現代における鎮魂と怨親平等思想の再発見

三重大学教授 山田 雄司

<梗概>

 前近代の日本社会においては,霊魂や怨霊の存在が人々の間に広く認識されていた。その影響は個人や家族のレベルから国家のレベルまで及び,政治・社会もそれと連動して展開してきた。近世になるとそうした観念は薄れるが,神仏混淆を基礎とした日本の伝統的文化と仏教思想に由来する怨親平等の思想は,その後の死者に対する鎮魂方法にも連綿として受け継がれてきた。こうした考え方は,現代社会における大規模自然災害に伴う死者の鎮魂や靖国神社問題に見られる死者を祀る方法などを考える上で貴重な視点を提供してくれる。

1.怨霊の誕生

 文献上「怨霊」という言葉が現れるのは平安時代の初めだが,それ以前歴史書が編纂される前から,非業の死を遂げた人々に対する慰霊は行われていたと思う。
例えば,縄文時代にいくさで亡くなった人の埋葬のあり方を観察してみると,普通に亡くなった場合とは違って,死者の霊魂が現世に現れてきて今に生きる人々に影響を及ぼすのではないかとの恐れを抱きつつ鎮魂の儀式を行っていたと想像される。このようなことは日本だけではなく世界の諸民族においても同様の儀式が行われていたことだろう。
 「怨霊」的な現象が,歴史上具体的に確認できるのは,奈良時代になってからである。非業の死を遂げた人が,単に自身を陥れた人物個人に対して祟るだけではなく,天変地異を惹き起こす,疫病を起こすなど,社会全体に対しても影響を及ぼすと考えられた。そのために追いやった側が,非業の死を遂げた人の霊魂を鎮魂するための行為が,奈良時代に顕著に現れてきた。その代表的な例が,藤原氏によって非業の死を遂げた長屋王(684?-729年)である。
 それではなぜ奈良時代にそのような事象が顕著に現れてきたのか。そこには都市の発達という社会的変化が関係していると思う。それまでは天皇の代が替わると居所を移すことが行われていたが,藤原京や平城京などができるころになると恒常的な都が社会的な機能を果たすようになり,それに伴う問題も生まれてきた。
 その一つは貴族間の権力闘争である。都には天皇に仕える貴族が集住し高位高官を得ようと権謀術数をめぐらす。その結果,相手を追い落とすことができても心の中ではすべての自分の行為を正当化することはできず,自身の悔悟の念,周囲の人物の同情心などが,周辺人物の死や災異の発生と重なると,怨霊の存在を実感するようになった。
もう一つは,人が密集して住むようになると,衛生的な問題から疫病などの病気が発生しやすくなり死者が増えるという問題も出てきた。当時は糞尿などを溝に流していたが,それが詰まったりすると伝染病も発生する。その原因を求めたときに,当時の合理的な解釈として怨霊を認識していったのではないだろうか。都市化が進む前は分散して住んでいたので,そういうことはあまりなかった。
 そしてその二つの事象が関連付けられて考えられるようになる。すなわち,狭い都市空間において何か事件が発生したならば,たちどころに大衆に知られるようになり,ある人を追いやったことが疫病や天変地異などを惹き起こしたのではないかなど,さまざまな噂が飛び交うようになる。陥れられ残された側の人々にしても,自分たちの復権を図るために噂を流す人もいたに違いない。

2.古代における災異・怨霊への対処

(1)災異・怨霊への対処法の変遷
古代の人々は,疫病や天変地異があると神に祈ったり,お寺で災異が静まるように祈ってもらったりした。当時の人々とて,出来事の背景に何か原因があると考えないと対処もできないし,それが当時の「科学」だった。例えば,占いを行って原因を確かめ怨霊を鎮める対処法を考えたのである。それでも鎮まらない場合には,さらにその原因は何かと追求した。為政者の側(権力闘争の勝者)としては,自分が追いやったからこのようなことが起きたとは認めたくない。なぜならそうすると自分の非を認めることになるからである。怨霊の存在を認めることは,災異や病気・疫病が神仏への祈願や大赦などの儒教的徳治政策を行っても鎮まることがないときの最後の手段であった。
 その対処方法にも時代的な変遷が見られる。最初は呪術的な方法で怨霊を鎮めた。奈良時代は呪術的方法が一般的だった。国家的な鎮魂が行われる場合も,中国からもたらされた呪術的手法でなされた。
平安時代になると,最澄や空海などの高僧が霊魂に対して説いて聞かせるやり方に変化していく。「あなたが祟るのは,あなた自身にとってもよくないことだ。なぜなら,怨念が連鎖してさらなる怨念を生み出すからだ。それを止めればあなた自身の霊魂も落ち着いて安寧を得ることができる」と説く。そしてそれに関連した国家的な鎮魂儀式を行った。
平安時代は国家として怨霊をどう鎮めるかが大きな政治的課題になった。たとえてみれば,現代社会において内閣の閣議で今回の天変地異の原因は何かと議論し,それは誰々の怨霊のせいだと結論づけるようなものである。
このように,世の中のこと,生活上の出来事などあらゆるところに霊の存在を意識するのが古代・中世の特徴であった。

