国家統合における宗教と言語の役割
―中東・北アフリカ地域を理解するために

カイロ大学客員教授 久山 宗彦

<要旨>

 アラブの春」以来,中東・北アフリカ地域の情勢展開はかなり流動的で,将来に対する展望が見えない。日本では政治や経済,軍事面からの情勢分析が多いが,イスラームが支配的な地域であるから宗教の視点を抜きにしては本質理解に迫ることはできない。そこで国家統合の柱として宗教・言語の観点から四つの類型化に立って,この地域の全体像を分析してみる。

 これまで私は中東・北アフリカ地域の現場を長年にわたって訪ね歩きながら,そこの国々の宗教や文化,政治などについて観察してきたが,残念ながら(近代的な意味での)国民国家統合がうまくいっている国はほとんどないような印象を持っている。この地域で唯一と言ってもいいほどに統合がうまくいっているのはサウジアラビアだろう。もちろん「アラブの春」以来,そうした変革の波はサウジアラビアにも及び,その余波を免れるわけには行かず,国家を揺るがしかねないような事件が起きないように神経を尖らせて対応してきた。
 ところで日本の外務省の世界地域区分を見ると,北アフリカ地域は単純にアフリカ地域に含まれている。しかし文化や宗教,歴史,文明の視点から見れば,北アフリカ地域はむしろ中東地域と近い関係にある。実際,欧米諸国はそのように区分けしている。それと比べると,日本の外務省は現実をよく見ていないように感じるのである。
 本稿では,中東・北アフリカ地域の全体を理解するための一つの視点を,以下に紹介したいと思う。通常近代の国家統合においては,政治,経済,軍事,文化などさまざまな「柱」を立てて国民統合を進めていく。しかし,私は時代の流れによっても変わらない柱という観点から,とくに宗教と民族の核心を形成する言語という柱に注目して,国家統合との関係を考察してみたい。

1.「安定」している国:サウジアラビア

 中東・北アフリカ地域で国家統合の面で最も安定しているのは,サウジアラビアである。
 サウジアラビアは日本の5.7倍の国土面積を持ち,アラビア半島の8割を占め,人口は約2900万人である。首都リヤード,マディーナ(メジナ),ヒジャーズ北部(紅海側の地域)のマダイン・サーレハなどを歩いてみたが,どこでも似たような風景に出くわした。すなわち,車でマディーナから立派な道路を北上すると,小さな部落が砂漠地帯と交互に現れるような風景が見られる。現在でも国は昔ながらの部族制社会で,人々はもちろん部族意識が強い。
 そのような環境の中で,この国はどのように国家統合をしているのであろうか。

(1)徹底したイスラーム原理主義
 歴史的に振り返ってみると,アラビア半島は18世紀半ばまでは倫理的,道徳的に混乱した無秩序な国であったと言える。サウード家のムハンマド・イブン=サウードが,イスラームの純化を唱えるムハンマド・イブン=アブドルワッハーブの思想を受け入れて,クルアーン(コーラン)とムハンマドの教え(言行録=ハディース)の二つを徹底的に国民に信奉させ,イスラーム信仰を根付かせていった。乱れた国を立て直すにはきちっとした制度を作っていく必要があると考えて信仰をそのベースに置いて根付かせようとしたのである。
 これは中途半端な体制ではない。例えば,最終的にはイスラーム信仰を正しく守る「善人」とそうでない「悪人」とに仕分けして,「悪人」を徹底的に懲らしめるという,いわゆる「イスラーム原理主義」を国の基本方針としてきたのである。現在なお公開処刑がなされるほどに,クルアーンとハディースを厳格に守っていくイスラーム原理主義に基づく厳しい国家運営がなされているのである。それゆえ,現在の世界でもっとも犯罪の少ない国となっている。

