欧州移民問題と共同体形成の哲学的基礎

立教大学教授 澤田 直

<梗概>

 近年,欧州各地でイスラーム過激派によるテロが発生しているが,それは欧州の移民問題と密接に関連している。とくにフランスにおいては,共和国原理に加えて戦後のフランス社会の価値観の変化という要因が作用して,ホームグロウン・テロリストを生んでいる。欧州統合の困難に直面する今日,これからの多元的社会における共生のあり方として,非所有の思想,すなわち「分有(シェアー)」の考えに基づく共同体意識の形成という哲学を構築していく必要があるだろう。

1.欧州テロと移民

(1)1930年代と類似した今日の状況
 ここ数年,欧州各地でテロが発生しているが,とくにフランスでは昨年(2015年)1月と11月にパリにおいて,また今年7月には南仏ニースにおいてトラック突入テロが起きた。そのほとんどがホームグロウン・テロであるといわれ,その背景には移民・難民問題,社会的差別,経済格差などの問題が指摘されている。その一方で,欧州各地で反移民を掲げる勢力が台頭しており,何かしら1930年代の様相を感じる。すなわち,第一次,第二次世界大戦の戦間期を中心として,世界恐慌から始まりその余波が欧州に及び,戦後処理とあいまってドイツでヒトラーが台頭して第二次世界大戦へと繋がる世界情勢である。
 ことにフランスに限るとそのような感を強くする。当時,フランスでは反ユダヤ主義が高まり,フランス共和国内での「他者」が社会的にも思想的にもクローズアップされていた。当時も極右勢力の台頭のみならず,人民戦線など左派勢力もあって国内は混沌とし,政情不安な状況だった。しかもめまぐるしく変わる政権自体には力がなく,右往左往していた。そのようなフランスの政治状況を思い起こすにつけ,現在の欧州の政治状況との対比で類似性を感じざるを得ないのである。
 近年の日本でも,その傾向が恐ろしいほど強まっているが,共同体における「他者」を見出して,それをはっきりと名指し排除することで国民統合に結び付けていこうと主張する人たちがいる。当時のフランスでは,そのターゲット(内なる敵)がユダヤ人だった。さまざまな事件や問題が起きて国全体が不安定なのは,(フランス共和国に)外から入ってきたユダヤ人のせいだとして,ユダヤ人がスケープゴートにされたのだった。現在は,ユダヤ人に対するそういう言説は影を潜めているが,それに取って代わるように,共和国にとってよくない分子としての「移民」を極右勢力がはっきりと主張している。そのような「(邪魔な)存在をなくせば共和国はよくなる」という主張は,まさに1930年代のフランス右翼の言説と同じなのである。戦後のある時期までフランスは復興のために多くの移民を共和国市民として受け入れたけれども,当時は経済が右肩上がりであったこともあり,その存在は目立たず今日のような反移民感情の盛り上がりはほとんどなかった。

