転換しつつある合理/不合理の感覚:何が科学の健全な基礎なのか

―科学の袋小路を打開する統一思想―

The Sense of Rational/Irrational Reversed: What Is the Sound Basis for Science?
How Unification Thought Helps Science out of Its Dead End

渡辺久義(京都大学名誉教授)
Hisayoshi Watanabe

 

自然の研究に超自然は不要か?

 今,世界の科学者と哲学者を大きく二分して対峙させている最も根本的な問題は何か? それはこの宇宙自然界の背後に知的根源を認めるか否か,目的論を復活させるか否かという問題であろう。これは,これまで無神論(あるいは唯物論)を暗黙の前提としてきた科学がこのままで立ち行くのか,むしろそれは何らかの有神論――心の先在性――を前提として組み立て直した方が科学として合理的ではないのか,という世界史的挑戦というべき深刻かつ壮大な問題である。
 この問題は,私自身の精神史を振り返ってみるだけでも,現在起こっている劇的な変化とそれに伴う恐慌の深刻さを,いわば自分の内部のこととして実感できる。20世紀後半にいわば研究者としての躾を受けた私は,科学者ではないが,学問はすべて科学と同様,無神論を土台としなければならないと思っていた。科学と宗教は対立するもので,神を想定することは科学を放棄することだとする「常識」は,私だけでなく大多数の研究者にとって抗することのできないものであった。
 しかし20世紀末になって私は,科学の有神論的土台というものがあってもよいのではないかと考えるようになった。そしてそのような内容の本(『意識の再編』1992)も著わした。それからしばらくして,「インテリジェント・デザイン」という基本的に私の考えと同じ科学革命運動がアメリカで起こっていることを知って興奮を覚え,これを紹介する記事をある雑誌に6年にわたって連載した。その間,これが韓国発祥の「統一思想」と呼ばれる大哲学体系と完全に融合し得ることに気づくに及んで,科学の有神論的パラダイムが許容されるだけでなく,旧来の無神論的パラダイムよりはるかに有効であるという確信を得るに至った。
 この論文は,こうした最近の科学思想の,隠然として,しかし確実に発想の転換をもたらしつつある動向とその文化的意味について,そして最後に,旧来の唯物論科学の行きついた袋小路に対して,統一思想がどのような解決の示唆を与えているかを,科学の難問の具体的な一例をとって,説明することを目指すものである。
 この転換の動きは,今でも科学界の主流派においては(あるいは表向きは)無視された形で,何も起こっていないかのようにみえる。しかしここ十数年の間に旧来のパラダイムがぐらつき始め,懐疑派の説得力が増すようになったことは否定できず,「インテリジェント・デザイン」と呼ばれる科学革命運動が,いわば内部告発の形で科学者の間から起こってきたことに大きな意味がある。これは宇宙科学,生物科学,古生物学(化石記録)といった科学のいくつかの分野からのデータが,無神論的パラダイムではもはや説明できなくなった事情と一体をなすものである。
 数年前,有名な反インテリジェント・デザイン(ID)の闘士であるNCSE(全米科学教育センター)所長ユージェニー・スコット女史が,「この自然界を研究するのに超自然(supernatural)を持ち出すなんて,馬鹿げているじゃありませんか」と言っているのを,私は偶然あるユーチューブで耳にした。果たしてそうか? 私のこの論文は,スコット女史のこの言葉をめぐって展開されるものと考えていただいてよい。
 このsupernaturalという概念をとらえて,かつて詩人のT・S・エリオットが書いた評論がある(これは私の先にあげた旧著でも取り上げている)。エリオットが言っているのは科学についてでなく,ヒューマニズム(人本主義)といわれる一種の現世宗教についてだが,彼が主張するのは,ヒューマニズムは「人間の尊厳」などということを説く一方でsupernatural なものを否定しているが,実はひそかにこれに依存しているまやかしの思想だということである――
 私が反対するのは,ヒューマニストは人間を自然から区別するのに,彼が否定するあの「超自然」を利用していることである。というのは,もしこの「超自然」が抑圧されたら,たちどころに人間と自然の二元性は崩れてしまうからだ。人間が人間であるのは,彼が超自然的な現実を認識できるからであって,それらを作り出すことができるからではない。人間の中のすべてが下から発展したものとして跡付けることができるか,それとも,そのあるものは上から来なければならないかのいずれかである。このジレンマを避けることはできない。人は自然主義者になるか,超自然主義者になるか,どちらかを選ばなければならない1。
 このエリオットのような考え方は,ダーウィニズムのような唯物論が世界を支配するにつれて片隅に追いやられてしまったが,決して死んだわけではなかった。エリオットの示すような「理性」は生きていた。しかしそれは不幸なことに,理性でなく迷信として退けられることになった。20世紀後半のように,特に学問の世界で唯物論的合理主義が支配的であった時代には,超自然は迷信として扱われ,我々は徹底的にそれによって教育された。そのため「超自然」という本来まともな言葉から我々が受け取るのは,怪奇現象,反科学,無知蒙昧といったマイナスのイメージだけになってしまった。
 もしsupernaturalという概念に,科学的無知,反科学,不合理といったニュアンスが含まれるからといってこれを排斥するならば,それは産湯と一緒に赤子を流すことになるだろう。そのあたりの弁別ができないことが,我々の時代の不幸であったとも言える。
 これに関して,森鴎外の「蛇」という短編小説が参考になるかと思われる。ある田舎の旧家の家族に狂女がいて,「新仏となった姑の位牌のある仏壇にいつでも蛇がとぐろを巻いている。捨てても捨ててもまた戻ってくる」という。そこへ泊ることになった理学博士が,「何も不思議なことはないのですよ」と言って聞かせ,蛇を掴んで魚籠に入れて捨てるという話である。いわゆる啓蒙運動(the Enlightenment)とはこのようなものであろう。不気味で説明のできないものを,科学者の権威によって「何も不思議はない」と言って一刀両断に切り捨てれば気持がよく,世の中を一瞬明るくする(enlighten)かもしれない。しかしこれはごまかしであって,不気味さは消えず,我々は納得したわけではない。これは明治末期の作品だが,それから百年を経た今でも,科学者はこのように振る舞わなければならないことになっている。鴎外自身もこの啓蒙主義の立場に立っていたことは明らかである。
