インドネシアに見るイスラーム復興とテロ根絶への試み
―寛容なイスラームの意義と脱過激化プログラム

独立行政法人国際交流基金企画部長 小川 忠

<梗概>

 近年,欧州だけでなく世界中で一般市民を巻き込んだテロが頻発している。多くの国では警察・治安当局の取締り強化による防止策を講ずるのが精一杯であるが,テロ発生の背景には社会・経済的,政治的な問題に加えて宗教や思想も複雑に絡んでいるだけに,その根本的解決は容易ではない。インドネシアにおいては,テロ犯への思想的・宗教的更生プログラム(脱過激化プログラム)が実施されつつある。世界的に、ハードな治安対策によるテロの防止のみならず、思想・宗教面からテロを再発させない対策への関心が高まる中,日本としてもその方面への取り組みを進める必要がある。

1.イスラーム復興運動

 私はこれまで仕事の関係で20数年前(1989-93年)と最近の5年間(2011-16年3月),インドネシアに滞在しながら現地の社会事情について見聞し観察してきたが,その四半世紀を通じてインドネシアの政治,経済,文化,宗教などさまざまな面での変化を実感している。インドネシアは国民の9割がイスラーム教徒という信徒数では世界最大のイスラーム国であるだけに,ここでは宗教面での変化に焦点を当てて考察してみたい。
 大きな変化のひとつは,一般の人々のイスラーム意識が活性化(イスラーム化)していることである。そもそもイスラームの国で人々が「イスラーム化」しているとは,どういう意味か。
 インドネシアの場合イスラーム教徒とはいっても,サウジアラビアなどのイスラームとは違って厳格ではなく非常にゆるいイスラーム信仰だ。インドネシアのイスラームには,歴史的にイスラームが伝播する以前からあった土着信仰やヒンドゥー教や仏教の思想・文化と習合したという特徴がある。さらに数十年前までは戒律にゆるく,お酒を飲むようなイスラーム教徒もいた。ところが近年イスラーム教徒の中で,イスラームの戒律をしっかり守り,イスラーム的生き方を貫いていこうとする人々が増えてきた。しかし,そうしたイスラームの復興運動,「イスラーム化」は非常に多様な側面を持っており,それが直接テロに結びつくわけではない。
 その一方で,(マイノリティーとしての)シーア派に対する迫害や,アーマディア派(イスラームの中の一種の新興宗教)に対する迫害も起きている。またキリスト教やその他の宗教との摩擦が増えている面は否定できない。それを見ながらインドネシアのイスラームの識者の中からも「われわれは寛容性を失いつつあるのではないか」と反省する議論も起きている。
 ところで,インドネシア憲法(1945年)の前文には,次のような建国5原則という文言(パンチャシラ)が記されている。
• 唯一神への信仰
• 公正で文化的な人道主義
• インドネシアの統一
• 合議制と代議制における英知に導かれた民主主義
• 全インドネシア国民に対する社会的公正
 この原則は,インドネシア独立のときの妥協の産物であった。インドネシア独立に大きく貢献したイスラーム勢力は,建国後イスラームをインドネシアの国教として据えたかったのだが,他の宗教との間で摩擦が生じることから諸勢力のあいだで妥協が行われ,「唯一神への信仰」という表現にして信仰の自由が公認されたのであった(但し,無神論は違法)。これはインドネシアの当時のイスラーム指導者のバランス感覚と寛容性を示すものであろう。
 しかし,独立以来,イスラームの中には,こうした「中途半端な」姿勢を批判しイスラームの国教化を主張する武装グループもいたが,イスラームの主流は,あくまでも習合的(シンクレティック)で緩やかな寛容性をもつ流れであった。
 今年1月14日,インドネシアの首都ジャカルタの繁華街で,30数人が死傷する爆弾テロ事件が起きた。現地警察は,IS関係者が主導した組織的な犯行と見て捜査中であるが,これと先述した「イスラーム化」現象が直結しているわけではない。
 厳格派の人たちでさえ,「人を殺すのはイスラームの教えに反する」と非難している。テロ犯たちは浮き上がった存在であって,インドネシアのイスラームの中から過激グループが出てきていることと,宗教(イスラーム)を直結させて理解することは間違っている。とは言っても,ほんの一部の分子でもイスラームの名のもとに,こういうテロ事件を起こしているのも事実で,ここにイスラームに対する誤解を生む原因がある。

