21世紀をどう生きるか

―国民国家の限界とグローバル・ガバナンス

Our Life in the 21st Century:
Challenges of a Nation-state and Global Governance

小林道憲(麗澤大学客員教授)
Michinori Kobayashi

 

<梗概>
 現代世界は,近代が生み出した国民国家という枠組みが,統合と分散という相反するベクトルによって上に向かっても下に向かっても揺らいでおり,二つのベクトルのせめぎあいの中で多くの矛盾と問題を抱えている。その中で多くの人々はアイデンティティの喪失と世界情勢の不透明さによる不安を抱いている。そのとき人々はより根本的な共通項や宗教によりどころを求めるようになる。このたびの東日本大震災は日本人にそのようなことに目を向けさせてくれた。ただ現実の世界は,地球文明ともいい得るような統合世界に向かって一歩一歩進んでおり,世界のシステムや仕組み,考え方もそれにふさわしいように変革していく必要がある。

1.はじめに

 過去数十年を振り返った時に,一番のメルクマールとなる年として,1989年のベルリンの壁崩壊と91年のソ連崩壊を挙げたい。それではその前後で何がどのように変化したのか。
 第二次世界大戦後から1991年までは「冷戦時代」として特徴づけられるが,その時代は(ソ連を中心とする)共産主義と(米国を中心とする)自由主義という普遍主義が支配した時代であった。
 冷戦終結後の時代は,それまで普遍主義の支配によって国際政治の表には出ることの少なかった民族主義がグローバル・イッシュとして登場するようになった。具体的にいえば,ソ連圏の中から民族独立の動きが現れ,ソ連の崩壊によっていくつかの民族共和国が誕生した。西側でも民族紛争が起きている。また冷戦後米国は,ソ連崩壊によって世界のスーパー・パワーとしての位置を確立し,グローバリゼーションの名の下に新しいパクス・アメリカーナを求めていく時代を迎えていった。
 この動きは国民国家の観点から次のように説明することも可能だ。近代以降の世界は,基本的に国民国家を単位とする国際秩序が支配する世界であった。ところが冷戦終結後,国民国家という枠組みが,その機能の限界を示すようになってきた。実際,冷戦終結後は,ロシアを中心とする旧ソ連は国民国家の枠組みを下の方へ,米国はこれを上の方へ破って行こうとしたと言える。
 一つには,経済・金融の動きに顕著に見られるように,国境を越えた動きが活発化すること(グローバリゼーション)によって,国民国家は上位の次元に向かって機能が破れていった。
 もう一方で,国民国家内に抱えられていた民族問題が顕在化し始めた。例えば,英国におけるウェールズやスコットランド,カナダのケベック,スペインのバスクなどの民族独立運動のほか,途上国でも少数民族をめぐる民族紛争が活発化した。これによって国民国家は,下に向かってもほころび始めたのである。幸い日本には,このような民族紛争は余り見られないが,世界全体を見ると,下に向かった国民国家の破綻という動きは大きな潮流となっている。
 この二つの動きのせめぎあい中で,それらをどのように調整しながら新しい時代のシステムを構築し世界平和を実現していくかが,21世紀の課題であると思う。以下,現代が直面する二つの動きを考察し,その上で将来に向けた展望を考えてみたい。

