朝鮮通信使の現代的意義―和解と多文化共生の道

京都造形芸術大学客員教授 仲尾 宏

<梗概>

 江戸時代は200年以上にわたって,日本と朝鮮王朝がお互いに対等で信義を交し合う関係として平和な時代を維持したが,その基には「朝鮮通信使」の往来があった。もちろんその長い期間には揺れもあったが,徳川家康に始まる幕府の政治的決断が一貫したことも大きな要素であった。古代以来,朝鮮に対する蔑視観が存在したが,江戸時代も例外ではなかった。その中で,異文化を尊重しその民族の持つ歴史や風義を全うに理解してこそお互いが共生できると考えた人物が雨森芳洲であった。その思想を照射しながら,朝鮮通信使の現代的意味合いを探ってみたい。

1.江戸時代「朝鮮通信使」前史

(1)通信使の原点
 江戸時代の朝鮮通信使は近年一般にも知られるようになってきたが,実は室町時代においても「通信使」があった。これは朝鮮王朝の第4代世宗(在位1418-50年)が名づけたもので,その治世期間に3回日本に派遣した。朝鮮は1420年代以降,倭寇禁圧のために日本との宥和政策を基本としてきた。通信使の性格は儀礼的な面もあったが,その主たる目的は倭寇問題の処理を進めながら日本との友好関係の構築を進めることだった。一方,足利政権時代には60余回の「日本国王使」が漢城(現ソウル)に派遣され,日本と朝鮮とは文字通りの交隣関係であった。
 ところがその後,豊臣秀吉の2度にわたる朝鮮出兵(侵略)によって,それまでの伝統的日朝関係が断ち切られてしまった。この戦争が悲惨を極めたのは,非戦闘員の多くの民衆を巻き込んだことである。戦争中は,各地で民衆の義兵が戦闘に加わったために,日本軍によって略奪・放火,民衆の略取と拉致連行,鼻切りなどの残虐な行為が行われた。
 朝鮮としては,日本が先に謝罪もしていない段階で公式使節を派遣するわけにはいかず,国交回復は日本側の態度次第だった。そこで朝鮮朝廷が対馬に探賊使として松雲大師等を派遣したことから,対馬藩の仲介によって松雲大師は伏見城で徳川家康と会見することとなり,そこで講和の言質を取るとともに,家康に再侵略の意図がないことを確認した。松雲大師の日本派遣を契機として日朝関係は一つの壁を越えたのである。つまり,日本側(徳川政権)に秀吉の朝鮮出兵に対する反省がなければ朝鮮側は日本との国交回復に踏み切ることはできなかった。しかし家康が「再侵」の意思なし,と表明したこと,これが江戸時代の朝鮮通信使の原点である。

