イスラームとどう向き合うか ―「平和」概念の再検討

中央大学大学院教授 保坂俊司

<梗概>

 日本では周囲にまだイスラーム教徒の姿を見ることが少ないので実感しにくいが,世界の現状を見ると,イスラーム教徒は世界総人口73億人の2割強を占めており,2030年代には三分の一にまで達すると予測されている。イスラームというとテロや過激派のイメージが先行しているが,南アジアや東南アジアのイスラームは非常に穏健なもので,われわれ一般の抱くイスラーム像とはだいぶ違っている。現代世界の重要なイシューとなっているイスラームとどう向き合っていくか,いわば平和的な共存関係の構築は,日本にとっても避けて通ることのできない課題である。そこでまずこの平和的共存を考えるうえで,われわれ日本人が考える「平和」の概念を再検討し,そのうえでイスラームとの平和的共存関係構築に不可欠な,イスラーム文化の多様性や寛容などについて比較宗教学の観点から考察する。

はじめに

 2015年は「平和安全法制」と「集団的自衛権」の議論をめぐって世の中では熱い論戦が繰り広げられた。そのとき推進派と反対派が同じ「平和」という言葉を使いながらも,どこかかみ合っていないという印象を持った。
 私は現代の日本人が用いる「平和」という言葉には,欧米と日本という二つの異なる起源があると考えている。勿論両者は,近似しているのであるが,その根本的部分,つまり文化的なレベルに齟齬がある。しかし,現在の日本人一般の平和議論では,それが十分理解,認識されていないと考えている。私は,本小論における平和に関しての議論では,まずその相違に気づくことが,議論を深めるためには不可欠だと考える。
 前述の日本的な平和と欧米的なピース(翻訳されて「平和」となる)の相違には,大ざっぱに言って,以下のようなことがある。例えば,欧米の平和に関する議論の中で,「平和(peace)を実現するための正義の戦い」とか「war for peace」という句がよく聞かれる。この表現は,われわれが考える日本の伝統的な「平和」概念からはやや違和感を覚える。この表現が持つ違和感を手掛かりに,平和という言葉の持つ多様性を先ず分析したい。
 そのために本小論では,まず欧米的な平和概念を表すときには,「平和」(ピース)と表記する。一方,日本的と思われている平和概念は「平和」(へいわ)と表記し,両者を区別する必要があるときは,区別して表記する。勿論,両者は今日的には混同されているが,以下議論を進めるために,仮の表記ではあるが最初の段階では有効なので,このように表記する。
 日本でも近年は政策や政治のレベルで使われる「平和」の概念は,どちらかというと欧米人の発想に近いと思うが,一般国民の情緒的なレベルで使うときの「平和」はそれとは違った概念と思われる。にもかかわらず<ピース=平和>という安直な前提で考えていると,かみ合った議論にならないし,平行線をたどるだけだ。
 そこで欧米人がいう「平和」(ピース)と日本人が伝統的に使う「平和」(へいわ)という言葉の概念の違いを考察するところからはじめて,平和に対する文化的理解の違いについて考える。さらに今日グローバル・イシューとなっているイスラーム過激派についてどう考えるべきか,両者をすり合わせたのちの「平和」概念の視点から比較宗教学的分析を試み,より普遍的な平和概念の構築に資する視点を提示できれば,幸いである。少なくともこのような視点に気づくことの重要性を指摘したい。

