宇宙論と宗教の対話
―実存的霊性と祈りをめぐって―

土肥貞之(宗教学者・般若游神会先達)
Sadayuki Doi

 

<梗概>
 近年の科学の知見によれば,われわれが認識する物質は宇宙全体の5%以下に過ぎず,残りはダークマターやダークエネルギーだといわれる。宇宙科学理論の更なる発展によって,宇宙の本質に接近しつつあるが,その先にまで行くと宗教の説く哲理にも通じていく。そういう段階になると,科学的合理主義者といえども,究極のコスモロジーの成果が証明する「大いなるもの」を否定することはできないに違いない。また本能や情念という人間のダークパワーは芸術や宗教,スポーツなどによって調和・昇華させることができ,人間を根源的精神性へと高めることが可能だ。このように宗教の原点ともいうべき祈りのエネルギーは,最先端の科学による宇宙の本質の悟りと相俟って,実存的真の自己の発見に至る道を開いてくれるであろう。

本能の世界

 天賦と悲劇の芸術家アメディオ・モディリアーニ(1884-1920)の作品「マンドリンを持つ女」に出会ったのは,45年程前,国立西洋美術館においてであった。その独特な肖像画は,高校生だった私に何かしら不思議なメッセージを送って来るような気がした。後に知ったことであるが,彼はジェノバ生まれのイタリア系ユダヤ人で,若い頃はイタリア古典美術を学び,やがて彫刻家を志してパリに出る。ここでエコール・ド・パリの新星としてセザンヌに刺激を受けるとともにアフリカやクメールの美術に関心を深めていく。しかし経済的かつ健康上の理由から彫刻の仕事を断念して肖像画を描くようになる。あの独特な作品群は,彫刻家としての素養と当時流行の曲線の美学であるキュービズムが融合されて創出されたものである。彼は次のように述べている。「私が求めているものは現実でも非現実でもなく,無意識即ち人類に本能的に備わっている神秘である」と。他方,キップ・ソーン米カリフォルニア工科大学名誉教授に次のような発言がある。「宇宙を理解したいという思いは,あらゆる文明において重要な位置を占めていた。宇宙への好奇心は人間に備わった本能であり,その思いから逃れることはできない」と。
 一般に,本能的とか本能という言葉に対しては,何か手に負えない厄介なものというイメージや通念が浮かぶ。殊に理性至上主義者や素朴な合理主義者は「本能の世界」に対して「いかがなものか?」とばかり,眉根をしかめる方もいるだろう。ところが本能をめぐる問題についてはルドルフ・シュタイナーの神智学的見解やユング及びフロイトの説く人間の深層意識の領域,更に仏教が指摘したカルマ(業)などとも関連して,「宇宙の神秘と人間の根源的精神性」にかかわる課題なのである。
 今日の宇宙論では宇宙は謎だらけで,人類が知っている星や銀河などの通常の物質は宇宙全体の5%以下でしかなく,残りは認識不能にして正体不明の「暗黒物質(約22%)」や「暗黒エネルギー(約74%)」であると考えられている。少し乱暴な比喩を用いれば,人類の有する理性とか知性というわずか5%程の瑞光は,95%にも及ぶ本能や情念というダーク・ワールドに裏打ちされて現成しているのだと言えないだろうか。一個の人間に置き換えてみても,5%足らずの瑞光はわれわれに必要不可欠な五感のようなものである。しかし,あとの95%に及ぶ身心の構成要素を無視してしまっては,その存在根拠を失ってしまうのである。つまり本能は理性と対立するものではなく,これを意識の基層から支え動機付ける役割を担っているという認識が必要であろう。
 二本足歩行に熟達したホモ・サピエンスがやがて他の動物たちよりも優れた頭脳を発達させ,理性という瑞光を自覚するようになってから,それは彼等の進歩の長旅における羅針盤の役目を果たすことになった。しかし,その理性とは一皮剥げばなかなかの曲者であり,深いアンビバレンスを孕んでいたのである。やがて17世紀にもなると西欧近代合理主義思想の宮廷において玉座を与えられるまでになった。
 ところが,近代理性の寵児として誕生した科学技術は,その成長過程において多くの利便性と文化の向上を与えてくれたと同時に,ただならぬリスクと不安をもたらしたのである。近代科学技術の副産物である「人間疎外」とは,人間が産み出し創り出したものによって逆に人間がその存在を脅かされたり,福利を否定されたりすることを意味する。
 周知の如く,核兵器・化学兵器・ハイテク兵器などの生物大量抹殺アイテムの数々,原子力エネルギーが隠し持つパラドックス,環境破壊と人間不信にいきつく物質万能文明と利潤追求社会,そして近い将来問題提起されるであろう情報惑溺社会と制御機能不能に伴うサイバー暴走事故などが引き起こす惨事等々。理性は決してジキル博士が愛蔵するマジックボックスではなく,同時にハイド氏が隠し持った起爆装置でもあったのである。
 確かにわれわれは,理性をむやみに否定する愚は避けなければならない。理性を拒否して野蛮に退行することに甘んじる者が,一体何処に居ようか。しかしまた,理性を過信することにも注意が必要となる。因みに孫文を世に出した中国客家の家訓には「信じても信じ込むな」とあるそうである。

