日韓近代史を読み解く視点
―伊藤博文と安重根

中日韓国際文化研究院長 金 文学

<梗概>

 日中韓の間では歴史および領土問題を中心に,近年葛藤・対立が高まっているが,その打開の道はなかなか見えてこない。昨年来の朴槿恵大統領の中国政府への働きかけもあり,今年1月に中国ハルビン市に「安重根義士記念館」がオープン,日韓の間で政治的な話題となった。近代国民国家の宿命でもある自国中心のナショナリズムが存在する限り,歴史認識を狭めることは困難であるが,安重根と伊藤博文を一国主義を超えた立場から再評価・再解釈することによって,歴史問題解決に向けたアプローチの道筋が見えてきた。

1.歴史を見る観点

 今年1月19日に中国・ハルビン市のハルビン駅に「安重根義士記念館」が新たに開館し,日韓の間でホットな政治話題となった。
 安重根と言えば,ハルビン駅で初代韓国統監の伊藤博文を暗殺した人物として名高いが,韓国では「絶対的な民族的英雄」だ。朝鮮の歴史の中で,ことに近代史に限れば,一番の英雄である。戦争中に上海の大韓民国臨時政府の主席も務めた金九も民族的英雄の一人だが,当時日本とのかかわりもあって無条件に英雄として賞賛されることはない。その点,安重根は,日本とのかかわりがないという純粋さに加えて,当時の汚れた政治とも無縁であり,さらに日本帝国主義の象徴と目された伊藤博文を射撃して逮捕されその数カ月後に処刑されたという数奇な軌跡から「絶対的な民族的英雄」になっている。
 ここで問題なのは,安重根一人だけを祀り上げても意味がないということだ。安重根が高く評価されるのは,射撃した相手である伊藤博文が偉かったからなのである。もし彼が日本人の一兵卒を射撃しただけだったら,歴史に名を残すことはなかっただろう。さらに言えば,安重根が民族的英雄になれたのは,逆説的ではあるが,伊藤博文の「お陰」だったとも言える。歴史を見るときには,照準を限定することなくもっと広い視野から見る必要がある。
 韓国では安重根は神様のように祀り上げられているが,一方の伊藤博文は「極悪非道」の権化という認識で,伊藤博文がどのような人物で,どのような考えを持っていたかなどに関してはほとんど関心も示さない。
 民族的な枠組みを超えて冷静に考えて欲しいと思う。安重根が伊藤博文を狙ったのは,伊藤博文がそれだけ当時において「巨物級政治家」だったからだ。またこれを裏返せば,日本においても伊藤博文をもっと客観的に研究して相対化して見なければならない。
 戦後日本の学界では,伊藤博文に対する評価はさほど高くなかった。明治三傑の次世代の明治元勲として最も著名な人物であるが,学界では伊藤の功績を評価することを躊躇しているのが実情だ。近年になってようやく伊藤博文を客観的,公正に再評価する動きが出てきた。日本人はよそから批判・非難されるとそれに反応するだけで,その人物考証などをおろそかにしている面があるから,日本人もこうした点についてもっと認識を深める必要がある。
 近年,東アジアでは民族主義的傾向が強まり日中韓三カ国の葛藤が高まる中,一国主義を超えた視野から民族主義を相対化することが重要になっている。そこから難しい隣国関係にも新しい展望が開けてくるに違いない。
 韓国ソウルの南山にある「安重根義士記念館」(1970年竣工,71年開館)や今年1月に開館したハルビン市の「安重根義士記念館」に足を運んでみたが,それらは安重根だけを考証の対象としていて彼の相手である伊藤博文の内実に関しては関心を示さない展示となっている。東アジアの近代史は,日本,韓国(朝鮮),中国が絡み合って形成されてきたわけだから,取り上げる人物や事象とともにそれと相対する国の人物や事象についても公平に取り上げて考証しなければ公正な評価とはならないはずだ。「自国の英雄はすごく偉い」と主張するだけならば幼稚な民族主義だ。成熟した民族主義は,相手国の人物像も客観的・相対的に見て自国の民族的英雄を評価する。
 実は以前から私は,国際安重根記念協会(2001年創立,本部=米国)の日本支部長を務めてきたが,昨年その会長に就任した。その立場からしても,安重根だけを賞賛するのではなく,伊藤博文も同等に扱いながら客観的・相対的な視野に立って検証・評価していくことが何より重要だと認識している。自国の英雄だけを評価し,相手の民族英雄についてけなすだけでは,生産的なことは何も生まれない。各国とももっと成熟した民族主義になる必要がある。

