イスラーム世界をどう理解するか―アラブの春・イスラーム国を読み解く視点

敬愛大学教授 水口 章

<梗概>

 2015年に入り,フランスにおけるテロや過激派組織「イスラーム国」(IS)による邦人人質事件など,従来に増して日本人にとってもイスラーム世界が身近な問題となった。しかし文化・宗教・社会など生活実感としては日本人にとってなじみの薄い世界である。イスラーム世界で起きているイスラーム復興運動をどう理解すべきか,その視点が重要である。IS問題に先立つ「アラブの春」と呼ばれる政変の動きも含めて,イスラーム世界を理解する一つの視座として,社会空間論的なアプローチから読み解いてみたい。

1.イスラーム復興運動の原点

 社会空間には,死生観や家族観など価値観にかかわる「文化的意味体系」と政治・経済などの「生活維持体系」とがある。一般に人は,子どものころ家庭の中で「文化的意味体系」を植え付けられ,成長と共に「社会化」の過程で「生活維持体系」を学びながら実際に生きていく。それらは近代以降において多くは国民国家の枠内で営まれてきた。
 そもそも国民国家という枠組みは,人々にとって本当に幸せなものだったのか。最近話題になっている過激派組織「イスラーム国」(IS)が,現在の国境である国民国家の枠組みを超えて行動しているのは,国民国家という枠組みに対する異議申し立てかもしれない。またイスラーム共同体を意識する人々のアイデンティティは国民,国益にとらわれがちな日本人とは違うということもあるだろう。
 とくに成長過程で強固な「文化的意味体系」が形成されるのが,イスラームである。それが強靭だからこそ制度的になかなか崩れないのである。それではどのようにして強靭な制度となるのか。イスラームはご利益を願うような宗教ではない。聖典のクルアーン(コーラン)とムハンマドの言行録(ハディース)を法源とするイスラーム法(シャリア)に基づいて人々の生活規範が体系立てられている。人の行動はまず,習慣,社会的ルール,法規などによって規定され,それがさらに発展して制度化されると社会構造として定着する。生活規範が完全に制度化されると人々の行動を規制・制約するようになる。もしそれを守らないと「良い人ではない」となる。逆に良い人とは,イスラームでは神の教えに忠実である人,つまり敬虔な人だ。このようにイスラーム世界は,文化的意味体系が強固な社会であり,そこで生きる敬虔な人々によって秩序が形成され,強固な社会が保持されるという連環が起きている。そこには,神のもとでの公平・公正が求められる社会がある。
 イスラーム世界を囲む国際社会は,産業革命を通じた近代化によって社会と制度が大きく変化発展した。その過程において,文化的意味体系と生活維持体系との間にギャップ(葛藤)が生じた。イスラーム世界はその西洋近代との衝撃的な出会いを迎えた。この出会いの反応として,例えば,シリア出身のイスラーム法学者ラシード・リダー(1865-1935年)は,近代との葛藤の中で近代科学・技術の吸収とともに伝統的イスラームの改革を主張した。
 フランス革命で生まれた近代啓蒙思想はイスラームと同等の価値があるとの解釈で,西洋の法や制度が導入される。しかし,イスラームに生きる人々にとってそれはあくまでも観念の世界の話であって,イスラームの生活実態とは異なるものである。今日のイスラーム教徒にとって,近代の文化的意味体系と伝統的なイスラームの文化的意味体系の統合化を頭では理解できたとしても,現実社会の中で経験する婚姻や遺産相続,商売などイスラーム生活実態との間には乖離・ギャップがあり,その中で,苦しみながら生きてきたように思う。
 こうした近代思想との葛藤の結果,最終的にイスラーム改革思想は下火となり,それに代わってイスラームの価値観に基づく社会構造を目指そうというイスラーム復興運動に発展していった。その嚆矢が1979年のイラン革命だった。
 イラン革命は,簡単に言えばパフラヴィ王朝体制の崩壊だが,当時,第2代モハンマド・レザー・シャー国王(在位1941-79年)は,農業改革や教育改革などを通して近代化路線を進めようとした(「国王と人民の白色革命」)。しかし石油利権に絡んでその利益を一族などが独占し独裁体制強化へと傾斜する中,国民との間に大きな経済格差が生まれてしまった。さらに宗教者の利権にまで手を突っ込んでしまったことが,革命に繋がる直接的な契機となった。
 イランは近代化の過程で,政治は西洋化し,経済はグローバル化に飲み込まれる中で富の格差が顕著に現れてきた。近代教育を進めたことでイランの人々はその矛盾性を思想的にも自覚するようになり,さらにはイスラーム法学者も一緒に動くことによって(呉越同舟ではあったが)革命に繋がっていったといえる。
 この間他の中東諸国では,アラブ民族主義(ナセリズム)のように,民族主義やイスラームを前面に掲げながら自分たちの生活維持体系を組み立てようとの試みもあったが,うまくいかなかった。なかでも,社会主義を取り入れたイスラーム諸国は,制度としての国家は大きくなったけれども,実体としての国家は財政が豊かでないため,公共サービスの提供やインフラ整備が大きく立ち遅れた。
その福祉分野の不足部分を埋めたのはイスラーム系の組織である。エジプトのムスリム同胞団やパレスチナのハマスはその代表的な組織である。民衆の中にあるイスラーム組織は,貧しい人々の救済活動を行い,子どもたちには教育をしてきた。このような基盤が各地にあった。つまり,人々の身近な行政的なサービスを宗教組織が担っている社会である。その一方,国家は秘密警察などの治安機関を強化し,体制維持を優先させてきた。
イラン革命では,最後に残ったのは宗教勢力だった。イスラーム法学者が主張したことは,イスラームに基づく公平・公正の実現であり,抑圧からの解放だった。イラン革命で明らかになった「イスラーム」の意味はまさにそこにあったのである。