 いったいこの理学博士の態度は科学者として正しいであろうか? 「何も不思議なことはない」と強弁するよりも,「何か隠れた意味があるのかもしれないが自分にはわからない」と謙虚に言うべきではなかろうか? ここで問題にしている「超自然」は,もちろんこんなことだけを指すのではない。こんなことを含むかもしれない宇宙大自然の根源にある人知を超えた神秘あるいは叡智のことである。この「蛇」の一件は,よく調べてみたら「合理的」に説明できることがわかった,ということになったかもしれない。しかし問題は,これまで科学者が唯物論的合理主義によって,この世界のすべてを説明できる――割り切る,片づけることができる――と主張してきたことである。この「すべて」の中には宇宙の起源や生命起源,人間の存在する理由も含まれる。これは傲慢とも独善ともいうべき態度である。
 たとえば生命とか意識といったものは自然界の内部で起こっている現象だが,これを自然界の内部で,つまり物理化学現象として完全に説明できるだろうか? 生命という明らかに神秘的なものについて,その起源も歴史も恐るべき複雑さも,生命のすべてが(ネオ)ダーウィニズムという単純な唯物論的合理主義によって解明できるはずだという科学者の独断は,明らかに科学を逸脱するものである。神秘(あるいは未知の超自然的叡智)を認めるのを科学者の恥であるかのように言うのは,明らかに自ら科学を否定することである。今ようやく科学者はそのことを問題にするようになった。ダーウィニズムのような単純な合理主義ですべてを説明しようとすれは,それが不合理な説明に行きつくのは当然である。不合理なものを我々は科学とは認めない。本来の科学は,世界に浅知恵の人工の原理を押しつけるような傲慢なものではなかった。
 最近,世界規模で広まりつつあるID運動を反映して,イギリスにも私的な「IDセンター」が設立されたが,その設立趣旨にも,科学を本来のあり方に戻そうとする姿勢がうかがえる――
 インテリジェント・デザイン(ID)理論は,宇宙と生き物のある特徴は,知的能力を原因とすることで最もうまく説明されると主張する。科学者のID擁護論が世界的にますます顕著になってきた今,英国でも声をあげるに値する。
 本センターはIDを,英国やヨーロッパの科学の歴史に深く下ろされた,その根にまで引き戻して考える。近代科学の最もよく知られた先駆者のある人々は,英国でもヨーロッパでも,自分は現実にデザインされた宇宙を探究しているという信念のもとで,研究をしていたのである。
 我々は,科学によって保証されたかのような,近代合理主義などという観念を植え付けられているが,そもそも意味も価値も目的も切り捨てた宇宙自然界へのアプローチを,「合理主義」などと呼ぶことはできない。却って中世のスコラ哲学の方が合理主義的であった。この見方は哲学者A・N・ホワイトヘッドのもので,彼はすでに1920年代に『科学と近代世界』(Science and the Modern World)の中でこう言っている――
 もし物事が生起する全体的な環境から捨象された,ある種の事実にのみ注意を限定するならば,唯物論的な前提が完全にこれらの事実を説明するだろう。しかし,もし我々の五感をもっと研ぎ澄ますとか,意味への,また思考の一貫性への要求によって,この捨象を一歩抜け出したときには,この[近代科学の]構想はただちに崩れ去る。この構想の狭い有効性こそが,その最高の方法的成功の原因である。なぜならそれは,その当時存在していた知識の状況において,研究を要求するような事実群にだけ注意を向けたからである。
 この構想の成功は,ヨーロッパのさまざまな思想の流れに不幸な影響を与えた。 この歴史的反逆は,反合理主義的(anti-rationalistic)であったが,それはスコラ哲学の合理主義が,なまの事実による強い修正を要求していたからである2。
 近代科学が出発当初から抱えていたこの問題――部分的成功によって全体的現実から目をそらすことになったという問題――が,現在まで不問のまま持ちこされ,それが最近になってやっと表面化してきたと見るべきであろう。唯物論科学というものが科学の本来のあり方だと考える錯覚が,我々を長く支配してきたのだが,皮肉なことに,その唯物論科学そのものの生み出す成果が,唯物論という前提をますます弱体化する方向に働いているのが現状だと考えられる。
 イギリスの哲学者アントニー・フルー(Antony Flew)は,無神論陣営の大黒柱として長らく尊重されてきたが,彼が最近の科学の提起する問題――特に細胞の示す驚くべき複雑さやデジタル・コードの起源問題――から,もはや無神論者でいることはできなくなった,「どこへでも証拠の導く方向には従わなければならない」と言って,ID派への転向宣言をしたことはよく知られている。
 私は合理/不合理の感覚の転換という観点から,今起こっているパラダイム闘争を見てきたが,これを健全/不健全という観点から見ることもできると思う。何をもって合理とし不合理とするか,何をもって健全とし不健全とするか――この感覚が変化しつつあると言える。IDをめぐる論争に端的に現れているように,唯物論の枠内に閉じこもり,自分たちを批判する者をひたすら嘲笑し軽蔑するという態度は,どう見ても不健全である。
 唯物論者の精神構造を分析してみれば,明らかに彼らは「神秘」や「超自然」を,「怪奇」「不合理」としてしか捉えることができず,その区別ができない。これは不健全な感覚だと言ってよいだろう。「神秘」と「怪奇」は,はっきりと弁別すべき別ものである。科学者や哲学者の健全な感覚としての合理的な神秘というものがあるのである。
 前記ホワイトヘッドの『科学と近代世界』(1926)とほぼ同じころ,科学者サー・アーサー・エディントンは,名著とされるThe Nature of the Physical World(1928)の中でこう言っている――