2.統合と分散の動き

(1)統合への動き
 現代世界は,その功罪は別にしても,グローバリゼーションによって統合の方向に向かって動きつつある。その背景には,科学や情報技術の高度な発展,交通機関の発達などによって,ヒト,モノ,カネの国境を越えた移動が活発化して相互依存関係が密接になってきたことがある。
 盛んな国際貿易や多国籍企業の活躍などによる経済のグローバル化は,市場のグローバル化をもたらし,その結果,国際金融市場や株式市場でバーチャル化した巨大マネーが日々国境を越えて取引されている。このような国境を越えた市場経済は,すでに国民経済という枠組みを消滅させつつあり,世界の統合化を促進している。
 そればかりか地球規模の環境破壊さえもが,国境を越えて地球の一体化をもたらしている。今回の福島原発事故で拡散した放射能は,大気を循環して世界中に拡散し,世界の人々を不安にさせた。地球環境問題は20世紀が21世紀に残した最大の課題の一つであるが,これも一国だけでは解決することができず,世界の統合化を促進させつつある。
 人類は,時間と空間を無化して地球を圧縮し,世界を一体化させた。今日,地球は狭くなり,縮小してしまった。今日の地球は,古代の地中海世界程度にまで圧縮されてしまったともいえる。そのため人々の相互結合性と相互依存性はますます増大し,地球上のどの地点で起こったことでも,直ちに全地球に影響が現れる。われわれは,地球のどの地点も心理的に近いという感覚を持つに至った。今回の東日本大震災で,世界中から多くの支援が届けられたことからも,それは実感される。地球の単一化のもとで,一つの地球的文明が生成しつつあるということが,21世紀初頭の文明史的な位置といえよう。
 統合の動きは最初経済の分野で現れ,次第に社会・政治分野にも影響が及ぶようになる。これは現代文明の自己組織化現象である。それに伴って国のしくみも不可避的に変えていかなければならなくなる。例えば,金融制度,会計基準,人権など,自国の特殊性を主張し続けることが次第に難しくなっている。
 このような統合の流れは,いきなり世界政府ということにはならず,まずは地域統合から始まる。その最先端を行っているのがEUである。EUは,市場統合から通貨統合を果たし,従来の国民国家の枠組みを超えて全欧州を包括する政治的統合としての欧州合衆国の形成に向かっている。統合が進むと,国民国家としての機能はかなり制限を受けるようになる。例えば,EUに加盟すると加盟国は関税自主権を喪失する。今後地域統合が進むであろう日本を含む東アジア地域は,地域統合の最先端を行くEUに多くのことを学ぶ必要がある。

(2)分散する世界
 20世紀後半は共産主義と自由主義という普遍主義が支配する時代であったが,冷戦終結によって共産主義という普遍主義が崩壊したために,それによって抑圧されていた民族主義が台頭し民族独立の動きとなって現れた。自由主義圏でも多くの民族紛争が起きてきた。こうした変化によって,近代国家システムが下に向かってほころびつつあるといえる。
 民族紛争は,国民国家が奉じる国民主義の弱体化によっても起きる。国民国家は,多くの場合,多くの民族を一つの「国民」として強制的に統合するものであるから,それに抵抗する民族もあとを絶たない。
 国民国家は他の国家や共同体がそうであるように,一種のフィクション(虚構)であった。現に米国の政治学者アンダーソン(Benedict R. Anderson,1936- )は,国家を「想像の共同体」と名づけ,国民とはイメージとして心に描かれた想像の共同体であるとし,ナショナリティやナショナリズムは文化的人造物であると言っている。
 例えば,アフリカ諸国は,欧州の旧植民地の枠内で国民国家を形成しようとしたため,民族の分布と国民国家の枠が齟齬をきたし,それが悲惨な結果を生んでいる。人為的に引かれた国境線の中で国民国家を形成したために,国境線内部に過剰な数の民族を抱え込んだり,国境線を越えて同じ民族が分断されるなどの矛盾に直面した。ルワンダ内戦,スーダン紛争などはその例である。中東地域とて同様である。
 近代国家は多かれ少なかれ,多くの民族を内包しながら国家統合を形成したために,政治行政の一元化や言語・教育の統一を図る必要があった。これは習慣や文化を異にする民族にとっては重大問題であり,民族と国家間の矛盾にぶつからざるを得ない。だから,今日世界中で起きている民族問題は近代主義の矛盾に起因するといえる。21世紀は近代主義解体の時代であり,近代主義分裂の時代とも言える。
 近年,社会問題化している欧州におけるイスラーム移民の問題も類似している。例えば,フランスではイスラーム系移民が増えて文化摩擦が増大している。イスラームの女性が着用するブルカを公教育の場では着用しないようにとの「ブルカ禁止法」が制定された。これは同化政策といわれるものだが,もっと固有の文化のアイデンティティを認めてやらなければならない。「多様性の中の共存」が必要である。
 もっとも,国民国家という枠組みが,上にも下にも揺さぶられているからといって,すぐに無くしてしまうことはできない。現在は,世界政府も世界国家もできていない過渡期にあるから,少なくとも21世紀は国民国家の枠組みを改良しながら,この地球文明を運営していく以外にないだろう。
 現に,国民国家という国境の壁も,国民の生命を脅かす存在に対する防護柵としての役割は今でも有効だ。例えば,疫病が国内に入ってこないようにする防疫の役割である。細胞の細胞膜のようなもので,必要なものは入れるが,欲しくないものは入れないという機能である。そのほか,地下経済(アングラ・マネー)や国際犯罪の流入を防ぐ役割もある。もちろん,国境の壁の高さが以前と比べて次第に低くなってきていることは事実である。

