民族と民族はいかに出遇ったか
―民族モザイク社会形成の背景を考える

元武蔵野美術大学講師 安達 史人

<梗概>

 人類が古代以来全世界に拡散して以降,さまざまな人種・民族が形成され今日に至っている。とくに近代以降,科学技術と交通機関の発展によって今や世界中が自由に往来できる環境になったが,今日においても多くの人種・民族はそれぞれの身体的,文化的特徴をしっかり保持しながら存在している。歴史的に異民族同士の遭遇は数多くあったわけだが,異民族同士の結婚によって人類が均一化しない由縁は奈辺にあるのだろうか。歴史を振り返りながら,以前に提起したことのある「異人と異人は結婚しない」という仮説を基に考えてみた。

はじめに

 2015年は北アフリカおよび中東地域からの難民が大挙して欧州に流れ込み,国際的な問題になった。その後,同年11月にはパリ市内におけるテロが発生して,欧州における移民問題の深刻さが改めてクローズアップされた。
 古代以降, 欧州に流れ込んだ移民や難民は,白人系のヨーロッパの人々と混ざって均一な社会を形成したわけではなく,それぞれの出身地や宗教,その他さまざまなバックグラウンドにしたがって分離しあい,国境を築き,モザイク状に住んでいることが指摘されている。
 人類史において,異民族と異民族の集団がある領域で出遇ったときに,彼らはどのように行動し,どのような社会を形成してきたのだろうか。

1.米国シカゴの欧州移民棲み分け地図

 ここで今から30年ほど前の米国シカゴでの私の経験を紹介して問題提起をしてみたい。
 1980年代初め,私は米国の都市シカゴをさまざまな角度から調査分析して一冊のヴィジュアルな小冊子を作る目的で,数週間シカゴ市に滞在した。昼間はシカゴ大学の大学院生に通訳を頼んで市内のあちこちを駆け廻り,当時の女性市長をはじめ,メディア関係の人や一般民衆などいろいろな人たちに出遇いインタヴューをしながら話を聞いた。
 最初の衝撃的なできごとは,シカゴに着いて間もないある日,お昼近くダウンタウンを歩いていたときのことなのだが,はっと気がつくと街を逍遥する人々,長身の警官たちや普通の人びと,それらの全員が黒人であったときだった。自分自身は黒人差別主義者ではないが,正直に言ってかなりの衝撃だった。米国に住むということは,黒人と街や建物やあらゆる文化や生活を共有するということと同義語であることが,そのときしみじみと伝わってきたのだった。この違和感はシカゴ滞在中の短い時間の間に消滅していったが,この国の白人たちは果たしてどう感じているのか。
 当時のシカゴの街は,南部から中央部にかけて黒人たちが住む地域が広がり,白人たちは北へ北へと遁走していた。白人たちは,住居や生活区域を市の北側や郊外へと移動させていた。しかし,案内の院生の話を聞きながら現地を歩く中で,「白人たち」と呼ばれる存在そのものが,ひとくくりにできるほど単純な概念では理解できないことがわかってきた。
 案内してくれた院生のボブは街を廻りながら次のように言った。
「この街のこの辺は,ポーランド系の人が住んでいます。あの赤い看板の建物の向こうにかけてはドイツ系の人たちが住んでいますよ」と。
 米国という国家,あるいは共同体を形成しているそのような領域において,厳密で微細な民族名,あるいは人種名が,あるいは移民してくる前に属していた国名が未だ残っているのだろうかとの疑問が湧いた。いや「アメリカ人」というある一つの存在になっているのではないかと,渡米するまえは考えていた。しかし,ボブが指差して教えてくれる街は,見えない点線でくっきり分割されているようだった。すなわち,故郷の欧州を旅立ってきた人々の後裔たちは,それぞれの「ゲットー」を形成し,そこからはみ出さないように地域を分割しあって生活しているらしかった。
 その翌日,ボブは一枚の「シカゴの人種棲み分け地図」を見せてくれた。その地図は,アイルランド系,ポーランド系,スペイン系,ユーゴスラビア系,イタリア系,ドイツ系などの人びとが住む各地域が色分けされており,彼らの原故郷と欧州での国境が,そのままシカゴという都市の中にコンパクトに移植されていることを示していた。その地区の中には,英・米語ではなく現地語だけが飛び交うところもあると聞いた。米国在住の別の友人などに聞いてみると,東部の都市はおおむね前述のような構造になっているということだった。