(2)徳川家康の強い意思
 このとき朝鮮と徳川幕府との間で重要な架け橋の役割を果たしたのが対馬藩だった。日朝交易で経済を支えていた対馬藩は朝鮮出兵によって経済的苦境にあったために,従来の日朝関係を早く回復して通交・交易を再開させたいという強い意思があった。そのためには国書の改竄というトリックもいとわなかった。たとえそうだとしても,中国との勘合貿易を再開したいという意思をもっていた家康としても,朝鮮との関係を放置しておくわけにもいかない。なぜなら朝鮮出兵に際しては中国が朝鮮を支援していたから,朝鮮出兵の後始末をせずに中国との勘合貿易の再開はありえないからである。ゆえに徳川幕府,家康にとっては朝鮮問題の戦後処理は避けて通れない課題であった。
 同時に,家康は対外政策について積極的な政策を打ち出した。堺商人を通じてマニラとの貿易をはじめ,薩摩商人を遣使として明に派遣し勘合貿易の再開を求める書簡を送った。朱印船の渡航とその保護を安南に求め,慶長年間には日本を出航した朱印船は167隻に及んだ。また英国人ウィリアム・アダムズを側近にしたほか,オランダ,イギリスの平戸商館貿易を認めた。伊達政宗の遣欧使節派遣を認めたのもこの流れに沿ってのことだった。そうした家康の海外展開戦略の中で,朝鮮との関係も平和を回復し,安定させたいということが大きな意思として働いたのであろう。
 但し家康も晩年になると,キリスト教に対する警戒心が生まれ,家康没後の家忠,家光の時代になるとグローバルな関係よりもできるだけキリスト教の影響を受けないようにするために海外貿易の縮小を図った。しかし朝鮮との関係はキリスト教の問題はないので国交を回復し,朝鮮と対馬藩の交易を黙認するという形で平和的な日朝関係が確立していく。
 戦後処理問題について言えば,朝鮮出兵の過程で日本に連行された3~5万人ともいわれる被虜人(民間人の被連行者。「俘虜」ともいう)の送還問題があった。朝鮮朝廷の意思を代表して来日した松雲大師は被虜人の送還を強く要望し,徳川政権もその事実はよく認識して誠意を尽くすことを約束した。事実,松雲大師が帰国する際には,1390人前後の被虜人が故国の地を踏むことができた。そして家康は各大名に送還に努めるよう指示を出した。
 日本に連行された被虜人では陶工が有名だが,そのもともとの職種はさまざまだった。被虜人の主たる目的は日本での労働力だった。陶工がたくさん連れてこられたといわれている中で,別の職種の人が日本に連行され藩の陶工の仕事に就き陶工として養成された例もあった。当時の朝鮮王朝には朝廷の御用を受けた官営の窯業所が数箇所あって,そこで働いていた人も何人か連行されてきた。有田焼の生みの親といわれる李参平は官営窯業所で働いていたとされる。そのほか大名の側室になった女性や,家康の側近でも俘虜の女性を働かせていた。農民や商人になった人もいたようだ。
 別の表現をすれば,このときの被虜人は400年前に登場した「在日」ということもできよう。彼らも日本に定住して10年,20年と経過すれば,日本人と結婚して家庭を築き生活基盤もできるし,かえって朝鮮に戻っても何の生活の保証もない。そうなるといまさら帰れないから日本で暮らすしかないという朝鮮の人たちがたくさんいたのである。彼らは言ってみれば,「400年前の在日コリアン」である。
 そして20世紀の近代史においても,日本は同様のことをやってしまい,現代の在日問題を生み出してしまった。この反省につながる出来事として考える必要がある。

(3)徳川幕府の対外関係と対馬藩
 室町時代,朝鮮王朝前期において,対馬藩は朝鮮との交易を抜きにして経済は成り立たない構造だった。ゆえに対馬藩としては,朝鮮との安定的な関係維持は藩の必須条件だった。また徳川幕府にしても,対馬藩の協力なくしては朝鮮との外交関係をうまく進めることはできなかった。ゆえに国書偽造事件が発覚した後も,幕府は対馬藩宗氏の処罰や国換えといった処分をしなかった。対馬藩のもつ重要性や立場を幕府が認めたことを意味する。
 このような関係は,薩摩藩にしても同様だった。琉球王国について言えば,薩摩藩は琉球に出兵して支配下におさめたが,徳川幕府はそれを認めた。また北海道の松前藩はアイヌとの交易で成り立つ藩だった。アイヌとの交易は松前藩による単独交易に限定した。このように徳川幕府は,対馬藩,薩摩藩,松前藩を対外的窓口として重要視したのである。そうした体制下の幕藩体制であった。唯一の例外は長崎で,幕府直轄として長崎奉行を置いて中国・オランダとの貿易を進めた。
 今でも江戸時代は「鎖国」体制であったとの認識があるが,しかし「鎖国令」なる法令が出されたことはなく,19世紀になってオランダ商館付医員ケンペルがその著書の中で述べた言葉を長崎通詞の志築忠雄が「鎖国」と翻訳したことに由来する誤った見方である。実際にはキリスト教禁止のための内外人の厳重な出入国統制とオランダを除く西洋諸国の長崎入港が禁止され,入港を許された中国とオランダについては海外情報の提供が義務とされた。しかし江戸時代全般にわたって海外の物産や情報は,「四つの窓口」(荒野泰典)を通じて各地にもたらされていた。
 とりわけ通商と通交の二つの交流があった対馬の「朝鮮口」には,他の窓口には見られない,多様で多彩な儀礼の交歓や情報・文化の往来があった。それは単に日本と朝鮮という二国関係に留まることなく,中国大陸の文化を含めた東アジア世界の回廊の一部として存在していたのである。

