗教の根本教義をこの観点で因数分解して集約してみると,「自分がして欲しくないことは人にしてはいけない」となる。そして同時に「相手を傷つけるな」ということが宗教の基本であることがわかる。中村元先生によれば,それをサンスクリット語で「アヒムサ」という。
 宗教のあり方を考える時に,どうして宗教が今日のようになってしまったのか。そもそも人間とはいかなる生き物なのか,どのような進化のプロセスをたどってきたのか。そして真の知恵とは何か,などから問い直す時期が現代かもしれない。
 人間の本質的な知恵に迫るために,人々は瞑想や坐禅をして真理に触れ合う。そのようなことが脳科学でも立証される時代になった。瞑想している時に,脳のどの部位が機能しているかも,脳科学研究によって分かってきた。その結果,瞑想することによって,ブラフマン(宇宙の根本原理)とアートマン(個の根源,真我),つまり宇宙の原理と自分が合一するのである(「梵我一如」)。それは宇宙の一部分としての自分という気付きである。
 一方,生命はどのようにして宇宙の中に誕生したのか。元をたどればビッグバンから生まれた。すなわち星の中で「生命の原理」がつくられたわけだから,宇宙と生命は相互依存関係にある。植物の「葉緑素(クロロフィル)」と(動物の)血液中の「ヘモグロビン」は(一部の電子の位置関係を変えただけで)基本的に同じ分子構造を持っているのも,相互依存関係の現われといえる。こう見れば,人間=宇宙であるといっても過言ではない。
自分という単語は「自」然の「分」身という二つの単語の要約だと考えてもいいだろう。
 一神教のキリスト教は,一つの原理に向うが,原始仏教は,「自らと向き合いなさい」と説く。自らと向き合うと何が分かるのか。自分がどうして存在しているのか,周囲と関連性をもって存在していることに気づく。関連性を持って宇宙ができていることがわかると,その大宇宙を「神」と呼んでもいいだろうが,仏教はそこまでは言わない。
ところで,そのような宗教を生み出した人間の脳と一番近いのが,実は小鳥の脳だといわれる。イヌは「ワンワン」と鳴くが,ネコといっしょにいても「ニャンニャン」と鳴くことはない。しかし,小鳥は人間の言葉を真似ることができる。音声学習ができる脳を持つ生物は,人間を除けば,小鳥とクジラだけだ。
音楽の楽譜を考えてみよう。横軸は時間で,縦軸は音の高さだから,それらをグラフ化したものが楽譜だ。小鳥の声を楽譜化してみる。例えば,ジュウシマツは8つの音素をもち,それらを組み合わせることでジュウシマツの言語が構成される。つまり,小鳥の鳴き声には文法がある。人間はどうして言葉を獲得したのか。キリスト教(聖書)は,「初めに言があった」といったが,そのカギが小鳥の脳の研究から分かるかもしれない。そこから私は音楽の起源について考えてみたいと思っている。
小鳥の脳の研究によって言葉がどのようにして生まれてくるのかが分かり,さらに鳴き声は音声だから,音楽の起源も明らかになってくる。ジュウシマツの声を聞いていると,そこには明らかに音楽の形式,たとえばソナタ形式に似た構造が見られる。提示部があり,展開し,最後に再現部が出てくるのはどうしてなのか。そのようなソナタ形式の原点が見えてきた。そうすると生物における表現とは何かがわかる。

(2)クレメンティア
 目に見えるものを優先する傾向,それは科学の功罪でもあった。ミクロの世界から始まって,電波など目に見えないものを可視化させたのは,まさに科学だった。さらに突き詰めて,「見えないものは(存在し)ない」ということを一般の人々の共通理解にしてしまった。しかし,そのレベルで見える,見えないを論じてはいけない。
 サン=テグジュペリ(1900-44年)は,『星の王子さま』の中で「だいじなものは,心で見ない限り目に見えない」と語った。それを言葉どおりに捉えるのではなく,もう少し掘り下げて,invisibleとは何なのかを考えてみると,これに関連して,ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリス(G.P. Friedrich von Hardenberg called Novalis,1772-1801年)は,次のような詩を残した。

 すべてみえるものは,みえないものにさわっている
 きこえるものは,きこえないものにさわっている
 感じられるものは,感じられないものにさわっている
 おそらく,考えられるものは,考えられないものにさわっているのだろう
 (光についての断片 2120 「新断片集」より)

 このようにもっと本質的な観点から見えるものと見えないものを見るべきだ。現代科学の宇宙論も同様のことを傍証している。すなわち,宇宙の96%は論理的に見えない(ダークマター,ダークエネルギー)のだから。 
 実は,見えないものについての,一つの知見が得られるのが(おそらく重力波が検出されるだろう)2016年ごろだ。今のビッグバン理論では,ビッグバンが起ってから10万年後くらいから後の証拠しか分かっていない。最初光が爆発するようにして宇宙が形成されたわけだが,そのときのエネルギーの密度は非常に高く,したがって光が通らないからそこは不透明の時代だ。宇宙誕生直後のことはよくわかっていない。重力波が検出されると,10の35乗分の1秒後の状態がわかるようになる。そこに非常に関心を寄せている。
 考えるとは,未来を想像する力だ。すなわち,過去と未来の区別能力,時間の発見でもある。そこから宗教も発生した。人が亡くなるのを見て,「生きている自分は,あのようになって死にたくない」と思うところから救済を求め,宗教が生まれた。時間を克服するために宗教が出てきたともいえる。アウグスティヌス(Aurelius Augustinus,354-430年)は『告白』で時間論を説き,永遠とは何かを追求した。同じころインドでは,龍樹(2世紀のインド仏僧)が『中論』の中で,過去,現在,未来について思索している。
 人間は見えないものについて想像する。例えば,人の気持ち,痛みなどである。ここから「クレメンティア」(clementiaラテン語,「寄り添う」という意味)が出てくる。それが現代に一番欠けているのではないか。「寄り添う」とは,相手の気持ちは見えないけれども,相手はこうなのかもしれないと推測し,「私とあなた」の関係を,「あなたと私」の関係に反転させることである。それがクレメンティアの考え方だ。
 「“私とあなた”を“あなたと私”に換えることで世の中は変わる」ということを言ったのが,やはり詩人,金子みすゞだった。
 以前,東京の小学校教師の年次大会に招かれて話をする機会があった。私は金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」を取り上げて話をした。