(2)イスラームの宗主国
 サウジアラビアにはマッカ,マディーナというイスラームの聖地がある。そのほか,ムハンマドに関わる遺跡や聖地も多い。現在のイスラエルにあるエルサレムも元はイスラームの第一の聖地だ。さらにイスラーム教徒にあっては,サウジアラビア全体が聖地だと考える人も多い。こうしたサウジアラビアの聖地には,世界中から年間約200万人ほどのイスラーム教徒が巡礼にやってくる。巡礼者に対する宿泊などのケアーは全部サウジアラビア政府が責任を持ってやっている。その意味でもイスラームの宗主国である。イスラームの宗派でいえば,スンニ派がほとんどを占め,シーア派は周辺にほんの少しいるだけである。スンニの厳しい学派が国家の柱を形成している。
 またサウジアラビアの人は外国人と結婚することはまずない。彼らは自分たちの「血(血統)」を大事にして民族の血統を絶やさないように守っていくことを最優先している。そして国を支えているこの純粋なアラビアの血の言語は,クルアーンの言語である正則アラビア語だ。宗教と言語が一つになっている。
 サウジアラビアは世界に対するサウジの使命として,ちゃんとしたイスラームを世界に伝えることを考えている。サウジアラビアのキングサウド大学には言語翻訳学部があるが,同学部は欧米言語翻訳,アジア言語翻訳,そしてアフリカ言語翻訳の学科に分かれている。それら各学科の目的は何かといえば,クルアーンがその国の言語でどのように紹介されているかを調べ,それを本国に伝える使命だ。何でもかんでも翻訳するというものではない。宗教的なものをベースにおいた学問が徹底している。
 サウジアラビアは石油が豊かに産出するという経済的条件にも恵まれているが,それはともかく,このように宗教と言語の柱が純粋にしっかりと立っているので,安定した国だと考えられる。

(3)宗主国としての自負心
 サウジアラビアの原理主義的なワッハービズム(ワッハーブ的発想)の視点から見ると,中庸などという関わり方をするのは非常に難しいようだ。また,かつてスンニ,シーアが拮抗するイラクの,子どもたちへの救援活動をやったときに経験したスンニ,シーアについてもそうだ。さらに永年日本に在住している友人のイラク人に,「日本ではスンニ派・シーア派は関係ないのだから仲良くしたら」と食事の場などで何気なく言ったことがあったが,彼らの答えは「ノー」であった。宗教的・政治的なことになると,どうしても自らの立場を主張して仲良くすることはできないようだ。
 またサウジアラビアは欧米による植民地支配を受けなかった中東地域では唯一の国である。それ故にか,同じアラブ人の中でもサウジアラビアの人々には欧米人を前にして堂々とやりあう姿勢が見られる。
 サウジアラビアの人々は,「われわれは(砂漠の民として)将来石油が枯渇して出なくなったときにベドウィンのような生活に戻るとしても何の苦にも思わないだろう」という。われわれ日本人のように,経済問題に振り回されるような考え方はほとんどない。物質的な豊かさを否定しないが,それがなくても問題ないと今からでも考えているのだ。もちろん為政者のレベルで言えば,経済発展や産業の振興を考えているが,人々の根底にはもっと深い精神性がある。そうした宗教の側面にももっと目を向けていく必要があると思う。
 われわれ日本人は単に政治や経済の視点だけで考えがちであるが,中東地域との関わりを考える場合は,<宗教や言語の視点>はなおのこと重要と思う。