1.「平和」(ピース)と「平和」(へいわ)の意味のずれ

 いわゆる近代西欧文明の「平和」(ピース)観を考えるうえでは,英語のpeaceが一般的なので,これを以下では考える。まずその源は,ラテン語のpax(平和,和睦,太平,平穏,平安の意)を語源とし,その動詞形はpǎcǒで,その意味は<(力により平定したのち)平和にする。(征服後)平定する。(征服後)服従させる>である。それらをもとに考えてみると,その古典的意味から発生する「平和」(ピース)の意味は「武力で,あるいは政治力で征服した後に作られた秩序に従わせた結果生まれた秩序ある状態」のことであり,その結果「力によって作られた秩序の中で生きること」という派生的意味が生ずる,とされる。欧米人がpeaceということばを使うときの意識の根底には,そのような背景があるから,「war for peace(平和のための戦い)」は当然のことであり,それ故に「正義の戦争」と同意義で用いられる環境が成立するのである。歴史的には「十字軍」があり,その先にイスラームで良く用いられる「聖戦思想(ジハード)」もあるし,かつて,日本が唱えた八紘一宇思想(日本による新アジア秩序の形成)やその具体化である大東亜共栄圏という発想とも通ずるものがある。
 一方,現在の日本人の考える「平和」(へいわ)の言語的意味は,「物質的,精神的に安定した」状態で,その結果「軋轢がない」「平坦な状態」となり,「人間一人ひとりの心の内奥の穏やかさが保たれた状態」を意味すると思われる。それはまた「和(やわらぎ)」にも通じる観念である。ちなみに日本語の「和」は,聖徳太子の「和(やわらぎ)を以て貴しとなす」に象徴的に表れている。もっとも文献学的に言うと,古代日本以来「平和」という言葉の使用例は殆どなく,それに近い意味を持つ言葉としては,「平安」,「泰平」,「太平」,「安寧」などがある。
 因みに幕末にヘボン博士によってまとめられた辞書(『和英語林集成』1867年の英和の部)のpeaceの項には,「taihei,jisei,odayaka,anshinn,raku,anndo,annonn,heiann」の訳語が出てくるが「平和」は出てこない。また明治25年に初めて出版された雑誌『平和』(平和社発行。実質的発行母体はプロテスタント系の「日本平和会」で北村透谷が主筆を務めた)では,「平和」を「イエス・キリストによる救済,そしてそれによって得られた状態」という意味で使用していた。しかし日清戦争を前後して政府の圧力もあって廃刊となり,その後「平和」という言葉はほぼ使われなくなった。太平洋戦争中は,「五族協和」のように「平和」の意味を「協和」という言葉で表した例もあるが,平和はあまり一般的でなかった。故に,1945年8月に昭和天皇によって読み上げられた「終戦の詔書」には,「帝国臣民の康寧を図り,万邦共栄の楽」「万世の為に太平を開かむと欲す」などの表現となった。もし当時,「平和」という言葉が広く使われていれば,「万世の為に平和を開かむと欲す」という表現になったはずで,「太平を開かむ」とは陛下は表現されなかったであろう。勿論,平和の用例がないわけではないが。
 いずれにしても,そのような流れの中で,いきなり「平和」が社会に溢れ出てくるきっかけとなったのが「日本国憲法」だった。640字あまりの「日本国憲法」前文の中に「平和」という単語が4回も出てくる(英語の前文にはpeaceが225 words中,5 words現れ,内2つは,peaceful,peace-loving)。
 憲法制定を主導した米国側のメッセージは,「(日本は,第二次世界大戦後,戦勝国,とくに米国の)力によってつくられた戦後の世界秩序に逆わず,その秩序を受け入れ,その中で,おとなしくしなさい」,「戦勝国が作った新秩序に服従し,平和に過ごしなさい」という趣旨であり,それを日本人に求めた。この場合の平和は,「平和」(ピース)ということである。ところが日本人は,多くの犠牲を払って負けた戦争を振り返りつつ,戦争=悪という考えになり,戦争をしないことが平和であると考えた。その結果,日本の伝統である仏教の平安が思い出されて,心の内面における平和,身も心も安定を求めるという平和論が出てきた。これが現在日本の平均的「平和」(へいわ)観である。
 故に日本人にとっての平和は,何よりも内面の問題で,内面まで含んだ「平和」(へいわ)である。欧米では,(キリスト教の影響もあって)心の面(精神的平和)と社会面(唯物的平和)とを分けて考えている。現代の政治家などは(欧米的用法である)国際秩序や社会秩序を構築するという意味で「平和」(ピース)として使うことが多いが,一般の人々は,とくに太平洋戦争の痛い思いと反省を含めた内面から「平和」(へいわ)を考え,その上で心の満たされた状態を中心に考えている。このように平和という言葉には,二つの意味が含まれていた。両者は無意識的,文化的齟齬があって,それを自覚していないために,日本の平和論は二つの平和概念が混在し,結果として平和の議論が噛み合わないのだと思う。
 現代国際政治の立場からすれば,「平和」(ピース)を守る(実現する)ためには武力が不可欠だろう。もし完全に武力を否定した立場(絶対的平和)に立とうとすれば,インドのジャイナ教徒のように,一切の殺生,暴力を否定し,何をやられてもそれに耐えるという精神的強さが求められる。しかしそこまでの精神的強さ,信仰的,文化的強さを日本人は持ちあわせていない。
 にもかかわらず,われわれ日本人が漠然と「平和」(へいわ)といっている言葉の奥には,やはり戦争によって受けた傷,トラウマが大きいと思う。そして欧米を頂点とする現在の平和状態にとどまることを強制された戦後事情への安住,さらに言えば,単に戦争で受けたトラウマというだけではなく,伝統的に東洋に広く見られる心・内面の問題を含んだ「平和」(へいわ)論という意味もあるだろう。

