現代中国成立前の秘史・「卡子」の悲劇―無辜の犠牲者に捧げる鎮魂の旅

東京福祉大学国際交流センター長 遠藤 誉

<梗概>

 G2とも称されるほどに発展した現代中国が成立したのは1949年10月1日だった。その数年前,国共内戦が再開する中で,東北地方(旧満洲国)の長春を中心に最後の決戦が繰り広げられていた。武器などで劣勢に立つ中国共産党軍は,長春に陣取った蒋介石率いる国民党軍を大きく取り囲み,食糧封鎖という持久作戦「久困長囲」に出た。その結果,30万人にも及ぶ無辜の人々が犠牲になった。しかしその事実を中国共産党は公式の歴史にとどめていない。その稀有な歴史の現場に生きた著者の思い,それは犠牲になった人々への鎮魂の思いである。それを晴らすためにもこの長春の食糧封鎖の出来事,<卡子=チャーズ>の事実を中国に認めてもらうべく,著者は生涯を賭けた「未完の革命」として執筆を通して戦い続けている(注:本稿は著者の話をもとに編集部がまとめた。文責編集部)。

1.中華人民共和国成立前の「秘史」<卡子>

 日本が戦争に敗れたあと,連合国の一員だった中国(中華民国)は,カイロ宣言に基づき日本から東北地方(旧満洲国)と台湾などを回復した。1930年代から断続的に国共内戦を繰り返してきた毛沢東と蒋介石は,戦後の一時期内戦回避・平和統一に合意したものの,46年に大陸にいた日本人の「百万人遣送」と呼ばれた大量引き上げが終わると,再び国共内戦(「革命戦争」)に突入。一時,重慶に拠点を置いていた蒋介石政権は,戦後南京を回復し台湾を編入しながら,華南地域を中心に勢力を確保した。また蒋介石は,日本から失地回復した旧満洲国が戦勝国としての象徴的な意味合いをもっていたことから,その首都長春(旧新京)に誰がいるかを国際社会に示して戦後の中国の領土主権を見せることが重要だと考え,長春に根拠地を,瀋陽には食糧補給庫をおいて一点死守を図ろうとした。
 一方,農村から都市を包囲する戦略で戦線の拡大を図った毛沢東は,華中から進んで東北地方の奪還を狙った。共産党軍(人民解放軍)が長春の食糧封鎖を中心とした包囲網作戦で持久戦を展開した結果,1948年10月長春の国民党軍は敗退を喫し,長春は「解放」されたのである。長春陥落により,革命戦争は一気に共産党軍に有利に進み,人民解放軍の南下に伴って中国全土が次々と「解放」され,ついに1949年10月1日,毛沢東は天安門において中華人民共和国の成立を高らかに宣言したのである。この意味で言えば,長春包囲網作戦は,新中国成立を迎えるための重要な「分水嶺」になった事件だった。
 この中国共産党による革命戦争の最中,(上述の)長春包囲網作戦(1947~48年)によって,30万人とも言われる長春の無辜の人々が餓死という犠牲になったのである。1988年,長春解放40周年を記念して長春に「解放記念碑」が建てられたが,その碑文に記されたのは,長春包囲網作戦で犠牲になった解放軍戦士に対する哀悼の言葉でしかなかった。それ以上の餓死に追い込まれた人々の命は,革命の犠牲者の中には数えられていない。そしてその事実を語ることさえ,「罪悪」なのである。
 2013年は毛沢東生誕120周年という記念すべき年だったが,同年12月から中国中央テレビで『毛沢東』というテレビドラマが放映された。その中で長春市を食糧封鎖して数十万人に及ぶ餓死者を出した事件をどう扱っているか確認してみると,その事実は一切描かれておらず,「長春を包囲した」という言葉が数秒流れただけだった。父の仕事の関係で長春市(当時は新京市)に生まれた遠藤(著者)は,そのころ長春市におり,その地獄絵のような歴史的な現場で死線をさまようような体験をした。共産党軍は,長春市を占拠する国民党軍を殲滅するために48年5月になると封鎖の輪を強めた結果,餓死者が続出。しかし餓死したのは一般庶民で国民党軍は一人もいなかった。
 そのような中を奇跡的に生き残った遠藤は,この事実を世の中に知らしめ,中国共産党に認知させることによって初めて,ここで犠牲になった人々の鎮魂がされると考えている。この事実を記録に残し,多くの人に知ってもらわない限り,彼らの魂は救われない。生き残った者として,犠牲になった人々の<鎮魂>を何としてもやり遂げたいという強烈な思いを抱きつつ,これまで命を賭して取り組んできた。
 犠牲になった人々の「心の解放」をなしてこそ,戦争の悲惨さが慰められていくのだと思う。遠藤を生み育んだ彼の国は,「実事求是」を国是とする。長春の事実は経験者の誰もが認める事実である。それを公にして人類の教訓とすることも,許さない国なのか。真実を認めてこそ,初めて道理が通るのであるから,遠藤は生涯をかけてこれを世に訴えてきた。そこで次節で,そのエッセンスを紹介したい(詳しくは,遠藤誉『建国の残火 卡子(チャーズ)』朝日新聞出版,2012年を参照のこと)。