2.宗教と言語から見たカテゴリー分類

 サウジアラビア以外の国々ついては,宗教と言語の柱がどうなっているかという視点から4つのカテゴリーに分けて,中東・北アフリカ地域の国々を眺めてみたい。

• 宗教の柱は種々あるが,言語の柱は安定した1本だけの国
 このタイプの国も基本的には安定していると思う。例として挙げればレバノンやエジプトである。
レバノンから見てみよう。
 かつてレバノンのベイルートには,キリスト教徒が多く住む東ベイルートとイスラーム教徒が多く住む西ベイルートに分ける「グリーン・ライン」という境界線があって,ここを挟んで戦闘が繰り広げられたことがあった。しかし今日ではこの地域はナイトライフも楽しめるほどになった。またレバノンの街に立ってみると,マロン派教会(東方キリスト教の一派),シーア派のモスク,スンニ派のモスクなどが重層的になって目に入ってきたりする。レバノンには18もの信仰共同体があるといわれている。レバノンは日本の岐阜県ほどの広さだが,レバノン人には一般に「もっと小さい単位の信仰共同体を作りたい」という思いがあるようだ。
 マロン派教会はフランスとの関係が強く欧州のキリスト教の雰囲気がある。そのほか,ギリシア正教,アルメニア正教,カトリックもある。ドゥルーズ派(イスラームの一派)もある。このように多様な宗教・宗派が混在しているので,政治面では宗派の人口比にあわせてポスト配分を行うなどの政治的配慮もなされている。
 この国の言語を見ると,欧米の言語も広く使われているが,それらはあくまで「外国語」であって,生活言語は基本的にはアラビア語である。アラビア語・アラブ文化はレバノン人にとっては肌に染み付いたものになっている。そうしたアラビア語・アラブ文化という文化的共通要素が宗教的多様性の葛藤を和らげる働きをして,レバノンでは比較的安定した国家運営が行われている。
 もう一つの例としてエジプトが挙げられる。エジプトの宗教はイスラームとコプト教(キリスト教)がほとんどを占める。
 エジプトの歴史を見ると,キリスト教の宣教によって何百年にもわたってエジプトはキリスト教国であった。7世紀以降イスラームが入ってきて,その後イスラーム的な国となり,コプト教は徐々にマイノリティーになっていった。現在人口の1割以上を占めるコプト教徒だが,彼らはコプトがエジプト人を意味するギリシア語に由来しているように,コプト=エジプト人という自負心が非常に強く,自分たちはエジプトを守るクリスチャンだという意識が強い。一方,80%以上を占めるイスラーム教徒は,エジプト人という意識よりもイスラーム共同体として国境線を越えた遠心性の意識があって,他国のイスラーム共同体と連帯しやすい。
 ところで,昨年暮れであったが,コプト教徒の青年たちが(中国,台湾,韓国を経由して)来日した。日本では聖歌を歌いながらイエス・キリストへの信仰の重要さを伝える宣教活動をなし,浅草ではカトリック聖堂を借りてコプトのミサもあげられた。今では日本人のコプト司祭(アブーナ・トーマス金崎師)も誕生している。コプトは漸く遠い海外にも目を向けるようになってきたのである。
 エジプトの国家統合においてはコプト教徒はかなり努力している。かつてキリスト教徒の十字軍がたびたび中東地域にやってきたとき,コプトの人たちはイスラーム教徒と共に十字軍と戦った歴史もある。数年前,ムバーラク大統領が倒されたとき(2011年)にはタハリール(解放)広場にはイスラーム教徒やコプト教徒が大勢集まってきたが,イスラーム教徒たちがこの広場でお祈りをしているときに,その周囲をコプト教徒たちが包囲して祈りが妨害されないようにしていた映像は感動的であった。
 昨年失脚したムハンマド・ムルスィー元大統領はもともとイスラーム同胞団から生まれた自由公正党の党首を務めていたが,同党の副党首はムルスィー統治時代はコプト教徒であった。このように国家を安定させる土台にコプト教徒が努力してきたことは否定できない。ムルスィー大統領が解任された背景には,彼がワッハーブ派に繋がって多くのエジプト人がそれを嫌がったこともあったようだ。このようにエジプトの宗教は大きく二つに分かれていて,コプトはエジプトの求心力として働いているが,イスラーム教徒は一般にウンマ共同体として世界的な連帯に関心を示す傾向が大であると思う。
 しかしエジプトの言語はアラビア語でまとまっている。もちろん,コプトのミサでは主要部分ではコプト語が使われているが,日常生活では使われていない。生活上はアラビア語が人々の共通部分を形成しており,そのような言葉ゆえに二つの宗教がつながりを見せている。互いの宗教のお祭りのときには,相互に招かれたりするなどの交流がなされている。

• 言語はいろいろあるが,宗教が求心的な柱として働く国
 この一例としてはモロッコが挙げられよう。レバノンやエジプトの逆の例となるわけである。モロッコには多くの言語があるが,最終的にはイスラームが言語同士の関係を調整・連携させる力を働かせている。
 モロッコは首都ラバトからリビアのトリポリまでとロンドンまでの距離がほぼ同じで,サウジアラビアのマッカまでとワシントンまでの距離がほぼ同じというように,欧米とは近いという距離感覚がある。それゆえ欧米からの影響もかなりあり,とくにフランスとの関係は深い。 
 モロッコはもともとハム系のベルベル人が住む地域であったが,後にイスラーム教徒が7世紀,11世紀の2度にわたって入ってきたため,現在ではアラビア語やイスラーム文化が主流となっている。現在のモロッコの民族構成はベルベル人とアラブ人だが,ベルベル人も社会生活上の必要性も手伝ってアラビア語を話すようになっている。
 大雑把に言えば,ベルベル人の多くは高地に住んでアラブ人は低地に住んでいるが,これは互いに避けあっているのではなく,寧ろ,比較的友好な関係を維持しているのである。最近ではベルベル人も下に住むようになって共存関係が多々見られる。
 ベルベル人の多い山の上のとある書店に入ったとき店主から聞いた話であるが,元来ベルベル語は話し言葉中心の言語だが,その発音表記がアラビア語のアルファベットを使ってなされるようになったという。つまりベルベル語とアラビア語が共生しているのである。二つの言語はまったく異なった系統の言語だが,イスラームが支配的な文化となることによって言語の違いを超えて共生するようになったのである。
 かつてフランスがモロッコを植民地にしたときにフランス人はベルベル人とアラブ人がうまく共生していこうとしているのを無視して,アラブ人を優位に立てようとする分離政策を取ったのであるが,これは何とも罪なことをやったものである。