 (3)統合と分散のせめぎあい
 グローバリゼージョンによって統合の方向に進めば,それに反抗する集団が現れるのは必至であろう。その具体例が,9.11米国同時多発テロ事件であった。だから,この事件の構図は,米国を中心とした西欧キリスト教国対イスラーム,あるいは「文明の衝突」という次元の話ではないと言わねばならない。これは,むしろ,統合と分散という相反するベクトルをもつ社会構造から派生した必然的問題であった。ここをどう制御するかが,21世紀の課題といえるだろう。
 実は,「21世紀の戦争の形態は,20世紀とは違ってくる。21世紀の主たる戦争の形態はテロリズムである」という主張を,私が『不安な時代,そして文明の衰退』(NHKブックス,2001年)という著書に書いて脱稿し出版社に預けた直後に,はからずも9.11米国同時多発テロ事件が発生した。
 ハンチントンは冷戦後の国際社会を「文明の衝突」の時代ととらえた。しかし宗教中心の要素を軸として起きる集団間紛争を単純に「文明の衝突」ととらえるのは正確ではない。人々は何かある一つの文明に所属している者として相争うのではない。例えば,ユーゴスラビア紛争でも,当事者のイスラーム教徒集団を支援して全イスラーム国家が立ち上がったわけではない。より広範な文明そのものを,国民国家や民族集団のように,紛争の主体のように扱うのは一種の誇大宣伝になってしまいかねない。ハンチントンの考え方は,文明と文化,文明と政治の区別を無視した粗雑な考え方だと言えよう。
 国民国家が上にも下にもゆすぶられる中にあっても,少なくとも21世紀は国民国家の制度は,統合と分散というせめぎあいの中にある世界の状況に適応して両方向に制限されながらも,かなりの程度,機能していくであろう。
 したがって,将来,仮に世界政府ができたとしても,それは当然,連邦制を取らなければならないだろう。そうなると国民国家の枠組みは,連邦制の中の自治国家として,なお十分機能しなければならない。そう考えてこそ,<個人・国家・世界><個別・特殊・普遍>というアイデンティティの多元的・重層的な構造も保証されるのである。
 極端な特殊主義による孤立でもなく,極端な普遍主義による一極支配でもなく,その両者の調和を取って生き抜く方法を工夫していくしかない。このせめぎあいの中で,人類は柔軟に生きていく必要がある。