(2)過消費社会の到来と価値観の変化
 ここ数十年の間に,欧州の一般の人々の価値観は大きく変わったと思う。例えば,今から20-30年前のフランスは,自分自身の留学時代を振り返っても,日曜日とは非常にさびしくて,やることがない日だった。つまり,当時はお店がみな閉まっていて,教会に行くことが唯一の行事であった戦前の風習がいまだ残っていたような時代だった。それはもともと安息日(日曜日)には働いてはいけないというユダヤ・キリスト教の伝統に基づく慣行だったが,近代になって労働運動の進展と共に労働者に対する休息の確保と結びつき,ある意味で(労働者の権利保障という)「聖域」になって崩せなくなった。
 そのころのフランス人はそれほどショッピングが好きな人たちではなかった。バカンスの楽しみでも,いかにお金を使わずにゆっくり過ごすかというところに焦点があった。「バカンス」という言葉には,もともと空虚という意味があることに象徴されるように,何もしないでのんびり過ごすという発想で生きてきたといえる。また日曜日にしても,家族で散歩して過ごしたり,延々と続く昼食を楽しむということも多かった。高度経済成長時代を生きてきた日本人にとっては,そうしたフランス人の生き方はカルチャー・ショックそのものだった。彼らには日本人が考えるような「レジャー」という発想はなかった。
 しかし,近頃のフランス人はそうではない。現在では,夏と冬のバーゲン・シーズンは,大手デパート,ショッピング・モールなど(規制が緩和されて)日曜日でも営業できるようになり,多くの人がショッピングを楽しもうと集まってくる。とくに若い人たちは過消費傾向が顕著だ。フランスも日本と同じような大量消費社会に変質してしまった。楽しみ方が変わり,日本や米国のような過消費傾向の強い社会に親近感を持つようになったようだ。
 そのような変化の中で人々は何を求めていくのかというと,若者の意識を見ても,圧倒的にマーケティング系の職業に人気がある。いかに稼ぐかという発想が強くなったように思う。かつてのフランスのイメージとは違う。その背景には,世界的なグローバル化の影響があると思う。
 ただ,フランスの場合は,そうした過消費社会のあり方に反対し批判する思想家や運動家がいて,社会に向けて活発な発信をしており,その点は日本との大きな違いであろう。例えば,経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche, 1940- )のような脱成長の主張を強くする人は日本にはあまりいないから,そのような運動がなかなかさかんにならない。環境問題も含めたライフスタイルを考えるフランスの思想家たちから学ぶべきものは多い。

(3)快楽主義への反感
 戦後を通じて変質してしまったフランスをはじめとする西洋型社会は,共通の価値として「快楽主義」とほとんど紙一重の「個人の幸福」以外の指標を持っていないように見える。昨年(2015年)11月と今年7月のテロが標的としたのが,スポーツ観戦,コンサート,レジャー,飲食といった,個人のささやかな幸福が享受される場所であったことは,きわめて象徴的かつ徴候的であった。昨年1月のシャルリー・エブド襲撃の標的が,「思想」や「表現」の自由であったとすれば,その後のテロで狙われたのは「快楽」の自由であった。フランスの自由が攻撃されたことは変わらないとしても,人間の尊厳としての高貴な自由であるよりは,経済的自由主義と不可分な,少々危うい自由であるように思われる。そこでは個人の欲望を満たす方途が,経済的な回路に直結しているからだ。
 イスラーム原理主義者たちはどこに焦点を当てたのか。普通の人たちが楽しめる場所が標的とされたということ,それは経済至上主義となんらかの関係があるように思われる。昨年11月に標的となったものは快楽的なものと一致している。イスラーム原理主義は,至上の逸楽は天国に行くことだと説いているわけだから,快楽を敵視する部分があって,そこを狙ったテロの根底には「不届きにもそんなことをやっている人には罰が下る」という意味があったのかもしれない。
 ところで,フランスに行ってわれわれが驚くのは,ハイ・カルチャーの場面(美術館,オペラ,クラシック・コンサートなど)には金持ちの白人と外国人しか行かないことだ。ここにアラブ系,アフリカ系はほとんどいない。一方,プアー・ホワイトと移民の人たちが出会う場所があって,それがサッカー場,カフェ,ロックコンサートなどだ。2015年11月や今年7月のテロで標的になったのは,ある意味で,両者が重なり合うような部分であった。そこはアラブ系移民の人々も被害者になりうるところである。これまでルーブル美術館など欧州の偉大な文化遺産というハイ・カルチャーの部分は,攻撃の対象になっていない。もし彼らが西欧文明社会の本丸を攻めるとすれば,そこは普通の人たちが楽しめる場所とは重ならないはずだ。
 他方,2015年1月のテロではユダヤ教徒が標的となった。ユダヤ人があからさまに標的となったことで,これまで沈静化していた反ユダヤ主義が復活するおそれがあるかもしれない。

