ポスト産業文明のビジョン

小金芳弘(経済評論家)
Yoshihiro Kogane

 

<梗概>
 人類史を文明の観点からみると,狩猟採集時代から農耕文明に移り,その後近代以降に産業文明が誕生して,大量生産・大量消費の現代社会を迎えている。しかし,地球環境の制約と新興国の急激な経済発展などによって,そのような時代のパラダイムがいよいよ限界点に達しつつあるときを迎えた。現代文明が「老化」し,「成人病」にかかって苦しんでいるのである。それを脱却する道は何か。インターネットなどのソーシャル・メディアの本来の目的を見つめなおし,東日本大震災で見直された点などを振り返りながら,これからの社会創造の視座を示す。

1.理論経済学の問題点

 最初に,私が永年抱いていた(理論)経済学に対する不満について述べておきたい。
 経済現象は基本的に人間がつくり出す事象である。ところが,現在の(理論)経済学は経済現象をあたかも(自然法則にしたがって動く)自然現象と同じように扱おうとしている。つまり,人間が作り出している経済外的要因のさまざまな影響を受けている経済現象を,あたかも(物的法則に従って動いている)自然現象と同じように扱い,その経済現象の変動に関する法則性を立証しようとしている。経済現象―物価,景気,雇用,賃金,株価など−は,人間がかかわってこそ現れる現象であり,経済以外の政治,文化などさまざまな要因が複雑に影響をし合っているのに,それらを除去して実験室の中で起こっている現象と同じように扱おうと思考している。その結果,理論経済学では,経済外的要因と経済との間の相互依存関係がどうなっているのか,それは時代や地域によって違うのかどうか,などについてほとんど取り上げてこなかった。
 例えば,「市場では需要と供給が均衡するように取引されている」と説明する。青物市場や株式市場など限定されたところではそのとおりであるが,経済取引全体をその理論だけで説明するにはあまりにも粗雑過ぎる。化学実験であれば,実験室の中でいくつかのパラメーターを与えれば数式でどうなるかが説明でき,しかも再現可能だが,経済現象では同じことを繰り返すことはできない。その点を無視した経済学は,いくらきれいな理論にまとめられていても,それはあくまでも「机上の空論」に過ぎない。
 かつて私は経済学者に「人間は経済理論の通りには動かないのではないか?」と問いかけたことがあったが,それに対して「人間は非合理的存在であり,経済法則が分からないからそうなのだ」という返事が返ってきた。これは,経済学が人間というものを全く無視していることの反証でもある。