2.朝鮮に対する蔑視観

 朝鮮出兵後の当時,誰の目から見ても日本=加害国,朝鮮=被害国という図式は明らかであった。徳川家康は,豊臣政権下で実質的に副総理格であったから,その戦争に対する責任の点で全面的に免責というわけには行かない立場であった。だから豊臣政権を滅ぼした後,家康は権力基盤を確立するために着々と手を打つ中,彼が朝鮮に対して取れる立場は極めて複雑で矛盾したものであった。国交回復を図るにおいても,前政権の暴悪を謝罪するという単純な図式はとれなかった。その中で現実的には,家康の意向に先立った対馬藩宗氏の動きに助けられたのである。
 家康は必ずしも一貫した朝鮮友好・和解論者ではなかった。ときには「武威」を振りかざし,時には前政権の犯した加害の「謝罪」を回避しつつ,妥協点を見出そうとしていたかにも見える。そして朝鮮側の原則的な対応によって揺れ動きつつ,最終的には国交回復を是とし,その最終的な外交過程を対馬藩の宗義智に委任したと思われる。先に述べたとおり,家康の政策構想のプロセスにおいて京都伏見城での松雲大師との会見は一つの重大な画期をなすものだった。
 ここで江戸時代の朝鮮に対する思想的な潮流を見ておこう。
 家康の時代から日本の知識人の間には朝鮮に対する蔑視観があった。例えば,林羅山。彼は家康の側近として外交問題にも深く関与していた。彼ははっきりとした朝鮮に対する蔑視観をもっていた。日本との外交再開のために松雲大師が来日して,1605年末に家康は松雲大師と会見し朝鮮との国交回復の意思があることを闡明した。その数カ月後,家康の黒印状には,「朝鮮入貢」という文言が記されていた。これはもともと林羅山が原文を作成してそこに家康が黒印したのだが,印を押したということは,その「意味」を家康が認めたことになる。そこから想像すれば,家康自身にも朝鮮蔑視観がなかったとはいえない。
 林羅山は,上野に私塾を設け,それは後に幕府公認の昌平坂学問所になるわけだから,そこから輩出した儒学者たちの中にそうした思潮があったことは否定できない。それではそのような蔑視観はどこからきたのか。それは『古事記』『日本書紀』まで遡る「記紀史観」にあったと思う。当時はまだ実証的史学は発達していなかったから,記紀に記された内容が事実に基づくものかどうかははっきり検証されてはおらず,そのまま受け売りされていた。例えば,「神功皇后の三韓征伐」も事実と考えられていた。
 ところで,(平安時代の)新羅は政経分離の政策だった。つまり,政治的には日本に対する「朝貢」(入貢)でも構わないとしていた時期もあった。それをもって「朝鮮は古来から日本の朝貢国であった」との認識が知識人の間にあった。こうした認識は林羅山だけではなく,山鹿素行,熊沢蕃山などももっていた。新井白石は考古学や言語学に精通して視野の広い人物だったが,彼すらも「神功皇后の三韓征伐」は否定しなかった。当時の思潮傾向として,記紀の事実をそのまま受け入れるという雰囲気が支配的であった。その後,江戸中期以後,さらにそれが発展したのが国学である。
 そのような思潮の中で,幕府およびその側近たちも記紀史観については知っていたであろうが,一旦国交を回復した朝鮮との関係は長く平和的に維持したいという強い意志があったからこそ,朝鮮通信使を中心とする隣国朝鮮との「よしみ」が長続きしたのだと思う。その徳川政権の政治的判断は正しかった。
 1636年,家光の時代に,対馬藩の行った偽計が暴露された(柳川一件)が,その後朝鮮側では名称を「回答兼刷還使」から「朝鮮通信使」に変更した。これは秀吉による戦争の後始末(戦後処理)が終わったという意味である。戦争で日本に連行された被虜人の多くは既に帰還しており,日本に土着化してしまった人々は帰るに帰れない現実に生きていた。
 その後,日本側が将軍の代替わりの時期に朝鮮王朝に招待状を(対馬藩を通じて)出し,朝鮮側がそれを認めれば通信使を派遣するという形が定式化された。その方式で,1811年まで9回継続された。この間,通信使を止めようという公然とした論議はほとんど出なかった。
 対朝鮮外交の刷新を唱えた新井白石(1657-1725年)の場合を見てみよう。新井白石は6代将軍徳川家宣(在職1709-12年)の圧倒的な信頼の下,幕閣の中枢部で内外政治の企画・立案,政策の実施に当った文人出身の政治家であった。白石は,家康の時代からほぼ1世紀が過ぎて,慣例にとらわれずに改めるべきは改めるとし,徳川政権の政治の正当性を内外に示そうとして,朝鮮通信使に関しても改革を進めた。白石は先見的に朝鮮蔑視の観念を持っていたわけではなかったが,白石が求めたのは「対等性」であった。そのために将軍の呼び名の変更を朝鮮側に求め,礼遇の改善,接待饗宴などの簡素化などを断行した。ただし簡素化については余り守られなかった。各藩としては,そんなことをして手抜きとなり何事かが起きた場合は大変だから,通信使には安全に過ごしてもらい平和裡に次のところに送り出したいという意思が働いたからだろう。
 結局は,白石のやり方に対しては譜代老中や林大学頭が猛烈に反対し,白石は「鬼」と後ろ指を指されるような立場になった。そして第6代家宣の死去と次の第7代家継(在職1713-16年)の夭逝によって政治の舞台から去ると,彼の改革は一度きりのこととなって,次の吉宗将軍の代には元のやり方に戻ってしまったのである。白石の改革の結果は,相手側の不信を招き,また自己の総括としても「朝鮮何するものぞ」という敵愾心のみを残すこととなったのである。

