漢民族はなぜ世界に飛び出すのか?―歴史的民族的考察

愛知大学教授 樋泉克夫

<梗概>

 これまで多くの専門家や識者が中国の将来予測を試みてきたが,その悉くが現実の中国に裏切られてきたといっていい。中国における政治・経済・社会を考える際,やはり中国人の民族性や日常的振る舞いに基づく歴史的分析が肝要ではなかろうか。欧米で発達した社会科学の枠組みだけでは把握できない文化構造(=《生き方》《生きる形》)が中国にはあるはずだ。
 いまや中国人は,日本はもちろんのこと世界各地に合法・非合法に拘わらず飛び出し,単なる観光のレベルを超え,各地社会に定着し,自らの生活基盤を整え,各地で様々な問題を引き起こしている。このような社会現象を一例としても,従来の日本における正統的・伝統的な中国理解では把握しきれないし,日本式常識に根差した政治・経済的視点だけでは判らないことが少なくない。
 そこで中国(漢民族)を見る一つの視点として人々の結びつきの核ともいえる「五縁」を考えながら,現代中国を見直してみたらどうだろう。

1.漢民族とはどのような習性を持つ民族か?

 日本人の誤った漢民族理解の一つは,昔から漢民族が中国大陸に広く住んでいたと思い込んでいることだろう。こういった思い込みが,誤解の始まりなのである。
一般に,黄河中流域の中原と呼ばれる黄土地帯に生まれたとされる漢民族は,時代を下るに従って周縁部に進出し,自らの生活空間を広げ,自分たちの生活圏・文化圏を拡大してきた。自然環境を考えた時,西域とよばれる一帯は砂漠地帯で住み難く,北方は寒いし異民族(遊牧民)が盤踞していた。そこで西方にも北方にも移動できそうにない。かくして主に南方か東方への移動を繰り返して来た。漢民族の歴史を生活空間の広がりという視点で捉え直すと,内から外へ,中心部から南と東の周縁部に向かって移動し今日に至ったともいえる。
 漢民族は恒常的に移動・拡大・定着を繰り返す過程で,異民族との抗争から自分たちを守るために周囲に城壁を築き,その中に集住した。現代の言葉で言えば「チャイナ・タウン」の形成である。つまり「チャイナ・タウン」という都市を作り,それを南方と東方の周辺部に拡大して行ったのである。長い年月を経ながら,それらの都市が縦横にネットワーク化され,後代に発展して「中国」となったわけだ。中国の農村を日本の農村のイメージ・仕組みで考えると,大きな誤解を招くし,全く理解できない。
 それはあたかも,人口比で12,3倍,国土面積で30倍近い中国を,日本的常識で捉え,“読み解こう”とする試みと同じであり,有体にいうなら虚しいことなのだ。
 18世紀後半になると,中国大陸にこれ以上移動可能な空間がなくなってしまった。ちょうどその頃,南北米大陸や東南アジアで(欧米帝国主義勢力による)植民地開発が始まり,良質で頑丈な労働力を大量に恒常的に必要とする情況が生まれていた。しかし現地にはその開発需要を満たすほどの優秀な人力は見当たらない。一方,中国にはとくに南方を中心に人口爆発によって大量の余剰人口(=失業者)が生まれる。そこに欧米諸国は着目し,秘かに南部沿海に上陸し,合法・非合法の別なく労働者(=華工)を集め自らの植民地に送り込んだのである。
 もともと漢民族は中国大陸にいたときから,すでに述べたように環境の違う地域へ次々に移動し,自らの生存空間を拡大させてきたわけだが,そのとき彼らが生存のために頼ったのが,血縁・地縁・業縁・神縁・物縁の「五縁」と呼ばれる縁故である。彼らは五縁を軸とする相互扶助の仕組みを形成していった。五縁によって結びついた人たちは,仕事も一緒にやることが多かったので,同業者となることが多い。五縁に頼ってさえいれば,それが中国の域内であれ,海を越えた異民族の地であれ,如何なる地域であっても生き抜くことができた。かくて,そのシステムを維持したまま,主に18世紀末期以降,東南アジアや南北米大陸に移動したのである。