(2)日本的な霊魂観
 伝統的な日本の習俗観念では,亡くなった人の霊魂は山の上に上る,海の彼方に行くと信じられていたし,鎌倉時代になると墓に霊魂がとどまると信じられた。怨霊はそのようなところにとどまることのできない霊であり,空中を漂いながら時に人に憑依して何かをする,落ち着く場所のない霊である。
 怨霊は,殺された側の問題よりも,残された側がそれをどう意識するかによって生ずる現象である。当時の人々は,亡くなった人の霊魂が祟ると考えたわけだが,現代人からすれば,それは感じる側の問題であって,本当に怨霊が祟っているかということを離れて,あのときあのようにして死に追いやってしまったから怨霊になって出てきているのだろうと心の中で思う,その感じる側の問題である。
 それゆえ,自分たちの行った行為は絶対的に正しく,相手方に非があると考えていれば,怨霊が生じる余地はない。日本人は他の民族と違い,結果的な勝者,敗者について各々完全に正しい,間違いだとは考えない。「盗人にも三分の理」という言葉もあるように,負けた側にも負けた側の論理があると考える。今回は戦って負けたが,条件が変われば立場が逆転することもあり得るので,一方が絶対的に正しいとは考えない。
 一方,儒教に基づく考え方が根付いた中国や朝鮮(韓国)では,勝者は永遠に勝者であり,敗者は永遠に敗者(敵)という立場に変更はなく,自らが倫理的に正しいので勝者となって生き延びていると考える。
 それは日本人が歴史的に異民族を意識することがほとんどなかったことに由来するのかもしれない。もちろんアイヌなどの異民族は存在するが,実質的には異民族との戦いを経験してこなかった。一方,中国や朝鮮は異民族との戦いの歴史であった。敵を意識しなければ自分の存在が危ぶまれることに直結する。それゆえ敵=悪と考えて,敵から身を守ることを終始考えてきた。日本では蒙古襲来のときなど一部を除けばほとんど敵を意識することがなかった。そうした歴史的な背景も影響を及ぼしていたと思う。
 ところで,私は最近日中の兵法の比較研究をしているが,両者の兵法は全く違う。中国の兵法では『孫子』が有名だが,彼らは対外的な異民族との戦いを常に意識してきたので兵法が非常に発達した。日本にも『孫子』の兵法が入ってきたが,あまり重要視されず,さらに日本独自の兵法はほとんど発達しなかった。南北朝から室町時代のころに日本独自の兵法が生まれたが,その大半は呪術的なものだった。当時は大寺院が武力(僧兵)を持ちそこから兵法が生み出された。例えば,相手を祈祷で呪い殺そうとする一方,中国兵法のような戦略・戦術といったものは発達しなかった。その後,戦国時代になると中国的な兵法が取り入れられ,戦国武将は日本独自の兵法と中国の兵法を組み合わせて実戦で用いた。