3.雨森芳洲の思想

(1)誠信外交
 朝鮮通信使の往来を軸とした前近代の外交から学ぼうとすれば,やはり雨森芳洲の行動原理や思想が光を放っている。雨森芳洲がとくに強調したことの一つに「誠信の交わり」がある。彼は「誠信の交わり」について「実意と申す事にて,互いに欺かず,争わず,真実を以て交わり候を,誠信とは申し候」と説明した。そうした誠信が欠けているからこそ往々にして小競り合いが起きると指摘した。新井白石の改革に対してもそのような観点で批判した。
 彼は対馬藩で実務的な面で朝鮮側との折衝に当っており,その過程では貿易などの場面で小競り合いなども経験していた。しかしそこで見た対馬の役人や商人たちの姿勢が「誠信でない」と言った。
 芳洲は冷静に見る目を持っており,対朝鮮交渉における政治的駆け引きや,通商上の矛盾から目を離すことはしなかった。彼は観念的な対抗意識から出発するのではなく,「朝鮮交接の儀ハ,第一,人情事勢を知り候事肝要にて候」から出発した。そうしたことから,白石に対しては尊敬と畏怖の混じった目で眺めた通信使の人々も,芳洲に対しては,時にはお互いの立場上,激しいやり取りがあってもどこか同じ人間としての相互理解ともいうべきものがあったように感じられる。
 「偽らず,争わず」というのは外交の基本である。もちろん外交では駆け引きや妥協があるわけだが,基本には無駄な争いを避けて真実の心をもって交わり,それが相手に伝わればうまくいくことになる。
 そうしたやり方に対して軟弱だと否定的に見る見解もある。
 戦前の外交史において,幣原喜重郎外相は,英米諸国との外交交渉における態度が宥和的で国内では「軟弱外交」と批判された。しかし「軟弱」「強硬」ということだけで評価することはよくないと思う。必要な妥協はすることもあるが,それが結果として双方の国民にとって利となる場合もある。領土問題ではてきめんに現れる。
 竹島/独島の領有権問題にしても,細かないきさつはいろいろあったとしても,永い間一種の「棚上げ」状態で来たことは事実であった。一方,実利的な漁業問題は協定を結んで日韓双方の現地の漁民たちがうまく利を確保するようにやってきた。ところが,あるとき島根県が突然「竹島の日」を制定したことで韓国に火をつけてしまい,その後エスカレートしていった。強硬に出始めると相互応酬となりいくところまで行かざるを得なくなる。それは外交としては下手なやり方だといえる。
 外交問題は,相手(国)との関係を調整することが主たる交渉ではあるが,実はその半分は国内向けの面がある。つまり,外交的事案について国内向けに国民を納得させる解決策を示すことでもある。そうした理解させる努力なしに進めると「戦争で決着せよ」などという声が大きくなることにもなる。そうした暴発を避けるために,国民を納得させる努力を政府は常にやっていかなければならない。
 その根底には,「戦争は絶対に起こしてはいけない。平和を守るために話し合いで解決する」という大原則を常日頃から国民に訴え理解してもらうようにしておく必要がある。それをしなかった結果が,先に述べた幣原喜重郎外相に対する「軟弱外交」批判であり,その結末が戦争への突入であった。そうならないようする義務が政府にあると思う。なぜなら外交権は政府の特権であり,情報操作もできる立場にあるからだ。その悪い結果が,排外主義主張や極端なナショナリズムの発露といえる。そうした全体をうまく調整して導いていく役割が政府にある。これは日本だけの問題ではなく,どの国も同様だ。