 このように漢民族は,移動できる空間さえあれば,何処までも移動し,定着することができたのだ。漢民族の歩みを見ると,時代を超えた彼らの足跡の地理的広がりは,明らかに近代における「国境」をいとも簡単に超えてしまっていたのである。
 ここで漢民族の人生観を見てみよう。
 日本人にとっての「あの世」は真っ暗(不明瞭)でイメージすることが難しいが,中国人にとっては「この世があの世であり,逆にあの世もこの世」,つまり「あの世=この世」なのである。あの世はこの世と同じく官僚社会であり,この世と同じように貪官汚吏もいれば「清官」と呼ばれる清廉潔癖な役人もいる。もっとも,この世で清官が希少的な存在であると同じように,あの世でも清官は極めて少ない。もちろん泥棒もいれば,犯罪者にはことかかない。あの世がこの世と全く同じだと考えているから,漢民族にとってはこの世でお金が命より大切であると同じように,あの世でもお金はなくてはならない。お金を持っていなかったら,あの世でもこの世でも優雅な生活は叶うべくもないのだ。
 だから死者をあの世に送るときには,この世で生活していた物質的なもの以上の豊かなものを準備するのである。例えば,竹ヒゴと紙で作られた実物大の高級車(この場合,トヨタではなく,やはりベンツだ),ヨットや自家用ジェットなどのミニチュアを購入し,葬式の前日などに燃やして先にあの世に送って,あの世での快適生活を準備した後に,死者を送り届けるのである。
 また死者の遺体は生まれ故郷の土に還ってこそ,安心できるという心性がある。これを「入土為安」と4文字で表現するが,清朝の時代でもそうだった。中国各地の都市をはじめ,世界各地のチャイナ・タウンには故郷を同じくする人たちの相互扶助組織である同郷会館がある。例えば,広東人が北京に行って働くと,広東会館に集まり互いに助け合う。ときに他省の人との間でもめごとがあれば,会館が仲裁してくれる。地方出身者が北京で亡くなると,まず同郷会館で棺に納めてから故郷に運ぶ。棺運びを専門とする職業(運棺)もあるほどだ。そして故郷の墓地に埋葬する。共産党政権になってから火葬を奨励するようになったが,それでも断固として火葬を拒否し土葬にこだわる人も少なくなかった。文化大革命のときでもそうだった。やはり共産党という強大な一党独裁システムでも,土葬を志向するという伝統を崩すことは出来なかったようだ。
 海外で亡くなった時も同じである。明治のころ横浜で亡くなった中国人は棺に納めて横浜の関帝廟に一先ず安置した後,棺のまま船に乗せ香港まで運び,そこから故郷に送ったものだ。いわば棺桶の宅急便である。このような運棺システムが世界中に広がっている。もちろん(費用の問題もあり)全ての棺が帰郷できるわけではないが,同郷会館が資金を集めて(何基かの棺を取りまとめて)故郷に送り出してやることもあった。故郷を同じくする人々の同郷会館,姓を同じくする人の宗親会館,仕事を同じくする人の同業会館を中心に,ゆりかごから墓場までを助け合う組織が形成されているのである。

2.経済発展と華僑・華人ネットワーク

 1949年10月に中華人民共和国が成立した直後,毛沢東は対外閉鎖(=「鎖国」)政策を断行し,中国人の国外との自由な往来を禁止した。その結果,既に海外に出て行った人たちは母国に戻ることができなくなってしまい,海外の華僑や華人と母国の人たちとの交流は(送金は別にして)断たれてしまった。
 一方,国内的には毛沢東は共産党政権による国民生活への徹底的な関与を推し進め,自由な移動も制限した。戸口制度と呼ばれる国民管理制度を全国に布き,全国民を農村戸口と都市戸口(非農村戸口)に分けて固定化した結果,以前ならば農村部で飢えて食えなくなると都市に移動して仕事を探して生きていくことができたわけだが,それが不可能になった。いわば乞食をする自由すら奪ってしまったのだ。