2.フランスの特殊事情

(1)強力に作用する共和国原理
 フランスは「共和国原理」が非常に強く作用する国と言われる。
1789年のフランス革命によって,それまでの絶対王政は共和制へと変わった。政治的にいえば,貴族を中心とする王政を解体する過程において,さまざまな中間団体的存在をなくしていったということもある。
 革命以前のフランス社会は,世俗的権力(=王権)とともに,カトリックが社会のすみずみを支配していた。革命によって,王政のみならずカトリックの支配体制も解体されて共和国体制の中に組み込まれていき,一見すると宗教(カトリック)は後景に退き,消えてしまったように見える。しかし,キリスト教的な発想はフランス共和国の中に根強く残っている。
 結婚制度を例に挙げてみてみよう。日本では,書類(結婚届)を役所に提出すればそれで結婚が成立する。一方,フランスでは,役所に書類を提出するだけでは結婚が成立せず,共和国の代理人(行政職員)が,(証人が見守る中)フランスの三色旗のたすきをかけて(結婚のための)儀式を執り行うことによって結婚が成立する。それはまさにかつてカトリックの司祭がやっていたことであり,世俗の共和国の行政職員(市長,助役など)が執り行う「共和国の名において結婚を許可する」という意味の儀式なのである。つまり,共和国という制度が,宗教的な枠組みをそっくり引き受けたのであった。
 1905年の法律(政教分離法)によって政教分離が定められ,それ以降,公の場面で宗教色を出すことが禁じられた。「共和国」という発想には「神」はいないのだが,一種の擬似宗教のようなものである。例えば,フランス人権宣言は「至高存在の前に,かつ,その庇護のもとに,人および市民の以下の諸権利を承認し宣言」した。「至高存在」(l'Être Suprême)は「神」ではないが,共和国の理念であり,(神が共和国理念に置き換わっただけで)まさにカトリック教会と思考の構造はまったく同じなのである。
 そういう意味で,キリスト教(カトリック)に取って代わった共和国にとって,一神教のユダヤ教やイスラームは,共存するのが難しいところがある。共和国は,一見すると無色透明の無宗教の制度のようなのだが,その主張には「共和国原理を認めない人間は,国民あるいは市民ではない」という基本的スタンスが込められている。それは一種の宗教信仰の構造に非常に近い。この視点を理解しておくことが,フランスにおけるホームグロウン・テロリストを生む背景を考えるときに重要だ。
 フランスの中でも,アルザス,ロレーヌは歴史的経緯があって,いまだに宗教的なものが残っているが,そうした一部を除けば全てが共和国原理で成り立っている。そのときユダヤ教やイスラームはどうなるのか。正統派ユダヤ教徒や信仰に篤いイスラーム教徒の場合は,究極的には神の原理しかないので,つきつめていけば共和国原理と抵触せざるを得ない。しかし多くの一般国民は,そのようなことまでは考えずに目をつぶってなんとか共存している。