2.アラブの春

(1)アラブの春を生み出した背景
 このイスラーム復興運動であるイラン革命が「輸出」されることを恐れたスンニー派のイスラーム諸国とアメリカは,それをイラン一国に封じ込めようとした。しかし,その復興運動の潮流はイスラーム社会に着実に広がり,「アラブの春」へと結び付いていったかに見える。
2010年末にチュニジアを皮切りに始まった「アラブの春」は,2011年に入りエジプト,リビア,シリア,イエメンに飛び火した。政変の社会的背景には富の偏在という問題があった。この富の偏在が,ソーシャル・ネットワークの発達によって一般民衆にはっきり見えてしまったのである。
 例えば,チュニジアでは為政者の富がどれほどのものか,コネ社会で汚職がどれほどはびこっているかといったことが,インターネットを通じてあっという間に情報共有されてしまう。一方で,国の経済成長の恩恵にあずかれない大衆がいかに多いかも見えてくる。その中でひとりの青年の焼身自殺が,イラン革命の時のように公平・公正を求める市民運動を巻き起こし革命への導火線に火がついた。
 翻って1979年から2010年ごろまでの間,中東地域ではどのようなことが問題になっていたのか。各国とも近代化が進む中で,経済的自立が大きなテーマになっていた。一方でこの期間中東地域では,多くの戦争があった。例えば,イラン・イラク戦争(1980-88年),湾岸戦争(1990-91年),イラク戦争(2003年),イスラエルのレバノン侵攻(2006年)などの戦争が続けざまに起きて,常に紛争の雰囲気が漂っていた。そのため将来予測が難しく海外からの投資が入りにくかった。しかもイスラーム法が欧米型の商取引の進展を阻害する要因にもなった。さらに高度な技術を吸収するマンパワーも不足していた。
ちなみにこの時期,アジア諸国は多国籍企業の進出などによる多くの海外投資がなされてマーケットが拡大するとともに,技術の蓄積や投資法の整備などによって急速な経済発展を遂げることが出来た。つまりアジア地域の経済発展は,(単純化して言えば)労働力の提供だけで成し遂げることが出来たのである。
またイスラーム社会は基本的には多産社会であり,人口増加率が高く若者層が多い社会が形成された。一方,海外投資の環境整備が遅れたため雇用を創出できず,仕事に就けない若者が社会に溢れるようになった。この地域では人口ボーナスがうまく作用しなかった。産油国は国民経済を石油資源のみに頼る偏った構造であるが,教育や福祉は充実している。一方,非産油国では高等教育を受けた若者が就職できず,外国人労働者として出稼ぎに出ざるを得ない状況が生まれた。つまり,グローバル化によって世界の周辺に置かれた国家の国民たちは「食べるため」に移民としてグローバル化の渦中へ身を投じるという構図である。
そのような経済状況の中,2008年9月にリーマン・ショックが起こりその影響が世界に拡大した。同じころ豆類や穀物の価格が急騰して,中東地域では底辺層の人々に食べ物が行かない状況が生まれた。そしてチュニジアを出発点とする「アラブの春」へと繋がっていった。