3.アイデンティティ・クライシスの時代と宗教の役割

 統合と分散という二つの相反するベクトルのせめぎあう中で,国民国家が上にも下にも揺さぶれられていくと,多くの人々はアイデンティティ・クライシスに陥るようになる。
 統合に向かうときにも,アイデンティティ・クライシスが起きる。かつて明治維新のとき,それまでの領邦国家=幕藩体制の中で生きてきた当時の人々の意識は,せいぜい藩レベルであった。例えば,長州藩の人は長州藩のことしか考えていなかった。その人たちの意識を,明治国民国家の意識に高めることは容易ではなかった。そのために近代の教育が重要な役割を果たした。その過程で強力なアイデンティティ(国民意識)が形成された。
 また分散に向かうときも同様だ。下に向かって分散するときには,民族,宗教,言語,習慣などの人間にとってより根源的な共通項を探していく動きとして現れる。
 振り返ってみれば,19・20世紀は世俗化という動きの中にあって,なるべく宗教から遠ざかろうとした時代であった。その結果,21世紀の人類はアイデンティティ喪失に陥り,多くの人々が不安に陥っている。
 米国では9.11によって,多くの米国人がアイデンティティを問われ,精神が揺さぶられた。9.11直後には,普段教会に通わない人も含めて,多くの米国人が教会に行ったという。米国はもともと人為的なアイデンティティ(星条旗,英語,民主主義など)を掲げて教育し国をまとめてきた国だ。同時多発テロによってそれが問い返された。そのとき米国人はどこにアイデンティティを求めたのか。それがキリスト教という宗教であった。
 この度の東日本大震災と福島原発事故も,日本人を不安に陥れた。日本人は自分たちのよりどころをどこに求めたのか?大地震や津波のような自然の威力の前には,われわれは文句が言えない。ただ鎮魂の祈りを捧げるしかない。自然は黙して語らない。しかし,その沈黙を通して大自然はわれわれに何かを語りかけているようだ。自分はどこから生まれ,どこに行くのか。生きるということは何か。自然の猛威は自分のよりどころを気づかせるという教育者の役割を果たしてくれたと思う。欧米とは違う。
 かつてポルトガルのリスボン地震の時(1755年),「神はなぜかくのごとく過酷な運命をわれわれに与えたのか?」という神義論が起きた。カントもその問題を考え悩んだ。一方,日本は自然宗教だから,そのような疑義は起こらずに,日本人に日本人としてのよりどころとしての「自然」を悟らせてくれた。
 かつて帝政ローマの時代も,繁栄の背後にそれとなき不安を抱えた時代であった。ヘレニズム時代以来引き継がれてきたストア派哲学は,政治から切り離された個人倫理を説いて心の不動と心の平静に最高の徳をおき,また懐疑派の哲学は判断留保の必要を説いた。中でも,ストア主義は,神は宇宙の魂であり,力であり,理性的なものであり,われわれを支配する運命だと考え,大宇宙の理法である神の摂理に従って生きることを理想とした。そして自然はこの神的理性に支配されており,自然の一部である人間は,自然にしたがって理性的に生きるべきだとした。あれこれ感情に動かされない魂の状態,つまり不動心を最高の徳とし,運命に対して耐える精神を持つべきであると説いた。これは,不安な時代にあって,人はいかに生きるべきかを深く思索した人生哲学であった。
 ある意味で,人間の歴史は永遠根源的なものからの離反の歴史であった。そして争いや憎しみ,貪欲と堕落の繰り返しであった。このような人間の傲慢は,現代の巨大な産業技術文明となって,自然と人間の両方を掠奪している。現代人は,大地から離反し,永遠根源的なものを見失ってきた。精神は散乱し,よりどころは失われ,拠って立つ基盤も失われた。現代人が方向の見定まらない不安の中にいるのはそのためだ。不安は不安を呼ぶ。
 巨大な科学技術に支えられた現代文明も,膨張の限界に達し,衰微していくことはある。この時人々の不安はますます昂じていくだろうが,時代の不安が昂じれば科学技術よりは宗教の方が人々の魂をとらえるようになるに違いない。精神的不安の多い21世紀は,宗教の力がますます強くなっていくだろう。
 21世紀が多元性をもった世界であるとすれば,われわれは「多様性の中の共存」の可能性を求めていかなければならない。宗教についても,多くの宗教がそれぞれの相対性を認識しながら宗教的寛容の精神を持って共存していかなければならない。宗教は多様な機縁をもっており,宗教的真理に至る道も多様である。諸宗教は枝葉末節のところで対立するのではなく,和解し融和していかなければならない。
 また宗教は,文明の死と再生の橋渡しの役割も引き受ける。宗教は古い文明を葬り去り,新しい文明を誕生させるのにも大きな役割を果たす。宗教は,トインビーの言うように,文明の死滅と次の文明の発生までの空白期間中に貴重な萌芽を保存する「さなぎ」の役割をも持つ。来たるべき地球文明に向けて宗教の果たす役割は決して小さくない。