 毛沢東の死後,鄧小平は毛沢東の対外閉鎖政策を全面的に改め,対外開放政策を断行した。これが1978年末に中国が踏み切った改革・開放政策の本質である。さらに82年には圧倒的多数の農民を農村に縛りつけていた人民公社を解体し,それまで農村に閉じ込められていた農村住民を農村から解き放った。細かい制限はあったものの,農村住民は事実上の移動の自由を得ることができたのである。その結果,彼らは新しい生存空間を求めて,あるいはよりよい現金収入の道を求めて,生まれ故郷を後にした。そして新たな生存空間(=移動先)でも出身地(=移動元)で行われていた生活文化を維持し,異文化の中に定着していったということだ。
 文化大革命直後の中国は国内に技術力も資金もなかったので,鄧小平は東南アジアの華僑・華人に向けて自らのルーツである中国南部の沿海地方――福建や広東への投資を呼びかけた。華僑・華人のルーツに因むことから福建や広東を「僑郷」と呼ぶ。彼らも鄧小平の呼びかけに応じ,僑郷への進出に積極姿勢をみせた。東南アジアの華僑・華人企業家を中心に,時に香港や台湾の企業家と提携した形での僑郷進出は盛んになる。やがて,それが日欧米の外資系企業を誘い,農村部に滞留していた余剰人口を農村部から呼び込み,経済特区の成功につながることになる。
 かくて中国南部沿海部から経済発展が始まった。それをキッカケにして,中国は「世界の工場」へと飛躍する。農村に有り余るほどあったただ同然の安い労働力を巧妙に活用したからこそ,“毛沢東の中国”は短時日のうちに「世界の工場」へと変身したのだ。このように中国南部と東南アジアや北米の華僑・華人との関係には,歴史的に密接な経済関係が認められるのである。
 実は,鄧小平と同じようなことを考えて実行した人が20世紀初めに既に存在していた。インドネシアのジャカルタで成功した張振勲である。清朝政権が彼に「同じ中国人がやっているのに,東南アジアでは成功し,中国国内では経済的に立ち遅れているのはなぜか? どうすればよいか?」と諮問したことがある。それに対し張は,「東南アジアで成功した華僑の多くは福建省や広東省出身であり,ならば彼らの企業に優遇特典を与えて誘致し,福建省や広東省をまず豊かにする。そこに全国から企業人を派遣し,そのノウハウを学ばせ出身地方に戻せば,次第に中国全体が発展していく」と答えた。まさに鄧小平のやり口と同じである。だから中国南部沿海地域に経済特区を設定し,経済建設を進め,現在の“経済大国”の礎を築いた最大の功労者と内外から評価される鄧小平だが,些か皮肉な表現をするなら,彼の手法は張振勲のパクリということになるだろう。
 内陸農村部に滞留していた貧しい農民たちが沿海部に出てきて華僑・華人系の外資工場で働き現金を稼ぎだし,それを故郷に送金する。90年代初めに,深圳の工場で若い女の子が1カ月働いて稼ぐ現金収入は,故郷である内陸農村の父母の現金収入1年分に相当すると言われた。送金の結果,貧しい農村部も少しずつ豊かになっていったのである。
 その後,今度は逆の動きも始まった。つまり,経済発展の恩恵を受けた(福建省や広東省など)南方の人々が,今度は在外華僑・華人を頼って海外に出て行くようになったのである。2002年11月の第16回共産党大会で江沢民総書記(当時)がぶち上げた「海外進出(=走出去)」戦略が中国の国家戦略として位置づけられると,人のみならず企業や資金が外へ滔々と流れ出し,海外で稼いだ金(資金)が本国に再び投資(還流)するようになった。
 また台湾との関係で言えば,福建省と台湾(の大部分)は同じルーツ,同じ宗教(信仰),同じ言葉(閩南方言)なので,相互乗り入れが可能であり,(台湾から福建省への)技術移転も容易であった。
 このように漢民族が世界に進出するようになったのは,やはり鄧小平以後の中国共産党政権が漢民族のもつ特質を十分に織り込んでいた政策を次々に推し進めていったからだろう。つまり,移動性,「五縁」を軸とした相互扶助と強力な人的ネットワーク,チャイナ・タウンの形成など,である。