2.伊藤博文と安重根

 ここで伊藤博文と安重根の一般的評価からは見えてこない,もう一つの側面に光を当てて,簡単に紹介したいと思う(詳しくは拙著『知性人伊藤博文 思想家安重根』参照)。

(1)韓国を愛した知性人・伊藤博文(1841-1909年)
 日本での伊藤に対する評価は韓国の安重根のような最高の英雄ではないが,近代日本の立憲君主制の立役者として評価されている。そして朝鮮支配の初代韓国統監として活動した伊藤には,狡猾,陰凶な陰謀家としてのイメージが先立ち,彼の平和思想や対外協調外交,強圧的な侵略に反対ないし消極的な指導者であったことは,あまり認識されていない。事実伊藤は,日露戦争にも反対し,主に列強や清国との協調外交を主張して推進し,対外的に柔軟な政策を取った政治家であった。このような伊藤博文への再評価は,伊藤個人に終わるものではなく,日韓近代史への再評価,再認識にもつながるものだ。さらに戦後ある種の過去否定的過敏反応,近代アレルギーを克服し,日本人のアイデンティティを反芻する重大な意義を持つと思う。
• 知的文明的統治理念
 伊藤博文と安重根の出自は対照的である。安は裕福な両班家門の長男として生まれたが,伊藤は貧困な田舎の農民家族の一人っ子として生まれた。しかし,二人ともそれぞれ自分の出自家門の枠組みを破り,自分の個性的,上昇的道を選択した。つまり,安は両班貴族の文人的道よりも武人的抗日闘士となり,伊藤は極貧で下層の階級より近代日本を作った最高位の政治家になったのである。
 早く英国に留学して英語力を身に着けるとともに,漢文力をも備えていた伊藤は,欧米から知的政治家として高い評価を受けた。「30歳ほどの若者だが,進歩的で開明的な,前途有望な政治家」(『ニューヨーク・タイムズ』明治5年1月17日)などと評され,1880年代にはすでに「日本のビスマルク」という美名が西洋世界で一般化していた。
 私が伊藤の資料や伝記などを読み直してたどり着いた一つの結論は,伊藤博文とは「非常に優れた知性人,文化人」ということであった。彼は軍人でもなく,政治家という前に,まず知識人,優れた思想家,漢詩人,読書家というタイトルを持つ文化人ということである。文明論者であり,西洋的文明,学問や思想を持って日本を近代国家に導いた伊藤は,自分が成就した方法論で,朝鮮半島に文明を伝え,その文明を伝える「伝道師」を自任したのだと思う。
 伊藤の知性人としての韓国統治理念と,伊藤没後展開された軍部・軍人による韓国併合後の統治とは全く別次元のものである。この二つの事象を全く分析せずに理解しようとするから真の伊藤理解が進まないのだと思う。
 そもそも伊藤はなぜ自ら進んで韓国統監として韓国に赴いたのかということだ。
 1905年日本は日露戦争に勝利し,同年9月のポーツマス条約で日本の韓国保護権が列強によって認められると,11月伊藤は特使として韓国に赴き第2次日韓協約を強制的に締結。そして同年12月21日初代韓国統監に就任,翌1906年3月漢城(ソウル)に赴任した。当時の日本の韓国認識はどうかと言えば,現在とは雲泥の差で,植民地として人的近代化に遅れた全く魅力のない地だった。
 当時,伊藤は64歳で,現代でいえば80代の老人に相当し,すでに枢密院議長を務め優雅な老後を楽しんでもいい年齢だったのに,全てを捨てて統監を自任して韓国に渡ったのであった。彼にそうさせたのは「切迫した使命感」,つまり自ら日本の近代化を達成したように,韓国人の応援を得て韓国をも近代化させる雄大な構想であった。
 伊藤は個人的に韓国の儒教文化に通じる漢文詩人,知識人的性格を持ち合わせ,韓国文化に対しては一種の愛着を持っていた。伊藤は韓服を着てよく写真を撮っていたが,いくら演出とはいえ,単純な政治的ジェスチャーを越えた愛情,韓国文化への一種の人並み以上の愛情があったに違いない。
 渡韓のもう一つの理由は,韓国に対する軍人の武断政治を未然に防ぐ狙いがあった。台湾植民地化のように,山縣有朋系軍人がもしも韓国の統監になれば,武断政治の末,韓国人の反発を買い,近代化を却って難しくするという懸念があったと思う。