2.古代日本の「異人たちの出遇い」

(1)異人と異人の出遇いと「棲み分け理論」
 遠い米国の話だけではなく,私たちの住む日本社会の成立を考えたときにも,日本列島の最も古い時代において異民族の集団同士の出遇いがどうであったかという問題にも繋がってくるのである。
民族学の本を見ると,大抵「ある民族(種族)と別の民族(種族)が出遇うとそこでは混血が起こった」という説明が当たり前のように書かれていたが,果たしてその集団全体が混血してしまうのだろうかという疑問を私はもっていた。例えば,北米大陸をみても,過去数百年の歴史の中で白人種と黒人種が同じ大陸に住んできたわけだが(先住民の黄色人種もいたのであるが),全体が混血して(均一化して)きたという事実はない。それは一体なぜだったのか。
 歴史の教科書を見ると,1万数千年前より日本列島には縄文人が住んでいたが,その後(紀元前数世紀前より)鉄器と稲作を持った弥生人が渡来し,さらに古墳時代には多くの渡来人が朝鮮半島を経由して日本にやってきてヤマト朝廷を作ったのだと考えられている。
 戦前は,皇国史観の影響もあり日本人「単一民族説」が広く信じられていたが,戦後は前述の教科書的な事実が広く認識されるようになった。縄文人と弥生人は一体化し,列島全体は同一言語が共有されていたと考える人が多いに違いない。しかし,シベリアなどの北方で氷河期を経験した古いアジア人は身体的特徴に変化をきたし(寒冷地適応,後述),それ以前の古モンゴロイド集団とは違った形質をもった新モンゴロイド集団に分かれていったという,自然人類学者,埴原和郎・東京大学名誉教授(1927-2004年)の理論に出会ったことで,私は日本古代においても異人(縄文人)と異人(弥生人)の出遇いがあったということを改めて確認することができたのだった。
もちろんその出遇いにおいて一部混淆(混血)が行われたであろうことは当然想像されるが,二つの民族全体が完全に混血するようなことは起きていなかっただろうと思う。
 さらに言えば,生物の世界には今西錦司・京都大学名誉教授(生態学者,文化人類学者,1902-92年)の提唱した「棲み分け理論」があるが,その中で今西博士はある同じ空間を,少しだけ違った種の動物たちが「棲み分け」していることを論証した(『生物の世界』弘文堂,ほか)。
 中国南部から東南アジアに山岳地帯にかけて,漢族,チベット系,タイ系,ミャオ・ヤオ系などの民族のほか,さまざまな少数民族がひしめくように暮らす生態をみても「棲み分け理論」が首肯される。山間部では狩猟・採取から牧畜,焼畑農耕,平野部では稲作がそれぞれ生業になっているが,それぞれの文化は互いに影響し合い,共有されているものも少なくない。にもかかわらず,これらの民族は多くは融合することもなく,通婚することもなく,棲み分けている。極端な場合は,ある山地の高地と中・低地をほんの僅か異なる民族が住空間を異にして生活しているのだ。民族学者のべルナツィーク(H.A. Bernatzik,1897-53年)は『黄色い葉の精霊』(東洋文庫)で,このような棲み分け族をさまざまに報告した。
こうした内容と前述の人間の異民族同士の出遇いを考えたときに,私の理論と「棲み分け」理論の二つは通底しているのではないかと考えるようになった。

