多胡郡設立1300年と渡来人

1300 Years since Establishment of Tago-gun and Ancient Immigrants

菅野英機(日本民俗経済学会理事長)
Hideki Sugano

 

<要旨>
 古代律令国家の形成に朝鮮半島からの渡来人や帰化人が大きな役割を果たしたことはよく知られている。それを記した古代碑の中で最も古く,群馬県にある国特別史跡「多胡碑」は,711年に建てられたもので,今年その1300年目を迎える。これは平城京に遷都した直後のことであり,当時の最北の守りとしてこの地域を位置づけた国造りの一環であったことがわかる。日本と韓国の深い関係を示す貴重な歴史遺物であり,それを記念して「多胡郡建郡1300年記念事業」が行なわれている。

多胡郡設立1300年記念事業
 平成19年から20年に私が理事長をしているNPO法人日本民俗経済学会のメンバーで,多胡郡を中心に泊まりがけで調査と親睦を兼ねて,高崎市から長野県にまたがる地域の歴史的遺跡や資料館を訪ねた。また,市民にも呼びかけて,多胡郡についての講演会などを行った。平成21年には市民にも呼びかけて,現在高崎市に合併された地域にある多胡碑と山上碑と金井沢碑の三つの古代の碑を市民の多くの方々と見て回り,学芸員の方々から説明を聞き,1泊して地元の辛科神社の宮司さんから多胡郡と多胡碑の説明を聞いた。
 丁度2011年が多胡郡設立1300年に当たることから,09年から年4回の講演会と1回の現地見学会を行い,日本民俗経済学会主催の元に,多胡郡設立1300年記念事業委員会を設けた。同委員会は,私が代表を務め,辛科神社の宮司をしておられる神保侑史氏に委員長になっていただいた。
 第1回目の講演会は途絶えていた吉井町のお祭りの復活に合わせて,吉井町の多胡碑記念館において地元の方に吉井町と多胡碑にまつわる話をして頂いた。予想を超える盛況で180名ほどの方が参加した。次の年は高崎市教育委員会,上毛新聞社,群馬テレビなどの協力とヤマダ電機,辛科神社,地元企業に力をお借りして,2年目は5回の講演会を行い120人から250名ほどの方が来られた。また,奈良の「平城京設立1300年を祝う会」の代表をしておられる中曽根弘文・元文部大臣や群馬県の文化財関連の委員を務める県会議員や吉井町と高崎市の合併を進められた当時の市議会議長と高崎市の教育委員会の課長さんにも御挨拶をいただいた。