 伊藤の死後,実際彼が心配していたことが展開されたではないか。陸相でもあった寺内正毅(第3代韓国統監1910.5-1910.9,初代朝鮮総督1910.10-1916年)は1910年8月の併合以来,厳しい武断政治を実施し,韓国人の抗日運動を誘発したのだった。伊藤は文人的,知性政治家として武断を避け,知的文明的統治をしようとした。彼は中国大陸と朝鮮半島を比べ,半島に親しみをもち,韓国の文明化に最晩年の情熱を注いだ。1898年清末憲政改革のころ中国を訪れるが,同質性の少ない清国の立憲は至難だと悟り,以来韓国へ関心を傾けていった。要するに,伊藤にとって韓国は第二の「日本」でもあったのだろう。
• 韓国への愛情
 次に伊藤博文の韓国観,韓国人観を見てみる。
 新渡戸稲造との逸話を紹介する。1906年10月に統監府農工商務の依頼を受けて,韓国への日本人移民事業のために訪韓した新渡戸は,伊藤と面会した。
伊藤「朝鮮に内地人を移すといふ議論が大分あるやうだが,我輩はこれに反対しておるのじゃ」。
新渡戸「然し朝鮮人だけでこの国を開くことが,果たして出来ませうか」。
伊藤「君朝鮮人はえらいよ,この国の歴史を見ても,その進歩したことは,日本より遥以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。才能において決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは,人民が悪いのぢやなくて,政治が悪かつたのだ。国さへ治まれば,人民は量に於いても質に於いても不足はない」(『新渡戸稲造全集』第5巻,教文館)。
 このように伊藤は,朝鮮人の才能や文化に対して尊敬の念を抱いており,政治のせいで国がダメになったという見解を持っていた。人民の能力を積極的に開発させ,それによって自立できることを望んでいたのが彼の本心だった。もちろん,日本の利益を優先させながらではあるが,それでも韓国の利益にもつながるようにしようとしたのである。
 ところで,私が長年,伊藤の文献資料や伝記を渉猟しながら直感したイメージでは,彼は韓国人の後裔である可能性があるのではないか,ということだ。理由はいくつかあるが,一つだけ挙げたい。彼の出自から見ると,もともと彼の苗字は「林」(韓国には「林=イム」という氏族がいる)であり,後に伊藤家に養子として入ったのだった。山口県はもともと韓国系渡来人が多く集居する地域で,韓国とも地政学的縁も深い。彼の性格を見ても,磊落で洒脱,酒好き,豪語という性格は,韓国人のそれと通じるものがある。伊藤が韓国に対してあれほど愛着心を持った裏には,韓国人の子孫という意識があったように思う。
 さて,伊藤にとって,西洋近代の民本主義,法治主義,漸進主義という三要素は,彼の施政において世界の常態だった。そして韓国が従来の事大主義から脱皮して,近代国家として独立することを目指した。とくに現実を直視して穏健な漸進主義的方法論で進めようとした場合に,韓国の既存の文化や価値観を出来る限り尊重しながら漸進的文明国に移行していくという考え方は,当時の韓国エリートには理解されたが,大衆に受容させることは難しいことだった。穏健的融和主義者である伊藤は,反日運動家の中からも人材を募り,儒教による支配システムを改革することを狙った。
 韓国の前近代的社会状況の中で,異民族の指導者である伊藤を受け入れる理解者,対話者はいなかった。彼は外来の他者であり,単なる他者からの「強要」という面で,伊藤は数多い支持者を得ることはできなかった。
 伊藤は,ある意味で自負心が旺盛なせいか,韓国人という「他者」を甘く見ていたと思う。同じ東洋人だから,自分が日本でなしたとおりに韓国でやれば理解されるだろうと過信していたのかもしれない。
 韓国・啓明大学の李盛煥教授によれば,統監府統治期,伊藤の政策の影響により,韓国ナショナリズムが成長したという。伊藤の保護政策による言論の自由によって愛国啓蒙運動が拡散し,それは結果的に皇帝を中心とする旧体制を弱体化させることにつながり,統監府統治と韓国民族主義の「奇妙な共存」を形成していた。しかし,成長した民族主義の軽視が,伊藤の統治を失敗に終わらせることになった。
 1909年1月,韓国純宗皇帝の南北巡幸を通して,韓国人の支持を得ようと目論んだ伊藤は,北韓巡幸で抗日の不穏があることを知る。2月17日,日本に戻った伊藤は韓国人の積極的支持を得るのは難しいと自覚し,韓国併合やむなしと考えるようになった(伊藤之雄)。
 そして1909年10月26日,独立運動家安重根によって伊藤は暗殺された。