2.限界を迎えた産業文明社会

(1)人類文明の発達史
アーノルド・トインビー(Arnold J. Toynbee,1889-1975年)の分析に拠れば,文明は生物と同じように,誕生→成長→挫折→解体というサイクルをたどるという。人間や生物は,最後には死を迎えるわけだが,文明の場合はそうとは限らず,解体後に,先の文明の刺激を受けてあらたな文明に継承されることもある。一つの文明が隆盛を極めたあと衰退しても,消滅することもあり得るが,多くはその社会の基層文化として残る。そして次の文明が起きて同じようなサイクルを繰り返していけば,多重の層をなす文明圏が生まれてくる。生命の場合,死を迎えても遺伝子が次の世代につながっていき,次々と種として発展していくのと似ている。
 また,ダニエル・ベル(Daniel Bell,1919-2011年)が言ったように,社会とは,経済・技術(下部構造)と政治・文化(上部構造)が,それぞれ別々のリズムで国ごとに動いている。
 上記の観点から人類史をみると,狩猟採集時代から農耕文明に発展し,その後産業文明が出現した。農耕文明の爛熟期にあった西欧諸国では,生活に関する思想の主流は重農主義と重商主義であった。重農主義は,人間は自然の恵みによって生み出される農産物のお蔭で生きられるだけでなく,それがもたらす原材料があって初めて商工業が発展できると見た。また重商主義は,金・銀通貨の蓄積が富であって,これは外国との貿易において輸出が輸入を上回ることで得られるが,外国との戦争や植民地の獲得などによっても得ることができ,その増加が国民の幸福につながるとするものだった。
 英国から始まった近代産業文明は,資本主義経済制度から発展した。それまでの経済は,金貨銀貨を通貨として使用するしくみであったが,資本主義経済社会になって金融業者が銀行となると,その保有する金貨を元手にして紙幣を発行しそれを貸し出すようになった。
この変化は実に大きな変化であった。金貨銀貨で取引をしていたときには,モノ(鉱物資源)を使っていたのでその発行にはおのずと限度があったが,紙幣発行となると,銀行は自分が所有する物的通貨の額をどれだけ上回る通貨を貸し出すかを,自分で決められるようになり,(理論上は)紙幣を無制限に発行することが可能となったのである。
金貨銀貨から紙幣への移行は,このような危険を伴うものであったが,通貨が本来もつべき性質に向って進化したものだったともいえる。つまり,文明社会の下部構造の運営が,金や銀などのモノに頼らなくても,生産物の価値を評価する情報を数字によって得ることができるまでに発展したのである。
 一方,技術面から見ると,農耕文明は自然の制約を大きく受けるために,生産物の増大には限界があった。ところが産業文明社会になって工場生産が登場すると,機械工場生産なので資源・資材がある限りは際限なく生産することができる。
 産業文明は英国から始まったものであるが,国によって変容してきた。それが典型的な形で発展した国が米国であり,大量生産,大量消費の社会を実現したのである。それは米国が(当時は)無制限に資源がある(と思われた)社会であったので,可能なのであった。
 日本の戦後を振り返ってみても,食べるものに事欠いていた時代から,高度成長時代になると「三種の神器」といわれる家電製品を求めるようになり,それらがほぼ全世帯に行き渡った後は,人間のさまざまな欲求や夢を実現したようなさらに進んだ製品が開発されて市場に出回った。それは技術開発によって可能になるのであり,それを進めるには資金が必要だが,すでに述べたように資本主義制度の下においては無制限に紙幣を発行できるので,それらが相乗効果を発揮してどんどんと発展して行ったのである。
このように産業文明の出現は,無制限の生産と取引を可能とし,人間の欲望を極限まで追求することを意味した。産業文明の登場によって大量生産と大量消費が可能になったのだが,いまやそのようなしくみをもつ産業社会が(環境の制約などによって)飽和状態あるいは限界点に逢着するようになったのである。
 1991年冷戦が終結したころ,米国のフランシス・フクヤマ(Francis Yoshihiro Fukuyama,1952- )は,『歴史の終わり』(原題:The End of History and the Last Man,1992年)を著して,これからの時代は,経済は資本主義,政治は民主主義の時代が到来し,これまでのような大変動が起こることはなくなるので,歴史は平板で退屈なものになっていくだろうと予測した。ところが,世界情勢は湾岸戦争をはじめとして,地域紛争が世界各地で頻発して混乱の世の中となって行った。

(2)情報技術革命
 このような時代に新たに誕生したものが「情報技術革命」である。情報技術は,情報を仲介するだけだが,「情報」は非常に重要な要素である。そもそも人類史自体が,情報技術の進歩によってレベルアップをしてきたことを示している。
 最初の情報技術革命は,人類が言葉を話すようになったことである。ここで他の動物から大きく飛躍することとなった。音声による情報伝達を言葉によるものに転換することによって,より高度で豊富な情報を伝達したり受け取りできるようになった。言葉は地域集団ごとに発生したので,ところによって違う場合が多かったが,それを統一して同じ言葉を話すようになった人たちは,やがて共通の文化,制度,技術などを持つ原始社会を形成するようになった。ただ,言葉だけによって交換される情報は,記憶力や理解力といった能力の限界のために伝播中に正確さを維持することができず,間違った情報を伝えたり,同じことが異なって伝えられたりする場合が多くなる。人間のさまざまな経験や知恵・知識を頭の中に記憶としてとどめるためには,たいへんな苦労があった。
そこで大事な情報を広く伝えていくために,個人の能力だけを頼りにするのではなく,言葉を文字という記号に換えて,それを各種の板や紙や紐などの上に保存する方法が生まれるようになった。
文字を使って情報を身体の外に保管しておけるようになったことは,知の蓄積を爆発的に増やすことを可能にしただけではなく,それを保存するために必要だった脳の負担を大幅に軽減したので,それによって余った能力を,新しい情報を生み出すための仕事に使えるようになった。ものごとを分解・分析し,その違いをはっきりさせるとともに,それらの関係を示す論理を使って知識を整理し,その中から役に立つ情報を導き出すことは,その一つである。
文字が発明されると,情報を頭の中にとどめることなく物として保存できるので,人間が取り扱える情報の量と種類は飛躍的に増大するようになる。これによって人間の知的活動が活発化し,文明を誕生させる契機となった。
 そして,第三番目の情報技術革命が,コンピュータである。それまで人間が自分の頭で考え,手で計算してきたことのほとんどをコンピュータに任せるようになり,文字の発明以上の速度で情報量が飛躍的に増大するようになった。
 人間は,視覚や聴覚などを通して情報を音声や形として認識する。しかしコンピュータは,マイクロエレクトロニクスを使うことによって,それを0と1で構成されるビットという単位に分解してから組み立てなおすので,音声,文字,数字,図形,その他あらゆる種類の情報を加工する速度が桁外れに大きくなった。
 それを連結したネットワークができると,その中ではあらゆる種類の情報を加工したり保存したりしながら,どこにでも伝達することが瞬時に可能となり,それが広がっていくと,ラジオやテレビのように情報を発信源から一方的に伝達するのではなく,双方向で多角的にしかもほとんど同時に,情報を加工しながら交換し合うことができるようになった。
 コンピュータの出現による情報技術革命後の世界について,未来学者・増田米二は,コンピュータをつないだ情報インフラという社会資本が生まれ,それが広がっていくのにつれて社会は物的環境の制約を打破することのできる情報社会という新しい段階に移行するというビジョンを描いた。しかし,これまでの現実の世界の発展は,彼が予想したような理想社会とは程遠いものになっている。

