日本フィリピン国交正常化60周年に寄せて

元駐フィリピン大使 湯下 博之

<梗概>

 2015年12月31日,アセアン経済共同体(AEC)が発足し存在感を増すアセアン諸国であるが,その中でもフィリピンの存在は大きいものがある。今年(2016年),日本とフィリピンが国交正常化して60周年を迎える。フィリピンは先の大戦において多くの犠牲を出した国の一つであるが,現在の日比関係は非常に良好だ。ただ日本ではフィリピンに対するマイナス・イメージがまだ存在することも影響して,双方向的な交流が行われているとは言いがたい。今後の友好関係と発展に向けて課題を踏まえつつ思いを馳せた。

戦争の記憶と許し

 私はかつて駐フィリピン大使を務めたが(1996-99年),それ以前にも外交官としてインドネシア(1969-71年),タイ(1978-81年),ベトナム(1991-94年)など東南アジア諸国に勤務した経験があり,この地域とは縁が深い。その中でもフィリピンは,ユニークな国だと思う。例えば,フィリピンは「アジアのラテン国家」とも言われるように,非常に陽気,フレンドリーで,歌と踊り好きの国民性をもつ。
 アセアン諸国の中で地理的に日本に一番近いところに位置するフィリピンは,人口規模で見ると,アセアン諸国の中でインドネシア(2億5千万人)に次いで二番目に大きい国だ(1億人)。ところが,日本人一般からすると精神的に近いとは必ずしも言えず「近くて遠い国」でもある。
 それは先の大戦の名残のためかもしれない。太平洋戦争の時期,フィリピンは米国支配下にあったので,フィリピン人は米国の立場で日本と戦争をした。それを象徴するものとして,一例を挙げると,フィリピンでは4月9日を「勇者の日」(Day of Valor)として記念行事を行っている。
 1941年当時,フィリピン防衛に当っていたのはダグラス・マッカーサー率いる米極東陸軍であったが,日本軍の攻勢により同年12月にマニラから撤退,マニラ湾を挟んで西側に位置するバターン半島とコレヒドール要塞に立てこもった。翌年日本軍はマニラを無血占領した後,同要塞を攻撃,米比軍は日本軍の侵攻に耐えられずマッカーサーはコレヒドール島を脱出,日本軍は4月9日にバターン半島を占領した。そこで日本軍は投降した約7万6千人もの米比軍捕虜を120キロ離れた収容所に移動させたが,たどり着いたのは約5万4千人といわれ,残りは逃亡ないし犠牲になったという。これを「バターンの死の行進」といい,バターン半島が陥落した4月9日を「勇者の日」と決めて歴史的に記憶しているのである。
 この日にはバターン半島で毎年記念行事が開かれている。この記念行事には,現職大統領をはじめ在郷軍人会などが参加するほか,駐フィリピン日本大使や米国大使が招待されるのが慣例となっている。
 こうした経緯もあり戦後しばらくは日本に対して厳しい感情もあったが,今ではフィリピンと日本との関係は非常に良好なものとなっているので,そのような式典で日本に謝罪を要求するような発言は聞こえてこない。そしてこの行事は,フィリピンでは,現地の新聞や放送などマスコミには写真入りで大きく扱われている。
 しかし残念ながら,日本のメディアはそのようなできごとを報道してこなかったから,私自身も現地に赴任するまで知らなかったし,日本の人たちには知られていないと思う。
 ところで,フィリピンの政治は,地域の有力者が中央政界にまで進出して,国会議員や大統領などになってきた歴史がある。戦争中,日本軍は各地に攻め入ったとき,降伏せず抵抗した地方の有力者を公開処刑したという。現在でも,その処刑された有力者の子孫が同じように地方の有力者(知事や国会議員など)になっているケースが多く,彼らには戦争の生々しい「記憶」が残っている。そういう人士も,今ではわれわれ日本人に対して厳しい言葉をかけるわけではないが,やはり記憶の中にはそうした「傷」があるということを忘れてはならない。
 そのような厳しい日比関係の中から出発しながらも,双方関係者による地道な努力とその積み重ねによって,現在のような良好な関係ができたのである。この歴史的な経緯と事実を日本人として知っておいてほしいと思う。そのようなフィリピンの人々の痛み,傷を理解した上で,彼らとの未来志向の友好関係を築くことが第一に重要なことではないか。
 過去を許してくれる精神的背景には,フィリピン人の国民性もあるだろう。例えば,ベニグノ・アキノ現大統領(在位2010- )は,「過去のことを忘れてはならないが,許すことが大切だ」と述べた。また1950年代,家族全員が日本軍に殺されたというエルピディオ・キリノ大統領(在位1948-53年)は,当時マニラに隣接するモンテンルパにBC級戦犯が収容されていたが,彼らを全員日本に送り返してくれたという。これも同じ発想だと思う。
 このようなフィリピンの人々の心根をわれわれ日本人としては,しっかり心に記憶としてとどめておくことが重要だ。このような事例はあまり見られないものであり,感動に値するものといえる。