(2)東洋平和を思索した安重根(1879-1910年)
①文人・思想家としての安重根
 日本人の安重根に対する一般的イメージは,伊藤を撃った「テロリスト」というものが多いが,彼にはもう一つの顔がある。つまり東アジアの平和を構想した平和論者であり,日本に対しても好意を持っていた人物だった。安重根の内実の核心は,軍人よりも「文人」だった。
 実は,韓国における安重根のイメージも,似たり寄ったりのところがある。韓国の出版物などを通してみる安重根には,大韓国人,義士,民族英雄,闘士,独立運動家,アジア第一の侠客,愛国志士,伊藤の狙撃者,武人,軍人などのタイトルがついている。彼の平和論者としての側面に光を当てることは少ない。そこでここでは,その点についてみてみたい。
 安重根の家系・出自を見ると,彼は文人の家系の出身で,彼自身文人であった。祖父の代から文班に転換し,父泰勲は成均館進士として文班身分となった。安重根は幼いころから「四書五経」『通鑑』などの漢文をはじめ,『朝鮮史』『万国歴史』なども学び,書道にも通じていた。彼が残した数少ない漢詩を見る限りにおいても,彼は相当の漢文の教養を持っているのが伺える。
 こう見ると,伊藤博文と安重根は,「文人気質」の面で二人は共通性を持っていた。もしも,二人が拳銃ではなく,「筆墨の縁」であったならば,必ず「忘年の文友」になったのではないかと思わずにはおれない。せっかく東洋平和主義の哲学思想をもちながら互いにそれを生かせず,相反する流血の武断で現れたのは,両民族にとって実に不幸なことだった。
 基本的に安重根の家族は,そもそも日本が嫌いな反日家ではなかった。韓国の安重根研究の第一人者であり,国際韓国研究院の崔書勉院長は,次のように述べている。
「振り返れば,安重根は日本が好きであったようだ。父親が日本留学をしようとしたが,甲申政変のため,かなわなかったことがあるくらい,日本の新文化に多大な興味をもっていた。しかし安義士が伊藤博文を暗殺するまでの激烈反日闘士に変わったのにはただ理由は一つだけであった。朝鮮の独立を守ろうとしたからだ」(『安重根』芸術の殿堂)。