(3)ネット社会の意義とその落とし穴
 産業文明が飽和状態(極限状態)を迎えたとき,物質的には何でも手に入るような環境が整備されたために,他人とのつながりがなくても生きていくことが可能な社会となった。昔であれば,家庭で夫婦や親子などの相互依存関係がないと生きていけないような環境条件だったが,今はカネさえあれば何でも解決できる世の中になったので,結婚する必要もなければ,人とのつながりをもたなくても生活していくことが可能になった。こうした状態が典型的に現れているのが米国だ。
 しかし,人間は,衣食住性などの欲求だけでなく,仲間との心の繋がりを求める強い欲求を持っている。自分が他人のために何かをしてやり,他人から何かをしてもらうという相互依存関係があってこそ,生きがいを感じる。
それは,東日本大震災後に「きずな」ということが盛んにいわれたことにも象徴されていると思う。産業文明の極限状態に至り,カネで何でも解決できるようになったと言っても,それで本当に幸せかと問えば,そうではないことは明らかだ。一人暮らしで何でもできるとしても,心の中は空虚になる。そうなると非常な欲求不満が鬱積していく。
 現在のインターネットは,そうした欲求不満のはけ口として多く使われているが,その反面,匿名性を悪用して人を中傷誹謗し,いじめや脅迫その他の犯罪行為にいたることも少なくない。「匿名性」という点が,他の犯罪との大きな違いになっている。
しかし,インターネットは本来的には,人間どうしの心のつながりを回復したいという動機から米国で広まったものだ。米国では「孤独な群衆」社会となり心の繋がりを求める欲求が非常に高まったときに,コンピュータの発達に伴いインターネットを介したネットワーク作りが非常に盛んになった。
 日本では,かつては親族や会社組織の中にネットワークが生きていたが,現代は米国同様にそうしたネットワーク,心のつながりが希薄化し孤独感が強まっている。それで日本でも,インターネットを通じて知らない人とでも趣味や考えを同じくする人どうしのネットワークをつくる動きが活発化している。
 インターネットを利用したソーシャル・メディアを本来の目的に利用すれば,産業文明の病理を克服するのに非常によい手段となり得るのだが,残念ながら悪用する人の方が多いのが現状である。こうした犯人は知能犯であり,取り締まる警察との知恵比べとなっており,やっかいな問題となっている。これは一朝一夕で直せるようなものではない。
 インターネットを経由して大量の情報を取り扱う新しい情報通信産業の生産するものは,あくまでも情報の流通を助けることであって,価値の生産でも情報の生産でもない。インターネットの構造がwebというネットワークの無数の集まりからなる巨大なネットワークであることと,それを動かすプロバイダーの仕事が情報の流通を助けることであって,その創造ではないことの両面において,この産業の性格は資本主義経済における「金融業」に似ている。
 17〜18世紀に西欧で生まれた新しい金融業の場合も,金銀などの実物貨幣の代わりに,銀行預金,紙幣,手形,債券,株式などの金融商品が生まれて急速に増加し始めたが,それだけで産業発展が起こったわけではない。金儲けだけを目的とする人々の行動が,インフレ,投機の失敗,詐欺などを横行させたからである。
 現在のインターネット上の情報の急速な増加の大部分が,発信者の自己満足や自己宣伝,他者への攻撃,売春,ポルノ,詐欺などに使われているところも,新しい金融商品が出現したときと同じだと言える。
 新しい金融商品を創り出したときの金融業者は,価値を生産するのではないが,そのために役立つ貨幣を多くもつ者から必要とする者に移転するのを助けるという意味では,新しい使命を負うことになった。社会のニーズにより良く応える事業を行なおうとし,かつその能力をもつ者に対して貨幣が流れるようにすることによって,その機能をよりよく生かすことにつながったからである。
 新しい情報通信業者にも,情報をニーズの充足のためによりよく生かすための能力と意欲が求められるが,今のところはその取り扱う情報が濫用されたり悪用されたりするのを防ぐのが精一杯であって,ニーズに応えられる情報の生産も流通も,結局は既存のメディアに頼らざるを得ないというのが現状である。