2.<卡子>の悲劇

 遠藤の父は戦前,麻薬中毒患者を治療する薬を発明し,中国の多くのアヘン中毒患者を治療するために中国に渡っていた関係で,遠藤は1941年,満洲国の国都・新京市(現在の中国吉林省長春市)に生まれ,幼少期を中国で過ごした。そして45年8月15日,日本は戦争に敗れた。
 大陸にいた多くの日本人の家は暴徒に襲われたが,遠藤の家は(父が設立した製薬工場では,中国人従業員を第一に置き,次に朝鮮人,そして最後に日本人を位置づけて平等に扱ったことから)幸いにも却って中国人や朝鮮人が守ってくれて,被害に遭わずに済んだ。ただ,ソ連軍に追われた開拓団の人たちが避難民として長春に溢れ,彼らを面倒見たために家の中は混然としていた。
 終戦直前に参戦したソ連軍は満洲国にも侵入し,長春の遠藤の家の前に道を挟んでソ連の軍警察の拠点が設置されるなど,ソ連軍が支配を始めた。そのような中,長春には国民党軍も入ってきた。ところが46年にはソ連軍は長春から財物を奪って突然引き揚げていった。
 そのあと,突然,長春の街に中国共産党軍(八路軍,後の中国人民解放軍)が攻撃してきた。市街戦が展開する中,遠藤は銃声が少なくなったのを受けて,家の2階に上がり,夕陽を見ようと興安大路と反対側の裏庭側の窓を開けた瞬間,遠藤は右腕に弾を受け気絶してしまった。逃げ遅れた国民党の兵隊が遠藤の家の屋根伝いに逃げようとし,それを裏庭から狙った八路軍の流れ弾に当ってしまったのであった(46年4月16日)。
 気が付いたときには,長春市は八路軍に支配され,父の運営する工場は今度は共産党に接収された。接収された父の工場に軍の若い兵士(趙兄さん)が派遣され,負傷した遠藤に次のような話をしてくれた。
「私たちのあの赤旗の色は,革命のために闘った人民の血で染めたものだ。あなたは今度の革命のための闘いで血を流した。だから,あの色の中にはあなたの血も流れていると思うがいい。あなたは私たちの同志だ。小英雄だ。太陽は中国共産党であり,偉大な毛沢東同志だ。毛沢東が必ず高く輝いて,苦しむ人民を幸せにしてくれるのさ」と,毛沢東の革命理論を説いて聞かせたのである。
 当時遠藤は,毛沢東という人物も知らなかったが,八路軍の趙兄さんを慕い,まだ5歳ながらも彼の志に心惹かれたのだった。
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 遠藤が受傷してから1カ月くらいすると八路軍は突如として姿を消した。毛沢東の指示で瀋陽に移動したのだった。入れ替わりに進軍して来たのが,最新鋭の米式装備で固めた国民党軍だった。父の工場はまたもや国民党に接収された。高圧的な軍隊だったが,それでも治安が少し回復して,46年夏になると日本人の大量帰国である「百万人遣送」が始まった。しかし父は政府に必要な技術者として「留用」され,帰国を許されなかった。翌47年夏にも日本人の遣送が行われたが,このときも父は帰国を許されなかった。そのころの長春には日本人はわずかしかおらず,ほとんどが中国人だった。
 二度目の日本人引き上げが終わった10月ごろ,突然,八路軍によって長春の街は丸ごと包囲されてしまい,電気が消え,ガスが止まり,水道も出ないという困窮に陥った。食糧封鎖が始まったのだった。食糧を近郊に頼り,都市化していた長春市の人々はたちまち飢えにさらされてしまった。
 最初のうちは物々交換により食糧を手に入れることもできたが,やがてそれも底を付き餓死者が増え始めた。長春の冬は零下38度を記録するほどで,10月ともなるといきなり零下まで突入する。
 遠藤の家族はできるだけ体力を消耗しないように,昼間も横になって飢えをしのいだ。やがて腹違いの兄の子供が死に,次に兄が餓死。遠藤の右腕の傷は化膿して腫れ上がり,両腕の関節が次から次へと化膿しては潰れていった。ソ連軍から逃れてきていた開拓団の人の結核菌が,その人の包帯交換などの手伝いをしていた遠藤の傷に感染して菌が全身に回っていたのである。
 このとき中国共産党軍(東北人民解放軍)は,一時期長春の北西にある飛行場を占領し,国民党軍への物資空輸の道を断ったものの,解放軍側にも少なからず犠牲者が出たことから,48年5月には落城させるはずだった計画を変更し,「久困長囲」(長期にわたる包囲)という,より厳格な長期食糧封鎖を解放軍側は決定したのであった。苦しむ人民のために闘っているはずの中国共産党軍が,なぜ一般庶民を餓死させるようなことをしたのか!