 また,安重根は明治天皇を尊敬していた。それに関する話を紹介する。
 広島県にある願船寺の設楽正純住職は安重根直筆の遺墨「独立」を所蔵するが,それは同氏の大叔父設楽正雄氏が,安重根との縁で直接手渡されたものだという。これに関して同氏は次のように話してくれた。
「大叔父の話によると,安重根義士は,明治天皇にとても好意を持ち,尊敬していたそうです。伊藤博文の直接的上司であったから,伊藤を暗殺してから『独立』という文字で天皇陛下に朝鮮独立を訴えようと思ったそうです。すごい人ですね」。
 確かに,服刑中の安重根の発言や書いた文章を読む限り,彼はむやみに日本,日本人に対して恨みを持っていたわけではない。伊藤博文の狙撃に対しても,安は,やむを得ずした行為だと明言している(斎藤泰彦『わが心の安重根』五月書房)。
 西洋帝国主義的侵略,弱肉強食的世界を批判し,アジアの連帯を唱え,死刑直前まで獄中で書いた『東洋平和論』は,安重根思想の集大成だった。しかし,死によって未完に終わった。それが非常に残念である。今まで韓国でも日本でも安重根を「思想家」として称したことはない。私は,むしろ東洋平和,アジア連帯の構想やビジョンを持った独立イデオロギーの「思想家」として安を捉えることこそ,彼の知られざる姿に光を当てることだと思う。もちろん,彼の思想には,未熟な点や伊藤に対する認識が一面的なところもあるが,「思想家」「思索者」としての安の人物像は否定できない。安を単なる「テロリスト」としてしか見ずに,おとしめる見方には,私は与しない。トータル的視野で日韓を越え,あるいは総合的に鳥瞰することで,安重根の意味を再考したい。
②東洋平和の思想
 「合成散敗,万古常定之理」

 これは安重根の『東洋平和論』の冒頭の一句である。結合すればうまくいき,離散すれば失敗するというのは万古の定理だ,という意味だが,この一句こそ,安重根の東洋平和思想の精華であると思う。「合成散敗」の理念は,東洋儒教の伝統的「和合」(団結)思想の一つだと言われてきた。中国古典『尚書』(尭典篇)の最初に登場する「和合」や,『史記』に登場する「和合万国」という表現から分かるように,「和合」は社会安定の条件でもあり,現代風に言えば,「平和」である。
 東アジアの「合成」,すなわち連帯思想を持つ安重根は,未完の書『東洋平和論』および一連の聴取書,遺墨などを通して,彼の平和プランを提示した。その骨子は次のように要約できると思う。
①旅順を中立化し開放して,日・清・韓が共同で管理する軍港にする。従って,三カ国が代表を派遣して,平和会議を組織する。
②旅順で平和会議を組織し,その会員を募集し会費を募ることで,財源の確保を狙う。
③円満な金融のため,東洋の共同銀行を設立し,各国共用の通貨を発行する。そしてその国にその銀行の支店を設置する。
④日・清・韓三カ国の青年たちが共同の群団を作り,彼らに二カ国語以上の語学を勉強させ,友邦あるいは兄弟の観念を形成する。
⑤日本の指導の下で,清・韓両国は,商工業の発展を志向し,日本の経済的・文化的な近代性,先進性を活用する共同発展を提案する。
⑥日・清・韓三国の皇帝(指導者)がローマ教皇を訪問し,協力を誓い,王冠を戴くことで,世界市民の信頼を受けるようにする。
  とくに旅順という東アジア最大の紛争地,戦略的位置の重要な戦場を,中立の「平和の根拠地」として活用することを提案している。わずか31歳の青年がすでに胸中にこのようなプランを構想していたとは驚きである。彼のプランは,現代に翻訳すれば,「東アジア共同体」構想を先駆的に提示していたことになる。
 彼が示した東アジアの平和の道程,日中韓三国の青年や市民が連帯して東洋平和会議を組織することは,今日考えても画期的である。東アジア各国の共同開発,多重言語教育,共同開発銀行,共同貨幣システム,共同軍事防衛体制など先進的構想である。これは安重根が,まぎれもなく100年先を見抜いた先駆的思想家であることを示している。
 私は,安重根が偉大なのは,ピストルで偉大な日本の指導者伊藤博文を狙撃したことではなく,むしろその背後にある彼の「東洋平和の思想」ではないかと思う。