 我々は誰でも,物理学の世界によって絡め取られることのない人間精神の領域があることを知っている。身の回りの創造物に神秘を感ずるとき,芸術表現をするとき,神へのあこがれを感ずるとき,魂は上方へと向かい,その本性の中に埋め込まれた何かの充足を見出す。この発展を承認するものが我々の内部にある。 それは我々の意識とともに生まれる追求欲,あるいは我々の力を超えるより大きな力から流れ出る,内なる光である。科学はこの承認するものを問いの対象とすることはできない。なぜなら科学の探究は,心が従わざるを得ない追求欲,抑えつけることのできない問いから生まれるものだからである。科学の知的な探究であろうと,精神の神秘的な探究であろうと,光は前方へと我々を招き,我々の本性から湧き出る目的がこれに応ずる3。(傍点引用者)

 これは,神の叡智によって我々の心が,世界を探究し認識するようにデザインされているということ,そしてそのこと自体を科学は問いの対象とすることはできないということで,この観点は統一思想(特にその認識論)にもID(特に『意味に満ちた宇宙』A Meaningful World)にも通ずるものである。これが健全な自然な考え方であって,ここに反科学的な,迷信のようなものを見出して嘲笑し軽蔑するような精神は,唯物論科学専制という我々のいびつな,病める文化の産物といってよいだろう。

多重宇宙仮説は正気か狂気か?

 最近,有名な理論物理学者スティーヴン・ホーキングが著書(共著)The Grand Designで,宇宙を作るのに神を必要とはしない,物理法則だけで十分なのだから,と論じて話題を呼び,無神論を喧伝するマスコミによって喝采され利用されている。世間が驚いたのは,ホーキングはかつて,宇宙を無からつくることができるかのような数学的記述が存在することと,現実の宇宙の創造の説明とは別だという意味のことを言っていたからである。(理論物理学者ポール・デイヴィスの著書の表題The Mind of Godはホーキングの言葉から取られている)。
 これについて科学者で数学者のBruce L. Gordonという人が,2010年10月1日のワシントン・タイムズに痛烈な批判の書評を書いた――

 ホーキング氏はこう主張する――「最近の宇宙学の進歩が示唆するように,重力と量子理論の法則は,宇宙(複数)が無から自然発生することを可能にする。自然発生的創造ということが,なぜ無でなく何ものかが存在するか,なぜこの宇宙が存在するのか,なぜ我々が存在するのかの理由となる。導火線に火をつけ宇宙を始動させるのに神を呼び出す必要はない。」しかし「自然発生的創造」から原因をいっさい取り除くなら,それは科学的理解というより,説明がないと説明するに等しい。それはまた,ホーキング氏が何年か前に言った「方程式に火を吹き込み,それらが記述するような宇宙を作っているものは何か?」という問題提起に逆行するものである。