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 その原因はスターリンにあった。スターリンは毛沢東を「田舎バター」と呼んで軽蔑し,武器援助をしなかったからだ。武器を持っていない毛沢東は,都市を包囲することによって「点」を死守している国民党を孤立させ,消耗させる作戦(「農村を以って都市を包囲せよ」)に出たのである。
 一方,国民党の蒋介石は米英とともに連合国側に入れられてカイロ会談に出席。会談では戦後の対日政策などが話し合われカイロ宣言として公開された(1943年)。そこには「1914年第一次世界大戦開始以降に日本が収奪しまたは占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること,並びに満洲,台湾および澎湖島のごとき日本国が清国人より盗取したすべての地域を中華民国に返還すること」という文言があり,これがポツダム宣言の日本の領土に関する骨子となった。
 蒋介石は,ここにすべての根拠を求め,国際社会に領土主権を見せるためにわざわざ満洲国の国都であった「新京」(長春)に根拠地を置き,一点死守を図ったのである。もし満洲国がなく,その首府を新京においていなかったならば,長春の食糧封鎖は存在しなかっただろう。
 遠藤たちを含む中国の人々は,日本の中国侵略とスターリンの我欲,そして蒋介石の権勢欲という国際情勢の狭間で上,肉親に餓死者を出し,そしてこの世ならざる状況の中で生きなければならないように追い込まれたのだった。
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 家の2階から見下ろす興安大路は死の街と化していた。餓死体が街路樹の根元に放置され,その周囲で2,3歳の幼児が泣き叫んでいた。幼児の周りをうろつく犬。犬は野生化して餓死体だけではなく,親に先立たれた幼児をも食べるようになっていた。旧城内という中国人だけの居住区では,「人肉市場」が立ったという噂が流れた。
 以前父に別れの挨拶をしてくれた八路軍の林楓は,父に「私たちは必ず帰ってきます。その日まで待っていてください」と約束して長春を後にしたので,その言葉を信じて父は待った。しかし,これ以上絶望都市・長春に留まれば一家全滅するのは明白だ。
 しゃれこうべになった父は,気迫で立ち上がり留用を解除して長春脱出を認めてくれるように,長春市長に会いに行った。市長は,父の変わり果てた姿に接して驚き,直に留用解除の証明書を出してくれ,携帯食品も与えてくれた。
 実は,共産党軍に封鎖された中にいた国民党は,瀋陽から飛んでくる飛行機が無人落下傘で落とす食糧により飢えることはなかった。その落下物に接近した市民は銃殺された。ただし飛行機も低空飛行をすれば,八路軍に打ち落とされるために,上空から落とすようになり次第に飛来回数も少なくなっていった。だから国民党政府としては,少しでも多くの市民に長春から出て行ってほしかった。毛沢東の予想通り,国民党軍は市民を一人でも多く長春から追い出す方針を採っていた。
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 長春を包囲する包囲網を「卡子(チャーズ)」と称するが,その卡子には「卡口」と呼ばれる出入り口があり,そこからなら脱出してよいということになっていた。9月20日,遠藤たちはいよいよ長春脱出を決行することになった。その前夜,末の弟が餓死。
 卡口には国民党の兵隊が立ち,一人ひとりの身分を確認しながら「ひとたびこの門をくぐったならば,二度と再び長春市内に戻ることは許さない」と言い渡された。餓死体が街路に転がり,人肉市場まで立ったというところに戻るはずがない。この門をくぐりさえすれば,「解放区」がある。そこに行けば八路軍によって解放され,苦しむ者のために闘ってくれる,あの趙兄さんがいる区域なのだ。
 しかし,この門は「出口」ではなかった。本格的な地獄を見る「入り口」だったのである。