(3)伊藤博文の死とその後の情勢変化
 安重根による伊藤博文の暗殺は世界的大事件として極めて衝撃的であった。当時,ロシア,ドイツ,イギリス,フランス,韓国,清国,満洲など世界諸国の反響は,各新聞・雑誌に一挙に掲載されるほどだった。ここで私が問いたいのは,その衝撃よりも,伊藤の暗殺で何が変わったかということである。
 第一に,韓国併合の様相と時間である。山縣有朋は伊藤博文への遠慮から韓国政策への直接干渉を控えていた(伊藤之雄)。しかし伊藤暗殺後,山縣は積極的に韓国政策に攻勢をかけ,彼の腹心寺内正毅とともにその後の武断政治の主導者になった。
 第二に,日中韓三国の関係である。伊藤が晩年に持っていた構想は,清国に憲政を求め東アジアの情勢の安定を図り平和を維持するというプランであった。それによって日本の大陸への拡張,膨張政策がコントロールされる可能性があったが,それが破綻した。
 第三に,明治天皇と二人で作った大日本帝国憲法の改正を推進する人物が実質上いなくなった。伊藤は,日露戦争後公式令で陸海軍大臣に対する首相の権限を強めようとしていたように,憲法の不備を唱えていた。しかし伊藤の死によって,そのような改革がなされないまま昭和を迎えるようになり,(軍部の独走を許し)戦争の拡大へとつながったのである(伊藤之雄)。
 韓国独立を熱望した安重根の伊藤狙撃は,本当に韓国のために利益となったのか。皮肉にも,伊藤狙撃によって「日本の侵略を食い止め,わが国の独立を維持する」とした安重根の当初の目的とは逆に,伊藤がいなくなることで,韓国併合が一気に現実のものとなり,しかももっともひどい武断統治として実現された。
 安重根には,伊藤博文を外来民族の「他者」,外来の侵略者のリーダーとして深く研究した形跡がない。儒教的伝統の知識人安重根には,伊藤に対する深い認識は必要なかったのかもしれない。このような安重根の弱点は,民族主義的側面からはむしろ長所である。だから伊藤を狙撃する民族主義的大義で民族の英雄になったのだ。
 近代期の韓国は,西洋的近代化という新しい環境に適応できなかった。その過程で,韓国のエリートたちは自主的近代化を目指したが,李朝の儒教的前近代王朝の性格から脱皮できず,しかも度重なる挫折によって,日本的近代化を志向するようになった。植民統治下では抵抗よりもしばらく実力を養成して最後に独立を勝ち取るというやり方も出てきて,植民統治に適応する生きる方式がむしろ多数であった。自力による独立が不可能,絶望的だからこそ,「抵抗」は最も価値ある独立運動の最善の方式として讃えられるようになったのである。
 ゆえに,日本に対しての協力者,その時代の適応者に対しては,その尺度から「反逆者」「親日派」と見,抵抗し抗日運動をした人にはその内実を問わず無条件に美化しようとする態度をとるのである。