 ホーキング氏は自分の前言の続きを言うべきであろう。彼は単なる数学的記述と真の説明との違いを問題にしていたのである。数学的記述は,諸現象の間にどんな数学的関係が成り立つかを教えるが,なぜ成り立つかは教えない。真の説明は,いかに物事が現実に働いているか,つまり,なぜそのような記述が的確で効果的であるかを教えるものである。重力と宇宙論に適用された量子理論は,高度に思弁(空想)的な推論の数学的記述を可能にするが,それはたとえ真面目に受け取られたとしても,それらが呪現する出来事の説明を与えるものではない。そのような空想に信頼性を与える証拠がないことを別にしても,それらの説明的無能は,通常の量子力学から受け継いだもので,それはきわめて正確に計量可能な現象を記述するが,なぜ特定の量子的所産が観測されるかを説明するものではない。・・・物理的宇宙は因果論的に不完全で,したがって自己創出的でも自己充足的でもない。空間,時間,物質,エネルギーの世界は,空間,時間,物質,エネルギーを超えた一つの現実に依存しているのである。
 この書評のタイトルHawking irrational argumentsは痛烈な皮肉で,これは「ホーキングの不合理な議論」とも,「不合理な議論のhawking(売り歩き・宣伝)」とも読める。そして副題はTheoretical physicist takes leave of his senses(理論物理学者が正気を失う)となっている。ホーキングがなぜ前言を翻すようなことを言い出したのか不明だが(もともと確固たる哲学をもっていなかったのであろう),これは少なくとも現時点の科学が,合理/不合理,正気/狂気の基準がどちらの側にあるのか,わからなくなっているパラダイム転換期の混乱を象徴すると言ってよいだろう。Reason in the Balance(危機にある理性)という,ID運動の生みの親である法学者フィリップ・ジョンソンの著書が思い出される。最初に引用したユージェニー・スコット女史の「自然界を研究するのに超自然を持ち出すなんて,あきれるじゃありませんか」という言葉を思い出していただきたい。この書評はこう結んでいる――

 多重宇宙仮説が虚偽とわかるのは,我々が我々自身について真理だと自覚するものを,それは虚偽だとするからである。明らかに多重宇宙の観念は,科学の可能性そのものを破壊する虚無的な不合理性を必然的にする。宇宙は,抽象的な数学的記述を根拠に「自然発生的に創造」するものでもなく,無制限の多重宇宙の幻想が,超越的なインテリジェント・デザインの説明力を,切り札として出すわけでもない。ホーキング氏の矛盾した主張は,数学的サヴァン(特異能力者)が形而上学的無能者になることがあるということを示している。知的買い物に要注意。

 多重宇宙(multiverse)仮説というのは,なぜ我々の宇宙が,人間のような生物を生み出すように最初から設定されていたか(少なくともそう見えるか)を,合理的に――ただし唯物論的合理的に――「説明する」理論である。我々の宇宙の初期条件が,生命のために,人知の及ばぬ想像を絶するような精度で,数値的に微調整(fine-tuning)されていたという事実は,すべての科学者が認めるようである。ただ唯物論科学者は,あくまでこれを自然現象として,つまり偶然と必然という要因だけで発生した出来事として説明しなければならないという絶対命令があるために,多重宇宙という数学的に可能な,無限数の多様な宇宙を想定する。つまり,いかにデザイン(超インテリジェンス,天文学者フレッド・ホイルの言うsuper-intellect)の事実が直観的に圧倒的であろうと,「それはデザインでなくデザインされたように見えるだけ」というダーウィニストの詭弁を,宇宙論にまで拡張したものと考えればよい。しかし,そこまで空想的にならなければならない彼らの説明を,唯物論に徹しているというだけで,「合理的」と呼ぶことができるであろうか? そこに科学者の「狂気」,この文化の「理性の危機」を感ずるこの書評家のような科学者・哲学者は,いくらでもいることを知っておくべきである。
 ここ数年,Godという語をタイトルに含む科学者や哲学者の本が目白押しに出版されており(これは数年前まで考えられないことだった),それ自体が科学者の意識の変化を表わすものと考えられるが,その一つであるRobert SpitzerのNew Proofs for the Existence of God , 2010(神の存在の新しい証明)は,次のように言っている――

 宇宙は原因をもたず必要ともしないことを,数学的記述が示していると信ずるのは,non sequitur(不合理な論理)でもあり――記述自体からそれは出てこない――,存在論的カテゴリー・ミステイクでもある。レナード・サスキンド(Leonard Susskind)のようなランドスケイプ理論家が,現実世界のメガ宇宙を生み出す可能性のランドスケイプ(見晴らし)の存在を主張し,このことが微調整の問題の,心の関与しない(mindless)解決を提供すると示唆するとき,彼らは,数学的可能性のほとんど無制限の舞台も,たった1つの現実の宇宙さえ生み出すことができないという事実を,完全に無視している。微調整の問題の,心の関与しない多重宇宙による「解決」は,全く文字通り,形而上学的な始動せぬ機械である。却って基礎物理学と宇宙論における,作用的・物的因果性の欠如が明らかにしているのは,科学的説明の限界と,より深い理解の必要性である4。(強調原文)