(2)多文化共生の道
 雨森芳洲に関してもう一つ,現代の多文化共生論にもつながる思想的意義がある。彼曰く「日本,朝鮮,それぞれ風俗が違う」。ここでいう「風俗」は「文化」の意味で,その文化の違いがあることを認識しないと貿易も外交もうまくいかないというのである。
 「日本と朝鮮とハ諸事風義違ひ,晴好もそれ夫に応じ違ひ候故,左様の所ニ,勘弁これ無く日本の風義を以て,朝鮮人へ交り候てハ事により食い違ひ候事多くこれ有り候」といい,とりわけ「了簡違い」を起こす人は「江戸向きの公儀合いを以て,朝鮮を取り捌き申す人」である。朝鮮人は中国の文物をよく理解し,またみだりに言葉に表しはしないが,それをもって朝鮮人を長袖の「ぬるき者」と見てはならない。
 その一例として,酒の例を挙げる。日本人には日本酒,朝鮮人には朝鮮酒,中国人には中国の酒,オランダ人には「アラキチンタ」が合うのであって,朝鮮人が外交辞令で日本酒のことを褒めそやしても,それを理由に日本酒に特別の優秀性があると誤解してはいけないという。
 このことは通信使の往来についてもいえることだ。例えば,通信使一行は,日光や京都大仏(方広寺)の立派さには感動しない。それよりも日本人が気付いていない道中の列樹の整備が優れていることに感心している。これは「朝鮮,日本,志尚の在ル所をしるべき事に候」というのである。
 このようにして多文化共生の価値を説いた。当時の日本において,このような多文化共生の思想的視点を持った学者は他に見当たらない。開明的な新井白石もそうだし,その他の儒学者にもなかった。芳洲が思想的に多文化共生を展開したのは特筆すべきことである。
 その背景には,彼が朝鮮との外交・貿易の実務に携わっており,その過程でさまざまな苦労を味わっていたことがある。交渉はいつもうまくいくとは限らない。時には釜山に渡って8カ月も現地に滞在しながら粘り強く交渉をしてまとめたこともあった。そうした経験の総括として多文化共生を展開したと思う。決して絵空事として,言葉だけで主張したのではなかった。実践における苦労の中から生まれた哲学的な思想だった。
 また彼は語学を重視した。朝鮮との交渉は,ある面で漢文の文章が読み書きできれば可能だった。しかし彼の考えでは,それだけではダメだとして,長崎で中国語を学んだ上,朝鮮語を学ぶために3度も朝鮮に渡っている。相手の言葉を理解しない限りは隔靴掻痒だ。
 私は以前,京都大学に留学生としてきていたケニアの人からスワヒリ語を学んだことがあった。スワヒリ語はケニアやタンザニアの公用語だが,この言葉を学んでみて,その地域の風土がよく分かるようになった。スワヒリ語の名詞には格があり,それに伴って形容詞や副詞の語形が変化するのだが,その格の中で最上格は何かと言えば,ライオンだった。言葉の上では,ライオンが最上格でその下に人間が位置づけられる。それを知るとその地域の風土(文化)がよく分かる。
 雨森芳洲は晩年藩主に申請して藩直営の朝鮮語通訳養成所「韓語司」を対馬藩につくり,文例集である『交隣須知』や対訳学習書『全一同人』などを刊行して後進を育てた。それを見ると,ハングル,漢字,日本語が併記されていて学びやすいものだ。当時の日本で朝鮮語を本格的に学習するところはほとんどなかった。それまでの対馬藩の役人や商人の朝鮮語能力はブロークン・コリアンのレベルで,ある程度意思が通じればいいというもので,体系的な語学能力を有する人材を養成することはしなかった。
一方,朝鮮は通訳の養成を体系的に進め,朝廷内に,日本語・中国語・モンゴル語・女真語の通訳養成所を設けて通訳官の養成をした。日本に来る通訳官はそうした過程を修めた人物で,日本語で和歌も詠うことができるほどだった。もちろん,幕府として必要な中国語やオランダ語の通詞養成のために長崎に学校を設けてはいたが,それ以外の外国語については一切なかった。