(2)経済格差の影響
 2009年に拙著『中東を理解する-社会空間論的アプローチ』を出したときに,「エジプトとシリアで(アラブの春のような)政変が起きるのではないか」と言及した。実際その通りとなった。なぜそう思ったのか。それは,現地訪問や統計を調べていくうちに,高等教育を受けた若者の失業率の高さや都市化の進展,インターネットや携帯電話,衛星チャンネルの普及度の高さが気になってきた。また政治参加への要求が高まっていることも気がかりだった。そして,このままいくと政治に対する不満が抑え切れなくなると思ったからである。
 つまり,この政治変動の要因は経済面ではリーマン・ショックや穀物市場の高騰ということがある。また,人口学的には「ユース・バルジ」(若者の膨張)現象,そして情報的にはソーシャル・ネットワークの発達があったと思う。しかし,グローバル化による富の偏在が大きなウェイトを占めていると思う。
 エジプトのイスラーム系組織ムスリム同胞団の福祉活動などは,中東の産油国や個々人からの寄付(喜捨)によって成り立っていたが,経済苦境が世界に拡大する中で寄付も減ってきた。かつてエジプトのナーセル(議長・大統領在位1954-70年)が「アラブは一つ」と唱えて(民族を超えて)一つの連帯を形成しようとした。しかし,今日のアラブの社会空間は民族意識による連帯を形成することは難しい状況にある。アラブ社会の共助は衰退しているといえるだろう。
 そして,アラブ社会も二極化が進んでいる。その一つの極はアラビア半島の石油産出地域(サウジアラビアなど)である。これら諸国はビジネス的にオイルマネーの循環によって欧米とのつながりが強く国際ビジネス圏に入っているため,国益と国際社会とのバランスを考えた政策をとることが多い。もう一つの極は,東地中海から北アフリカ地域である。この地域は,「ヨーロッパの裏庭」とも言われるように,ヨーロッパ諸国に支配されてきた歴史的背景もあって,欧米に対する拒否感が残っていた。かつて「欧州・地中海自由貿易圏構想」を発表して欧州諸国がこの地域の経済発展を支えようと試みたがうまくいかなかった。
 結果的に,二つの地域は経済的に競争力に差が出てしまった。前者は世界のトップレベルになったが,後者は(チュニジアを除いて)かなり低レベルに留まった。その背景には,ビジネスがしにくい宗教的・文化的な慣習や制度,加えて汚職や賄賂をはびこらせる強固なコネクションを必要とする人間関係が大きな影響を及ぼしているといわれる。この二つの地域は政治的にも対イスラエル政策や,米国の対中東政策への対応においても意見がまとまらなくなっている。このように,アラブの社会空間では二つの地域の間に違いが生じており,宗教・民族の対立と相まって複雑なまだら模様が生み出されている。
 「アラブの春」が起きた国を見てみると,それぞれ政治・社会変動が起きる初期条件は違っているが,政変過程で軍が果たした役割によってその後の移行体制の安定度が異なっている。