(2)縄文人と弥生人
 ここで縄文人と弥生人の出遇いについて(埴原説や遺伝子人類学の尾本恵一氏や言語学の村山七郎氏らの学説をもとに)簡単に説明しておこう(埴原和郎編『日本人と日本文化の形成』朝倉書店,を参照)。
 1万年前ごろまで続いた最後の氷河期(最終氷期)のころ,東南アジアから中国南部にかけて住んでいた古モンゴロイドのある集団が北上を始めた。そして当時陸続きになっていたベーリング海峡(ベーリング陸橋=ベーリンジア)を渡りアラスカを経由して,北米,さらに南米の南端まで達した。それが現在の南北米先住民の祖先に当る人々だ。
 シベリアの極寒地帯で生活していた古モンゴロイド集団は,「寒冷地適応」をして寒冷な環境に適応した身体に変化していった。例えば,体熱を奪われないように体表面積をなるべく少なくするために,のっぺりした扁平な形態に身体が変化していった。この寒冷地適応した新しい身体を持ったモンゴロイドを「新モンゴロイド」と埴原氏は名づけた。
 その後,最後の氷河期が終わると,シベリア地方に住んでいた新モンゴロイド集団が南下し始めた。彼らはアルタイ語を基礎語として共有していたが,その南下には大きく三つのルートがあった。第一がもっとも東側のツングース系集団であり,第二が中央のモンゴル系集団,第三が西方のテュルク(トルコ)系集団だった。
 そのなかの東側のツングース系集団が,朝鮮半島を経由して日本列島にやってきた。これがいわゆる弥生人である。当時,日本列島にはすでに縄文人(古モンゴロイド,埴原)が住んでいた。縄文人の分布は,大まかに言えば,東日本に多く,畿内から北九州にかけての西日本がやや少なかったとされる。縄文人のやや少なかった西日本を中心に,稲作と鉄器文化をもった第一波の弥生人がやってきた。弥生人たちはまず北九州に定着し,ある一部はしだいに畿内へと移動した。その様相は「日本書紀」などの「神武東征」に反映している。あるいは中国の史書である『漢書』,『三国志』,『旧唐書』などに語られている。いわゆる「邪馬台国」と倭国の諸問題である。もちろん弥生人とは書かれていないが。日本にやってきた弥生人は縄文人と混血するのではなく,縄文人たちは東へ,北へ,あるいは南へと追いやられていったのである。あるいはみずから移動していった。
 大半の縄文人は弥生人とは混血せず,日本列島の辺境へと移動していったのであるが,畿内方面だと,熊野,吉野などの高山地域や,山陰地方,丹後,越の国などの日本海沿岸地帯に住んだ縄文人もいた。関東地方にも縄文人が比較的多く残ったが,一番多く住んでいた地域が現在の東北地方で,7~8世紀には「蝦夷」と呼ばれていた。そして南に追いやられた縄文人が琉球人や奄美大島などの南西諸島人たち,南九州の隼人,熊襲などであり,関東から東北,北海道に追いやられた縄文人が蝦夷,アイヌだった。
 ところで,韓流ドラマなどに出てくる韓国人俳優の顔を見ていると(というのは朝鮮半島をフィールドワークして調査したことがないので,役者たちの身体を観察しているのだが),縄文的特徴をもった人と弥生人的な特徴をもった人とが混在しているのがわかる。韓国の俳優たちは美容整形をする人が多いとされるが,貌や軀などの体形の特徴から見てもそれはわかる。単純化すると,縄文系は長頭といって,頭蓋を真上から見ると縦に長く,丸顔で髭や眉や体毛が濃く,やや背が低く小太りである。それに対して弥生系は短頭で(いわゆる後頭部が絶壁型),顔は縦長で髭や体毛は薄く,やや長身,いわゆる胴長短足が多い。それらの特徴に注目して観察すると,朝鮮半島にも古モンゴロイド系集団が進出していたのだと理解できた。日本列島周辺を見ると,言語学的に,サハリン(樺太)では中央部までの南部に古いアジア語が残り,千島列島,カムチャッカ半島は全体に古いアジア語が残存しているとされる。