 <わたしと小鳥とすずと>
 わたしが両手をひろげても,
 お空はちっともとべないが,
 とべる小鳥はわたしのように,
 じべた地面をはやくは走れない。
 わたしがからだをゆすっても,
 きれいな音はでないけど,
 あの鳴るすずはわたしのように
 たくさんのうたは知らないよ。
 すずと,小鳥と,それからわたし,
 みんなちがって,みんないい。

最後のフレーズに出てくるのは,タイトルの順序「わたし/小鳥/すず」とは違い,「すず/小鳥/わたし」の順,つまり「わたし」が最後になっている。そこに気がつかないといけない。それがわからないのは,数学(算数)教育が機能していないからだ。
 数学は言葉の順番(方向性)によって意味が変わってくる。例えば,2×3と3×2とは違う。このことで知人のお子さんが不登校になるできごとがあった。そのお子さんは学校で「ミカンを一人に2個ずつ3人にあげるとき,ミカンは全部で何個必要か」という算数の問題が出されたとき,(普通は2×3とするところだが)その子は3×2と回答した。それを教師は間違いとした。しかし,その子の主張はこうだった。「誰でもミカンが早く欲しいから,まず一つ目のミカンを3人に配り,続いて二つ目のミカンを配った。だから3×2という計算をした」と答えたという。「こうしたことを知らずに金子みすゞの詩を漠然と読むなかれ」と言いたかったのである。

(3)人間原理
 自分の存在とは何かと考えた時に,自分という存在は周囲の存在に依ってできている。いくら自分ひとりで「自分」を追い求めても分からないが,相手あっての自分だと考える相互依存関係は,「クレメンティア」にもつながる。自分がひとり,食べるご飯を考えてみても,それをつくってくれる多くの人の存在が不可欠だ。相互依存で成り立っていることに気づくことが大切だ。
 相互依存関係の視点から,いわゆる宇宙論にでてくる「人間原理」という考え方が出てくる。人間原理には,「強い人間原理」と「弱い人間原理」がある。
仏教がいう世界観には,客観的な客体は存在せず,すべては心のスクリーンに写る映像としてあなたの世界は存在する。そうなると世界と自分が完全に一体化してしまう。人間原理は,それを反対の方向から攻めた原理だ。ゆえに私はそれを「逆遠近法」と呼ぶ。
 宇宙はどうしてあるのか。宇宙とは何か。自分は現実に存在し,こうした現実を脳が思考しているわけだが,その組織の多くは炭素でできている。その炭素はどこから来たのかといえば,核融合反応によって星の内部で生成された。そうなるためには諸条件がそろっていなければならない。地球に人間が存在するためには,太陽と地球の位置が現在のような位置でなければ人間は誕生しなかっただろう。
 またどうして人間はいまのような形状をしているのかと言えば,それを決定付ける条件は地球の重力だ。などなどと考えていくと,最終的に逆転してしまい,そういうことを考えている自分がいるということが今ある宇宙のすべてを決定しているとなる。つまりあなたの存在が宇宙の姿をデザインしたということだ。これが「強い人間原理」である。
 宇宙と自分とのかかわりが明確になり切り離せなくなる。さらにわれわれの身近なところまで引き寄せて考えると,「自然環境とは何か」となる。環境保護はなぜするのか。「自然がなくなったら,生きられないからだ」というのでは,不十分な答えだ。
人間は自然を守ると同時に自然を壊してもいる。例えば,川をきれいにするために護岸工事をするというように人為的に自然に手を加えている。その矛盾に気づくべきだ。人間がいるだけで自然破壊につながるとすれば,本当の自然保護とは何もしないことになる。そこから導き出される結論は,人間は存在すべきではない。人間の存在が悪になる。
 その一方で,本当に自然を保護するために,徹底的に人間が手を加えて管理するとの考えもある。両方のやり方とも自然破壊がもたらされる。ゆえに,その中間に真の方法がありそうだ。それがバランスである(『中論』)。宇宙には,プラスとマイナス,陰と陽,つまり対極的な性質がうまく調和して成り立っていることが科学で分かっているのだから,そこから発想すべきだ。
(2013年11月26日)

■プロフィール  さじ・はるお
東京都生まれ。理学博士。東京大学物性研究所,松下技研主幹研究員などを経て,玉川大学,県立宮城大学教授,鈴鹿短期大学学長(2004-13年)を歴任し,現在,同短期大学名誉学長,名誉教授,名誉理事長。大阪音楽大学大学院客員教授。ゆらぎ理論の第一人者。「1/fゆらぎ扇風機」の開発でも知られる。NASAを中心とした地球外文明探査では,ETとの交信に音楽を使うという提案で注目された。主な著書に,『宇宙の不思議』『宇宙はささやく』『宇宙はすべてを教えてくれる』『星へのプレリュード』『二十世紀の忘れもの(共著)』『わかることはかわること(共著)』『からだは星からできている』『女性を宇宙は最初につくった』『14歳のための時間論』『14歳のための物理学』『THE ANSWERS-すべての答えは宇宙にある!』他多数。