(3)各国の情勢推移
 チュニジアでは,2011年1月にベン・アリー政権が崩壊し独裁者ベン・アリーは国外に追放,同年10月穏健派イスラーム主義政党アンナハダ政権が誕生し,普通の政権交代をなすことができた。チュニジアは旧フランス植民地で,ある程度教育の程度が高いこともあったが,革命がうまく行った要因の一つに,「組合組織」がしっかりしていたことがある。世俗系改革派とイスラーム宗教勢力(ナフダ党)が対立を深め,宗教勢力が優勢になって改革派を押さえ込もうとしたときに,チュニジア労働総連が仲裁のための提案を行い,政治危機を乗り越えることができた。アイデンティティの持ち方として「チュニジア人」という要素もあるが,(ポーランドの連帯のような)労働組合があった。さらに軍が動かなかったことで,移行期(経路)が大きな混乱を生むことなく展開した。
 次にエジプトだが,最初軍は中立的だったが,その後民衆側についた。革命後のモルシ政権は移行期の政権であり,次の本格政権に向けた暫定憲法制定・国会選挙実施が主要な役割であった。移行政権が自分たちの都合の良いように憲法を改正し,自分たちの関係者を知事や役人に登用するなど政権を奪取した形の政策に動いてしまった。そのため国民の側から不満が出て,イスラーム政権をよしとしない軍は民衆の側についた。結果的に,モルシ政権は軍の「クーデタ」によって崩壊。
 エジプトの場合は,労働組合ではなく民衆の中にいたムスリム同胞団の役割が大きかった。同組織が市民活動として福祉的な支援を民衆にしてきた実績があって,移行期の選挙では民衆の支持を得ることができた。しかし,政治的に急激なイスラーム化を進めたため,自壊してしまったと言える。いまだに軍とイスラーム主義勢力との対立が続いており不安定な情勢にある。
 リビアは,内戦状況を経てカダフィー政権が崩壊。有力な指導者不在の政治的空白が生じる中,民兵組織などの武装集団がベンガジとトリポリとに分かれたときに,軍が旧カダフィー派とイスラーム側とに分かれて戦闘が始まった。混乱する状況に対して,国際社会が人道的支援を理由に介入することになり,一時は国際社会の援軍を得たベンガジ側が優勢になり移行政権が成立したが,国際社会が引いた後,戦闘が再開され内戦状態になった。カダフィー政権時代の武器弾薬庫から武器類が流出してそれを使った戦闘が繰り返されている。さらに,ISに忠誠を誓う組織が台頭し,混迷を深めている。
 今国際社会では,このリビアへの介入に正当性があったかどうかについて議論が行われている。国際社会の介入の理由に「保護する責任」を掲げながら,実際の介入では旧カダフィー政権の軍施設を攻撃しているので,目的と結果の整合性が問われているのである。こうしたことからリビア問題を機に,安保理内で国際介入について中ロと米英仏との対立構図が生まれてしまった。このことがシリア問題での国連の関与を停滞させた。
 シリアでは,アサド政権が抱えるさまざまな経済部門の利益が全部アサド一家の周辺に集まってしまう仕組みに対して国民が不満を抱いた。アサド政権は事実上の独裁政権であり,民主的手続きを踏んでいるようでも実態はアサド家の支配となっている。この体制を支えるのが,アサド家と同じアラウィー派(シーア派の流れ)が中心となる軍部である。アサド体制はこの軍とイランの革命防衛隊,レバノンの民兵組織ヒズボラに支えられ,スンニー派の反体制派との戦いを続けている。
 イエメンでも民衆による反政府デモが起き,軍内部でも対立が見られた。そしてサーレハ大統領が退陣する。この過程で,他の国と異なる点は,サウジアラビアを中心に周辺国が話し合いでの解決の道を探り,政治介入していった。最終的には,サーレハ大統領がサウジなどの要求を飲むかたちとなった。その後,2015年に入りイエメン北部で勢力を持つホーシー派(シーア派系)が台頭し大統領府を占拠する事件が起き,政治不安が再び高まっている。
 一方,バーレーンではシーア派の人たちが反政府活動を起こしたが「湾岸の盾軍」(GCC=湾岸アラブ諸国協力会議加盟国からのGCCの安全保障のための協力軍)が介入して押さえた。この軍事介入によって,バーレーンでは政権交代が起きることは防げた。しかし,スンニー派対シーア派の対立は現在もくすぶってる。
 「アラブの春」ではアラビア語衛星テレビ「アルジャジーラ」などが,北アフリカから西アジアにかけての市民運動の現場の様子を生々しく映し出し,より多くの人々の心に訴えかけたため,そこに連帯感情が生まれ,市民運動が連鎖的に拡大していった。共通する言語,宗教をもつ社会空間におけるマスメディアの影響力は大きく,人々の連帯意識を高揚させていった。