多胡碑が伝えるもの
 多胡碑は1300年前の711年(和銅4年)に,現在の高崎市に多胡郡が設立された経緯について伝えている。多胡碑は,「国特別史跡」に指定されている。「国特別史跡」はその地域に与えられるもので,仏像などの物に与えられる「国宝」に相当する。多胡碑自体が1300年前に作られたか否かははっきりしないが,歴史資料として信頼されている古代日本の公式の歴史書『続日本紀』に多胡碑の碑文とほぼ同じ内容の文面が見られ,書かれている内容は信頼できると見られている。多胡碑の文面の読み方は「弁官付す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘楽郡併せて三郡の内,三百戸を郡と成し,羊に給いて多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣る。左中弁正五位下多治比真人。太政官二品穂積親王。左太臣正二位は石上尊,右太臣正二位は藤原尊」が一般的とされる。
 その他の多くの資料やさまざまな関連する証拠から,多胡郡はまわりに既に存在していた3つの郡から寄せ集めた人と,韓半島の新羅から来た帰化人に当時の大和朝廷から与えられたものである。特に多胡郡域から出土した瓦に「吉井連里」(よしいむらじのさと)と書かれており,『続日本紀』太平神護二(766)年の「上野国在住の新羅人子午足ら193人に吉井連の姓を与える」という記録と一致し,帰化人が多く移住していた「吉井連里」であることが明らかになった。大和朝廷の代表者は藤原尊名で,郡の代表者であった「羊」に給ったと書かれている。「羊」はさまざまな説があるが,古代史の代表的研究者である佐藤信東大教授によると名字ではなく,名前と考えられる。
 2009年は,まさに奈良に平城京が作られた1300年目の記念の年であった。国の形を決める「律令体制」が整備されたその時期である。大和朝廷による国の形が整備される一環として,全国が「国」「郡」「里」として統一され,役職や法令なども,大和朝廷を支える人々が文字を持つことによって国家形成につながる新しい時代を迎えた。
 「郡」から朝廷には,税が納められた。多胡郡からは織物が納められていたことが,当時の資料から分かっている。多胡郡が設立した時期に,大和朝廷の支配地域は,南は九州から北は群馬に至る地域であり,群馬から北は蝦夷よって支配され,まだ律令体制に組み込まれていなかった。おそらく多胡郡がこの地に作られた理由の一つは,最北の守りを固めるためであったであろう。
 平安京に遷都され都が京都に移った後に青森まで支配地域に組み込まれ,北海道を除く地域が律令体制に組み込まれ,沖縄と北海道を除く地域が日本となった。おそらく韓半島からの渡来人を核にして縄文人と弥生人が混血して日本人が形成された。それは日本人の遺伝子が現在の韓国人と最も近いことからも推測される。
 新羅からの渡来人が多胡郡に配属されたもう一つの理由は,次の理由による。百済が唐と新羅の連合軍に敗北し,百済の再建のために大和朝廷が2万人とも言われる大軍を派遣したにもかかわらず敗北した。その原因が大和軍に馬がおらず機動力に欠けていたことと,大和軍の船が木造船で火矢で炎上してしまったことによった。そこで,朝廷は馬を導入することにし,多胡郡に近い地域に馬と馬を飼育する技術を持つ渡来人を住まわせ牧を作った。朝廷に献上する馬を育てる牧が「御牧」(みまき)と呼ばれ,現在でも「南牧村」など地名として残存している。既に渡来人の人々が多く暮らす地域であったところに,新しく来た帰化人を配置したと思われる。
 新羅からの帰化人は,踏鞴(たたら)製鉄の技術を持っていた。優れた鉄を大量に作る技術は,製鉄の技術が劣っていたことが白村江の戦いで敗れた原因でもあり,咽から手が出るほど欲しかったに違いない。大和朝廷が新羅から先端技術者を受け入れた理由は,そこにあったのではないかと私は考えている。当時新羅は最も勢力を誇っていたので,百済や高麗のように滅んで外国に亡命してきたのではない。多胡郡にきた帰化人はその他に麻や養蚕や焼き物の優れた技術を携えてきた。当時多胡郡で織物をしていた多くの遺物が出ている。多胡郡域からは,糸作りの道具である紡錘車が,全国的に見ても突出して多く出土しており,布生産に関わる重要な場所であった。踏鞴製鉄の遺構も見られる。瓦などの焼き物も多く出土している。規模の大きい古墳も多数あり,この地に豪族が多く移住していたことが知られる。

辛科神社と地名
 多胡郡が出来たのとほぼ同じ時期に,「辛科神社」も「帰化人の氏神様を祭るために帰化人の意志によって作られた」と同神社宮司である神保侑史氏は言う。辛科神社はもとは「韓級神社」と表記されていた。現在でもこの神社のある地域の地名は韓級である。その他にも多胡郡あたりから長野県の軽井沢に至る地域には甘楽など韓半島に由来する地名が多く見られる。
 群馬県の赤城山の赤城は,韓国の王が仏教を導入するに当たって中国の仏教の聖地が赤城であったので,同じ赤城という地名を付けそこに寺を建設したことに由来する。読み方は中国と韓国と日本で異なるが漢字表記は同じである。また群馬県の榛名は済州島にある「ハルラ」の「ラ」が「ナ」に変化したと見られる。「ハルラ」は韓国語で火山を意味する。榛名も「ハルラ」も火山島であり,かつて盛んに噴火していた。榛名は表記は異なるが,発音が同じである。日本語の発音は古代百済の発音と近く,多くが同じ行で変化しており,「ン」は「ウ」に変化していることが多い。また「ラ」音は「ナ」などに変化する例が多くある。
 群馬と韓半島の関連を示す事例がその他にも多く見られる。同じ地域にありお正月に多くの参拝者で賑わう「貫前(ぬきさき)神社」は,韓国の女性を祭神としていると言われており,日本の神社が普通入り口から段々と山に向かって上に上がって行くのに対して,下に向かって降りて行くという韓国様式であると言われている。