 スピッツァーは,こうした理論の流行は「合理的企画としての科学を破壊する種を含むもの」だと言っている。彼は,それは「科学的説明の限界」を示すもので,「より深い理解が必要」だと言う。これはもちろん無神論的パラダイムの枠内での深い理解ではありえない。枠そのものが深化あるいは進化しなければならないのである。我々にとっては今のところ未知の,あるいは理解力の及ばぬ,しかし不合理的ではなく合理的な,そしていつかは我々に開示されるであろう,より深い秩序を持った叡智的世界が存在する――そのような信念の上に立つ科学が必要だということである。
 先のワシントン・タイムズの書評家は,「我々の宇宙がそれに依存している超越的現実は,作用力(agency)を見せつけることのできる何か――無限に多様な数学的記述の中から,その一貫性あるサブセットに照応する一つの現実世界を存在させることのできるひとつの心(意識)――でなければならない」と言っている。たしかにそのように考えるべきだろう。しかし神は,我々の能力をはるかに超える数学者であると同時に,我々をはるかに超える芸術家でもあるだろう。我々の世界は,我々に理解・鑑賞できる美(数式の美,機能美なども含めて)を原理として造られているからである。サー・アーサー・エディントンが示唆するように,芸術家や科学者のもつ抑えきれぬ追求の衝動自体も,神の創造の一部として,我々に内部に組み込まれたものと考えなければなるまい。
 「自然界を研究するのに超自然を持ち出すのは馬鹿げている」というスコット女史に対しては,純粋な論理の立場からも十分に反論できる。私がなぜ自分が存在するのかを説明できないように,自然界は自然界自身を説明することはできない。多重宇宙だろうと単独宇宙だろうと,宇宙の中に宇宙自体の存在理由は含まれていない。数学者Kurt Goedelに由来する「ゲーデルの定理」Goedel's theoremと呼ばれるものがあって,それは「ある1つの理論体系は,その体系が正しいか否かの判断を,その体系自体の中に含むことはできない」というものである。これは宇宙に対しても,人間存在に対しても適用することができる。なぜ私がこの世に生まれてきたかの理由を,私自身が持っているわけではない。私の存在の理由は私を超えたもの,私を創ったものに仰ぐよりほかない。私という存在の価値や意味や目的がもしあるとしたら,それは私を創ったものからしかやって来ない。統一思想はこれを,「個性真理体」という概念に述語化して教えている。
 無神論科学でなく有神論科学の立場に立って初めて,この世界とそこに存在するものを「説明する」道が開ける。これは,これまでのパラダイムを不要として捨て去ることではない。それを包み込む,より有効なパラダイムを採用するということである。「世界を説明する」とは,その部分や一側面の説明でなく,全体をその有機的つながりにおいて説明することでなければならない。エディントンのように,超越者と我々の関係という観点から世界を考えるからといって,我々は科学の探究をやめて,もっぱら芸術や宗教の探究に切り替えるわけではない。
唯物論科学者,特にダーウィニストは,有神論的パラダイムを誤解して,それはGod-of-the-gapsつまり説明できないことを神のせいにしてごまかす「穴埋めの神」理論にすぎない,などと言って嘲笑する。これは,科学は唯物論の上にしか成り立たないという信仰から生ずるもので,神を要素か機能のようにしか考えられないところからきている。これを「語るに落ちる」と言う。そうではなく,この世界は,それが依存している超自然的な叡智の世界を背景とすることによって,より合理的に説明できるということなのである。
 我々は,宇宙の初期条件の,生命のための驚嘆すべき微調整,細胞に見られるデジタル・コード,化石記録に現れた生物進化の飛躍性,そして何よりも我々の周囲の自然界の示す圧倒的なデザイン性といった,この世界に観察される否定できないデザインの証拠から,デザインする主体,すなわち超自然的叡智を想定せざるを得ない。そのように想定することによって,逆にこれまでつながらなかったものがつながってくる。「理解」というのは分析的理解だけをいうのではない。物と物との間に有機的な関連性が生ずることをいう。日本史は世界史を背景にすることによって,よりよく理解できるのであって,それによって日本史の理解が妨げられるということはない。そのようにつながりが生じ,「合点がいく」ことを我々は「合理性」と呼ぶのである。科学の網に引っ掛かってこないものを退けることによって,あるいはダーウィン進化論や多重宇宙仮説のように,科学の網に無理やり引っ掛けることによって,合理性が生ずることはないのである。