3.「異人と異人は結婚しない」仮説

 異人(異民族)の集団と異人の集団とはなぜ混淆しないのかについて,私見を交えて考えてみたい。結論から言えば,異人と異人が集団で出遇ったときは互いに忌避しあったのではないかというのが私の基本的見解である。たとえば経済人類学の栗本慎一郎氏(『幻想としての経済』青土社,1990年)はその著書で,「沈黙交易」について述べているが,二つの異人たちが物々交換する際,ある異人たちは持って来た物を海岸に並べて船に乗って一時的に去っていく。すると,そのあたりの異人が現れて必要な物を取って,自分たちの持って来た物を置いて去っていく。すると先ほどの異人たちがやってきて,やはり必要な物を取って帰っていく,というもので,時間差を設けて顔を合わせずに物と物を交換している。彼らはなぜ顔を合せなかったのか。
 現代の世界を観察しても,コーカソイド,モンゴロイド,ネグロイドなどの民族的形質はしっかりと保持されている。人類史の発展と共に,多くの民族が共有する領域は次第に拡大してきているのに,身体的形質は未だにしっかりと保持されているのはなぜか。おそらく(例外はしっかりあったであろうが)ある種族や民族は,同じ民族の範囲のなかでのみ結婚してきたということではないか。つまり混血によって民族と民族の中間的存在が誕生することはあまりなかったのではないかということである。具体的な結婚の形態でいえば,ある共同体をベースにして外婚制や内婚制のようなことが想起されるだろう。
 「異人と異人は結婚しない」というときに,差別の問題を考えざるを得ない。例えば,ユダヤ人が欧州で差別されゲットーに押しこまれてきた背景には,ユダヤ人がヨーロッパ人(白人種)ではなかったこと(セム・ハム語族とされる),キリスト教ではなかったこと(ユダヤ人たちはキリスト教の宗教儀式に参加しない)などが主な要因であったと考えられる。つまり宗教的な違いに加えて,肌の色合い,目の色,髪の色,体臭,基本的生活習慣,言語などが,「超えられない溝」をつくっていたのだろう。〈差異と差別〉,そこには超えられない断絶があるのだろうか。
このように欧州の場合は,古代からキリスト教とユダヤ教,イスラームといったハードな宗教対立の問題があった。砂漠の民だったユダヤ人たちは,周辺の農業民の国家から宗教的に嫌われ(ユダヤ教の一神教と農耕社会の地母神信仰の違いなどから),国を奪われてヨーロッパやアジア各地を漂泊する民となった。キリスト教のヨーロッパ人は中世時代に聖地エルサレム奪還と称して,十字軍を派遣してイスラーム圏の人びとと何度も戦争したことに象徴されるように,そのころからキリスト教とイスラームは仲たがいしており,両宗教徒間の結婚もなかった。ちなみに古代ギリシアの学問は一度はアラブ的世界で継承され,ルネサンス時代のイタリアのヴェネツィアなどの海洋商業民らによってヨーロッパに逆輸入されている。
欧州はそうした宗教問題に加えて,近代以降,国民国家の成立とともにイギリス人,フランス人,ドイツ人などといった強固な民族国家意識が形成されて「過剰な国境主義」が生まれてきた。米国移民たちはそれを米国にも持ちこんできたというわけだ。その例が,冒頭で紹介した,シカゴ市のフランス系,ポーランド系,イタリア系などと区別されて住んでいた都市内国境圏の保持である。
また米国の歴史で言えば,東海岸に到着した欧州移民たちは各地に都市を建設しながら大陸の西へと展開したが,北部を中心に入植したグループと南部を中心に入植したグループがあった。一般に北部では,大都市をつくり工業化社会を形成し,一方,南部は,黒人奴隷を使った農業社会を形成して,彼らは南北戦争を経て一体化していくが,民主党と共和党という政治的対立をしっかりと残している。欧州から持ちこまれた国境の分断(民族の壁)とともに,南北の大きな違い(イデオロギーの壁)が形成された。
 次に古代日本についてみてみよう。
古代日本は,7~8世紀に中国から律令制度を学び,取り入れた社会を形成した。そのとき良民(農民やその他)と賤民(いわゆる奴隷, 官奴,寺奴,私奴など)とを峻別する身分制度を導入したが,(例外はあるにしても基本的に)良民と賤民とは結婚できなかった。後に律令の規定が崩壊して,しかも身分の規定があいまい化しても,通婚できない階級差はずっと残ったと考えられる。被差別社会は中・近世社会から始まったと,かつてはされていたが,私はその根源は古代の良賤制まで遡るのではないかと考えている。
また(異人である)蝦夷を同化,皇民化させるためにヤマト朝廷は,蝦夷の地域に和人を移住させたり,逆に彼らを日本各地に分散して移住させ,20~30人から二,三百人単位で部落を作って居住させていた(その地域は,ほぼ,日本全国に及ぶ)。「六国史」に現れる彼らは律令制の税金を免除されていたので,「賤民」扱いにされていたと考えられる。とすると彼らは周辺の一般人(良民)と結婚できなかったと考えられる。少数で移住させられた蝦夷の人たちは,子孫を残せずに滅んでいったであろうし,多くが集住したところでは,同族内結婚も可能で,生き残ることもできたであろう。
 このような日本への同化や皇民化はそれほど成功せず,結果的に,弥生系集団と縄文系集団は,別々に分かれて暮らしたと考えられる。ヤマト朝廷をつくった弥生・古墳人たちの子孫は「蝦夷」を皇民化しようとして懐柔するか,あるいは北方へと追いやった。同化した「蝦夷」を「にぎ熟えびす蝦夷」(俘囚とも言った),同化しなかった「蝦夷」を「あら荒えびす夷」と称した。越後地方や関東地方は「熟蝦夷」が多かったように思われる。北方に追いやられて最後に残ったのが東北地方から北海道の「蝦夷」「アイヌ」だった。彼らは同化せずに,それぞれに生き方,生活の仕方を守り通してきたが,明治以降の政府のアイヌ政策もひどかった。アイヌ人たちが自覚的に固有の文化(言語や習俗その他)を伝承しようとする運動を始めているが,困難はまだまだ続くに違いない。
 ところで,「異人と異人は結婚しない」仮説が崩れる論点としては,征服者が非征服民を捕まえて奴隷化する,あるいは女性を犯すなどして混血児を集団として生みだした事例が挙げられる。征服という民族間の理不尽な,ある民族が他の民族を武力を基礎に侵していくという「交流」,というより一方的な強制的な関係性の押しつけを否定することはできない。その最も典型的な例が近代初期の南米のスペイン人による劫略で,征服民族の多くが非征服民の男を殺したり,女性たちを奴隷や性暴力を受ける存在にした。そして暴力によって生まれたメスティーソのような混血児集団が登場した(南米全体に拡がっている)。このような征服による混血的な民族の誕生は世界のさまざまな領域で発生していたことであろう。
それでは,異人と異人の個別的な恋愛や結婚などの交流の例は別にして,集団的な出遇いにおいて,なぜもっと自由な交流がなかったのか。民族の大きな移動は古代以来次第に減少し,都市を別にすれば出遇いそのものが少なくなったこともあるだろう。しかし積極的に交流しなかったのが事実であれば,そこには人類の生存に関わる根源的な理由があったのではないか。
 表層的には人種や民族の間の身体的な形質や言語や習俗といった文化的差異が,異人同士の間にある種の〈違和〉の感覚を発動させていたのではないかと考えられる。深層的には,種族や民族や共同体が,その成員の生命や生活の存続を含めて社会を維持する最も良い方向性を選び取ってきたのではないか。そこには人類が誕生し,地球という環境を独占したり共有したりするといった経験の中で,さまざまな試行錯誤が繰り返されながら獲得した,共同無意識的な叡智(共同幻想)が働いているのではないか。