(4)「アラブの春」の今後の展望
 このように,アラブの春では,ソーシャル・ネットワークの広がりが大きな役割を果たした。リビアやエジプトで動乱が起こり人々が国境を超えて移動すると,それに伴って情報も伝達していく。それによって中東地域の不安定さが増している。
 前節で取り上げた市民運動が起きた国々は,バーレーンを除き一時期社会主義体制を敷いた国だ。社会主義体制によって,教育水準,女性の社会的地位,政治参加の意識などが向上している。それにより,社会としては生活維持体系が変化しやすくなり,変化が遅い文化的意味体系との調整が難しくなった。こうした国で革命が起きたと見ることもできる。
 アラブの春は,今後も他国(文化的意味体系の強固な国)に広がっていくのか,あるいはここで収まっていくのか。米国では,アラビア半島の社会にも民主化・自由化は広がっていくだろうから部族社会も変容していくだろうと考える識者が多い。
 特に,女性の人権問題について変化を求める女性活動家が出てきている。ただし,全ての女性がその動きに賛同しているわけではない。イスラームの日常生活が「心地よい」と思う人もいる。数年前にチュニジアに行って書店に立ち寄った時に,店主が言うには「フランス語の本がだんだん減ってアラビア語のイスラーム関連の本が増えている」という。なぜかと聞くと,敬虔なイスラーム教徒の人たちからの圧力があるというのだ。また女性がスカーフをつけずに歩いていると,不審な目で見られるという。サウジアラビアの王族の女性が,女性も自由に自動車の運転ができるよう運動しているが,現地の一般の女性たちからの批判も少なくない。このように同じ女性から見ても,リベラルな女性はある種「突出」して見えるようだ。
文化的意味体系が強固な国の社会を変えていくには,江戸時代から明治時代に変化していった際の維新のような近代化プロセスが必要であり,かなりの時間がかかると思う。そこでは自由化,個人化が進み,教育水準の向上とか女性の意識改革など内在的な変化・発展があってこそ出てくると思われる。それは伝統的な権威や慣習が変わっていくことを意味する。そういう変化が政治参加や社会改革に繋がっていくのだと思う。湾岸アラブ産油国においては,王位継承問題でギクシャクすることはあっても,短期的には体制変革が起きるとはあまり考えにくいと思われる。
 一例を挙げれば,人間関係を規制する目に見えない「境界線」,つまりフランスの家族人類学者エマニュエル・トッド(1951- )が指摘したこの地域の「内婚制共同体家族」という家族形態である。トッドは,「水平的で閉じたシステムである内婚制共同体家族は,おそらく人類の歴史においてつくりだされた環境のなかで個人を結合させる力のもっとも強い環境」だと指摘した。この点が,中東イスラーム社会が他の世界に溶け込めにくい要因となっている。
 内婚制共同体家族では「いとこ婚」を中心に拡大家族が形成されている。そのことで財産が外に流出しにくくなっている。また,遺産相続の仕方も西洋とは異なっている。そこにおいても市民権や女性の社会参加,流動性の高まりなどの影響が徐々にでている。その背景には,欧米への留学や携帯電話など情報通信機器の普及から,個人化や自由度が増していることもあると思われる。ただ,それでも家族制度や部族制度などの制度は色濃く残っている。
 米国の中東政策は,湾岸戦争後,この地域の安定化をめざして民主主義,自由化,市場経済化を推し進めてきた。しかし,不完全な民主主義の改善やイスラーム的規制の緩和という米国の要求は,新たな非国家組織を生む土壌をつくってしまった。そして,この地域の社会に潮流としてあるイスラーム復興を,武力をもって実現しようとするイスラーム過激派組織を育てることになった。