統一思想は行き詰った生物学をどう救うことができるか

 統一思想は,我々の以上のような考えに確固たる支柱を与えるものである。それは形而上的・形而下的宇宙の仕組みと,人間の精神活動すべての間に有機的なつながりがあることを教える。私はここで,原田正氏と私の共著『ダーウィニズム150年の偽装――唯物論文化の崩壊と進行するID科学革命』(2009)において論じた,現在の科学が抱える難問と,それに対して統一思想の示唆する解決案についてさらに補足してみたい。
 我々が求めているのは旧来の合理主義でなく,全く別の新しい合理主義である。ダーウィニストは唯物論的合理性を貫こうとするから,生物種は徐々に少しずつ変形してできたものであって,完成された形で一気に現れるようなことはあり得ないと主張する。しかし化石記録上,生物が徐々に変形していった形跡は全く存在しないだけでなく,頭で考えただけでも,鳥の翼が徐々に現れたり,魚のひれが徐々に四足動物の脚に変わったりするとは考えられない。(この後者について最も新しい話題は「移行化石動物ティクタアリク」をめぐるもので,これまで何度もあったように,その異常な宣伝が見事にポシャッた話が「創造デザイン学会」www.dcsociety.orgの2010/9/26付〈最新情報〉に詳しく出ているのでご覧いただきたい。)
 ここでいきなり統一思想に行く前に,ひとつ我々の唯物論的に習慣化した思考法を「括弧に入れ」て,生命や心(意識)のそれ自体としての存在を認めなければならない。つまり生命や心は,物質の後から生じた現象などではなく,初めからそれ自体として存在していたという事実を仮に認めることである。生命自体や心は目には見えないが,存在することは確かなのだから,それがまずあったと考えるのは容易いことに思えるのだが,唯物論を抜け出せないある人々には,それは難しい(あるいは悔しい)ことであるらしい。しかし,もしこれを仮にもあり得ない「不合理」「迷信」だとして退けるなら,話はこれ以上続けられない。
 ごく最近出版されたRobert LanzaのBiocentrism: How Life and Consciousness Are Keys to Understanding the True Nature of the Universe, 2009(生命中心主義――生命と意識は宇宙の真の性質を理解する鍵である)という本の冒頭に,こう書かれている――

 ひとつの全体としての宇宙の我々の理解は,袋小路に入ってしまった。量子物理学の「意味」は,1930年代にそれが最初に発見されて以来議論されてきたが,我々は現在も,その当時以上にその理解に近づいているわけではない。ついそこまで来ていると何十年も前から約束されてきた「万物理論」theory of everythingは,証明のない,また証明不能の主張をする「弦理論」string theoryの抽象的な数学の中で,何十年も行き詰ったままである。・・・
 本書は新しい見方を提案する。すなわち,物理的世界についての我々の現在の諸理論は,それが生命と意識を説明しないかぎり無効であり,今後有効になることもないということである。この本の主張は,生命と意識は,何十億年という生命のない物理過程の後に現れた些細な所産などでなく,我々が宇宙を理解する上で絶対的に根本的なものだということである。我々はこの新しい見方を「生命中心主義」biocentrismと呼ぶことにする5。

 そして,このすべてに先立つ生命/意識の存在を前提とするなら,宇宙の物理常数のあり得ないような微調整の謎は,謎でなくなると言う――

 生命中心主義をとるなら,ゴルディロックス宇宙6の謎は謎でなくなる。そして宇宙を形成するときの生命と意識の決定的な役割が明らかとなる。だから,宇宙はどんな特性でも持ち得るのだが,たまたま生命にぴったりの特性を持ったという疑い得ない事実の上に,驚くべくあり得ないような偶然の一致を認めるか,それとも,宇宙がもし生命中心的であったとしたら,正にそうあらねばならないことが起こったと考えるか,そのいずれかなのである。どちらにせよ,ランダムなビリヤードの玉のような宇宙があって,そこに働く力はどんな数値を取ってもよかったのに,生命に必要な,不気味に(weirdly)特別な数値を取ったという考えは,不可能を通り越してばかばかしく思える7。(強調引用者)