(3)源頼朝による鎮魂
 鎌倉幕府を樹立した源頼朝は,京都の朝廷による旧弊から脱して武士中心の清新な政権を作り,武力に頼って怨霊など意に介さなかったようなイメージがあるかもしれないが,実際には霊魂の扱いには細心の注意を払い,宗教世界をとても重視した。
 頼朝は奥州平定後すぐに永福寺を建立するなど,怨霊の跳梁を事前に食い止めようとした。鎌倉の四周には,頼朝が入部する前から,東南に八雲神社(祇園天王社),東北に荏柄天神社,西南に坂ノ下御霊神社,西北に佐助稲荷が祀られており,神社の加護が期待された。さらに鶴岡八幡宮,勝長寿院,永福寺を幕府のあった大倉御所の周りに配置し,怨霊が入り込まないようにして神仏による幕府の守護を願った。これらの寺社は怨霊と関連した寺社であることから,頼朝は怨霊を防ぐことによって政権を維持しようとしたと考えられる。そして頼朝が亡くなると幕府を見下ろす北山に法華堂が造られ,頼朝の霊魂は北辰(北極星)と同一視されて大倉にある源氏将軍を見守ったのである。
 鶴岡八幡宮創建の目的には,鎌倉幕府に敵対した人々を中心に,保元・平治以来の合戦で敗れた人々の怨霊の鎮魂があったとされる。
 また永福寺は奥州藤原氏初代清衡創建の平泉中尊寺にある二階大堂と呼ばれる大長寿院を模して鎌倉に建立したものである。その目的は,奥州合戦によって亡くなった数万の人々の怨霊をなだめ,三有(欲界・色界・無色界)で生死を繰り返す迷いの世界にいる怨霊を救い霊魂を安じるところにあった。とくに自身の宿意によって殺められた源義経・藤原泰衡の怨霊をなだめ,幕府の安泰を希求しようとしたのである。
 平泉の寺塔が荒廃することは,奥州藤原氏の菩提を弔うことができず,霊魂を嘆かせて怨霊の発動を促すことにつながると思われたので,頼朝は堂舎の維持につとめた。それゆえ頼朝亡き後もその祟りが恐れられ,鎌倉の為政者にとっては奥州藤原氏の慰霊・供養は重要な課題だった。
 中尊寺金色堂の性格も泰衡の首が安置されたあと大きく変化した。当初は葬堂としての性格であったが,幕府にとっては不気味な存在となった。事実上,罪なくして滅ぼされた奥州藤原氏の鎮魂,すなわち怨霊の封じ込めが緊要であったために,年忌に修理をしたほか,金色堂の覆堂は金色の光を隠蔽して怨霊を封じ込め,恐ろしい視線をさえぎるという意味を持たせたとされる。
 その後戦国時代になると,神のことは次第に考慮されなくなり,現代人とほとんど同じ神観念をもつようになってくる。そのため容易に人が神に転化することができるようになった。豊臣秀吉が「神」とされたことにより,現世において秀でた偉業を成し遂げた人物が死後に神として崇められる道が開かれたのである。それが近代になると「軍神」につながり,英霊として数え切れない人々が神として靖国神社や護国神社に祀られることになっていくのである。