• 宗教と言語それぞれの柱が二つに断絶している国
 イスラエルとキプロス,イラクとトルコ,最近南北に分裂することになったスーダンなどがこのタイプであり,実に深刻な状況を内に秘めていると思う。
 ここでは湾岸戦争後,救援活動で度々出かけることになったイラクに絞って記すことにする。
 イラクがどうして分裂しやすいのか端的に言えば,宗教の柱,言語の柱の両者がともに断絶,あるいは分裂状態にあるからである。
 イラクの宗教はほとんどがイスラームで,キリスト教(ネストリウス派の東方アッシリア教会など)は人口の5~6%程度である。しかし同じイスラームであるがスンニ派とシーア派がイラク全土に散らばって存在し,国外の勢力が介入して両派が政治的な対立を生むこともしばしばである。人口の2割を占めるスンニのクルド人は,何ごともなければアラブ人と結婚するなど,互いに共存しているのだが。
 唯今も述べたように,この国は周辺国からの政治的介入の問題が大きい。イランはシーア派を支援し,米国は状況に応じて両派をうまく使い分ける。同じ宗教であっても政治的に利用されると,スンニ派・シーア派に分かれることによって相互の間が断絶しうまく行かない。
 イラク人はエジプト人と違い,Aの共同体に属する人はAだけ,Bに属する人はBだけという思考の傾向が強い。エジプト人は時代が変化すると別の考え方の人にもついていくような柔軟さがあるが,これとは対照的だ。実際イラク人としばしば接して分かることだが,彼らは「エジプト人のような(無節操な)発想はダメだ」と批判する。そうした思考方法も手伝って,スンニ派とシーア派とは互いに妥協できないのだろう。
 イラクの言語は互いに何に関わりもないアラビア語とクルド語である。サッダーム・フセイン大統領の時代には,どこの大学でもクルド語講座が設けられていた。しかし政情が緊迫して,北部石油地帯に住むクルド人を南部に強制移住させようとしたころからあらb人・クルド人相互の関係は悪くなっていった。(クルド人とトルコ人の間にも似たような事情が見られる。)
 ちょっと付け加えるが,スーダンの場合は,北部はアラビア語を話すアラブ人はムスリムが多く,南部はブラックアフリカンで英語を話すキリスト教徒が多いが,そうした違いと経済的利権が絡んで,結局は二つの国に分裂した。南北でそれぞれ明確な特徴があったのだが,スーダンにおける問題は,一国内の南北の線引きがまずかったのではないか。実に複雑なところだと思う。