 これを森鴎外の蛇の話のように「不気味」weirdと感ずるのは,無神論科学者の感性であって,有神論科学者はこれを,自分を超えたものの偉大な業,「神秘」と感ずるだろう。宇宙の微調整の事実は,初めに与えられた「与件」であって,私が私の存在の理由を説明できないように,また科学者や芸術家が自分の衝動を説明できないように,科学が説明できることではない。
 現代の科学者たちは,今のところその一部にせよ,このような認識に至っている。すなわち我々の宇宙は最初から一つの有機的統一体,つまり一つの生き物あるいは母胎(matrix)だったとして考える方が合理的であること,また唯物論・無神論の立場からはあり得ない,生命を可能にするための数値的微調整をひとつ取っても(生物学を別にしても),そこにインテリジェント・デザイン,あるいは天文学者フレッド・ホイル(Fred Hoyle)の言う「超知性」super-intellectを認めざるを得ないという認識――これらは科学者共同体に浸透しつつある共通認識である。
 このことを踏まえた上で,統一思想が,科学の直面する謎の中の謎,「進化」として片付けられている生物創造の問題に,どんな示唆を与えているかを見ていきたい。まず統一思想は「神相」や「神性」という神の属性の説明から始まるのだから,意識/生命の先在性を認めるのは言うまでもない。「宇宙を形成するときの生命と意識の決定的な役割」を認めるように,宇宙の根源に「こころ」があるという統一思想に通ずる考え方を,科学者がやっと正面から論ずるようになったのである。
 ダーウィニズムの不合理を突くのは簡単なことだが,ではどうやって最初の生物(細胞)や後の生物種ができたのかを説明してみよと言われたら,今のところ科学者は,ID理論家スティーヴン・マイヤー(Stephen Meyer)がSignature in the Cell: DNA and the Evidence for Intelligent Design (2009)で論じたように,DNAのもつデジタル・コードのような情報が,心を持たない自然現象によって生ずることは不可能で,それは超越的インテリジェンスから発していると考えざるをえない,という段階にとどまっている。しかし統一思想の提起する大きな世界解釈の枠組みは,この答えにもっと合理的具体性を与えることを可能にしている。それは創造と認識という一見無関係なものを,一つのパースペクティヴの中に捉えることのできる世界観からきている。
 私は,統一思想を全く知らない人にもわかるように説明したいと思うが,初めに,そういう人にはまず理解不能と思われる『統一思想要綱』第9章「認識論」の一節を,どうしても引用しなければならない――

 認識は基本的には,主体の「内容と形式」と対象の「内容と形式」が授受作用を通じて照合され,合成一体化していく過程である。したがって,そのとき自同的四位基台が形成される。一方,創造や主管の場合には発展的四位が形成される。認識は,主管と密接な関係にある。認識のない主管も,主管のない認識も,いずれも完全なものとはなりえないのである。認識と主管は,人間と万物の授受作用において相対的な回路をなしている。つまり認識過程は,授受作用において対象から主体へと向かう回路であり,主管の過程は主体から対象へと向かう回路である。
 ここで主管における発展的四位基台と,認識における自同的四位基台の関係を考えてみよう。主管とは創造性を発揮することであるから,主管の四位基台は創造の四位基台と同じである。
 原相論で説明したように,神は創造の二段構造,すなわち内的発展的四位基台(ロゴスの形成)と,外的発展的四位基台を通じて万物を創造された。これらの発展的四位基台において,まず内的発展的四位基台が形成され,次に外的発展的四位基台が形成されたのである。すなわち,「内的な四位基台から外的な四位基台へ」という順序で万物が創造されたのである。ところが認識のための自同的四位基台の形成は,まず外的自同的四位基台が形成され,次に内的自同的四位基台が形成される。すなわち,「外的な四位基台から内的な四位基台へ」という順序に従って認識はなされるのである。
 かくして認識は,内的自同的四位基台が形成されることによって,その結果としてなされるのであるが,直接的には外的な要素と内的な要素の照合によって成立するのである8。(下線引用者)