3.怨親平等の思想

 次に怨霊の鎮魂と密接に関連する「怨親平等の思想」についてみてみたい。
 もともと仏教においては怨親平等の思想が重視されてきた。『仏教語大辞典』(中村元著)によれば,怨親平等は「敵も味方もともに平等であるという立場から,敵味方の幽魂を弔うこと。仏教は大慈悲を本とするから,我を害する怨敵も憎むべきではなく,我を愛する親しい者にも執着してはならず,平等にこれらを愛隣する心をもつべきことをいう。日本では戦闘による敵味方一切の人畜の犠牲者を供養する碑を建てるなど,敵味方一視同仁の意味で使用される」と説明されている。『倶舎論』にも「諸の有情の類は平等平等にして親怨あることなし」とある。
 怨親平等に基づく塔の造立は古くから行われたが,その一例として,頼朝は全国に八万四千基の宝塔を造立し,保元の乱以来諸国で亡くなった人々の霊の鎮魂をした。「源親長敬白文」(但馬進美寺文書『鎌倉遺文』)によると頼朝の意図は次のようであったという。
――天に代わり王敵(平氏)を討ち,逆臣を平らげたが,これにより亡くなった人々は多数にのぼり,遺恨を抱いて亡くなった人もいる。怨をもって怨に報いたならば,怨はずっと断つことができない。徳をもって怨に報いたならば,怨を転じて「親」となすことができる。よって,八万四千塔を作り,宝篋印陀羅尼経を書写してその中に込め,諸国霊験の地において供養をし,討伐した人々を救おうとした。
 八万四千塔供養は,怨霊を調伏するためではなく,死者の追善・追福のためであって,怨霊を恐れて鎮撫するのとは意味が異なっている。怨霊認識は日本独特の思想であるが,怨親平等思想は仏教思想であり,それも禅宗に顕著に見られる。
 鎌倉時代における怨親平等の思想は,蒙古襲来に関連して発露している。鎌倉の円覚寺は無学祖元を開山,執権北条時宗を開基として創建されたが(1282年),その意趣は,国家鎮護のためと二度にわたる元寇に際して亡くなった敵味方数万の魂の救済を行い,戦没者の菩提を弔うことにあった。時宗は一千体の地蔵を作り円覚寺に納めたが,供養のときの祖元の法語には,「我が軍と敵軍において亡くなった人々の冤親悉平等のため」と述べられている。
 宮城県仙台市にある善応寺境内の「蒙古の碑」は,もともと祖元が碑文を作成し弟子の清俊が建立したものとされ,碑文には戦死した蒙古軍の亡魂を弔う旨が記されている。この碑も怨霊鎮魂のためではなく,死者の菩提を弔うためのものだった。そのほか全国に怨親平等思想に基づく多くの碑や供養塔がある。
 近代社会になると,怨親平等思想は武士道と結びついた。日露戦争での勝利と日本軍戦没者慰霊のために旅順に白玉山表忠塔が建てられ,乃木希典らが参加して慰霊祭が行われた(1904年)。その前年,亡くなったロシア兵の霊の鎮魂のため,203高地の東側にある小案子東麓にロシア正教風チャペルと顕彰碑をつくって慰霊祭が行われたが,このときも乃木希典は日本代表として参列している。つまり,亡くなった敵軍の霊魂の鎮魂を自軍のものよりも先に行っているのである。
 また「南京大虐殺」の責任を問われ,戦犯として処刑された松井石根は,日中両軍戦没者の供養のため,1940年自邸のあった熱海に興亜観音を建て,観音力によって東亜の平和と繁栄を築こうとした。戦争が終われば敵も味方もなく,等しく戦没者として鎮魂しようとする怨親平等の思想に基づく行為であった。熱海の興亜観音は中国と日本の土を混ぜて焼かれた観音で,その後三重県尾鷲市の金剛寺などにも建立された。
 近代以降,怨霊という考え方が次第に薄くなっていく一方,戦乱などで亡くなった人々の供養のあり方として,怨親平等の思想は現在に至るまで日本人の基層を構成している。敵は死んでも敵であり,怨み続けるべきだという儒教的な思考とは異なるものである。

4.現代社会と鎮魂

(1)歴史に学ぶ 人は怨みを持ち続けるとその人自身の精神・心身状態までもよくない状態に陥る。長く怨みを持ち続けると,怨みの思いに自分自身が支配されてしまい,心の平安が保てなくなる。その結果「怨みの連鎖」が起きて,自分の霊魂の「息つく」場所が失われてしまう。常に隣人を悪く思って怨みながら生きていると,その人自身が不健康になってしまうのである。それを乗り越えるためには「怨」を「親」に変えていかなければならない。それが仏教的な教え=怨親平等の思想である。
 隣国関係においても怨みを言う相手国に対して,同じやり方で「倍返し」するのはよくない。それでは悪のスパイラルに陥ってしまう。日本の文化的伝統には,やられたからやり返すということはなかった。最近の風潮として,大学評価もそうだが,「自分はこれだけやりました」というように見せることを煽る傾向がある。しかし日本の文化的伝統は,隠したり,秘したり,我慢したりするのが美徳だと思う。
 また最近の教科書やテレビ番組などを見ていると,「日本人はこんなに素晴らしい」というような賞賛一辺倒の内容が多いように感じる。これは一体どういうことなのか。歴史とは「過去の誤りを反省して,これから新たな歴史を拓いて行こう」と考えるための材料,すなわち「鑑(かがみ)」だと言われる。たとえ過去の人々がいくら素晴らしかったとしても,現在のわれわれも同じように素晴らしいわけではない。賞賛一辺倒というのはおかしい姿勢だと思う。常に反省して改善していくことが大事で,それが「歴史に学ぶ」ということである。
 過去の誤りを知ったからといって,日本人はこんなに悪かったと自虐的になるのもおかしいし,またそれを卑下する必要もない。過去は歴史的な要因が絡み合ってそのようになったわけで,それを後世の人間が善悪の観念だけで判断してはいけない。それは「歴史の後知恵」と呼ばれる行為であり,現代に生きる人々にとっては,これから生きる上で歴史をどのように自分の糧としていくのかが問われているのである。
 自分の素晴らしさだけを取り上げると,他の人々はだめだというように優越的な思考に陥りがちである。われわれが日本人として生まれたのは偶然であって,それを日本人はすばらしいと主張するのは偏狭と言えよう。むしろ自分自身が日本人として恥ずかしくない行動をとっていないか省みるべきである。