 鉄条網は二重に施されていた。内側が長春市内に直接接し国民党が見張っている包囲網だ。外側の包囲網は解放区に接し,八路軍が見張っている。その中間に国共両軍の真空地帯があり,こここそが,まさに「卡子」(挟まれたゾーン)だったのである(「卡子」には,軍の「関所・検問所」の意味と,「挟むもの」という二つの意味がある)。
 足の踏み場もないほどに地面に横たわる餓死体。外側の包囲網である鉄条網が見えたあたりから,八路軍の姿が多くなり,導かれるままに腰を下ろす。死体の少なそうな地面に持ってきた布団を敷いて野宿となった。翌朝,目を覚まして驚いた。布団の下がいやにごろごろすると思ったら,布団の下から餓死体の足が出ていた。遠藤たちは,この真空地帯に閉じ込められたことになる。赤旗の下で闘っている八路軍は,苦しむ人民の味方ではなかったのか。
 夜になると,前の晩には聞こえなかった地鳴りのようなうめき声が暗闇を震わせた。父が立ち上がった。父にしがみついて何とか恐怖に耐えていた遠藤は,そのまましがみついて父の後を追った。そこには死体の山があった。うめき声はそこから出ていた。
 「死に切れぬ御霊の声じゃ・・・」
 父は地面にひれ伏して,御霊を弔う神道の祈りの詞を唱え始めた。するとどうだろう。死んだはずの死体の手が動いた。その瞬間,遠藤の精神をぎりぎりまで支えていた糸がぷっつり切れてしまった。うめき声は消えたが,遠藤は正常な精神状態を失っていた。記憶を喪失してしまったのである。
 4日目の朝(48年9月24日),父に卡子出門の許可が出た。アヘン中毒患者を治癒する薬の特許証をもっていたからだ。解放区は新中国建設のために技術者を必要としていた。しかし,いざ門を出ようとすると,敗戦後父を頼って遠藤の家に居候していた元満洲国政府の技術者の遺族が出門を禁止された。技術者の遺族は技術者ではないという理由からだった。
 このとき弟はすでに脳症を起こして人事不省。遠藤は全身結核菌に侵されて化膿した複数の傷口から膿が噴出し,しかも恐怖の余り記憶を喪失している。このままあと数日,卡子内に留まれば死は確実だったろう。このまま遺族と共に卡子に留まろうという父を母が捨て身で説得し,遠藤の家族は卡子を後にしたのだった。
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 48年5月23日,「久困長囲」作戦を提案した林彪は次のように主張した。
 「長春を死城たらしめよ。長春を守る国民党の鄭洞国は投降を拒否している。城内の50余万人の食糧は月末に底をつくだろう。そうすれば鄭将軍は庶民を長春から追い出さざるを得なくなる」と。
 それに対して毛沢東は次のように回答した。
 「(長春)城内の庶民の出城を厳格に禁止せよ。銃か軍用品を持っている者だけを包囲網から放出してよい。これは国民党軍が投降するのを促すためだ」。
 これを知っていた者は,銃を購入して解放軍に見せ,容易に門を出て行ったという。しかし銃を購入できたのは金持ち,あるいは権力者側だけだったから,この段階ですでに彼らだけが優遇されていたことになる。
 これが苦しむ民のために闘っているはずの,共産党の姿勢であっていいものか。無辜の民は,革命の道具でしかなかったのか。
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 卡子の門を出るとすぐに,野菜の入ったお粥がふるまわれた。「解放区で飢え死にする者は一人もいないようにしろ」というのが,毛沢東の指示であった。それは毛沢東の「誰が民を食わせるかを民に知らせるのだ。そうすれば民は自分たちを食わせてくれる側につく」という大戦略に基づくものだった。
 実は,この論理は現在の中国でもなお変わっていない。誰が中国を経済成長させ,誰が13億の民に飯を食べさせているのか。それは中国共産党だという論理は,この卡子から変わっていない。
 卡子を出たあと遠藤の家族は,難民行をしながら何とか吉林を経て延吉にたどり着いた。その時の遠藤は,廃人のようであった。そして朝鮮戦争が始まると天津に移動。天津でのつらい生活を経験して,53年9月,漸く日本に帰国することができたのである。