ダークエネルギー解明への期待

 先述した如く,宇宙全体の5%にもならない現成物質は,20%以上を占めるとされる謎の暗黒物質(ダークマター)に依っているという。つまり,暗黒物質がなければ現成物質も存立し得ない(当然,われわれの存在も無い)といった相依相関のもとにある。そして宇宙を加速膨張させている原因であると考えられるダークエネルギーは宇宙全体の70%以上を占めるとされるが,それは未知の素粒子のような物なのか,あるいは従来の物質という常識には当てはまらない「何か」なのかも定かではない。ダークエネルギーが今後ますます増えるのか,ある時点で安定するのか,あるいは逆に減じて行くかによって宇宙の将来が左右される。つまり,宇宙の運命の鍵はダークエネルギーが握っていると考えられているのである。そういった意味で,「ダークエネルギーには神のメッセージが秘められている」とも言われるのである。そして,私の青春時代には,「宇宙は4次元である」という定説に納得していたのだが,昨今のストリング理論では宇宙は恐らく10次元であり,更にM理論によると11次元ではないかと考えられる。これはトポロジー(場と位相に関する学問)や高等数学などの分野と連携して宇宙物理学者が究明している難問である。
 しかし,これらの難問を解明することが宇宙の遠い未来の姿を予測することにもつながる。例えば,加速膨張し続けたあげく,宇宙がちぎれちぎれとなり虚無に帰する<ビッグリップ>なのか,あるいは,ある時点で膨張が止まり逆に収縮し始め遂にはビッグバン以前の極小の状態(ビレンキン宇宙)になる <ビッグクランチ>等々。もし後者の場合には,再びビッグバンのようなことも起こり得,新しい宇宙が誕生するというサイクリック宇宙論を支持することになり,ひいては仏教が説く輪廻思想とも通底することになり大変興味深い。このことは更に,森羅万象の背後にあるルール,即ち「創造主による宇宙の設計図」を読み解こうとする試みでもある。それによって宇宙物理学者や宗教哲学者の悲願である「万物理論(theory of everything)」を導き出すことができたならば,それは同時に宇宙における人間の位置と意味,並びに実存的霊性の謎と使命を明かすことにもなるだろう。
 霊性といっても,現今の私の場合は,安易に神秘的心霊現象などに橋を渡すためのデータや仮説すらも持ち合わせていない。今の時点では,「霊性とは人間の本能と良心が練り上げ養成した深い愛や慈悲心に裏打ちされた根源的にして高次の精神性のことであり,私たちの存在を貫き,包み込んで賦活してくれる<spiritus―生命の息吹>への霊妙なる感受性にして発信エネルギーでもある」という意味に止めたいと思う。そしてこの霊性という聖なる深海は決して “理性丸” という小舟のみでは如何ともし難いのであり,本能という強力なモーターを備えた潜水艇の登場が必要となってくるのである。
 いつの日か優れた物理学者・天文学者・数学者たちの努力によって,宇宙の統合的ルールブック(wholly rule-book of great cosmos)が描き上げられる時が来たなら,それはわずか数頁のものであるに違いない。科学者の慎重で忍耐強い研究姿勢には誠に頭が下がる思いである。そのコンパクトなルールブックにはおそらくマクロコスモスとミクロコスモスの呼応的合一の難問を解く鍵であるウロボロス方程式(ウロボロスとは自らの口で尾を呑み込み丸くなっている蛇のことで,宇宙の構造の秘密をシンボリックに提示したもの)や,これに関連するシンクロニシティ(存在の相互同時的現象あるいは過去・現在・未来の可逆性)の謎などに対する手がかりも記されているかもしれない。悲しいかな宗教哲学者の多くは,その大企画に参画するための物理学的・数学的能力を持ち合わせていない。ただその意義と使命の重大さを直観的に認識し,宇宙論の分野が問題提起する重要概念に対し論理と概念と洞察を総動員して共鳴するが故に,声を大にしてエールを送ることはできるのである。