多胡碑は高崎の誇り
 平城京に「本格国家」が誕生した1年後には,多胡郡が建郡されており,多胡郡の設立は,日本の国づくりの一環であったことは確かである。日本に16碑しか現存しない古代碑の中で,多胡碑と山上碑と金井沢碑の三碑が高崎南部に集中している。碑の集中は,この地に字を読め書ける人が多くいたことを示しており,古代群馬の文化度が高かったことを表している。
 多胡碑の形式は,韓国の新羅地方に多く見られると言われている。日本には余り多くない碑を建てることは,この頃もたらされた大陸文化であったが,それを導入したのは,見てきたように,帰化人たちであった。高崎の地域紙である「タカタイ」に,「日本でも有数の文化力を誇った高崎地域の姿を知り,郷土群馬への誇りを養っていただければ幸いである」と書かれている。
 しかし,この地域にはどこか暗いイメージもあり,私たちがこの活動を始めた頃には「多胡郡が帰化人の郷である」ということを拒否する強い風があった。勿論,積極的に歴史的事実を明らかにし,事実を正しく主張しょうとする人々も町在住の方々の中にもおられたが,複雑な屈折した思いを感じた。
 しかし,近年の遺伝子の研究からも明らかなように,現在の日本人に最も近いのは韓国人であり,その差はほんの僅かである。数万年も前に日本列島に渡来し,定着していた先住民である縄文人は,縄の結び目で数を表すなどの記号的な表現手段はあったが,文字を持たず,米や麦などの非常に生産性が高く,多くの人口を養える手段を欠いており,主に狩りや採集生活をしていた。従って,人口は最も多い時期で30万人弱と見られており,弥生時代が始まる頃には7万人程度と推計されている。弥生人が日本列島にやってきた時期には,縄文人は点としてまばらに日本列島に点在していたと考えられる。
 そこに稲作文化を持った弥生人が渡来してきて,米の生産力の高さとその栄養価の高さに加えて,銅鐸や銅矛などの銅の技術を持っていたことなどによって,大幅に人口を増加させていった。その間に,文字や鉄などの高度な文化や技術を携えた韓半島系渡来人が来て,古墳時代を築いた。弥生人が来て以来1000年ほどの間に人口は500万人程に増加していた。大和朝廷が律令体制を築き,統一された国の形が形成された後に韓半島から渡来した人々が「帰化人」と呼ばれている。
 多胡郡の帰化人は,新羅から高度の製鉄や麻・絹や焼き物などの技術を携えていた。この人々を「帰化人と卑下」する人がいる。その人々もほとんどがより古い時代に韓半島から渡って来て,それまでに渡って来ていた人々と混血を繰り返した人々の末裔であり,同じ人種・民族と見て間違いない。先住民であった縄文人も北海道などの一部を除いて,そのほとんどの人々はその後の渡来人と混血を繰り返しながら,飲み込まれて行ったと考えられる。大規模な戦闘によって滅ぼされたのではなく,元々点として僅かに存在していたに過ぎず,文字などの文化力や製銅や製鉄などの技術力に大きな差があり,米や麦などの栽培技術も持っていなかったから,大きな戦闘を必要とせずに,混血しながらその後に来た渡来人に吸収されて行ったと思われる。
 これが日本の「和」の根底にある歴史的特質であり,前に来た者が後から来た者を「卑下」するのは悲しい姿である。すばらしい当時の先進技術を携えて渡ってきた人々とその前にいた人々は,かって多胡郡の「建郡は,元からあった3郡の一部を裂き取って一つにまとめたもので,かなり強引な行政再編が行われたことが分かる。地元の豪族たちの既得権を奪ってまで」(タカタイ),帰化人に一つの郡を作り与えた「和」の精神と思いを思い起こすべきである。

開放型歴史公園と観光
 このような日本の国の成立に深く関わる関東を代表する歴史遺産を持つ多胡郡を開放型歴史遺産として整備し,観光の資源とすることを提案したい。
 ディズニーランドのように塀で囲まれた施設ではなく,既にある多胡碑記念館や市の宿泊施設,民間の物産展や市の吉井資料館,辛科神社や貫前神社など既にある施設や観光資源を生かしながら,絹糸を繭から紡ぐ体験や絹糸から布を織り,ハンカチやマフラーなどを作れる体験施設,砂鉄から鉄を作る踏鞴製鉄を復元しその鉄を使って日本刀などを打つ見学とその過程の一部を体験出来る施設,瓦などを焼く体験施設,キムチや韓国酒などの見学できる生産施設,日本の中にある韓国文化と日本史における渡来人や帰化人の展示館などを作り,群馬県における観光拠点とすることを提案したい。

(2011年3月8日)
(「世界平和研究」No.189,2011年5月春季号より)