2.「平和」(ピース)と「平和」(へいわ)の宗教的背景

 これを比較宗教学の立場から考えると,以下のようになる。つまり,現代の国際秩序の中心を形成する欧米の「平和」(ピース)観は,ユダヤ・キリスト教の宗教構造と結びついている。とくに,この世界は神の創造によるのであり,そこには定まった神の意志による秩序があり,その秩序を守ること,従うことがいわゆる平和なのである。そして,もしこの秩序が乱される,つまり神の意志に反した行為があれば,それはあらゆる手段によって打ちのめされなければならないとなる。詳しいことは拙著(『格差拡大とイスラム教』プレジデント社など参照)に述べたので,今回は簡単にまとめると,欧米の根本的な考えは,神の意識を背負ったものが作る秩序が正義であり,これを作り,また維持することが正義であり,その状態が「平和」(ピース)の状態ということである。つまり,すべては神の意志に沿うことが善であり,正義であり,その上に「平和」(ピース)は成り立つという構造である。故に,信仰深い米国は,米国を頂点とする国際秩序を構築し,不動の「平和」(ピース)の状態を作り,維持することに,政治・経済的のみならず宗教的な使命感を持っているのである。つまり,彼らの唱える「平和」(ピース)とは,宗教的な正義の意味を強く持っているということである。のちに述べるイスラームのジハードも実は同じセム族の宗教の発想を共有している点で,類似点がある。
 一方,インドでは,絶対神がいないから審判思想もない。仮に審判があるとしても,自業自得の世界だ。つまり,自分が作り出す契機によって自分の未来が違ってくると考え,自分の人生は自分で作る。その集合体の国家も同様である。そこには,超越的な神の意志というような絶対的な大義名分はない。故に,インド思想では,個々人の内面について大きな関心を寄せることとなる。そして,現実社会の諸問題にさえ,精神世界の要素が重く考慮される。仏教などで唯識,唯心というテーマが出てくるのもそのためである。このような宗教世界では,心の問題が文化の中で重く理解されるという伝統があり,内面の安定を重視した「平和」(へいわ)観が形成されるのである。
 とくに仏教を通じてインド思想を,そして仏教によって1400年間に亘り,国家の精神伝統を形成してきた日本社会では,この傾向が文化・社会の基層に強く息づいている。
 以上を整理すると現在の「平和」という言葉には,西欧由来の「力により形成された安定した秩序状態」を意味する「平和」(ピース)と,一人ひとりが心から安心して過ごせる平安な状態をいう「平和」(へいわ)観が日本では混在している。
 とくに後者の「平和」(へいわ)状態は,仏教的な影響と大東亜戦争(いわゆる第二次世界大戦)の敗戦への悔悟から,「身も心も争いのない状態」を平和とする,という平和観が形成されている。そして両者の差異は意識されず,混同して用いられている。本小論では,このような「平和」という言葉によって表される個々の文化の意味を明らかにすることで,従来の平和(「ピース」と「へいわ」が混在化した)議論とは異なる普遍的「平和」の議論を展開し,文化や宗教を異にする人々との平和的な共存思想のための基礎的な知識の習得を目指している。
 以上のことを参考に,イスラームとの平和的な共存のために不可欠な知識として,イスラームの「平和」について考えよう。