戦争の歴史へ深い思いをいたす天皇陛下

 天皇陛下について申し上げれば,今回のフィリピン公式訪問(2016年1月)の目的は親善であるが,陛下の場合は,反日感情もまだ強かった時期に皇太子として訪問されたご経験と思い出があることから察して,かねがねおいでになりたかったに違いない。
 1962年,今上陛下は当時皇太子としてフィリピンを訪問された。そのころは戦後まもなくでもあり反日感情が強く,何事かあっては大変だと訪問を危惧する声が強かった。当時のディオスダド・マカパガル大統領(在位1961-65年,グロリア・マカパガル・アヨロ第14代大統領の父親)は,「自分が責任を持って失礼なことが起こらないようにするから」と確約して皇太子殿下を招き,無事訪問を終えることができた。
 かねがね陛下は戦争,戦没者慰霊を重視してこられたが,アジア諸国の中でもフィリピンは,太平洋戦争での日比双方の戦没者が多かった地域の一つで,日本兵が51万8千人余が亡くなったといわれる。このような「傷跡」が残る国であるから,親善訪問といっても慰霊への思いは並々ならぬものがおありと思う。戦後60周年の2005年にはサイパンを,戦後70周年の2015年はパラオを訪問され慰霊された。
 山本雅人著『天皇陛下の本心』(新潮新書,2014年)によると,
「陛下は80歳の誕生日の会見で,これまでの人生で最も印象に残っていることとして,戦争を挙げられた」。
「即位20年に際しての記者会見で,(「人口が減少し始めて日本の経済が心配ですが日本の将来でご心配なことは?」との)質問に答えられて,『私がむしろ心配なのは,次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は非常に厳しい状況のもとで始まりました。・・・』」。
 このように天皇陛下は,戦争を含む歴史に対して,非常に深く考えておられると思う。(2016年1月の)フィリピン公式訪問のときも,それなりのウェイトを置いた深い思いを抱いて行かれるに違いない。天皇陛下のご訪問をきっかけに,陛下の思いがマスコミで報道されることによって,日本の多くの人々にも戦争の傷跡のことなどについて認識されるきっかけになればよいと思う。

マイナス・イメージ改善への努力

 日本におけるフィリピンのイメージは正確でない。フィリピンというと,物騒だ,治安が悪い,などのイメージがある。とくに旅行業者に話を聞くと,フィリピンは危ないというイメージがあってツアー客が集まりにくいという。「セブ島」は,新婚旅行をはじめ多くの日本人観光客が行く人気スポットの一つだが,それを「フィリピンのセブ島」と表現すると,ネガティブなイメージになってしまうので,「セブ島」だけをキャッチコピーにするという。それほどイメージが悪い。
 また,ある商社の方の話であるが,フィリピン勤務を終えて帰国することになったある社員のために送別会を開いたとき,その社員は「フィリピン勤務を経験する中で,私は二度泣いた」と挨拶したそうだ。その意味は次のようだった。最初にフィリピン勤務を命ぜられたとき,(フィリピンの悪いイメージにとらわれていたために)同僚や家族から非常に心配されて困ったということだった。ところが現地に滞在して経験する中で,(赴任前の悪いイメージとは逆に)フィリピンの人々の温かさと生活環境も悪くないことを実感して,かえって厳しい経済状況の日本(当時の日本は長期不況だった)に戻るのが辛いとして二度目に泣いたというのだった。
 そういうこともあって,在フィリピン日本人商工会が現地で日本のマスコミ記者団に,「フィリピンからの報道は事件や災害など悪いことばかりで,フィリピンの良い面はさっぱり報道してくれない。それを是正しバランスの取れた報道をしてほしい」と要請した。しかし記者団は,「本社のデスクに言ってくれないとどうにもならない」と回答したという。
 世界の国々を比べてみれば,フィリピンで起きているような事件は,とくに危険度が際立って高いといえる程のものとはいえない。しかしフィリピンについてのマイナス・イメージのゆえに,日本からの観光客は年間38万人程度でしかない。一方,フィリピン人の行きたい渡航先の上位に日本が入っているし,日本に滞在するフィリピン人は,中国,韓国・朝鮮に次いで第3位だ(約21万人)。

