現代社会の過剰消費傾向を反省しよう

 現代社会において消費行動を抜きにして日常の生活を語ることはできない。「ホモ・コンスメンス(Homo Consumens)」という言葉も使われている。この用語は高度に発展した資本主義社会の特徴を消費と関連づけて表した用語として「消費する人間」という意味だ。資本主義社会は,消費を基盤として成立するという意味をもつ。しかし資本主義社会において人々は,衣食住問題のためだけに消費行動をするわけではない。差別的消費を指向する。例えば,他者が小型車に乗れば自分は大型車を所有しようとする。他者が一般的な商品を持てば自分はブランド品を持って歩くというように,差別化を試みる。
 このような現代人の消費活動は,哲学的にも説明できる。フランスの構造主義哲学者ジャン・ボードリヤールは,デカルトの「我思う。ゆえに我あり」という有名な句をもじって,「我消費する。ゆえに我あり」と置き換えた。現代人の大量消費を皮肉ったわけだ。このようなパロディーは,単純に基本的欲求の水準を超える過剰消費,大量消費の問題を生むという指摘でもある。消費は,行為自体で終わるのはない。他者に対する評価にまで及ぶ。相手の人格や知的水準を推し量るよりは,何を着るのか,何を食べるのか,どこに住むのかを問う。
 米国ハーバード大学のマイケル・サンデル教授は,その著書『それをお金で買いますか?市場主義の限界』の中で,お金で買うことのできないものとお金で買ってはいけないものがあることを示した。「本当に大切なものとは何か」「どのように暮らしたいのか」という質問を先行させる時,道徳,友情,人格的価値のような,人間関係における大切な価値が光を放つという。このような点で,今日の消費行動は,ブレーキが故障した自動車に乗って疾走するようなものだ。生活上の必要を充足するための一次元的な消費ではなく,欲望を消費する(満たす)時代の問題点である。
 ほしいままに,手当たり次第消費することは貪欲的消費だ。社会的疲労を呼び起こす消費である。そのような疲労がときにはテロを呼び起こすこともある。かつて世界的に衝撃を与えた「ユナボマー事件」はその代表的事例である。1978年から95年まで約17年間にわたり米国の大学と航空関係者に小包爆弾を送り爆発テロを起こした事件だ。同事件の犯人セオドア・カジンスキーはバーバード大学を卒業した数学の天才だった。彼は森の中で20年あまり隠遁生活をしながら現代文明を批判する論文を書き,16回にわたり小包爆弾事件を起こしたのだった。これは現代社会の「貪欲」と関連した一つの断面である。
 「欲望が節制されない疲労社会」という現代社会は,徐々に消費のパラダイムを変えていかなければならないのではないか。自ら節制しない消費は,疲労をさらに加速化させる。1992年カナダのテッド・デイブは「何も買わない日(Buy Nothing Day)」という運動を始め,新しい方向性を示した。自発的な倹約,倫理的消費,公正貿易なども同様の範疇に入るだろう。これらはすべて過剰消費に対する反省の考え方だ。過剰な貪欲を脇におろすとき初めて明るい天と地,いやわれわれ自身の本当の姿を見ることができるのではないだろうか。
(ハン・ビョンソン・教育評論家,韓国「世界日報」2014年6月16日)