万物理論

 果して宇宙人はいるか否かなどの問題はさて置き,私は30歳前後より「負のエネルギー:−E=−(mc?)」はあり得ないのか?「パラレルワールド」や「シンメトリカルワールド」は本当にあるのか?という問題に強い関心を持ち続けてきた。また,大乗仏教の根本法理である「色即是空・空即是色」や仏教の母体であるウパニシャッド哲学の大命題である「梵我一如」の哲理などの科学的裏付けを期している者である。
 かつて私は「霊性」というものと心霊問題や超常現象などの領域とに何らかの秘密の通路があるのではないかと思い,多くの文献をあさり,関連講座に出席し,霊能者であるという人を訪ねて話を聞き,あるいは謎めいたスポットに足を運び緊張の一夜を明かしたりして,何らかの手がかりを得ようとしたこともあるが,ついにそれなりの体験は得られなかった。
 このテーマに関しては未だ幽冥の不可識境をさまよっている次第である。それだけに,万物理論の完成は,かかる領域にどのような診断を下すのだろうか。そして,宗教や信仰というものは将来,コスモロジーの成果と融合せざるを得ないだろうというのが私の持論である。科学的合理主義の旗を振りながらその実態は盲目的合理主義者である人々は,宗教否定の信念に再検討を加えなければならない日が来るだろう。彼等は形而上学的超越神は否定できても究極のコスモロジーが証明する「大いなるもの」を否定することはできないだろう。他方,伝統的宗教に仕える人々の中には,その歴史と権威を冒?されるとして当然反発する人も出てくるだろう。しかし,そうした杞憂は無用であろう。真正にして高等なる宗教世界が長い間育んできた優れた理念と高貴な魂は,新たなる宇宙論の懐に引き継がれていくに違いない。
 21世紀の今日,人類の宗教事情と信仰の実相は未だ龍蛇混雑・玉石混交と評すべきか。善悪共振のカオス界にアブラクサス神が本尊として君臨し,その横では特効薬と毒薬を巧みに使い分ける偽医者のような脇侍たちが妖気を漂わせて鎮座している。われわれ凡人はカルト・ドラッグを掴まされて魔界にジャンプすることに甘んじるか,あるいは信仰の正道を精進し心眼を開くかの選択と責任は自らの実存的決断にかかっている。しかし,万物理論が世に顕われ出る時,人々は祈りのエネルギーを何処に向けたらいいのかを教示され,同時にそれまで依存してきたところの宗教の名と権威を借りたさまざまな迷信や不条理な盲念を洗い流すことができるだろう。宗教に伴う原理主義と教条主義は信仰の世界を害し歪めるものである。これに抗するには,冷静にして勇気ある修正を高次の宇宙論に照らし合わせて行うことにある。すると,おのずからいい意味での宗教の世俗化と科学的裏付けがもたらされるのである。真の意味での宗教と科学の弁証法的進展はそこに美しい花を咲かせるのである。