(2)移民第2世代が直面する課題
 移民問題は,前述の「共和国原理」というフランス固有の構造的な問題に加えて,格差や貧困などの社会・経済的問題,文化的違いなどが加わってさらに複雑化している。
 移民の2世代,3世代目は,フランスで生まれ育ち,フランス国籍をもったれっきとしたフランス人である。そのため,学校教育の中で,共和国原理(自由,平等,博愛の原理)を徹底的に叩き込まれる。すなわち,非(脱)宗教的な「共和国という宗教」を内面化していく過程である。その結果彼らは,親たち第1世代と比べると,権利要求の意識と度合いが強い。移民第1世代は,そのような内面化がなされておらず,生活のためにやってきたので,フランス共和国に対して権利の主張をすることはあまりない。
 ところが,移民2世・3世が学校課程を終えて社会に出ると,いろいろな形の差別に直面する。例えば,フランスにおける就職活動は,日本のように会社がある時期に一斉に募集するのではなく,個々人が会社に応募して自分を売り込み,職を探していくしくみになっている。そのとき自分の履歴書を送るわけだが,名前がアラブ系であると会社からの反応が全くないということがしばしば見られる。同じ履歴書でも非アラブ系の名前であれば,すぐ反応があるという。そのような歴然とした差別が大きな社会問題として指摘されるようになって久しいが一向に改善されない。
 そういうわけで,移民系フランス人の就職状況は悪く,失業率も高い。同時に,彼らは学校教育を通して共和国原理を徹底的に叩き込まれているので,自由・平等を掲げるフランス共和国の,社会の現実は(共和国の理念と)全く違っていることを痛感するし,「共和国という宗教」に対して強い失望感を抱いていく。
 移民系の家族は出身の地域ごとに集住する傾向が見られ,大都市とその郊外は一種のゲットー化しているので,その中では同じような差別感のエートスが共有されている。そして「いくらがんばってもダメだ」という不満が鬱積していきながら,そうした雰囲気が拡散していく。そのような不満を持った人が,すぐにイスラーム原理主義運動に取り込まれていくわけではない。数十年前にも都市における暴動や自動車を燃やすなどの過激行動に出ることはあった。
 それでは今なぜ,彼らが先鋭なイスラーム原理主義者になるのか,ISに身を投じることになるのか。そのプロセスは,なかなか複雑で,単純化して説明することはできないが,その根底には共和国原理という宗教に幻滅した若者たちが,自分たちのよりどころとすべきものは何かないかと探したときに,原理主義集団の強い形でのリクルートに出会い,そこに引かれていくのではないか。

3.未来から発想する共同体のあり方

(1)世俗化した西洋社会とシャリーアの支配するイスラーム世界
 欧州の歴史を振り返ってみれば長いこと多様な文化が共存しつつも,それらがぶつかり合うということを経験してきた地域であった。例えば,イスラーム統治時代のスペインでは,ある意味で,ユダヤ教徒,イスラーム教徒,キリスト教徒がうまく共存できていた。ところがレコンキスタの後,キリスト教がすごい勢いで他教徒を断罪していった。それだけにスペインは異端審問が激しかった。しかし,原理的に言って3宗教が共存不可能だということはないと思う。
 ここでフランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy,1940年- )の思想などを参考に,これからの共同体のあり方について考えてみたい。
 ユダヤ=キリスト教が,ギリシア=ローマ的なものと融合しながら形成された西洋文明において,社会が合理化され,世俗化が進み,物質化される過程で,キリスト教的なものは後退したと一般に考えられるが,ナンシーは,近代そのものが,キリスト教の生成変化であり,西洋文明の根幹の枠組みはいまなおキリスト教的なものであると指摘している。それが世界化の流れの基本(main stream)をなしているが,このような近代化・世俗化の過程とイスラームはどのように対峙していくのかが問われる必要があるだろう。世俗化が進んだ西洋文化と,世俗化を拒んできたイスラームとの関係である。もちろんイスラームの中にもさまざまな潮流があるから単純化はできないが,一見世俗化したように見えるイスラーム世界においても,宗教的な巻き返しが政治と結びつく流れが世界で見られる。
 西洋においては宗教的なものが世俗的なものに変わり,共和国,近代社会の枠組みが形成されたが,より原点に戻って宗教と政治の一体化を目指すイスラームとの間では当然衝突は避けられないかに見える。
 フランスは,基本的に(共和国原理の)フランス共同体信仰者の集まりである。そこにおいて同時に,プラス・イスラーム教徒であるというダブル・アイデンティティが可能であるかどうか,これが問題になる。両者の原理を突き詰めていけば,理論的には両立は不可能に見えるが,現実には各人がなんとかそこに折り合いを付ける必要がある。
 実際,キリスト教徒であれ,ユダヤ教徒であれ,先鋭化すれば共和国の原理と両立しない部分も噴出しかねないが,普通はうまく共存している。同様のありかたを,共和国はイスラーム教徒との間に模索する必要があるだろう。だが,イスラームにおいては聖(宗教性)が非常に強く,世俗法が発展せず,シャリーアが支配する共同体として発展した歴史的経緯がある。
 それではなぜ欧州で世俗化が進んでいったのか。キリスト教の教会法は,神の法=ユダヤ的律法をそのまま受け継いでいるわけではなく,ローマ法の体系を吸収しながら発展し,そのような構造の中でキリスト教はそれ自身が世俗化していった。だが,イスラームはそうではなかった。