 費用対効果から言えば,このやり方は資金も技術もなく遅れた中国が極めて経済的にスピーディーに経済発展する近道だったといえる。政府としては敢えて大規模投資をせずとも,政策を掲げ,大号令をかけて人々の移動性とネットワークを引き出す――いや,より実態的に表現するなら,中国人の行動様式を“毛沢東時代以前”に戻すだけで,それは可能となり,結果として急速な経済発展を導いたのであった。これこそ「鄧小平マジック」のカラクリである。
 この点は同じ社会主義国であったソ連との大きな違いだった。中国の経済発展や政治の動向について考察するときに,純粋に政治学や経済学の視点だけで見ていては読み切れない部分,解き明かせないナゾが少なくない。やはり歴史に根差した民族的,文化的な視点を無視することはできない。

3.中台関係と「神縁」

 台湾をみると,ポリネシア系といわれる少数原住民族を除き,その大多数は時代の前後はあるものの,台湾海峡を越えて中国大陸から渡った人々だ。いわば同じ漢民族であり,そのルーツは①福建省南部出身者,②広東省と福建省と江西省が重なる山岳地帯を出身地とする客家,③日本敗戦前後から国共内戦を経て中華人民共和国成立前後の間に中国各地から渡った人々(その多くは国共内戦に敗北した蔣介石政権に従って)――に大別すすることができる。因みに,①と②を祖先とする人々を「本省人」,③の系統を「外省人」と区別して呼ぶ。
 このなかの①をルーツとする人々が最大勢力であり,明末から清初にかけて福建省からやってきたことから,基本的には本貫(祖先の出身地)は福建省であり,当然のように祖先の墓は福建省にある。また,政治イデオロギーや生活習慣・程度に違いはあれ,②と③をルーツとする人々も基本的には地縁と血縁,さらには神縁(土俗信仰)などの側面で中国大陸と結ばれており,台湾海峡を挟んだ中台双方の政治の壁が取り払われさえすれば,双方の往来が活発化するのは必然的な動きだろう。
 この観点からすると,2014年春に台湾で起きた「ひまわり革命」の成否を短期的に捉えることには疑問を持たざるをえない。やはり中台関係の過去・現在・未来といった長期的視点で捉え直す必要がある。ことに中国に関するなら,短兵急に結論を求めるのは危険だ。たとえば1989年の天安門事件にせよ,2014年秋の香港における「雨傘革命」にしても,民主派と呼ばれた人々のその後の軌跡が,そのことを物語っている。
 福建省と台湾との関係で注目したいのは,10世紀の宋代に福建省の沿海地方に生まれた航海の安全を守る神様として知られる「媽祖信仰」である。媽祖は福建省南方にある湄洲島で始まった民間土俗信仰であり,日本で譬えれば金比羅様のようなものだ。
 林黙娘という娘が呪符を得て邪を除き世間を救済するための霊力を体得し,多くの人々を海難事故から救ったという霊験をもとに「通賢霊女」と呼ばれるようになった。その霊力の恩恵に与った漁師や海上交易商人などが湄洲島に天妃廟と呼ばれる祠を建立し,彼女の徳を讃え祀ると同時に海の安全を祈願することになった。その霊験が広がって信徒が増えていったのである。
 その後,福建省の人たちが,故郷での生活ができなくなり新天地を求めて移動を始めた時,初期の段階では中国大陸沿岸部を転々としていたが,移動先で新しい生活を樹立し安定的な生活を獲得するや「これは媽祖のおかげだ」と思い,湄洲島に戻り,媽祖のレプリカを授かった後,移動先に戻って末社(子廟)を建立し祀った。やがて媽祖信徒の移動先が,中国沿岸を離れ,長い年月をかけて西はミャンマーのヤンゴン,北はマグロで有名な青森県の大間や函館,東はフィリピンからジャワ島東端のスラバラ,南はスマトラ島のアチェにまで拡大していった。媽祖信仰に最も熱心な地域が台湾南部である。それは福建省南部出身者が最も集まっている地域であったからだ。
 媽祖信仰をもつ人々は,ムスリムがメッカ巡礼をするように,定期的に媽祖の本尊を祀った湄洲島に巡礼したものだ。毛沢東の時代,海外との交流を断っていたことから,媽祖信仰をもつ海外の人々は巡礼が不可能だった。台湾の媽祖信仰者は台湾中部に廟を建立し,自分たちにとっての媽祖として祀ったのである。