3.ポスト産業社会のありよう

(1)老化した現代文明
 いま現代文明は,文明の発達史からみて「老化」しつつあると考える。つまり現代社会が「成人病」にかかっているのである。昔はカロリー不足で病気になったのだが,現代の成人病はカロリーの過剰摂取が問題だ。ゆえに昔の治療方法では現代病の解決にはつながらない。市場に大量の資金を投入しても,サブプライム・ローンのような,危ないところに流れるだけで,そこが倒産などの病気にかかれば,社会全体が大きな被害を蒙る。
もちろん必要な資金を供給する必要はあるが,資金量を増やせば自然に解決するという発想は,成人病患者への栄養の供給を増やして治そうとするやり方に似ている。成人病に対する処方の決定版はない。質素に暮らすという方法やストレスを減らすことが,最善かもしれない。そのためには家族や友達などとの心的な交わりを通して心の平安を得ることが必要であろう。
 お金をどんどん供給して経済をよくしようというのは,不良債権の種をつくることでもある。そうなると高血圧で,脳溢血を引き起こすことになりかねない。カネをたくさんもつようになっても,ただ使うだけで際限ない欲望を満足させることにはならない。かつては,カネが増えれば物質的な豊かさが保証されて幸せ感の向上につながったのであるが,いまや日本でも産業文明が飽和状態になり,カネの増量が幸せに直結しない時代になってしまったのである。ここでインターネットやソーシャル・メディアを本来の目的に利用すれば,人々の心の空白や欲求不満がうまく解消され,それによって世の中は必ずよくなっていくに違いない。

(2)エネルギー問題解決への視座
 次の問題が,エネルギー問題だ。米国型大量生産・大量消費システムが限界に来て,ひところは地球温暖化などの環境問題で世界中が騒いでいた。しかし今そういう声は小さくなってしまい,それ以上にエネルギーが足らない,新エネルギー資源をどう開発するかに関心が注がれている。しかし,新しいエネルギー資源を開発しても,それを同じように大量消費していけば,その結果は環境汚染を拡大させてしまうだけだ。ひところは,環境汚染と地球温暖化防止の切り札が核エネルギーだと考えられていたが,今回の福島原発事故が起きて核に対する拒否感が蔓延してしまった。事故だけではなく,核廃棄物の処理も大きな問題だ。
 そこで,生物のしくみとその行動様式を観察してみると,産業技術のようにむちゃくちゃに大量のエネルギーを消費することなく,太陽エネルギーなどの自然からのエネルギーだけで成長し活動している。そのような生物のしくみをうまく産業技術に転用できれば,大量のエネルギーがなくても人間活動が可能になる。ただし,現時点ではそのような段階まで到達していないので,生命科学の進歩を待つしかない。
 文明は(生物と同じように)かならず老化して行き詰るようになっている。ゆえに人類の文明の将来に対して諸手を上げてバラ色に見ることはできないが,少なくとも,現在の行き詰まりを打破しながら,産業文明社会から脱却するためには,生物に学んだ技術や社会のしくみを構築していかなければならない。今まではとにかくエネルギーの投入量を増やすことによって生産性を上げ,生産量を増やすという考えだけだったが,そのような単線型の思考は必ず行き詰ってしまう。
 現在の新興国のやり方は,これまでの先進国型社会のしくみ,つまり大量生産・大量消費型社会の路線を後追いしているだけであって,これではそれを乗り越えることはできず,早晩必ず行き詰まってしまうに違いない。このような袋小路から打開するためには,日本などの先進国が模範を見せていかなければならない。