3.過激派組織「イスラーム国」(IS)の行方

(1)IS出現の背景
 ISは,イラクの北部とシリアの北東部にわたって支配しており,その基本は「イスラームの価値観」,つまり7世紀のムハンマド昇天後の正統カリフ時代のようなイスラーム法に基づく社会を再現したいという考えにある。具体的には,アル・バグダーディーをカリフとし,シリアとイラクに各副官を立て,その下に12の州知事を置き,行政府には財務,軍事など8省を設けている。そしてインターネットを駆使して自分たちの考え方を世界に巧みに広報・宣伝し発信していく。その初期の発信内容は,シリアにおいてスンニー派のイスラーム教徒がシーア派(アラウィ派)によって攻撃され迫害されているというもので,その情報に接してきたスンニー派の人びとが,中東諸国や欧米諸国からも参戦している。
 ISは,最初イラク内から始まり(「イラクのアルカーイダ」),その後シリア内戦に伴ってシリア国内に拡大した(「イラクとシリアのイスラーム国」)。シリア軍の倉庫や武器を襲撃して兵器を奪い再びイラクに入った。そのときイラクのスンニー派地域では抵抗がなかった。その背景には当時イラクにおいて,シーア派のマーリキ政権がスンニー派を冷遇する政策をとっていたことがある。そのため,スンニー派部族の人々(とくに軍関係者)が反発し,反体制活動が起きていったと考えられる。そうした事情から,ほぼ無抵抗の状態でISの勢力がイラクに浸透し,モスルを占拠することができた。そこでは旧バース党関係者や旧軍部の人びととISとの協力関係がみられていると分析されている。
 2003年のイラク戦争でフセイン政権は倒れ,その後米国の占領下で平和構築がはかられた。しかし,国民統合が進展せず,クリヴィッジ(亀裂)が深まっていった。そのクリヴィッジは二つある。一つは,スンニー派とシーア派の溝,もう一つはクルド人とアラブの溝である。かつてのイラクでは,フセイン独裁政治下で各コミュニティに富の再分配がなされており,自分たちのアイデンティティの主張が生み出す溝が押さえ込まれていた。ところが,フセイン政権が崩壊すると,多数派でありながら政権の周辺に置かれていたシーア派の人びとがコミュニティへの帰属意識を優先するような社会へと向かって行った。そして,民族・宗教の間の葛藤が表面化し衝突が起きるようになった。つまり,国民国家としての分配の法則が機能していたときは良かったが,その機能が喪失したときに,生存を賭けた熾烈な戦いがアイデンティティをむき出しにして現れてきたと言える。
 例えば,クルド人の独立ということになると,サイクス・ピコ体制(注:第一次世界大戦中の1916年に英仏露間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定に基づく秩序)の打破など戦後の国境線を否定するような動きに繋がっていくようになる。この点ではISの主張とも結びつく。そもそもオスマン帝国の解体を目論んだ列強が自分たちの利害に応じて引いた国境線のひずみがここにきて露呈し始めたともみることができよう。
 また中東諸国には土地の所有権問題もある。オスマン帝国の時代に,ヨーロッパの領主制のように土地を分配することはなかったが,私有地が出現し始めていた。ところが中東地域の一部の国は社会主義体制や部族制であるため土地の所有関係があいまいなままとなっている。