2.グローバル化への反発

 インドネシアの大きな変化は他にもある。私の最初のインドネシア駐在時はスハルト軍事独裁政権のころで言論の自由が制限されていたが,現在は民主化されて基本的に国民はいろいろな意見の表明ができ,政府を批判する自由すらもてるようになった。メディアに対しても,かつてはスハルト政権が厳しい締め付けをしてコントロールしており,報道の自由が制限されていたが,現在では自由な報道ができるようになった。さらに2000年代以降,(政権もコントロール不可能なほどに)SNSなどの情報通信技術の高度な発達がある。
 また,かつては非常に一握りの金持ちと大半の貧しい人々という社会構造だったが,現在はインドネシア経済が成長する中で,中産階級(ミドル・クラス)が大きな割合を占めるようになった。定義の仕方によっても違ってくるが,中産階級がほぼ国民の半数を超えているような状況にある。そうなると経済的な豊かさが広く拡大して大量消費社会に変化していくと同時に,子どもに対する教育費を増やして,高学歴社会が形成されつつある。このように経済の発展が,人々の意識の変化をもたらしている。
 そこで考えるべきことの一つは,「国民が教養を身につけて,合理的精神,科学的思考を身につけていくと,狂信的な宗教に走る人が少なくなるだろう」という仮説についてである。少なくとも1970年代くらいまでは,宗教はそれ自体の中に非合理的な要素を内包しているから,合理的思考,科学の発展によって宗教は衰えていくだろうと考えられていた。ところが,現在インドネシアで起きている「イスラーム化」現象は,ある程度教養を身につけたミドル・クラスの人々の間で,イスラーム意識の活性化が起きているのである。
 しかもその中のごく一部の人の中から過激派思想に染まる人が出てきている。そうだとすれば,「テロは貧困からくる絶望ゆえに起きる」という仮説も必ずしもそうとはいえなくなる。もちろん貧困が一因であることは確かであるが,むしろミドル・クラスの中からテロリストが出てきている現実を見ると,貧困問題が決定要因とは言えない。ゆえに経済的支援をして,経済発展をさせればテロは撲滅させられるという考え方は楽観的すぎると思う。
 今回のジャカルタの爆弾テロ事件でも,二つの構造が見られる。テロ実行犯はミドル・クラスの下(労働者階級)が多かったが,これを企図し指示したのは,IT技術に長けた大卒の理系エリートだった。
 ある種エリート層は,「自分たちの同胞(ムスリム)がいま危機にさらされている。自分たちの価値,家族,環境も危機にさらされている。欧米発のグローバル化や近代主義が,いま自分たちの世界をどんどん崩している」という強い危機意識を覚えている。この点を見逃すことはできない。
 今年(2016年)7月初めに起きた日本人7人が犠牲になった,バングラデシュのテロ事件(ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件)でも,その実行犯の一部はインテリ層だといわれている。
 かつて日本でも,戦前の右翼テロ,1970年代の日本赤軍派などテロ相当の事件があったが,その主導者は社会の末端層ではなく,大学生や将来エリートになってもおかしくない人々だった。(日本赤軍派などは)高度経済成長時代に生きながらも,自分の身近なところに経済発展から取り残されたり,落ちこぼれたりする人がいる現実を見て,社会の矛盾性,ひずみを肌で感じて行動に移した人たちだった。
 インドネシアにしても,バングラデシュにしても,経済成長に伴って社会が大きく変化していく中で,一般の人々はかつてのようにゆっくり時間が流れている時代から,急激に変化する時代に生きるようになった。その変化が急激過ぎるために,社会的正義が行われていないと感じる人たちによってテロが行われるのではないか。
 グローバル化によって世界が画一化されるだろうと当初考えられていた。しかし画一化のエネルギーが強い分,それに反発するベクトルも強く作用した。自分は特別でユニークな存在であり,自分は自分でありたいという思いを抱く。それがときに原理主義的な方向,過激な保守回帰へと向かう。グローバル化に反発するもう一つのグローバル化のベクトルであり,「もう一つの近代化」ともいえる現象が世界中で起きているのだ。
 実は,アルカーイダとISは戦術が違うが,根本では非常に類似性がある。グローバル化する世界の中で,自分たちが貶められているとか,イスラーム世界がこのままでは危ないという危機感は共通した認識だ。しかしその戦術においては,まずイラク,シリアをイスラームの国にしていこうというISと,世界革命を起こそうというアルカーイダの戦術の違いがある。最近はISも世界中でテロをやるようになって,アルカーイダとあまり変わらなくなりつつある。