今後の日比関係発展への期待

 1980年代半ば以降,日本はプラザ合意(1985年)によって急激な円高が進み,日本人の海外渡航者が急増するとともに,日本からの海外投資も大きく増えた。東南アジア諸国への投資も増えたが,フィリピンは86年の民衆運動によるマルコス大統領失脚に伴う政治的混乱のために,日本からの投資が逆に減ってしまった。
 その後,コラソン・アキノ大統領の時代(在位1986-92年)は政治手腕が不十分でクーデタ未遂事件もあってそれほどではなかったが,次のフィデル・ラモス大統領時代(在位1992-98年)になると,政治的,社会的に安定度が増した。当時,TIME誌が「The Philippines: A New Asian Tiger Is Born」と発展するフィリピンをカバーに取り上げていた。この国は,戦後長く大統領の手腕と政治的安定度によって国の命運が左右される歴史を経験してきたが,最近はようやく大統領に関係なく安定的な政治・経済が運営されるようになったようだ。
 フィリピンには,フィリピンに位置する公営および民営の輸出加工区に投資する企業に対して各種優遇措置を付与するフィリピン経済区庁(PEZA: Philippine Economic Zone Authority)がある。同庁の事務総長(Director General)デ・リマ女史は,永年同職を務めてきた知日家でもあり,非常によくやってくれる人物だ。こうした経済特区も活用しながら,日本・フィリピン経済の双方向的な発展を図れればと思う。
 さらに近年の中国の南シナ海への急激な進出などに見られるように,フィリピンの地政学的位置は,安全保障や国際政治の面でも重要性が増しつつあり,日本にとっても重要である。
 フィリピンは米国統治の経緯もあって米国に対しては複雑な気持ちがある。米国とは冷戦時代を経て米比相互防衛条約を結び(1951年),米軍が駐留するようになったが,92年までに撤退。ところがその直後,中国がフィリピンも実効支配していた南沙諸島に構造物を建設し始めた。近年,さらに中国の南シナ海進出が進む中,2014年フィリピン政府は,海上安全保障や合同演習の拡大を通じたフィリピン軍の能力向上,災害救援などでの協力強化を目的とした「米比防衛協力強化協定」を結んだ。
 またフィリピン人は海外に出稼ぎに行く人が非常に多く,彼らが現地で稼いだ外貨送金はフィリピンのGDPの1割を占めるといわれるほどに,国の経済を支えている。その背景には,フィリピンの地場産業(製造業など工業分野)の発達が不十分だということがある。そのため国内の雇用機会が少なく,海外に出稼ぎに出る人が多い。フィリピンは英語も公用語のひとつになっているので,それが海外進出の有利な条件となっている。
 日本との関係では,フィリピンから看護師が日本に来ているほか,東北地方の農村部の男性に嫁ぐフィリピン女性も少なくないと聞いている。彼女たちは夫の親に親身に尽くすので評判がいいようだ。フィリピン人は明るくフレンドリーなので,日本人も気軽につきあったらいいと思う。
 日本フィリピン関係は,いろいろな意味でこれからもさらに結びつきを強固にして発展させていく必要がある。すでに述べたように,フィリピンのマイナスのイメージによってその全体像が正確に伝えられていないのが惜しまれるところであり,今後の課題でもあると思う。
(2015年12月15日談,文責編集部)

■プロフィール ゆした・ひろゆき
1959年東京大学法学部卒。外務省入省,オックスフォード大学留学。その後,内閣法制局参事官,外務省海洋法副本部長,86年在中国大使館公使,91年駐ベトナム大使,94年外務省研修所長,96年駐フィリピン大使,2002年杏林大学客員教授などを歴任。現在,民間外交推進協会専務理事を務める。専攻は,国際関係論。主な著作に,「国連海洋法条約準備委員会の経過と問題点」「2001年のアジア情勢の展望」「中国の政治,社会,経済情勢」など。