3.イスラームを理解する視点

(1)イスラームと平和(サラーム)
 21世紀に入って世界中で頻発するイスラーム過激派集団によるテロ事件と,それに対する恐怖感の高まりの中で非イスラームの人々は,イスラームのこの暴力的な部分に漠然とした不安を持っている。しかし,当のイスラーム教徒たちは「イスラームは平和な宗教だ」と主張する。「なぜか」と聞くと,「アッサラーム・アライクム」(アッサラーム=平和・平穏・平安の意味。全体として「平和があなたの上にありますように」の意)とお互いに毎日平和を唱えながら挨拶しており,われわれ(イスラーム教徒)の宗教は心の中で平和な秩序を祈りつつ平和を愛好するからだという。
 しかし非イスラームの日本人の観点から言えば,イスラームの歴史を見ると戦争の歴史だった。クルアーンには,「神聖月があけたなら,多神教徒は見つけ次第,殺してしまうがよい」(9章5節)と書いてあるのに,これが「平和(へいわ)の宗教」なのか,と素朴に考えてしまう非イスラームの日本人は多いであろう。この点が,多くの日本人には不可解であり,イスラームへの不安を掻き立てている。しかし,そこには先に見たような,イスラームにおける平和(サラーム)とわれわれ日本人の「平和」(へいわ)概念の間に大きな齟齬があるのであり,そのすり合わせが必要となる。それを理解すれば,「イスラームは平和な宗教」という彼らの平和(サラーム)概念が理解でき,彼らへの不安は多少とも解消されるのではないだろうか。
 以下でイスラームにおける「平和」(サラーム)の意味について考えてみよう。
 イスラームの世界観によれば,世界は「ダール・ル・イスラーム(平和の家)」と「ダール・ル・ハルブ(戦争/戦いの家)」とに分けられるという。シャリーアが施行されてイスラームの信仰が守られ邪魔されない社会環境が保障された状態を「ダール・ル・イスラーム」といい,そうでない状態を「ダール・ル・ハルブ」と呼ぶ。
 イスラームの信仰実践は,聖地の方向に向かって1日5回の祈りを捧げ,定められた月には断食を行うなど,基本的に集団で行う。その信仰実践が平安にできる環境にあれば「ダール・ル・イスラーム」であるが,もし異教徒と混在する中で環境的にも信仰実践に支障が及ぶような場合は「ダール・ル・ハルブ」だ。但し,ここでいう「戦争,戦い」は,必ずしも武力を伴うような戦いを意味するわけではない。例えば,日本に来たイスラーム教徒が祈りを実践できないような環境におかれていれば,それは「ダール・ル・ハルブ」となる。
 ゆえに,イスラーム教徒にとっての「平和」(サラーム)とは,イスラームの信仰が脅かされない状態にあることだ。イスラーム教徒だけの世界であれば問題にはならないが,非イスラーム教徒と混在する場合は,「ダール・ル・イスラーム」がいつ脅かされるか分からないので,精神的にも宗教的にもきつい状態にならざるを得ない。
 そのためイスラーム教徒は基本的に同じ信仰を持つ人々が集まってコミュニティーを作ることになる。イスラーム教徒が世界のどこでもコロニーを形成するのには,そのような背景がある。
 しかし,イスラームが少数あるいは非イスラームとの共生を余儀なくされている地域も少なくない。そのような地域では,つまり,両者が混在する世界において,イスラーム教徒は,否応なく他者との共生を図らねばならないことになる。実は,後発宗教としてのイスラームは,異宗教とのいわゆる平和的共生に関して,豊かな思想を形成してきたのである。

