今なぜ「建国節」を言い出すのか?

 中国の歴史上,類例のない太平盛大の世である「貞観の治」を行った唐の太宗は,「古い歴史を「鏡」とすれば,(王朝の)興亡を図り知ることができる」と言った。宋の時代の司馬光が著した歴史書『資治通鑑』の「鑑」は「鏡」を意味する。歴史とは,政治の鏡であるわけだ。歴史を鏡としようとすれば,政治と歴史が一定の距離を置かなければならない。朝鮮王朝は,史官が王の言行を記録し,歴代王の実録を編纂したが,王自身も史官が著した「史草」(原稿)を見ることはできなかった。それは政治論理が歴史を支配することを防ごうとする装置なのである。

 朴槿恵大統領は,今年(2016年)の光復節(8月15日)の記念演説において,「(今年は)71周年目の光復節であると同時に,建国68周年でもある」と述べた。「建国68周年」とは,1948年8月15日の大韓民国政府樹立の日を,建国の日と見る一部保守陣営の主張を受け入れた表現だ。これに対して光復会は,「3.1独立運動(1919年)直後,大韓民国樹立を上海臨時政府が宣布し,たゆまぬ独立運動を通じて光復を回復したのであり,1948年に正式な政府が樹立されその正統性を受け継いだというのが,われわれの歴史の正説である」と反駁した。

 今,政権党であるセヌリ党が,「建国節」を公論化している。李貞鉉代表が国会において,対国民公開討論会を開催しようと提案したのに続いて,チョン・ヒギョン議員は,「光復節」を「光復節および建国節」と変えようという趣旨の「祝日(国慶日)に関する法律」の改正案の発議を行った。それに先立ってチョン・カッブユン議員が,2007年に「光復節」を「建国節」に改称する法案を提出したものの,市民団体などの反発で撤回,さらに2014年には,ユン・サンヒョン議員が,「光復節」を「光復節および建国節」に変えようという法案を提出したが,第19代国会の任期満了により廃案となった。しかし十分な意見の収斂すらも行わないまま,建国節について公論化しようというのは当惑するものである。党論採択の動きまでもある。セヌリ党が多数党のときにできなかったことを「与小野大」の状況の中で推進しようというのは理解できない。多くの問題が山積する状況の中で,消耗的な論争の種だけを作り出す政権党の様をみるときに,情けない思いになる。

 私は1960年代末の小学校時代に,「開天節」(10月3日)が国を建てた日であり,8月15日は「光復節」であると同時に大韓民国政府樹立の日であると学んだ。この間,大韓民国が成し遂げた輝かしい実績を誇ることができると考えるが,8.15=建国節の話を聞くと,歴史認識に混乱を起こす。
 わが国の憲法を見てみた。1948年の制憲憲法前文には,「己未三一運動で大韓民国を建立し、世界に宣布した偉大な独立精神を継承し、今や民主独立国家を再建する」するとなっている。その年の李承晩大統領の就任演説文と大韓民国政府樹立宣布式演説文の末尾には,「大韓民国30年」と書かれている。臨時政府が樹立された1919年が大韓民国「元年」の意味だ。当時,主要新聞も記事に「大韓民国政府樹立」と書いた。しかしここにきて,政府樹立の日を建国節と変えようとする理由は理解できない。

 一国の歴史は,一貫性を持たなければならない。それは(歴史が)国家の根幹であるためだ。英国の歴史学者E.H.カー(1892-1982年)は,その著書『歴史とは何か』の中で,「歴史が過去と未来との間に一貫した関係を打ち樹てる時にのみ、歴史は意味と客観性とを持つことになる」と述べた。政権によって歴史の解釈と用語を変えていくならば,その国の歴史はぼろきれになってしまう。フランスの歴史学者マルク・ブロック(1886-1944年)は,その著書『歴史のための弁明』で,「唯一の真の歴史は,相互協力によってのみなされる普遍的歴史であり,過去に対する無知は現在に対する理解を妨害するのみならず,現在の行動にまで危険な影響を及ぼす」と警告した。

 政権勢力の基本的責務は,国全体が関心をもつべきテーマを設定し,これについての議論を導いた後で結論が導出されれば,それを実行に移すことである。建国節の議論を眺めてみると,政権勢力のテーマ設定能力に深刻な問題があるのではないかとの疑問を抱くようになる。ゆえに問う。なぜよりによってこのときに「建国節」を言い出すのか。それが重要な問題と考える理由は何か。歴史教科書国定化がどのような結果をもたらすのか,はじめから懸念が先立ってしまう。いまは政治勢力がしゃしゃり出て「歴史戦争」を引き起こすときではない。学界において十分な論議を尽くすまでは,大韓民国政府樹立の日を内的に記念することが正しい姿勢だと思う。
(パク・ワンギュ,韓国「世界日報」2016年8月30日付)