 後に開放政策により大陸が開放され,台湾政府による大陸への「探親旅行(故郷訪問)」が解禁されるや,同旅行禁止の軍人や高級官僚を除いた一般民衆は,福建省への探親旅行をするようになった。この動きに最も早く反応したのが,熱心な媽祖信徒だった。彼らは香港,あるいはマカオ経由で湄洲島に詣でていたが,やがて「直行便を設けてほしい」という声が出てきた。一方,大陸側(北京政府)は,土俗信仰を利用して中台の相互交流を図り,中台統一の土台造りを進めようという思惑を持つ。かくして中台双方の利害が一致したところで,2001年1月初めに直行便による媽祖参りが始まったのである。
 まさに,媽祖信仰という中台両岸に跨る土俗信仰を,政治的に巧妙に利用した交流だった。台湾における媽祖信徒の勢力は非常に強く,議会選挙や総統選挙においてすら,信者の意向を無視することはできない。2001年1月当時は反中を掲げ独立を掲げた民進党の陳水扁政権時代であったにもかかわらず,媽祖信仰の勢力が政治を動かしたのである。
 このように土俗信仰などの面から中台関係を見ると,短兵急な結論を求めず,また政治的な立場を鮮明に打ち出すことなく,マラソン交流を続ける中で結果的に統一への道筋が引かれると思える。もちろんその意味は,どちらかの政権による吸収というものではない。非常に長い時間をかけてダラダラとネチネチと,押したり引いたりして進めるのが漢民族の特長といえる。日本人のように今ダメだから手を切るとか,短兵急な対応は絶対にしない。日本人は2014年秋の香港の「雨傘革命」を掲げての反政府デモを見て,明日にでも,いや今日にでも民主化できなければダメだと結論付けたがるが,漢民族に日本人的振る舞いを求めてもはじまらない。
 中国には「談談打打,打打談談」という言葉がある。話し合い(談談)ながら戦争(打打)し,戦争(打打)しながら話し合う(談談)というわけだ。話し合いは戦争を,戦争は話し合いを,共に有利に進めるためのものであり,結果的に自らの最終目的を達成できればいいのである。話し合いのための話し合い,戦争のための戦争など,彼らに言わせれば愚の骨頂ということになるはずだ。
 天安門事件当時,楊尚昆主席(主席在任1988~93年)は,「台湾との統一に戦争は必要ない。台湾トップの十数社の企業を優遇して大陸に取り込めば,台湾は自動的に崩れる」と口にしたと伝えられたことがある。また2014年12月には人民解放軍の長老大将が「必要あらば武力で台湾問題を解決する」と過激な発言をしたようだが,それは「脅し」に過ぎない。戦争は費用対効果の面から言っても損だ。そうしたことは,台湾の人々も判っているはずであり,であればこそ,たとえば1996年の台湾総統選挙前に大陸側から台湾周辺海域にミサイルが撃ち込まれても,台湾の有権者は本省人の李登輝を総統に選んだのだ。遡れば毛沢東時代の1958年,大陸側の福建省と台湾側の金門島(海を挟んでいるとはいうものの,双方の間は僅かに6キロ)との間で激しい砲撃合戦がみられたが,双方は日にちを決めて打ち合いをしたという。彼らは落としどころを決めておいて,長い時間をかけてダラダラとやっていくのだ。

4.現代の中国問題を見る視点

(1)香港2014年反政府デモ「雨傘革命」
 香港の問題を考えてみたいが,中国政府は返還前後から「50年間は一国両制を維持する」との主張を掲げているが,あの「50年」は必ずしも100年の半分を意味するものでは無い。ここでも形を変えた「談談打打,打打談談」ということであり,1997年から50年が過ぎた2047年になったら直ちに「一国両制」を打ち切るわけではないだろう。香港であれ台湾であれ,住んでいるのは同じ漢民族。であればこそ,北京のやり口は十分に弁えているはずだ。
 昨年9月から12月初めの頃まで続いた反政府デモを考えとみると,ここでも「談談打打,打打談談」の原則が見られる。