4.人格尊重による共存・調和の社会

 戦後間もない頃,差別のない平等な社会を作っていこうという思想的流れとその機運があった(日本統治のために駐屯したGHQの民生部が,憲法を含めて日本の民主化を促進してくれたと思う)。しかし昨今の社会を見ると,いい方向にいくよりは差別感が高まっている感じすらある。例えば,最近のヘイトスピーチのように,戦後日本社会の在日朝鮮・韓国人に対する差別はひどいものがある。外国人登録証と指紋押捺から,各企業の就職拒否まで。在日の就職できる場所は限られている。古代まで遡れば,日本人と韓国・朝鮮人は同じツングース系集団にいきつくのに,どうしてそこまで差別するのだろうか。
 自分自身の精神構造を覗いてみれば,そこには無意識の差別意識が同居しているのに気がつく。人間という存在は,自分より下層の存在を確認できると安心して存在できるのではないだろうか。その背景には,経済的貧困の問題もあるだろうが,思想史的問題もあると感じる。戦後,とくに大学界を中心にマルクス主義史観が拡大した。マルクス主義哲学には,唯物弁証法という考え方があって,違った二つの要素が争い相手をやっつけて,そのような矛盾による闘争の結果,ある新たな存在様式が生み出される。これを止揚というのが基本的考えである。
今西錦司博士の「棲み分け理論」は生物学の理論だが,マルクス主義史観との対比から敷衍して考えてみると,闘争によって新たな社会を作るのではなく,理念をぶつけあいながらも闘争せずに共存する社会を想定し,闘争によって新しい次の段階の社会へと進めていけると主張したマルクス主義批判の側面があったのではないか。戦後日本の思想界の歴史は,マルクス主義が主導して始まった。しかし「棲み分け」理論が思想的転換を導き出せば,平和・共存共生社会の実現に向って行けるのではないだろうか。共存共生の基本は人格尊重だ。人が生きやすく皆が自由に生きていける社会の実現には,福祉国家の形成が絶対だが, 経済的バックアップとともに,差別意識を超える真摯な内省が求められている。
さらに人種間の差異という観念と,古代以来の差別意識には切り離せないパラレル性があると考えている。差別の問題は,支配・被支配による民族間にも起こるが,同種族間の歴史的経緯や居住地域差や貧富の差による身分階層などによっても起こってきた。差別感情は,ふつう地縁的感情として成立している共同化や連帯感を拒絶し,離反したい,接近したくないという感情を形成する。このような感情が「異人と異人は結婚しない」に該当する感情を生み出したのだろうか。
 ともかくも一つの民族は血縁や地縁によって同化しようとする傾向と,何らかの理由によって離反したいという二つの矛盾する性格を持っていると思う。このような乖離の感情はなかなか克服できない構造であるとも感じている。
(2015年11月18日)

■プロフィール あだち・ふみと
東京藝術大学美術学部芸術学科卒。ブックデザイン・編集・執筆などに従事。武蔵野美術大学機関誌『武蔵野美術』元編集主幹,武蔵野美術大学講師等を経て,現在,「木の聲舎」代表。美術・デザイン・文学の総合雑誌「游魚」を刊行。主な著書に『神々の悲劇―ギリシア神話世界の光と闇』『日本文化論の方法―異人と日本文学』『漢民族とはだれか』ほか。