3.未完の革命

(1)アンビバレントな思い
 人間誰しも生まれ育ったところに「郷愁」あるいは「愛着」をもつものだ。その意味で遠藤には,自分が生まれ育った大地=中国に愛着の思いがあった。それは消し去ることはできない。それは普遍的な心性だ。
 もう一つは,あの日中戦争・太平洋戦争という大変な時代の中で,精神的,肉身的にも戦い抜き,生き残ってきたという事実。そのような戦いに対する自分自身のいとおしさ。(死線をさまよう地獄絵のような世界を)よくも生き抜いてきたという自分への愛着でもある。
 それから「もしかしたら中国共産党,毛沢東が言っていた通り,来るべき未来は(中国共産党によって)明るい世界として拓かれるかもしれない」という,わずかな期待を持っていた。当時(小学校の10歳前後のころ)遠藤は,級友の中国人からいじめを受けていたが,そうした環境におかれながらも,もしかしたら毛沢東が示していたように中国共産党が統治する国には,理想的未来があるかもしれないと漠然と思っていた。(共産主義)思想教育をしっかり受けて,中国共産党の未来に何かしらの可能性があるかもしれないとほのかな期待を抱いたのだった。
 事実,中国共産党はあの「革命戦争」において,「自由で民主的で明るい未来を築くために革命戦争を闘っている。苦しむ人民を救うために闘うのだ」と人民に約束した。その歴史の現場にいた遠藤自身も,体に共産党軍の流れ弾を受けて身障者になりながらも「革命のためだ。苦しむ人民を救うための犠牲だ」と自分に言い聞かせて生きてきた。
 しかし,それから60年以上の歳月を経て現在の中国を見ると,あのとき彼らが言っていた「自由と民主」,それとは全く逆の方向に行くばかりだ。確かに現在は,改革開放政策によって経済が発展し強い国になったかもしれないが,共産党幹部は利益集団化し,言論弾圧などによって自由を完全に封印している。そこには「人民が主人公」(為人民服務)と憲法に謳っている人民中国の姿はもうない。おまけに遠藤が経験した<卡子>という事実さえも認めようとしない。それは外国による侵略ではなく,中国人が自国民を何十万人も殺したという事実だ。
 遠藤はたまたまその場に日本人として居合わせただけだった。自国の民を何十万人も残酷な形で殺してしまったという事実に対する反省もなければ,その事実さえも認めようとしない。しかもそれを主張する人間を逮捕する。
 1989年,人民解放軍文芸部の張正隆は『雪白血紅』というタイトルで<卡子>の史実をありのままに書いた。発売と同時に多くの中国人に衝撃を与えたが,江沢民は直ちにこの本を発禁とした。その中には,1948年10月に長春を解放した八路軍(人民解放軍)が市内の死体の山を見て「われわれは貧しい人々のために闘ってきたのではなかったか。この餓死体の中に何人の金持ちがいるというのだろう。国民党の兵隊もいないだろう? すべて貧しい庶民たちの死体ではないのか?」と苦悶し,直視できなかった者もいるという記録がある。
 こんな中国を誕生させるために(自分たちは)あれほどの犠牲を払ってきたのか。これを許すことはできない。遠藤は中国と日本の間で苦しみながら生きてきた。これが遠藤の心にある,自分を生み育んだ国への愛と怨念という「アンビバレント」な葛藤の気持ちである。それゆえに遠藤は<卡子>の事実を記録として残し中国政府に認知してもらいたいのである。