学生が幹線道路の占拠を始めたのが2014年9月28日。その1週間前の9月22日に,一部の大学生が大学で授業ボイコットに踏み切っているが,同じ日に,香港の最有力企業を率いる企業家の70数名が北京に出向いて習近平主席と中央政府の香港問題担当の最高幹部と会っていた。彼らが傘下に置く企業の持つ株式時価総額は香港株式時価全体の3分の2を占める,いいかえるなら彼らは香港経済の3分の2ほどを押さえているということであり,これこそ香港が香港であるための最強の武器である経済の大部分を握る有力企業家たちと共産党政権とが手を握ったことを意味しているわけだ。つまり共産党政権は,「雨傘革命」を掲げて民主化を訴える学生たちとは「打打」する一方で,有力企業家たちと「談談」していたのである。
 であればそこ,学生が幹線道路の占拠を続けようが,9月22日の段階で勝負がついていたといっていいだろう。
 だが,日本のマスコミは,そうした“裏側で進んでいる事態”が全く理解できていない。学生の反政府デモを中心に大騒ぎし,今にも「雨傘革命」が成就するかのような期待と根拠なき楽観的予見を持って報道した。思い起こせば天安門事件でも同様だった。民主化の土壌も弱く,台湾など海外から応援も然程期待できないような情況下で如何に激しい街頭行動を展開しようが,表面的な現象のみを基にして民主化成功を示唆するような報道は楽観,いや無責任に過ぎる。
 香港で反政府デモが起きた頃,現地に行って学生と話をしてみたが,闘争資金の決定的な不足と統一した司令部が機能していないことが気になった。この二点を取ってみても,「雨傘革命」の将来は明らかだろう。
 香港返還の際にも見られたが,北京政府は中国市場での有利なビジネス環境を“エサ”にして香港の企業家を懐柔したのだ。企業家として企業経営を第一に考えるなら,親北京の振る舞いをみせた方が得策ということになるはずだ。現象面だけ見て希望的な観測を報道する日本のメディアは,なぜ,この最も基本的な対応を注視しないのか。一般的に企業家たる者,政治や民主化のために企業経営をしているわけではないだろうに。
 残念ながら,今のところ中国共産党政権に代わる安定的なシステムはないように思われる。中国が近い将来「(政治的)民主化」することは非常に難しいだろう。先ほど亡くなったシンガポールのリー・クワンユー元首相は,数年前のことだが,「今後50年間,中国が民主化することなど絶対にありえない。このことは民主化を主張している知識人も知っているはずだ」と語っていたが,やはり膨大な人口を擁する中国で民主化が如何に至難であるかを,漢民族をルーツとするリー元首相は承知していたということだろう。
 やはり広大な中国では各地方の地域性が強く,それぞれが自己主張を貫き実現させようとするなら,少なくとも省の数だけ政党が生まれないとも限らない。
 ここで「中国人」という存在を考えてみたい。
 彼らの自己認識のなかで中国人という概念は,やはり一番外側のものだろう。自己認識の核には同族(家族,宗族)があり,その周囲に同じ方言を話す人々の集団があり,その外側に省レベルの枠組みがあり,最も外側の共通項が「中国人」という意識構造だ。ところが日本人はこの構造を逆向きに受け取り,先ず中国人という自己認識で共通していると思い込んでいる。一人っ子政策を徹底して100年も続ければ変わるかも知れないが,日本人の尺度で見ていては,中国のことも中国人も判りそうにない。

(2)中国の世界進出の背景
 北京政府が進める海外膨張政策(走出去)は,漢民族の本性と非常にうまくあっている。これまで漢民族は国の内外を問わず新しい生存空間を求めて膨張を繰り返し,本来が少数民族のものである地域にも移動を重ねてきた。チベット自治区や新疆ウィグル自治区もいまや漢民族が多数派になってしまった最大の要因は,共産党政権による少数民族抑圧策に加え,漢民族が生まれながらにして身につけた移動⇒定着⇒移動⇒定着という現象の繰り返しにあるのだ。漢民族の故郷に対する思いは人一倍であるが,好環境を求めての集団による移動もまた歴史的民族的伝統なのである。