4.最後に

 日本における朝鮮通信使の研究は,実は研究者が少ないこともあって遅れている。一方,韓国では研究者が増えて研究が盛んになりつつある。それには,以前日本の大学・大学院に留学して日本語・漢文・古文を勉強し学位を取得した研究者が,いま韓国の学界でそれなりの地位に就いていることがある。その結果,朝鮮通信使の学会もでき,研究者の層が厚くなっている。
 ところが日本では,朝鮮に関する研究を戦前からやっていた大学はごくわずかで,国公立大学にはなかったから,伝統的に朝鮮に関する研究者が少なかった。もちろん近年は朝鮮(韓国)研究者も増えてきたが,それでも朝鮮(韓国)自体の研究者が多く,日朝(日韓)関係といった関係史を研究する人は非常に少ない。朝鮮通信使はまさに関係史に属するもので,一種の「隙間産業」ともいえるものだ。
 これまでは日本史なら日本史,朝鮮史なら朝鮮史といったように,一国史観がはびこっていた。一国史観では,周辺国との関係は何か事件や戦争などがあったときだけスポットを当てているに過ぎない。そこからはアジアとの関係はほとんど見えてこない。朝鮮通信使のような非常に大切で,面白い分野があるのに多くの人が気が付いていない。それでも最近は少しずつ関心をもってきたように思う。
 現在,日本では関係団体が韓国側と協力して,2016年に朝鮮通信使の記憶遺産登録をユネスコに共同申請しようと準備している。ここで日韓が共同で申請するところに意義があると考えている。日本では文化庁が,韓国では文化財庁がそれぞれ担当し,推薦書をそれぞれ添付してユネスコ委員会に共同申請するのである。現在,「朝鮮通信使ユネスコ記憶(記録)遺産日本学術委員会」が設置され,具体的に何を申請すべきか,その選定の作業を進めている。韓国でも同様の委員会を設けて作業を進めており,日韓で現在そのすり合わせを行っている。私は同委員会の委員長を任されているが,実際のすり合わせ作業となると,相手の理解を得るのになかなか難しい面がある。
 かつて2002年のワールドカップの日韓共同開催では日韓のいい関係が醸成された。その後,韓流ブームが生まれ,日本でも韓国語学習のブームが起きた。これを見ても分かるように,やろうと思えば関係をよくする雰囲気を作ることは可能である。いま日韓が争うこれといった理由は何も見あたらない。むしろ日韓両国とも逆の形で,互いの反韓・反日感情を煽るようなマスコミ・マスメディアの姿勢がむしろ「障害」になっている。朝鮮半島の南北統一に向けても,日韓関係がよくなることはプラスに作用すると思われる。
(2014年9月18日)

■プロフィール  なかお・ひろし
1936年京都府生まれ。60年同志社大学法学部卒。京都芸術短期大学教授,京都造形芸術大学教授等を経て,現在,京都造形芸術大学客員教授,(財)世界人権問題研究センター理事。また「朝鮮通信使ユネスコ記憶(記録)遺産日本学術委員会委員長を務める。専攻は前近代日朝関係史。主な著書に,『朝鮮通信使の軌跡』『朝鮮通信使と江戸幕府』『Q&A在日韓国・朝鮮人問題の基礎知識』『朝鮮通信使をよみなおす-「鎖国」史観を越えて』『京都の渡来文化』『朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交』他多数