(2)イスラームの寛容性
 仏教や神道などには,相手の主張にも(自分たちとは違うが)正義があるかもしれないと考える多元主義的思考がある。宗教的寛容ということもできるが,自分の信仰と違う信仰をもつ者とどう折り合いをつけて共存することができるか,これが現代社会が直面する大きな課題となっている。とくにイスラームの場合,原理主義の問題があり,宗教的寛容を巡る問題は微妙だ。
 実は,イスラームには,寛容に通じる概念として「ガファーラ」という言葉がある。言葉の意味としては「許し,寛容」だが,「砂が全てを覆い尽くすように」とよく比喩される。日本的に考えれば,「雪が全てを覆い尽くす」と表現すれば分かりやすいかもしれない。地表がすべて雪に覆われると表面は100%雪になるが,雪の下にはいろいろなものがすべてそのまま埋まっている。つまり,さまざまな考え,信仰をそのまま活かしながらも,イスラームから見れば,全部イスラームになったように見える。それは「ダール・ル・イスラーム」となる。
 一般に,イスラームは異教徒に対して「イスラームを受け入れるか(信仰),税金を払うか(金),戦うか(剣)」を迫ると言われるが,それ以外に,ガファーラがある。これは一般にイスラームの寛容とされるもので,筆者は「見ても見ぬふりをするという寛容」,「太っ腹の寛容」と訳している。これは一方で,イスラームに楯突かないという意味での「情けの寛容」(存在の保証)なのである。ここでは宗教的には自分と他者(とくに多神教徒)は同等ではないが,情けをかける形で存在を赦すという思想がある。これは一方的な寛容であるが,いわばイスラームと非イスラームとの平和共存社会の構築の可能性を示す。つまり,単なるイスラーム同士の「平和」(サラーム)思想から,さらに拡大してイスラームにおける普遍的な平和思想の可能性を持つものである。

(3)南アジア・東南アジアのイスラーム
 中東のイスラームは,(ほぼ)イスラーム教徒しかいない地域の宗教で,他宗教の信者のことを考えなくても済むために,「イスラームによるイスラームのためのイスラーム解釈」が主流をなしている。これが現代世界のイスラーム学の中心だ。しかし人口としては余り多くない。いま世界のイスラーム教徒16億人余りの中で,インドとインドネシアを含む南アジア・東南アジアのイスラーム教徒はその半数を超える約8億人を数えるが,その特徴は中東のイスラームとはだいぶ違う。
最近,パキスタンのイスラームは過激化しているように見えるが,歴史的に見るとそれほど厳しくはない。イスラーム教徒が多数派であるが,パキスタンにはヒンドゥー教の寺院もあって,お祭りになるとインドから多くの巡礼者がくる。そのような融和的な雰囲気が残っている。
 またインドを代表する観光地はタージマハルであるが,それはイスラームの墓廟だ。ヒンドゥー教徒が多数派を占めるインドを代表する建築物にイスラーム関連のものを入れてしまう。これは本当にイスラームと対立している地域であればありえない。ヒンドゥー教徒もイスラーム教徒も同じインドという土地に生きており,信仰は違うけれども仲良くやってきた歴史がある。両者の通婚もしばしば見られ,むしろ平和的に共存していた歴史の方が長かった。スリランカにおいては,更に徹底しており仏教とイスラームは共存共栄,共助の社会を形成してきた。これらの点は今後さらに研究し,その現在的な価値を広く共有されねばならないであろう。