 現代中国における華僑・華人研究の第一人者である陳碧笙は,「歴史的にみるなら,漢民族の移動は経済状態の低い所から高い所へ絶え間なく続いた。この動きは,これからも継続する」と語っているが,まさに共産党政権だからではなく,漢民族だからこそ移動を繰り返すのだ。しかも現在の政権は「走出去」を掲げ,一般国民のみならず企業も資金も海外に進出することを奨励しているのである。
 歴史的にみて,王朝政権は治下の民衆が海の向こうに進出することを強く禁じていた。にもかかわらず一般民衆は国禁を犯してまで海外に新天地を求めた。いま共産党政権は「走出去」に沿って海外進出を勧めているのだ。王朝政権以来,中央政権が治下民衆の移動を奨励したのは初めてということになる。漢民族の移動という側面から捉えるなら,現政権は「革命的」といっていいだろう。
 例えば,オーストラリアの中国人移民だが,古くは米国のゴールドラッシュが終わった後に,オーストラリア東海岸でゴールドラッシュが起るや,今度は大挙してオーストラリアに移動した。明治の初めの頃の日本側の記録に,すでにオーストラリアでは「40万戸口」ほどの中国人が生活していたとある。同じ記録にある在留日本人は僅かに「5戸口」だった。
 アフリカ在住中国人にしても,第二次世界大戦終戦前後から既に中国大陸や香港,台湾などで食べていけなかった人々であり,その子孫なのだ。彼らは現地で営々と生活を築いた。そのなかの成功者が,共産党政権の進める開発移民政策の受け皿となったのである。中国政府は何も基盤のないところに中国人を送り込んだわけではない。現地に定着した華僑・華人は,イデオロギー的には共産主義に反対でも,同じ中国人ということで許容したのだ。彼らは非常に不思議なアイデンティティの持ち主であり,共産主義は嫌だが中国人ならいいという発想を持っている。これは中国人以外には理解しがたい振る舞いであろう。だが,中国人や華僑・華人にとっては,然程の抵抗感もなく受け入れ可能であり,生活信条に叶ったものなのだろう。
 香港や台湾の企業家が中国大陸でビジネスを展開するのはなぜか。企業家としては採算に合い利益を生み出す可能性があるなら,そこが如何なる環境にあったとしても,進出を躊躇うものではない。中国大陸も例外ではないはずだ。中国共産党が嫌いでも,妥協してビジネスを展開する。共産党にとっても,それは自明の理だ。そこで政治的な信条や立場の違いを棚上げし,利益を与え,徐々に自分の陣営に引き込んでいこうとする。統一戦線工作とは,そういったものだろう。
 中国を見るときに,「中華人民共和国」という7文字が表現する政治的側面だけを注視するのではなく,「漢民族という世界」が拡大したものと見る方が現実を理解できると思う。  
 たとえば,中国政府は東南アジアに向けて鉄道敷設のプロジェクトを展開しているが,それはすでに四半世紀前から始めたものだ。しかも鉄道網(線路)を張り巡らせ,そこに鉄道を通そうと構想し,着々と進めている。日本は最近になって新幹線を売り込もうなどと息巻いているようだが,スケールが全然違う。新幹線というハード面だけではなく,流通網というソフト面を忘れてはならない。

(3)中国の将来
 2002年に次期指導者として胡錦濤が登場したときに,日本のメディアは彼をどう評価したか。「胡錦濤は中国共産主義青年団出身。叩き上げで苦労してきたから,胡錦濤政権になれば共産党は革命政党から国民政党になり民主化するだろう」と。だが胡錦濤政権は一方で「和諧(和解)社会」の建設を掲げながらも,極めて官僚主義的手法に終始したように思う。後継者として登場した習近平主席に対しては,「習近平は幹部の息子であり太子党だが,文化大革命時に非常に苦労したから,庶民の心を知っている」「彼は暗愚の帝王であり,共産党王朝のラストエンペラーになるだろう」などという評価が主流だった。