4.世界平和に向けた国連の意義と日本の進路

 今回の東日本大震災では世界中から日本に支援の手が差し伸べられた。かつてそのようなことがあっただろうか?「地球村」と言われるように,地球全体の相互扶助体制が慣習的にできつつあり,地球は狭くなっていると感じた。この統合の方向に進む動きは,現実,慣習法的に進んでいる。事実が先行して進行し,成文法的,システム的に形成されるのはあとのことだ。現代はグローバルな問題がおきると,G8,G20などのように,すぐに世界の首脳が集まって会議を開き対応するしくみができてきている。20世紀の前半には,そのようなしくみがなかったために,世界大戦を防ぐことができなかった。しかし今や時代は大きく変わった。
 現代のグローバル・イッシュは国民国家の枠組みでは解決することが難しくなってきている。原発問題をはじめ自然災害・環境問題でもそうだが,世界の英知を集めずには解決できない課題が多い。一国主義ですべての問題を解決することが難しい時代になったともいえる。世界が英知を集めて,これを次第に社会システムとしても整備しながら,世界統合の方向に一歩一歩進んでいくことによって,人類の明るい未来が開けていくと思う。
 世界統合の動きは最終的に,国連改革問題に行き着くだろうと思う。もともと国連はUnited Nations(連合国)というように,第二次世界大戦の戦勝国の仲良しクラブだった。主だった連合国が中心となり,戦後世界をどう支配するかを考えた組織であり,彼らの利権を守るために常任理事国体制と拒否権というしくみができたのであった。しかし,いまやこのような国連組織は現在の社会システムに合わなくなってしまった。
 国連がグローバル・ガバナンスの役割を真に果たすためには,安全保障能力を国連機能の核にして据え,今の国連の発展的解消が必要だろう。これが世界政府に向かう一つの過程だと思う。政界政府は来世紀の話かもしれないが,それでもいまからビジョンを持って改革を進めることが大切だ。
 国連改革では,とくに安全保障能力,平和維持能力をどれだけ実質的なものとできるかがカギとなる。その前段階としての国連機能強化においても,現実的には超大国米国の役割はきわめて大きい。世界の中では何といっても,米国が一番グローバルに世界統治について考えている。日本にはそのような力量がない。もちろん,米国のそれがわれわれにとって迷惑に感じることもあるのだが,しかし米国にはグローバル・ガバナンスの意思と能力がある。
 そこで一つのアイディアとして,米国軍を国連軍の核にするという考えもある。かつて日本では明治維新期に,長州軍を明治政府の陸軍の核とした。しかし長州軍の意識改革は大変だった。藩兵の意識を藩レベルから国レベルに高めるのは大変なことであった。それと同様に,米国軍を国連軍の重要な核とすることも不可能ではない。もちろん,その核のまわりに多国籍軍が自国籍を離れて参加する。そこでは指揮権の問題がポイントとなる。指揮権を国連がうまく取れれば,地球全体の警察力が高められると思う。
 また日本の方向性として,とくに安全保障に関しては,日本はあくまでも米国を背景にして進めるのがよい。米国を背景としながら,まずは自由アジアの連合,地政学的には海洋アジア連合である。韓国,日本,台湾,フィリピン,インドネシア,タイ,マレーシア,インドなどだ。そのような体制の上でようやく中国とのバランス・オブ・パワーが確立され,中国との協力も考えることが可能になる。
 日中は相並ばずだ。ゆえに力のバランスを図りながら,経済交流を進める。民主党が唱えるような東アジア共同体は夢物語だ。安倍政権のころは,モンゴルや中央アジア諸国とも連携することを考えたが,こうした形で中国を囲む連携を立てて,ようやく中国に対応できる。
 グローバルにみれば,世界統合に向かって動いているので,東アジア共同体は避けて通ることのできない道である。ただし,そのプロセスにおいては,連携の順序が重要である。高齢社会かつ人口減社会を迎える日本が今後も発展していくためには,アジアの経済力を取り込むことしか,日本は生きる道がない。アジア全体で考えると,アジアの分業体制ができてくるから,それをうまく共同体体制の中で均衡を図りつつ調和して生きていくのである。
 EUの例は,日本の生き方を考える上で参考になる。例えば,同じ島国である英国も,世界大戦を経て植民地を放棄しかつての大英帝国から島国になったが,現代は金融や情報などで生きている。英国はEUとのかかわりをどうするかについて永年悩んでいるが,やはりEUに積極的に入っていかない限り持続可能な発展は難しいだろう。また資源の少ないスイスの生き方も参考になるだろう。

(2011年5月27日)

(「世界平和研究」No.190,2011年8月夏季号より)