(2)分有(シェアー)の思想
 一方で,共同体で対立・葛藤が生まれる背景には,あくまでも土地やネーション(国民国家)に基づいた共同体を中心に考えているからなのではないか。フランスは,革命以降,国民国家と文明化の2本柱を基本とする国だった。例えば,国籍についていえば,ドイツとは違い最初から出生地主義を取っていて,共和国原理に賛同すればどのような血筋であってもフランス国籍が与えられるが,一旦国籍を取得したからにはフランス共和国のエートスは守るべしという発想だ。根無しはダメであり,フランス文化に従うべきことは譲れないと考える。
 日本は圧倒的日本人の中に極めて少数の外国人がいるという構造であるが,大都市の郊外だけでなく,パリのある地区ですら,白人のフランス人がマイノリティだと感じるくらいのところもある。一方,郊外には富裕層のみが住む地域もあり,不可分である共和国は現実にはさまざまな形で分断されている。
 今日のように多くのエスニシティが混在する中で,それぞれのオリジン(根っこ)を主張し始めたら到底収拾つかないから,もともとの「根っこ」にはこだわらないかたちでの共同体のあり方を,今後はどこかで意識していく必要があるのではないか。今後は多様性から始めて,未来の方から新たな基盤をもってくる共同体のあり方を探求すべきである。
 ところで,空間というのは,二つの者が同じ時間に同じ空間を占有することはできない。誰かが占有すれば,別の人はその場所から排除されるという「排除の構造」がある。しかし今後は,環境問題も含めて,所有という考えだけではやっていけない限界があるように思う。物はだれかの物であるという所有の考え方ではなく,もともと誰のものでもないような,「非所有」の立場から,空間あるいは地球をシェアー(分有)していくという発想である。そうした分有の思想をもとに共同体意識を形成するという哲学を構築していく必要がある。
 それが,どのような根拠で,どのような形として可能なのか,非常に難しい問いである。いずれにせよ,所有を前提とする発想を壊していくところから始めないといけないのではないか。
 社会,世間で勝ち組になろうという発想から出発すれば,所有ということが前面に出てこざるを得ない。経済成長,勝ち組をキーワードにしていく限りにおいては,シェアーの段階には行けない。分有の思想に基づく社会においては,競争に勝ち生き残るかではなく,生きていくこと自体をいかに楽しむか,勝ち負けだけではなく,負けた場合でも取り分があるという構造を作っていかないといけない。今はそうではなく,勝った人たちだけが莫大なものを手に入れるが,敗者は全く何もないという状況だ。それを改善していかないといけない。スポーツやオリンピックにしても勝つことに全てが注がれている状況であって,スポーツのゲーム性を楽しむ余裕を失っている。最終的に勝つ人は1人だけだ。
 最近のカー・シェアリングの広がりは分有への動きを象徴しているように思う。またパリでは,自転車のシェアーを積極的に進めている。主要な駅には共有できるシェアー用の自転車が設置されている。日本でもそのようなことが進められつつあるし,大学内でも同様の動きが進んでいる。
 いずれの場合でも,きっちり構築し過ぎず,いろいろな逃げ道や出会いの場を作っていくかも大切だ。例えば,子どもを介して今まで知り合いでもなかった関係から,新たな関係を生み出すきっかけにもなる。いろいろなイベントを作ったりすることが,一つの出会いの場となるだろうし,実際のシェアーの具体的例になったりもする。ただ,最終的になにがどこまでシェアーできて,どこからはシェアーできないのかという線引きは難しい。独身の若者による住居のシェアーは発展の可能性があるが,家族となると居住空間のシェアーは敷居が高いだろう。