 だが,トップに就任後の習近平主席の振る舞いを見た時,必ずしも日本のメディアの評価のようだとは思えない。やはり権力者は,ことに中国における最高権力者は一旦権力を握った暁には容易ならざる権力を発揮するものだ。
 習近平主席の経歴をみると,20歳前後から村の共産党責任者を皮切りに,鎮,市,省と叩き上げで上り詰めている。彼は行政マンとしての幾多の経験を踏んでいると同時に,その一方で血で血を洗う権力闘争をも勝ち抜いてきている。豊富な行政経験に加え,熾烈な権力闘争を勝ち抜く手練手管の持ち主だが,はたして日本に習近平主席のような経歴を踏んだ政治家を求めることができるだろうか。その是非は別として,共産党政権下の中国では極めて巧妙な幹部人材養成システムが作動していることを知っておく必要があるだろう。だが,このシステムでは幹部の不正・汚職は防げない。
 かつてカール・マルクスは,清朝の閉鎖的な経済体制を壊せば,中国市場において英国で生産された綿製品が大量に捌けると考えた。だが,実際にはアヘン戦争が清朝による閉鎖体制を崩壊させ,上海など中国南部の主要な5つの港を対外開放させても,綿製品は売れなかった。そこでマルクスは,中国には独特の経済システムがあって,それが解明できないかぎり,中国経済は説き明かせないと結論している。やはり中国には中国固有の経済システムがあるのではないか。
 中国の将来について,土地バブル崩壊など経済面の先行き不安から崩壊論を主張する識者がいるが,日本や欧米の経済理論で中国の経済指標を分析して,はたして中国経済が正確に理解できるのだろうか。疑問を持たざるを得ない。
 中国のゴーストタウンを見てバブル崩壊を予想する。だが日本で見られた土地バブル崩壊から「失われた10年」「失われた20年」の経験律を,はたして中国経済にてきようできるのだろうか。
 97年のアジア危機に対する東南アジアの華人企業家の振る舞いを一例にみると,不動産開発に失敗し金回りが行き詰まると逃走する。なかには「逃げない,(債務を)拂わない,(企業を)手放さない」という“強者”も少なくなかったが,当然のように建設途中の建物は放置される。それをもう一度開発する場合,日本では先ず解体し更地にするはずだ。だが彼らは,放置された建設途中の建物をそのまま再利用するのであった。これは一例だが,ここに示した華人企業家の行動を,中国の企業家がなぞらないという保証はない。やはり日本人の常識や尺度から導き出された判断には,一定の留保をつけるべきだろう。
 実は,1978年末に中国が対外開放政策に踏み切って以来,中国経済破綻論や中国崩壊論は,多くの識者によって繰り返し主張されてきた。だが,今に至っても中国経済が明確に形で破綻したわけでも,中国が崩壊してしまったわけでもない。バブル経済の崩壊を心待ちするよりも,共産党の一党独裁制によってなぜ市場経済体制がうまくいくかを研究したほうがいいのではないか。中国にどのように対していくべきか。相手を正確に分析理解しない限り,しっかりした対応策は生まれてこないはずだ。
 日本人にとっていま必要なことは,これまで中国(人)に対してもってきた考え方を一度捨ててみることだろう。そして中国とはどのような仕組・カラクリの国なのか,中国人,いや漢民族とはどのような民族性を持つ人々なのかなど現実に基づいてしっかりと分析する。その上で対策を立てる。それこそが,日本にとっての中国政策というものだろう。いま急務なのは,中国の等身大の歴史を直視した質の高いインテリジェンス能力の構築であろう。
(2015年1月9日)

■プロフィール ひいずみ・かつお
香港中文大学新亜研究所,中央大学大学院博士課程を経て,外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(1983-85年,88-92年)。98年愛知県立大学教授,2011年愛知大学教授,現在,同大学現代中国学部教授。専門は華僑・華人論,庶民文化と政治。主な著書に,『華僑コネクション』『京劇と中国人』『「死体」が語る中国文化』他。