 なぜこのように,新しい概念を作ってまで難しい言い方をしなければならないのか,とほとんどの人が訝るだろう。それには著者自身も述べている理由があって,これは神の創造から人間の知情意の心の働きまで,内的・外的世界のすべてを,一つの原理によって整合的・合理的かつ有機的に捉えるための,やむを得ない便法である。これこそ真のtheory of everything(万物理論)というべきもので,物理学者が物理世界の内部でそのようなものに達することはありえない。もちろんここに引用した箇所をこれだけでは理解できない。『要綱』は最初から順を追って読まれることを想定している。(最小限の注釈をするなら,「四位基台」とは万物の存在と生成(創造)を可能ならしめる「授受作用」のメカニズムを視覚化したもの,「内的」「外的」とは「無形的」「有形的」ということ。『要綱』は図解を豊富に用いているが,ここでは使わない。)
 今,これ以上詳しい補足説明は省くが,特に下線の部分に注目することによって,統一思想が,「カンブリア爆発」に歴然と現れているような生物創造の謎――なぜ多様な生物種がそこに至る進化の形跡なしに完成された形で突如として現れることができたか――にどんな解決のヒントを与えているかを考えてみたい。
 ヒントを形成するものがいくつかある。まずこれが「認識論」という項目でありながら,「神の創造」の順序・方法への言及があり,我々の世界認識過程と神の創造過程が一つの原理によって捉えられていること。次に,統一思想の認識論が(カントの対象構成的認識論ともマルクスの現実反映論とも違って)「照合」論であること。さらに,我々の世界認識と神の世界創造が,逆向きの同じ過程であること,つまり認識は,外に現れた(感覚に与えられた)世界から内なる構造(構想,ロゴス)の世界へと向かい(いわばリヴァース・エンジニアリング),創造は,内なる構想(ロゴス,設計,計画)から有形的世界へ,という「創造の二段階構造」を取るということ。
 そして認識が「照合」(英訳collation)によってなされるということは,我々がすでに与えられ潜在的に知っているもの(「原型」と呼ばれる)を発見的に認識するということである。我々はこの世界を正しく認識できるように,つまり人間に認識されるべくデザインされたものを認識するようにデザインされている。プラトンの『メノン』という対話篇は,幾何学を学んだはずのない奴隷の子が,ちゃんと幾何学を理解できるのは,すべての人間がすでに潜在的にそれを知っていて,「想起」するだけなのだと論証する話である。統一思想の「照合」認識論は,プラトンの「想起」論にあたると言ってもよいだろう。ただこれがプラトンとは違って,厳密な形で,世界構成の原理の一環をなすものとして説明されるのである。
 ところで認識とは突如として起こるものである。徐々に認識するということは原則的にありえない。メルロー=ポンティは『知覚の現象学』の中で,渚づたいに歩く人が遠くの不明の物体を難破船として認識する過程を例にとって説明しているが9,これは人の顔を認識する場合でも同じであって,我々は人の顔の特徴を一つひとつ加算して徐々に認識するのでなく,あるとき予感が当たる形で一気に認識する。
 我々の「照合」による世界認識が――日常の「ああわかった」という認識から高度な科学的認識(科学的発見)や,宗教的「悟り」に至るまで――原則的に突如として起こるものであるとすれば,その逆向きの過程である神の創造についても,同じことが言えるであろう。すなわち構想(創造の第一段階)としてあらかじめ内的に存在していたものが,それを実現するための(もともと生命を受け入れるべく微調整された)環境的・物的条件が宇宙進化によって満たされたとき,突如として形を取って現れる。つまり創造とは,神から見た「原型」の実現による認識,神の立場からの確認過程(照合)と言えるだろう。これは唯物論という枠をいったん取り外すことができれば,十分に合理的な説明として受け入れられるのではなかろうか。
 この場合,構想と素材(外的・物的条件)が目的(産物)を中心として「授受作用」をするのだと統一思想は教える。授受作用による「合成一体化」ということは,認識過程にも創造過程にも当てはまるのである。これを「フィードとフィードバック」という言葉に置き換えれば,我々自身の芸術創造過程や,遠くの難破船の認識や,科学的発見において,これを普通に行っていることがわかるであろう。これらは微修正はあるにしても必ず突如とした形で現れる。逆に,かりにダーウィン的漸次進化認識論というものを考えてみれば,これがもっとわかりやすくなる。この認識理論は,人の顔の認識は目,鼻,口などを一つひとつ加算していくことによって徐々に実現するものだと教える。これは,世界が単にモノの集積でできていると考える唯物論者でないかぎり,受け入れがたい説明である。
 これ以上は煩瑣なので省くが,進化の飛躍(不連続)という不思議な現象を解く手掛かりは,まだこのほかにも統一思想の根本原理の中に含まれている。生物学や宇宙論のみならず,唯物論・無神論を前提としているために「袋小路に入って」いる諸科学に対して,統一思想は貴重な示唆を与えるものと思われる。わかるということは,分析的理解と同時に,全体に有機的なつながり――例えば科学と倫理のつながり――が生ずることでなければならず,それを可能にするものは有神論的世界解釈だけである。こういったことを宗教の宣伝だなどと言い続ける無神論科学者と,彼らの無神論的世界解釈は,科学的にも現実的にも,世界を死に至らしめるものであることが,今いよいよ明らかになってきたと思われる。
(2010年12月3日〜6日に日本で開催された第22回統一思想国際シンポジウムにおける発表論文である)


1. T. S. Eliot,"Second Thoughts about Humanism,"Selected Essays (Faber & Faber, 1932), p.485.
2. A. N. Whitehead, Science and the Modern World (Cambridge University Press, 1926), p. 22.
3. Sir Arthur Eddington, The Nature of the Physical World (Cambridge University Press, 1928), pp.327-28.
4. Robert J. Spitzer, New Proofs for the Existence of God (William B. Erdmans Publishing Company, Michigan/ Cambridge, U.K., 2010), pp.102-103.
5. Robert Lanza & Bob Berman, Biocentrism: How Life and Consciousness are the Keys to Understanding the True Nature of the Universe (Benbella Books, INC.,2010), pp.1-2.
6. Goldilocks は,イギリスの童話The Three Bearsに登場する熊の家に入り込んだ女の子の名。「ちょうどぴったり」という言葉がモチーフなので,「微調整」の意味に使われる。Cf. Paul Davies, The Goldilocks Enigma: Why Is the Universe Just Right for Life? (2006)
7. Robert Lanza & Bob Berman, p.91.
8. 『新版・統一思想要綱(頭翼思想)』(統一思想研究院,2000)pp.572-73.
9. M.メルロー=ポンティ『知覚の現象学?』(竹内・小木訳,みすず書房,1967)p.25.

(「世界平和研究」No.189,2011年5月春季号より)