(2)鎮魂のための生涯
 生き残ったからにはその事実を記録していく。記録していくことによって初めて犠牲になった人々の鎮魂をすることができる。
 中国は日本に対してよく「歴史を直視せよ」というが,自分の歴史についても直視しなければならないと思う。中国が「事実を事実として認めないことは,人間としてあってはならないことだ。歴史は忘れてはならない」と声高に叫ぶのならば,なぜ自分の国で起こした事実,自国民への虐殺という厳然たる事実を認めないのか。それを忘れ去っていいものなのか。
 中国共産党は,自分の汚点を封印し,歴史から削除し,なかったことにしてしまう。それは中国共産党の絶対的権威を保つためである。革命戦争時に人民に約束した宣言を放棄してしまっていないか。大躍進にしても,文化大革命にしても,中国人にどれほど多くの悲惨なできごとがふりかかったのか。何千万という人々が犠牲になった。自分たちが犯した罪,「不都合な真実」は絶対認めない。「真実を直視できない人間は許せない」という叫びが,遠藤の心の奥底から湧き上がってくる。多くの人民を虐殺したことをなぜ無視していいのか。
 中国は改革開放政策以来,「特色ある社会主義国家」の建設を目指してきたが,そこに潜む根本的矛盾を解決しないまま今日まできた。今や矛盾が臨界点に達しつつある。その矛盾が露呈した事件が,薄煕来事件だった。そのことをよく知っている習近平は,(反腐敗運動などの)毛沢東の言葉を利用しながら大衆運動を利用して民衆の心を引き付けようとしているように見える。そうした矛盾を経済発展によって糊塗しようとしても,一党支配をやめない限り,初期の共産党が叫んだ「自由と民主」は絶対に来ない。
 その意味でも,長春での食糧封鎖の<卡子>の悲劇を,中国共産党をはじめとして世の中に訴え続けて行きたい。これまで中国語版の出版はできなかったが,今年6月ようやく台湾で『卡子―没有出口的大地』(楽果文化社,繁体版)として出版することができた。来年(2015年)には英語版の出版も準備している。
(2014年7月15日)

■プロフィール  えんどう・ほまれ
1941年中国吉林省長春生まれ。53年帰国。中国社会科学院社会学研究所客員研究員,上海交通大学客員教授,筑波大学教授などを歴任し,現在,筑波大学名誉教授,東京福祉大学国際交流センター長。理学博士。84年に『卡子(チャーズ)―出口なき大地』を発表し,執筆活動を開始。主な著書に,『チャイナナイン-中国を動かす9人の男たち』『卡子―中国建国の残火』『ネット大国中国―言論をめぐる攻防』『中国人が選んだワースト中国人番付』他多数。