3.日韓和解の道はあるか

 1939年10月,安重根の遺児がソウルの博文寺を訪れ,父の「過ち」を謝罪した。博文寺は,伊藤博文を顕彰する建造物として伊藤博文記念会が1932年にソウルの奨忠壇(現・新羅ホテル)に建てた菩提寺である。1939年10月,安重根の次男・安俊生が,当時の朝鮮総督府南次郎総督と会見し,10月15日に博文寺を訪問した。伊藤の霊前に焼香し,父安重根の位牌を祀って法要も行った。翌16日には,総督府外事部の斡旋により伊藤博文の次男伊藤文吉(当時,日本鉱業社長)と安俊生が対面。17日には,両者は一緒に博文寺を訪問し,伊藤博文の霊前で和解する。
俊生「父に代わり,心より深くお詫び申し上げます」。
文吉「私の父も君の父もいまは,仏になって空に帰しているのだから,お詫びの言葉はいりません」。
 この和解の儀式は総督府の関与のものと推測されるが,いずれにしても,この和解が意味するところは大変重大だと思う。「怨讐を越える握手」にこそ,対立を解き,未来を志向する前向きの姿勢があるのではないだろうか。たとえ,その場面が意図的に作られたにしても,実現できた背景には対立や怨念を超える未来志向が認められる。今後も,このような対立・怨念を超える志向なしには,日韓が歴史の高いハードルを越えることは至難であろう。
 歴史問題をいかに解決すべきか。決定的な解答があるわけではないが,日韓両国が「共通の歴史認識」を持つことは無駄なことであり,両国の文化を無視した愚挙であると思う。これほど生産性のないことはない。日韓両国が仲良くなって,経済・技術,文化交流を活発化すれば明るい未来が開けてくるのに,過去にこだわっているために却ってマイナスを生むばかりだ。お互いのためになっていない。
 一つのアイディアとして,もう「過去」の話はしないということである。一般的に個人の間でもトラブルを解決する妙案として「お互いにもう済んだことだから,これ以上もめないようにしよう」というではないか。
 すでに100年を越えたのだから,祖先たちがやったことを客観的に見る。相手のせいにするのではなく,自分の不足を反省して前向きに進んでいくことが大切だ。賢い人は,自分の不足を見つめる。サッカーなどスポーツの試合で負けたら,何がよくなかったのか反省することが大切であって,相手の問題をなじっても建設的なことは何も出てこない。相手に責任転嫁することは最もよくない姿勢だ。過去は過去であって,そこに現在の自分の意識(考え)を投射したら,それはすでに「歴史」ではなくなってしまう。それは「歴史の改竄」だ。そうした姿勢や歴史を見る態度を根本的に変えない限り(隣国関係は)よくならない。神様は人間に記憶機能と忘れる機能を与えられたのだから,100年も経った歴史は忘れることだ。
われわれにとって歴史問題は,過ぎ去ったことである。過去に求むべきことは教訓であり反省の「素材」である。その教訓は,深刻な自己反省によってやっと得られるものであって,安易に他者のせいにするのは自己にとっても,他者にとっても,「愚行」でしかない。教訓としての過去,歴史は,実証的研究が先であり,住んでもいない過去へ逆戻りし,あたかも現在の利益に関わるようにして,現代人の相互の可能性を束縛してはならない。
 もう一つの歴史認識として,「過去は宿命である」という点を指摘したい。世界の全ての物事は全てつながりを持つ体系的世界である。それらはある因果関係などの複雑なネットワークで形成されている。国や民族の歴史も過去も,自他的因果で出来た産物である。
 過去の自己と他者を冷静に見つめる仕事こそ,われわれにとって有益である。平常心で伊藤博文を見つめることは,平常心で安重根を見つめることと同じく大事である。なぜなら,そういうことがわれわれの宿命的な過去であるからだ。否定,肯定という主観的意識を超えた次元の問題であり,それは宿命自体であった。われわれがやるべきは,その宿命を真摯に受け止めて,より実証的に研究し認識をし,感情的情緒は排除することである。
 日韓両国は過去のことを問題にする点を反省すべきである。宿命としての過去を,いまさら持ち出して,現在や未来の足を引っ張る行為こそ問題にすべきだ。私はどうも為政者たち(政治家)が,民族感情をフルに刺激して,過去の問題を政治の点数稼ぎに利用しているような気がする。更にそれにマスコミが便乗して火に油を注いでいる。反日運動と日本の民族主義の「悪循環」がますます高まるばかりだ。
 歴史が政治家の利用物に転落したならば,それこそ歴史の悲劇である。「愛国」がゴロツキの最後の看板になった如く,「歴史」が政治家のそのような「看板」になるのは「歴史」の最大のアイロニーではないか。歴史は,歴史を研究する専門家・学者・知識人に任せ,一方われわれは過去にとらわれずに未来に向かって前進するしかない。
(2014年2月12日)

■プロフィール  きん・ぶんがく
1962年中国・瀋陽で韓国系三世として生まれる。85年東北師範大学日本文学科卒。91年来日,同志社大学大学院修士課程修了,2001年広島大学大学院博士課程修了。現在,広島文化学園大学特任教授,中日韓国際文化研究院長。文明批評家,作家。国際安重根記念協会会長も務める。専攻は,比較文学,文化人類学。日中韓3カ国語による執筆・出版・講演を行なっている。主な著書に,『韓国民に告ぐ!』『中国人民に告ぐ!』『第三の母国 日本人に告ぐ!』『日本人・中国人・韓国人』『「混」の中国人』『知性人伊藤博文 思想家安重根』など多数。