• ネイティブとノン・ネイティブ間の統合に苦慮している国
 ヨルダンなど,ネイティブとノン・ネイティブ間の統合に苦慮している国もある。
1948年のイスラエル国再建によってパレスチナの地から難を逃れてヨルダンに入ってきた避難民であるパレスチナ人(ノン・ネイティブ)の生活は都会型の生活スタイルであるが,田舎に好んで住む多くのヨルダン人(ネイティブ)の生活スタイルとはだいぶ違う。しかしノン・ネイティブの人たちとネイティブの人たちに対して,ヨルダン政府は両者を区別してはいけないとの方針で政治を行ってきた。
 ヨルダンの故フセイン国王およびその後継者は対立を避けるためにさまざまな政策を行い,ネイティブとノン・ネイティブは比較的平和的に暮らしているように思う。そのための政治的舵取りはなかなか大変だったと思う。
 故フセイン国王はかつて,結婚によって国と国の関係を安定させるという考えを持っていた。そこでムスリムの彼は4人の王妃,すなわち,パレスチナ人,エジプト人,英国人,米国籍のパレスチナ人と次々に結婚したが,そうした姻戚関係も含めたネットワークを張り巡らせながら彼は政治を行った。この点について当時,ヨルダンの何人かの男性に話を聞いてみたが国王のこうしたやり方を批判する人は一人もいなかった。
 ヨルダンについては,言語・宗教はそれほど問題はない。指導者は柔軟なやり方で統治してきた。イスラエルではユダヤ人が住んでいる地域とアラブ人・パレスチナ人が住む地域を分離しているが,ヨルダンではそういう区別をすべきではないとの考えに基づき,パレスチナ人,アラブ人,キリスト教徒,イスラーム教徒が一緒に住む。違いを超えて連帯することを考えて政治を行ってきた。
 その背景には,そうせざるを得ない政治地理的環境も確かにある。ヨルダンはイスラエルやイラクに挟まれ,常に巧妙な政治運営が求められてきた。ヨルダンは湾岸戦争当時,表面上はイラクとは関係が悪いように見せながら下では深く繋がっていた。イスラエルとの関係もうまくやってきた。イスラエルの背後の米国や,イラクという大国との間で微妙な舵取りをやってきた国である。
 1948年にイスラエルが独立すると,そこに住んでいたパレスチナ人たちが難民として二度にわたってどっとヨルダンに入ってきた。現在はシリアから何十万という難民が入ってきており,相当困難な状況だろうと思う。
 ヨルダンは宗教や医療などの面で気遣っている点が多々見られるが,その点は日本としても見習っていいと思う。
 例えば,ヨルダンの首都アンマンの町で大きな書店からキオスクに並ぶ書籍にいたるまで見て回ると気がつくことがあった。これらの書店には宗教書を当然多く置いているが,ユダヤ教,キリスト教,イスラームを同列・同等に置いて並べているのだ。
 またペトラの遺跡に行く途中,とある小さなお店で食事をしたとき,壁にはイエスを抱いた聖母マリアのイコンと,(普通はムハンマドをイコンにはしないのだが),ムハンマドのイコンが並べて掛けられてあった。こういうところにも宗教を対等に扱う気遣いを感じた。
 中東イスラーム地域では赤十字社ではなく赤新月社が中心であるが,中東地域では唯一のアンマンの国際赤十字赤新月社連盟中東事務所では,そのビルの屋上には,赤十字と赤新月の二つの大きなマークが当然ながら並べて掲げられている。私自身,医療の国際救援活動をやっていたこともあって,二つが同等に仕事をしている場面に何度も遭遇した。
 次に,宗教,医療の分野など,ネイティブとノン・ネイティブに対して,すなわち,いろいろな立場の人たちに対して喧嘩しないような配慮がなされているということである。

3.シリア問題

 シリアはもともと難しい国である。いろいろな面であいまいさがある国だからである。シリアには宗教・宗派は実に多く存在するが,アラビア語が圧倒的な力を持っているので,本来きちっとした政治をやれば国家はうまく治まると思う。
宗教でいうとシリア以外ではレバノン・トルコ・イランにも見られるシーア派から分かれたアラウィー(アラビア語で「アリーに従う者」の意)派がある。アサド大統領はそのアラウィー派に属する。アラウィー派の人たちは人口の1割強しか占めておらず,北西部の山岳地方に多く住んでいる。
 シリアは元来,国の中心がどこにあるのかもあいまいだ。ダマスカス(首都)か,アレッポ(ハラブ)かということもはっきりしない。シリアの人たちは今のシリアではなく,パレスチナ,ヨルダン,レバノンなどを含めた「大シリア」をも夢見ているようだ。
政府もそうだが,現在の反体制側も,国を一つにきちっとまとめる力がない。それはシリア人の伝統的な発想にそのような傾向があるからではないかと思う。
(2014年1月23日)

■プロフィール  くやま・むねひこ
京都府生まれ。東北大学大学院修了。1976年~78年までカイロ大学文学部日本学科客員教授を務め,その後,法政大学教授,星美学園短期大学学長,カリタス女子短期大学学長を歴任。現在,カイロ大学文学部日本学科客員教授,群馬医療福祉大学講師,東京純心女子大学客員教授。「日本・中東アフリカ文化経済交流会」会長,「イラクの子供たちを救う会」元代表。専攻は宗教学。アレクサンドリアのクレメンスに関する論文が多数ある。主な著書に,『宗教と文化』『イスラム世界とコプト文化』『神の文化と和の文化』『ナイル河畔の聖家族』『イスラム世界の日常論理』『コーランと聖書の対話』,ムハンマド・エッザト/久山宗彦共著『イスラム教徒とキリスト教徒の対話』他多数。