3.寛容なイスラームの意義

 かつて冷戦時代は,資本主義に対するアンチテーゼとして,社会主義,共産主義があったが,いまではそれらが色褪せ魅力を失ってしまった。資本主義に対抗しうる唯一のものがイスラームになっている。ところが,イスラームが本当に現下の資本主義に勝利しつつあるのかというと,むしろ世界はグローバル化によって絡み取られつつあるという焦燥感,絶望感が相当あると思う。
 イスラーム原理主義者は,ムハンマドとクルアーン(コーラン)に原点回帰しろと主張する。イスラームがかつての輝きを失った近代・現代は、ムハンマドの原点から遠ざかった汚れた時代だという認識だ。
 ところで,西洋近代がいつから始まったかというと,ルネサンスと宗教改革である。宗教改革でルターやカルバンが主張したことは,まさにキリストと聖書に戻れという原点回帰の思想だった。つまり,西欧社会でも原理主義的な宗教改革から近代が始まったという逆説である。こう考えると,イスラームも,キリスト教も,近代化と表裏の関係で「原点回帰」志向があるということである。
 それでは原点回帰で世界の問題が解決するかといえば,そうとは言えない。これだけ科学技術が発展し複雑化してくると,世界中のいろいろな文化がある中で,どんなに彼らが叫んでみても,原理主義が勝利することはまず起こりえないだろう。だとすれば,イスラームのみならず,伝統と現代をどう調和させていくのか,彼らのアイデンティティをどう守っていくのかを考えたときに,イスラーム内部の「解釈していく力」(イジュティハード)に注目せざるを得ない。つまり,クルアーンを字義通りにとらえて絶対化するのが原理主義の立場だが,むしろクルアーンに書いてあることを現在の世界に当てはめて解釈していく力が重要ではないかと思う。
 ムスリム的な教えやアイデンティティを守りながらも,(他宗教や他宗派と)平和的な共存社会を作っていこうという,柔軟性を持ったイスラームのグループが主導権をとっていかないと,物事は平和的に解決しないのではないか。
 インドネシアから戻ってみて改めて思うことは,(イスラーム大国)インドネシアの重要性だ。もしインドネシアが原理主義的な国になってしまった場合には,大変なことになってしまう。もちろんそれはわれわれがどうこういう問題ではないが,インドネシアのイスラーム教徒たちの中で,イスラームを創造的に解釈する力を身につけていくことができ,彼らがイスラーム世界をもリードできるようになれば,テロの地球規模での拡散リスクを減らすことができるだろう。
 テロ対策では,警察や治安関係の国際的ネットワークを強化してテロ組織の取締りを強化することも必要である。それはガン細胞を取り除くような外科手術的な対処であって,ガンにならないような体質改善としての対処法としては,寛容なイスラーム,すなわち,イスラームの中で寛容な解釈力を持つ人たちが中心となって,イスラーム思想の構築を進めることがより重要であろう。