(4)スンナ派とシーア派対立の背景
 ところで,イスラーム内にも,紛争の種がある。宗派の違いに加え,イスラームには血統を重視する「部族宗教」という面がある。また血統集団である各部族にはイスラームの信仰とは関係なくいろいろな利害がからんでいる。イスラームの中の争いや戦争は,宗教によるというよりは,主として部族間の利害に起因するものが多い。それを宗派間の争いだと単純化してみてしまうと,事実を見誤ることになる。その点を以下で整理しよう。
 先ず,イスラーム内の宗派対立,つまりシーア派とスンナ派の対立は,キリスト教におけるカトリックとプロテスタントの関係に近い。それは一つの神をめぐってどちらが正統かを争う集団間の対立である。シーア派はムハンマドの血統を引くイマーム・アリーとその子孫を重視するが,イスラームの約9割を占めるスンナ派は信仰を重視する。そこに部族の信仰(宗派)が複雑に絡んでくるために,分かりにくくなる。両者の対立は深刻であるが,一方で同じイスラームとしての連帯感もあり,平和(サラーム)関係は構築できる。
 ところではじめはいわば政治的な対立であったスンナ派とシーア派がなぜこれほどまで対立するのか,ということは単に神学上のこと以外の理由もある。つまりイランはなぜシーア派なのか,という点を考えるとそれがわかる。そして,両者の対立の根源が宗教的よりも歴史的な要因が大きいことがわかる。
 イランでシーア派が主流になるのは16世紀のことだった。イランとアラブ諸国は宗教では同じイスラームであるが,民族は全然違う。古代から中世にかけてイラン=ペルシャは,「東の中国,西のペルシャ」といわれるほどの世界の超大国であった。その民族はアーリア人で,血統主義からいうと白人であり,人類最初の帝国であるアケメネス・ペルシャ以来常に文明の中心に位置していた。それゆえ彼らには「世界の中心であるアーリア人であるわたしたち」という自負心が強く存在する。 興味深いことに,イランの古文献を読んでいると,「神はなぜ預言者(ムハンマド)を(世界の中心である)われわれ(ペルシャ人,アーリア人)に送ってくださらなかったのか。なんでアラブ(その中でもベドウィン)人のムハンマドなのか」と問う場面が出ている。
 世界の文明の中心はペルシャ=イランだった。今日でこそいくつもの国に分かれているが,メソポタミアからペルシャにかけては,常に高度な人類の文明が花咲いたのであった。もちろんメソポタミアがペルシャの前身になるかどうかについては議論の分かれるところだが,ペルシャ人たちがそう考えたことは事実だ。というのも,メソポタミア文明の存在が考古学的に発見されたのは19世紀であるから。
 ところがかつて文明が栄えたことのなかったアラビア半島の辺境に預言者ムハンマドが現れた。彼らは,結果としてイスラームを受け入れるが,アラブの辺境のベドウィン族の支配者の支配には,容易に服従できなかった。誇り高きペルシャ人は,イスラームの中でも少数派であるが,ムハンマドの血統を重視するシーア派を好み,その結果ペルシャ,今のイランにシーア派が普及したのではないか,と筆者は観る。とすれば,両者の紛争は宗教そのものの対決ではなく,政治的なものであり,平和構築の可能性は大きい。