(2)今後の展望
 シリアとイラクの政府統治能力(ガバナンス)の問題があって,その間隙を縫ってISの勢力が拡大している。イラクやシリアの統治者が,法の統治や国民国家としてのアイデンティティの形成を十分行わなかった点も指摘できる。エジプトは古代から連綿と続く文明をもっており,イスラームやアラブというアイデンティティを持つより前の郷土意識があるが,シリアやイラクにはそういうものはない。
 今の状況からいえば,今後ISが現在の領域を拡大していく可能性は少なく,有志連合が封じ込めていくことは可能だろう。ただし,壊滅となると心(信仰)の問題もかかわってくるから相当な時間を要するだろう。
 ISにはおよそ3万人の兵士がおり,そのうち1万5千人ほどが外国勢力といわれる。その中心はアラブ人で,「アラブの春」が起きた国などから,経済的に厳しく仕事もないということもあり,ISにいけば一旗挙げられると考えて馳せ参じている。ただ,米軍などの空爆によって多くの戦闘員が殺害されている。その一方,ISの勢力の衰退にともないISに参加した若者が帰国する傾向も見られている。また他の破たん国家に移動する者もいる。それによってテロのリスクは拡散しているといえる。
 地上戦については,イラク方面において有志連合の航空戦力支援を受けたクルド人やシーア派民兵などによるモスル解放のための戦いが繰り広げられる計画がある。この作戦ではモスルなどの市街戦で戦闘が長期化することも考えられる。また,シリア方面においては,アサド政権と反体制派勢力,そしてISという三つ巴の戦いが続くと思われる。
 今後ISは支配領域を失っていき縮小したとしても,ISの特徴でもあるインターネットを使った広報活動で世界の若者に呼びかけ続けるだろう。そして,富の格差が広がるイスラーム社会で暮らすサラフィー(純粋)主義のイスラーム教徒に影響を与え続けると考えられる。一方,イスラーム過激派組織として「テロとの戦い」の対象となっているアルカーイダはISと距離を置いている。アルカーイダは,大衆の中に入ってテロを繰り広げながらジハード主義(聖戦)を主張し欧米社会の価値観と対峙するやり方だが,ISはまず領域支配を行い,タクフィール主義で背信者の排除を繰り広げていくというやり方である。このように両者は,戦略思想においても異なる立場をとっている。
 心配な点は,リビア,シナイ半島,アフガニスタン,パキスタン,インドネシアなどからISに忠誠を誓う勢力が現れていることである。彼らが自国もしくはその周辺でテロ行為に走ることが懸念される。欧米諸国だけでなくアジアでもテロのリスクが高まっているといえる。そうしたリスクの高まりに国際世論が動き,IS問題はもういいとなってしまうか,国際協調によって国際秩序の維持をはかりISを管理し衰退させていこうとするのか,今,国際社会は問われている。
 ISとの戦いでは,ガン細胞を外科手術で摘出するようなやり方だけでは通じない。化学療法のように徐々に体質改善を図る方法で立ち向かう必要がある。カリフ制の統治を目指す人びとは今後も存在し続けるだろう。どこの国,どこにでも超保守勢力はあるもので,「塊」として残ることは仕方ないと思う。彼らのメッセージを世界がどのように受け止めるのか,さらにグローバル化とどう調和させられるのかなど,いま重要な分岐点にあると思う。
 グローバル化が極度に進む世界の中で,自分の持っていた伝統的なイスラーム的な価値観と衝突し,それを止められないために暴力に訴えるわけだ。それは中東に限らず,欧州でも同様の現象は起きつつある。
 これまでの欧米の路線のように,民主化や自由,人権の価値観を押し込んでいくと反発されるだけで,ハンチントンのいう「文明の衝突」を招きかねない。互いに棲み分けられるルールを強調し探していくことが今日要請されている。地域によって歴史的地理的空間の違いがあるから,その点を考慮していく。単に目的が正しいからといって一方主義的なやり方では,その空間的特性からはじかれてしまうのである。
 世界がグローバル化されていく中で,大きく見れば世界の同質性が高まっていく方向にあることは確かである。しかし,完全なる一致,全く同一化することはない。そこにはまだら模様のように差異が残る。ISもまだら模様の一つとして見ることもできる。イスラームに限らず信仰の世界は話して分かるものではない。そのときに文明の対立にしないように,われわれは智慧を絞っていくべきだ。
(2015年3月6日)

■プロフィール みずぐち・あきら
1976年日本大学文理学部卒。中東調査会上席研究員・『中東研究』編集長などを経て,現在,敬愛大学国際学部教授。この間,同大学国際交流センター長,社団法人国際情勢研究会研究員を歴任。また,民間外交推進協会日本・中東文化経済委員会委員なども務める。専攻は,中東と国際関係,国際社会学,国際協力学。主な著書に,『イラクという国』『中東を理解する-社会空間論的アプローチ』他。