4.脱過激化プログラム

 最近私がインドネシアで関心をもつテーマが,「脱過激化(de-radicalization)プログラム」である。インドネシアではバリ島爆弾テロ事件(2005年)やアルカーイダ系のテロ犯たちが刑務所に収監されているが,中には刑期を終えて出所する人もいる。彼らが過激思想に染まったまま出所した場合,テロの再犯に繋がる可能性が十分ある。実際,今年1月のジャカルタ爆弾テロ事件の犯人の一部は,もともと収監されていた人であった。いわんや軍事独裁政権ではなく文民政権となれば,法治主義により刑期を終えれば当然出所とならざるを得ない。また刑務所のなかで過激思想囚の影響を受けてしまう人もいる。そのような境遇に置かれた,過激思想に染まった人たちをどうやって,その思想から抜け出させていくのか,それが「脱過激化プログラム」なのである。
 脱過激化プログラムは,実際に刑務所の中で行われている。そのプログラムは,心理学者,思想・宗教学者,警察・公安関係者が協力・連携しながら進められている。その効果はどうなのか。あまりうまくいっていないという声が強いが、それでも欧米は注視している。残念ながら,日本ではまだあまり知られていない。
ただ,日本では,刑務所に収監されていた赤軍派やオウム事件の実行犯に対して更生プログラムが行われたが,そういう思想犯に対する更生プログラムの経験は,一つの事例として国際的な「脱過激化プログラム」とも共有していく必要があるのではないか。オウム事件は,日本における最大,最悪の「宗教テロ」事件だった。もちろん更生プログラムによって転向した場合も,できなかった場合もあるわけだが,それはそれで日本がテロ問題で国際社会に果たしうる一つの貢献になるのではないかと思っている。
 「脱過激化プログラム」に関するさまざまな論文を調べてみるといくつか興味深い内容がある。例えば,実行犯はなぜテロ集団に入ったかについての分析と過激思想に染まった犯人の思想(宗教)をどう変えていくかである。これは宗教問題であるから,イスラームをやめろと言っても聞かないだろうし,かえってかたくなになって心を閉じてしまうかもしれない。そこで同じイスラームの中でも,寛容性をもつ権威あるイスラームの教師に対応してもらうという方法である。もちろんこれもすべてがうまく行くとは限らない。
 もう一つの実践事例を紹介しよう。テロ犯がテロを起こすときには,テロを正当化するのによりどころとする教義が必ずある。例えば,クルアーンには,攻めてくる敵に対してイスラーム(ムスリム)を守るために武器をもって戦え(ジハード)と説いている箇所がある。しかしクルアーンには,それとは別の教えもある。その一つが「ヒジュラ」だ。かつてムハンマドが敵から攻められたときに,メッカを捨ててメディナに一時的に避難して移住した(ヒジュラ)。これは敵と戦うのではなく,自分を邪悪な勢力から隔離していくという防衛的な考え方だ。今の状況の中でも,ジハードではなく,ヒジュラ的な生き方をせよと教えることもできる。現状の危機感の中で思いつめている人たちに対して,転向させるのではなく,思想的な面から暴力を振わせない,脱暴力化にもっていくという実践体験の事例である。
 中には絶望や貧困からテロに走る人もいるので,そのような人には職業訓練のプログラムを提供する。また受刑者の家族をサポートすることによって,人間的な心をもう一回再起させるような,人間性回復プログラムもある。