(2)和の文化
 世界の諸民族の習俗を見ても,日本の怨親平等思想のように敵をも祀ることはあまりないと思う。日本の宗教的伝統は神仏習合であったが,国家神道を中心とする明治政府の神仏分離政策によって,仏教的怨親平等的な慰霊方法ができなくなってしまった。
 この観点からすると近代以降の戦争で国に殉じた人だけを祀る靖国神社の鎮魂のあり方は,日本の歴史的・宗教的伝統から外れており異端的であると思う。また靖国神社は死者を祀るだけではなく,今生きている人に対しても「死んでまた靖国で会おう」「勇敢に戦ったならば神として奉られる」などと鼓舞しながら戦争に駆り立てる材料として利用してしまった歴史的側面がある。
 ただ,筑波藤麿第五代宮司(1905-78年)が発案して,嘉永6年以降の戦争や事変で国に殉じたとされながらも本殿では合祀の対象とはならなかった御霊と諸外国の戦没者の御霊の2座を祭神として靖国神社境内に「鎮霊社」をつくった(1965年)。これは本殿とその意趣をやや異にするものである。
 先の戦争では東京大空襲や原爆で亡くなった方も多いが,その人たちは靖国神社に祀られていない。その人たちの慰霊をどうするか。そのような人たちの慰霊も必要だろう。
現代日本では戦争の犠牲者というよりは,東日本大震災の犠牲者に見られるように大規模自然災害で亡くなった方々の慰霊も必要だろう。そのような人々を怨親平等の考え方に立って,慰霊するしくみがあるといいだろう。慰霊するに際しては神道だけというわけにはいかないから,仏教,キリスト教などさまざまな宗教者が一堂に会して慰霊することができるような拠点ができればよいのではないか。日本では,神仏分離以前はいろいろな宗教が混淆する伝統があった。日本の伝統は「和」の文化なのだから,さまざまな宗教・宗派が協調してやれないものかと思う。
 日本人は八百万の神々の信仰を持つとよく言われるように,動植物,自然など宇宙のあらゆるところにカミ・霊魂の存在を感じる民族である。それゆえそういう存在を殺めることを強く禁ずる。そして人間だけが尊く,他の存在は人間が統制できるとは考えない。動物も植物も含めた全存在の中の一つとしての人間存在という認識である。そういう考え抜きに自然・宇宙に対すると自然破壊は必然的に訪れる。
 古代・中世の人々は,山を崩す,木を切ることに対しても「祟りがある」と考えた。怨霊はただ「怖い」という意味のほかに,無理やりの自然破壊を禁じるという役割も歴史的に果たしてきた。怨霊やカミの存在のために,自然の体系が存続しえたのであった。開墾や開発を行うときにそのような観念がブレーキの役目を果たしたが,江戸時代になるとそうした観念も失せて開発が急速に進んでいった。もちろんその背景には,技術が発達して平和になり,人々を動員して開発することができるようになったということもある。さまざまな存在の背後にカミを見出していた中世以前の人々は,人間の力によって開発をすることに対する恐れがあったが,江戸時代になると神々と人とのつながりが薄れることによって,大規模な開発も可能になったのではないだろうか。これは,人間中心の近代的思考の結果とも言えよう。
 人間中心は,自分中心,自民族中心として現れる。大いなる自然の中で生かされている自分というように謙虚に捉える思考が大切なのではないだろうか。自分ひとりでは存在できない。隣人や社会があってこそ自己が存在することができるということを認識することで,感謝の思いを持つことができよう。昔は悪いことをすると,お天道様,先祖が見ていると考えて自制心が働いた。そういうことを考えなくなると何でもするようになる。近代文明の弊害が露呈する現代において,いろいろなところに霊の存在を見出して協調性を保っていた日本人の伝統的考え方を再考することは,平和で調和の取れた社会を目指す上で大切なことではないかと思う。
(2014年4月25日)

■プロフィール  やまだ・ゆうじ
1967年静岡県生まれ。91年京都大学文学部史学科卒。98年筑波大学大学院博士課程修了(歴史・人類学研究科史学専攻)。現在,三重大学人文学部教授。博士(学術)。専攻は,日本古代・中世信仰史。主な著書に,『崇徳院怨霊の研究』『跋扈する怨霊―祟りと鎮魂の日本史』他多数。