4.イスラームの純化と復古運動

 更に今一つのイスラーム世界の紛争の原因,つまり平和構築の阻害要因に関して検討しよう。近代になってイスラーム世界は欧米列強によって植民地化され,政治・経済的に,さらには精神的にも搾取されてしまった。そこで中東のイスラーム教徒たちはそれを打破し,乗り越えるためにどうしようとしたか。物質的文明ではかなわないことは明らかだったから,信仰において競争するしかない,となる。ここに宗教復古と独立運動が結びつく近代的なイスラーム運動がおこる原因がある。彼らは宗教(イスラーム)によって団結し,キリスト教,異教を排除しようとして宗教問題に収斂していった。イスラームはキリスト教とは,兄弟宗教で重なる部分が多いため,違いを強調するためにどうしたかといえば,(イスラームも本来はおおらかな性格の宗教であったのだが)イスラームの純粋な部分を強調することになった。
 イスラームは字句の解釈が厳しいと言われているが,すごく多様な解釈をする面ももつ。イスラームでは個人と神が直接契約を結ぶことを基本とするので,どの解釈を選ぶかは個人の自由だが,そのときに相談する相手がイマーム(指導者)だ。イマームの中にもいろいろな解釈があり,その中からどれを選ぶかはあくまでも個人の自由なのである。この辺がイスラームの法解釈のおもしろいところで,解釈には非常に幅がある。
 例えば,イスラームにおける禁酒についてみてみよう。キリスト教では,聖餐式などにも用いられるようにブドウ酒は許されているが,イスラームは禁酒を基本とする。ただ,クルアーンには酒を飲んではいけないとは書かれていない(例えば,「酒と賭け矢は大きな罪」「酒は悪魔の仕業」など)。クルアーンに出てくる「酒」に相当する語には,「真白」「強い飲み物」「ハムル」などがあるが,「ハムル」には「覆うもの」という意味があり,酩酊作用があって理性を失わせるものを指す。しかし,「ハムル」は厳密には,ブドウ酒と訳される。つまり酒一般ではない。それが解釈され「ハルム」は「酔った場合,礼拝に近づいてはいけない」と規定するために禁酒規定のように考えられるのである。しかし,イマームによっては,「ハムル」についての解釈が多様で,中にはアルコールは,酩酊しなければ嗜んでよいなどという解釈もある。有名なハディース学者のブハーリー(810~870年)という大学者は,葡萄酒は,頭がさえるということで愛飲したとも伝えられている。勿論,泥酔はしなかったが。このようなイスラーム法学の解釈は多様で,寛容な部分を持つ。
 それが変わるのが欧米列強による植民地支配である。つまり西欧の圧力が強化される中,19世紀ごろから西欧植民地主義に対する強い危機意識が芽生えて,イスラーム改革運動が起こり,西欧列強の侵略に抵抗し自立を図りつつ,イスラームの連帯を進めようとした。このイスラーム復興運動の特徴は,厳しいイスラーム解釈で,主な例としてサウジアラビアのワッハーブ派(18世紀)や近代の原理主義の祖とされるアフガーニー(19世紀)などが挙げられる。
 とくに,アラブ世界の有力国家であるサウジアラビアは,イスラームの聖地メッカやマディーナがあり世界から多くの巡礼者が訪れることから,一般にイスラーム世界の中心のように思われている。サウジアラビアはサウード家が支配する国で,そもそもサウード家はアラビア半島中央部の地方豪族であって,ムハンマドを出したクライシュ族ではない。そのサウード家が聖地を含むアラビア半島を支配できたのは,その強烈なワッハーブ派の信仰と,同家が繰り広げてきた闘争の歴史による勇猛さ,そして英国の庇護の下に反オスマン帝国,アラブ民族主義を掲げたことによる。歴史的にサウード家は,勤勉な開拓と近隣者を倒す積極的な領土拡張によりその支配を拡大していった。そのような中,サウード家の拡張主義を宗教的にバックアップする宗教家が現れたのである。それがアブドゥル・ワッハーブ(1703-91年)であった。
 18世紀半ば,アラビアのアブドゥル=ワッハーブがはじめたワッハーブ派は,神秘主義(スーフィズム)や聖者崇拝を批判しながら,クルアーンとムハンマドのスンナに戻り,イスラームを純化させようとする復古主義的イスラーム改革運動である。そしてアブドゥル=ワッハーブは,覇権を狙っていた中央アラビアのサウード家と盟約を結び新たな国家体制を作り,それが今日のサウジアラビアの基礎となった。その後サウード家は,幾多の攻防の末,現サウジアラビア王国の祖アブドゥルアジズ・イブン・サウードが,1925年ごろまでにアラビア半島の覇権を確立した。 
 一方西欧列強の最大の敵はオスマン帝国であり,西欧列強は,その弱体化を狙っていた。西欧列強は,中東地域での交易,後には石油利権もからんで,アラブ・イスラーム世界を植民地化しながら自由に蹂躙してきた。
 一方,ワッハーブ派はオスマン帝国内でしばしば反乱を起こしており,それに目をつけたのが西欧列強とくに英国だった。とくに,第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れたことを好機と捉えた西欧列強は,その領土を分割し始めたのであった。
 この動きに相応したのが,サウードである。イスラームは普遍宗教であるから,理論的にいえば部族・民族ごとに宗派が分かれることはないのだが,ワッハーブ派はそうではなかった。ムハンマドの血を引く流れか,それに近い者が,イスラームの中心になるべきだと考え,アラビア人であるわれわれこそがイスラームの中心を引き継ぐ立場だと主張した。それはある意味で,今日でいうナショナリズム,民族主義の表明であった。ただ一般的には,厳格な一神教を主張するワッハーブ派に対して多くのイスラーム教徒はこれを過激として退けていたとされる。インド・イスラームでも,サウジアラビアによるメッカ,マディーナ(ヒジャーズ)支配に反対した運動がおこった。
 いずれにしても,リヤドの豪族であるサウード家と宗教勢力のワッハーブ派の結合は,権力が欲しいサウード家と,宗教的・民族的正統性はわれわれにありと信じるワッハーブ派(宗教的原理主義)の利害が一致した結果だった。この新しいイスラームの政治形態は,現在の原理主義運動の源流ともなった。
 やがて,イギリスなどの後押しを受けてアラビア半島を支配するようになった。このヒジャーズ王国のハーシム家(ムハンマドの子孫で最も栄誉ある家系とされる)のフサイン王は,サウードと対立した。そこで,イギリスなどの勢力に後押しされたサウードによりヒジャーズ王国は滅ぼされてしまった(1925年)。
 しかし,名門ハーシム家を滅ぼすわけにはいかず,西欧列強は,弱体後のオスマン帝国の支配地域を取り上げて,ハーシム家の3人の息子に分け与えた。それが現代に繋がるイラク,シリア,ヨルダンで,今日でもハーシム家が残っているのはヨルダンだけである。
 もともとサウジアラビアはワッハーブ派の信仰を世界中に広げたいと考えていたが,積極的には布教はしていない。また,彼らの立場は,イスラームの純粋性を追求しているのであり,それはイスラームの一つの姿である。
 その後,石油利権が本格的に確立すると,欧米諸国の後押しも手伝ってサウジアラビアは富裕国となった。ワッハーブ派の主張はかなり原理主義的なのだが,その政策は欧米と協調的だった。
 実は,われわれの原理主義的な,つまり信仰生活に厳格なイスラームのイメージは,このアラビア半島のイメージが強いのであるが,しかし人口的には彼らの存在は少数である。勿論,これもイスラームの一部であるが,他のイスラームの形もあるということである。この点が,理解されていないことが現在のイスラーム,とくに日本人のイスラーム観に大きな影を落としているのは残念なことである。