4.最後に

 共同体間での葛藤の具体例として,アラブ人男性とユダヤ人女性の恋を描いたロシュディ・ゼム監督のフランス映画『自己欺瞞=悪しき信仰(Mauvaise foi)』(2006年)を紹介したい。
 今まではアラブ人とユダヤ人のカップルは少なかったったが,最近は増えてきているようで,そのような社会状況を背景に作られた映画だ。アラブとユダヤの関係は宗教だけでなく,政治的な意味も含んでおり,イスラエル・パレスチナ問題とも絡んでいてきわめて複雑だが,この映画は重要な問題を深刻ぶらずにコミカルに描いている。主人公の二人は出会った時点ではお互いの出自をほとんど意識しておらず,個人と個人として惹かれあい,結ばれる。その時点では,フランスに住む同じフランス人という個人として振る舞っており,当事者は自分がなんらかのさらに大きな共同体の一員だとか,複雑なバックグランドをもっているなどということはほとんど意識していないし,そこに不都合も感じていない。ところが,いざ結婚するとなった瞬間からそれぞれの家族が絡んでくるし,民族と共同体の歴史が介入してくる。家族の中には出自に根ざした共同体をしっかりと背負った人がいて,葛藤が始まる。アラブ人とは話もしたくない,ユダヤ人の親戚などまっぴらという親族もいるからだ。このような個人と共同体の問題を映画の主題としてコメディー風に描き,ある程度ハッピーエンドにまとめていて,共感を得ることができる作品だった。
 ただ欧州では,ユダヤ人の同化はきわめて進んでいて,アラブ人とは異なり,見た目にはほとんど区別がつかない。また,欧州系移民同士は着実に混じりあっている状況にある。例えば,現パリ市長アンヌ・イダルゴ,現フランス首相マニュエル・ヴァルスはどちらもスペイン系で,スペイン生まれだ。その意味で,欧州系移民についていえば,移民としての認識は薄くなり,差別意識もなくなっている。やはり,目につく「他者」はイスラーム・アラブ系やアフリカ系の人たちということになろう。もっとも,フランス人の中でもプアー・ホワイト層のほうが移民に対する嫌悪感をもたない傾向もある。小中学校でいっしょに過ごして仲間の関係になっているから,昔からのトモダチという感じをもつ人も多く,連帯感がないわけではないから,ある程度は境界が取り払われつつあるのではないか。
 その一方で,中流以上のフランス人の多くは移民とほぼ交わらない。さらに大きな問題は,フランスの政治家や高級官僚の多くは富裕層出身で,幼いときから,貧困層とも移民系住民とも接点を持たないことだ。今後は政策の具体的現場でも,新たな形の共同体を形成する環境を整えていかない限り,いくら貧困層同士の交流があっても変わっては行かないのではないか。
 そうした中で,文学や映画,演劇など芸術がもつ潜在力は相当あると思う。作品の中で従来とは違う共同体のあり方が描かれ,異文化間のカップルがもっと頻繁に登場するようになれば,皆がごく自然に他者を受け入れる社会の雰囲気が醸成されていくに違いない。やはり芸術や文学は,自分が普段体験できないことを自然な形で追体験し共感することができる場だ。その意味でこのような映画が出てくることはいいことだ。文学や芸術は,他者への想像力が最も働きやすい場所であり,誰の心にも入っていけるし,直接的理解が進むからだ。
(2016年7月1日)

■プロフィール さわだ・なお
1959年東京生まれ。84年法政大学文学部卒,同大学院修士課程修了(哲学専攻)。パリ第一大学哲学科博士課程修了。哲学博士。その後,白百合女子大学教授等を経て,06年立教大学文学部教授,現在に至る。専門は,フランス現代思想,フランス語圏文学。主な著書に,『<呼びかけ>の経験 サルトルのモラル論』『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』,共著に『哲学の歴史12巻』『共にあることの哲学』,訳書にサルトル『自由への道』,ナンシー『自由への経験』他多数。