5.テロ根絶の難しさと今後への取り組み

 最近のISにからむテロでたちが悪いのは,ISという組織から直接指揮命令が下って現場の実行犯がテロを起こすというものではない点だ。直接的には全く関係がないのだが,思想,イデオロギーで共感したロンリー・ウルフ,欧米に住んでいる一人ないしは数人の細胞的グループが,プロパガンダに共鳴してテロを起こしている。組織があれば芋づる式に捕まえることが可能だが,このようなタイプの場合は,取り締まりようがない。
 インドネシア当局も,2016年1月のジャカルタ爆弾テロ事件のときには,年末年始がテロの危険性が高いと予想して警戒を強めていた。実際に年末に警察当局は,テロの準備をしていた者たちを検挙して,年末年始には何事もなく過ぎ少し安心していたところ,1月14日に事件が起きた。警戒網の網から零れ落ちた少人数のグループが,ジャカルタでテロを起こしたのだった。そうした犯人を全部捕まえることは,実際上かなり難しい。
 さらに今日のようにソーシャル・メディアが発達すると,コミュニケーションのツールが進化して簡単に国境を超えていく。引きこもっていた人が突然,事件を起こすこともある。
 今年7月のバングラデシュの人質テロ事件でショックだったのは,バングラデシュはイスラーム世界の中でもどちらかというと,もともとあった過去の伝統や文化とイスラームが融合した習合的性格の強いイスラーム社会で,そこで原理主義的過激派による事件が起きたことだった。
 そもそもインドネシアの(寛容な)イスラームの一部は,インド・ベンガル地方(バングラデシュ)経由で,しかも神秘主義(スーフィズム)が入ってきて広がったという説がある。ゆえにバングラデシュも神秘主義の影響が強く,サウジアラビアのような原理主義的なイスラームではないといわれていた。ところがだんだんイスラーム意識が高まるなかで,原理主義的な勢力が台頭していたことはショックだった。
 またニュースで語られるある解説の視点が先入観を生んで,新たなニュースを作ってしまうことがある。一旦先入観ができてしまうと,世界はそのフィルターを通して見るようになってしまう。幸い日本では,イスラーム教徒に対するハラスメントは起きていないが,世界でイスラームをめぐる事件が多発して彼らを見る目が変わってくると,日本でも彼らに対するハラスメントが起きないとも限らない。
 そこで国際交流基金では,日本と東南アジアイスラーム間の相互理解のために,インドネシアのイスラーム知識人を日本に招聘して交流を進めることも考えている。インドネシアには,プサントレンという寄宿制のイスラーム学校で若者が親元から離れて共同生活をしながらイスラームの教えを学んでいる。最近のプサントレンはだんだん近代化されて,政府のカリキュラムに準拠した一種の普通教育機関として科学や英語も教えている。国際交流基金ではそこに出かけて行って,日本の映画を見せたり,日本文化の紹介をするワークショップをやりながら,イスラーム世界の中で日本に対する理解を深める努力もしてきた。
 日常生活の中で満足が行かない,不満や鬱憤がたまると,時として暴力を発したいという人が出てくることは,人間の性なのかもしれない。問題はその被害をいかに最小限にとどめるかという点である。通り魔事件のように突発的に事件を起こす人が出てくることもあるだろうし,それに加えて思想や宗教がかかわると,従来の犯罪とは違った様相を帯びてくる。
 世界がグローバル化によって画一化していく趨勢の中で,それに対する反発というのはどこにでもある。さまざまな伝統や文化が尊重され,誰もが(思想,信条にかかわりなく)等しく尊敬されるような社会,世界を作っていかなければならない。そのために日本として,文化外交や文化交流を通してできることはたくさんあると思う。
 テロが起きると,「イスラームは怖い」「イスラームはテロの宗教だ」という考えが広まり,その非難の目をイスラームの穏健派の人々に対しても向けたりすると,彼らの心を傷つけ,彼らの中からも非寛容な方向に流れていく者が出てくるというような,悪循環を生むことに繋がりかねない。
 そこで,イスラーム内部の多様性について認識することが重要だ。<イスラーム=平和>とだけ規定するのも極論であって,教義の中には暴力に結びつくように利用される部分があることも事実だ。イスラームだけではないが,どのような宗教でも過激な思想から穏健な思想までかなり幅があることを認識しておく必要がある。偏見を持たずに宗教をあるがままに見るような世論をつくっていきたいものである。
(2016年7月4日)

■プロフィール おがわ・ただし
1959年神戸市生まれ。早稲田大学教育学部卒。2012年同大学大学院アジア太平洋研究科博士号(学術)取得。82年国際交流基金に入社。ニューデリー事務所長,日米センター事務局長、東南アジア総局長兼ジャカルタ日本文化センター所長などを経て,現在,同企画部長。主な著書に『ヒンドゥー・ナショナリズムの台頭 軋むインド』(2000年第12回アジア・太平洋賞特別賞受賞)『インドネシア 多民族国家の模索』『インド 多様性大国最新事情』『原理主義とは何か アメリカ,中東から日本まで』『テロと救済の原理主義』『インドネシア イスラーム大国の変貌:躍進がもたらす新たな危機』ほか。