5.イスラームの多様性

 既に見てきたようにイスラームは,他者を排除してその信仰を認めないというような宗教では決してない。世界のイスラーム人口の約半数が南アジアや東南アジア地域に住んでいるが,彼らのイスラーム信仰は非常に穏健だ。しかし彼らについて余り研究されてこなかったし,注目されてもいない。現在のイスラーム研究の多くは,イスラーム教徒自身によるイスラーム研究ではなく,19世紀以来の欧米研究者主導のアラビア語による中東地域のイスラーム研究だ。
 イスラームの神学上の問題を中心に扱うとどうしても過激なイスラームになりがちだ。とくに欧米のイスラーム研究は,キリスト教の対抗勢力として,正統性を問いただすような視点になりがちだ。しかし現実のイスラームはもっと複雑で多様性をもつ。それゆえにイスラームは世界中に広がったわけで,そういう面をもっと強調していかないといけない。
 もし南アジアや東南アジアのイスラームをもっと研究していれば,イスラームは他宗教(異教徒)とも共存共栄していくことができ,幅広い寛容性を含む解釈もあわせ持つ実に多様な宗教であるとの理解が進んでいたに違いない。
 しかしそうした理解が,イスラームの人たち自身も足りないし,世界的にはなおさらそういう方向に行っていない。南アジア,東南アジアのイスラームの思想や文化,事例をもっと研究していくことが,「平和的イスラーム」への理解につながっていくきっかけになるのではないかと思う。
 東アジアの人々にとっては信仰上,イスラームとは対立関係にはなりにくい。むしろ共存関係があるので,それを強調することで,(中東の)イスラームの人々にもこのような(寛容な)イスラームがあったのかと,その多様性を示すことができるのではないか。
 イスラームの存在は,いまや東アジア地域でも無視することができない時代になった。そういう意味でもイスラームと協調していかないといけないのだが,厳しいイスラーム・イメージだけをもっていると,イスラームと向き合ったときに萎縮してしまいかねない。それゆえ「平和」「ピース」「サラーム」「ガファーラ」の平和概念を正確に理解しておくことは,相互理解を深める上で非常に重要ではないかと考えている。そのうえで,更に普遍的な平和概念の理解や構築が望まれる。
 かなり大雑把な考察であるが,その意図とするところをご理解いただけることを願うばかりである。
(2016年10月31日)

■プロフィール ほさか・しゅんじ
1956年群馬県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科修了。その後,東方学院講師,早稲田大学講師,麗澤大学教授などを経て,現在,中央大学大学院教授。専攻は,比較宗教学,インド思想。主な著書に,『シク教の教えと文化』『イスラームとの対話』『仏教とヨーガ』『インド仏教はなぜ亡んだのか』『国家と宗教』『癒しと鎮めと日本の宗教』『「格差拡大」とイスラム教』他多数。