(3)真の「和」―「絆」からの新しいイノベーション
 日本は,古代から,海外からの文明を広く受け入れそれらをうまく咀嚼して独自の文明を築いてきた。つまりどこかから「お手本」を受け入れて,それを改良し発展させてきたのである。明治維新後と戦後には,欧米の先進文明を取り入れて,ここまで発展させてきた。しかしいまや,欧米も行き詰まりにきており,日本のお手本となる国や文明が見当たらなくなってしまった。その結果,政治家たちは,人々の人気取り(ポピュリズム)に頼るしかなくなった。
 現代は,日本史の中では戦国時代の状況にたとえることができると思う。戦国時代は,中国文明がくるところまで来た上,大和朝廷以来の日本のやり方も限界に逢着し,お手本がない時代となり,それが100年余り続いた。そのような戦国時代をブレークスルーしたのは,ポルトガル人がもたらした鉄砲などの文物やキリスト教文明であり,それらを取り入れた織田信長や豊臣秀吉が天下を取ることになった。それを引き継いだ徳川家康は,庶民から武器を取り上げて完全武装解除した管理社会をつくった。そして江戸時代は,「ものつくり」技術がものすごく発達した。
 いまの日本が戦国時代だとして,今後欧米が目覚めて大きく変貌を遂げる見込みは少ないから,当時のように海外から新しい波が来ることは期待できないので,日本人自身が自分で考えてこの限界を突破していかなければならない。今の時代はいくら手本を探そうとしても見つからない混沌の時代だからである。
 2011年の東日本大震災でもわかったように,日本は狩猟採集時代の古代から人間同士の「絆」を大事にすることを大きな特徴としている。関東大震災の直後,ほとんど掠奪暴行事件が見られず,人々はもくもくと復興に取り組んだが,これは世界に類のないことだと賞賛を受けた。終戦後の混乱期もそうだったのである。
 日本人は,自分たちの仲間の中に優れた人がいればその人を盛り立てる必要があるのに,そのような「気」がないことが問題である。これは今まで常に先進文明や伝統的なお手本に従おうとしてきたために,仲間の中ではむしろ突出した人や目立つ人の足を引っ張ろうとする傾向が強く,それが日本社会の限界でもある。これからは,日本全体でいいものを伸ばして育てていく雰囲気をつくる必要がある。仲間との馴れ合いではなく真の「和」を生かしていくためには,一人ひとりがもっと自信を持つことが必要であり,そうした社会が形成される中から新しい芽が生まれてくるのではないだろうか。

(4)非営利組織の役割
 これからの社会のあり方について言えば,世界的には福祉や社会保障などの政府機能が肥大化する傾向が見られる中で,政府のやれることには限界があり,さらに利益追求を是とする企業にも限界がある。ゆえに今後の社会においては,非公式部門(informal sectors)と言われる非営利組織NGOやNPOなどのアクターが重要になってくる。それらには,福祉や社会保障,セーフティーネットなどの役割を補完する使命がある。もちろん非営利組織もそれなりの収入がないとやっていけないが,かといって儲ける必要はない。カネを持つ人が非営利団体にカネを回せばよい。物質的に豊穣な時代を迎えて,有り余るようなお金を持っていてもどうするのか。
 非営利団体の人々が最も必要とするのは,お金以上に情報だ。非営利団体の活動を本当に必要とする人や場所がどこにあるのかという情報が最も重要だ。東日本大震災でもそうだった。ボランティアの人が集まっても,どうしていいのかわからない。そうしたときに,インターネットが威力を発揮することができる。
 ところが,インターネットの限界として,個人情報(プライバシー)の問題が引っ掛かって,援助するにも必要とする情報がうまく流れて行かなくなっている。かつては親族や地域社会での相互扶助の関係が生きており,隣組などの組織も有効に機能していたが,いまはそうなってはいない。
 ソーシャル・メディアで一番問題になるのは,プライバシーをどう考えるかだ。この問題が解決しないと,インターネットの本来的威力を発揮することができない上に,サイバーテロやハッカー,ウィルスのばらまきなどのネット犯罪が横行してしまっている。それを健全なものに整備していくには,さしあたりソーシャル・メディアを管理するための制度をつくり,人々にそれを守らせることが必要であろう。

(2012年11月2日)
(2013年2月1日,「世界平和研究」冬季号より)