本能・情念という人間のダークパワー

 ところで本能に関しては,「生物が系統発生的に獲得した行動のプログラム」であるという生態学的かつ臨床教育学的定義がある。例えば,チンパンジーと人間は,その同類同族に対する際立った暴力性の保持という点で相似している。野生のチンパンジーの世界ではリンチが行われることは既に知られているが,それは素手による暴行であり人間のように道具を使うことはない。相当利口な奴がいたとしても,せいぜい棒切れを使う位だろう。
 話は飛ぶが,1999年度ノーベル平和賞に輝いた「国境なき医師団」の活躍にはたいへん敬意を表すものであるが,その創立メンバーであるフランス人医師が次のように言っている。「殺され方にいいも悪いもない。人命を守るためなら石をも投げよ。しかし石を投げずに薬をなげろ」と。騒乱に乗じて石を投げる者は跡を絶たないが,危険な紛争地域に身を挺して人命救助に携わるが如きは聖人の業であり,将にヒポクラテスの誓いを実践する高貴な魂の持ち主に他ならない。類人猿が飛び道具を使って仲間を制圧したという話は聞いたことがないが,科学的知能の獲得に酔いしれた人類は,核兵器・化学兵器・ハイテクロボットなどを次々と開発したあげく,これらを用いて無辜の命を瞬時に奪ってしまうという狂気の沙汰に自らを追い込んでしまっている。かかる一例からしてみても,人類の暴力性には残忍さと多様性と応用性などの行動プログラムが相剰されている事実は黙視する訳にはいかない。これは人類の「醜悪なる進化」とでも言うべきであり,不条理とかパラドックスの一語で片づけられないものであろう。
 さらに,本能や情念という人間におけるダークパワーは芸術や宇宙論のみならず人間の実存的霊性や「地・水・火・風」などの原始的霊性とも本原的万有共振性(fundamental sympathy of syncretism)を秘有しているのではないかというのが私の新たなる問題意識である。要するに,われわれはこうした本能的領域への自発的開拓の努力を不問に付すことはできないのであり,それには単なる知識の集積や情報の操作のみではおぼつかないと考える。むしろこの本能の部分をしっかりと自覚し鍛えておかないと人格の不安定な液状化や情操障害を引き起こすことにもなるだろう。
 では,地中と天空と良心のエネルギーを体内にバランスよく吸収循環させる活力に満ちた魂の持ち主となるための方策はあるのだろうか。一つの試論として述べることが許されるならば,ヨーガや気功などの呼吸コントロールを基礎とした身心統覚メソッドや根源的精神性の鍛錬に直結するであろう武道各種,禅道,修験道,神道,念仏行,法華行などの各修行錬成の道,更に茶道,華道,書道,芸道などの伝統的稽古事をめぐる修養修身,また,高等宗教各派において開発された修道システム,加えて,競争心と向上心とルール遵守の精神を巧みに調和・昇華させることによって人間性を洗練させ得るスポーツ各種やこれに付随する緻密なトレーニング・メニュー等々に期するところ大である。
 とりわけ,スポーツの祭典という形で花開くオリンピックの理念は,フェアスピリットと呼吸と汗を媒介として民族を越えた相互尊重の場を提供し得るものであり,国際理解と世界平和を希求する点において意義深いものである(余談ながら,2020年の五輪開催国が日本に決定されたことは慶祝の至りである。経済的・文化的活性化はもとより,東京オリンピックの時と場を通じて,平和と相互信頼の大切さを世界に発信する機会を与えられたことにわれわれは素直に感謝したいと思う)。わずか数例を挙げたに過ぎないが,こうした具体的実践を媒介にしてこそ,本能というダークパワーを刺激活性化させ根源的精神性へと昇華させることも可能となるのではないだろうか。
 因みに自らの根源的領域を徹頭徹尾練磨打成することによって,「天・地・心」三元の気を合一・回流し得た人物を一人挙げるとしたら,それは至誠の道人・山岡鉄舟であろう。彼は剣禅一致の境地を極めた無双の剣客でありながら,生涯殺生をすることはなかった。そして,人が剣の極意を問うたとき,「観音様に預けてあるから聞いていらっしゃい」と答えたそうである。かくも慈悲の剣を悟得した人の境涯と思念は『武士道』における「先づ,眞文明の人間慾とは,不明不暗の大道を修し,智識を磨きて徳操を高め〜」の文面に躍如としている。
 しかし,念の為に蛇足の一言を付け加えるならば,オウム真理教事件がわれわれに示した如く,あのような狂気と妄想に魅入られた世界では,本能というダークパワーを破滅と不信の醜悪なるエネルギーに変換させ,取り返しのつかない悲劇をもたらしたのである。麻原教祖が取り憑かれたポア(人を呪殺すること)というデモーニッシュな理論はインドからチベットに伝わった後期密教特有のものである。釈尊を源流とする根本仏教から弘法大師空海が招来した中期密教(高度に調和完成されたエソトリック・ブディズムの極致)に到るまで決して説かれることのなかった外道理論である。
 後期密教を別名タントラ・ブディズムとも言うが,ここでは既に退廃と魔境が顔を覗かせているのである。その真偽のほどは定かではないが,かつて呪力に秀でたチベット僧同志で呪殺合戦を行い,一方が他方を呪い殺したという文献を読んだことがある。確かにわが国の陰陽道や南米の黒魔術の世界などにも,かかる悪逆と魔性と邪気といった要素は認められるのである。
 さらに遠く遡れば,古代インドのヒンドゥー教におけるシヴァ神(破壊と再生を司る神)には既に肯定と否定,価値と反価値などの強いアンビバレンスが組み込まれている。両者のバランスを平和的・建設的に保ちつつシヴァ神と向き合う分には,曲がりなりにも弁証法的活路を切り拓く原動力ともなるのであるが,麻原教祖のようにシヴァ神の破壊力の面のみに魅入られ陶酔した人物によって支配された教団などは,宗教の本道を踏み外すのは当然の事であり,果ては妄想とテロリズムを結びつけ自爆するしかなかったのである。倫理性というブレーキが故障した宗教は,暴走特急「魔境号」とならざるを得ないのである。新興宗教にしろ伝統宗教にしろ,あるいは個々人であれ自らの制御装置に対する点検と調整を怠ってはならないと思う。そして人間性の暗部に潜む憎悪心や怨念にかかわる呪詛の領域を広い意味の宗教的属性として認諾するのか,あるいは本来の宗教性からの逸脱として峻別すべきかの検討を要する処である。

宗教の原点=祈りのエネルギー

 自己の内外を問わず深遠にして大いなる何ものかに向き合う時,全身心から湧き出ずる神妙なエネルギー。それが霊気であり祈りのエネルギーであり,宗教の原点なのではないだろうか。つまり祈りとは,より良い状態へ向かおうとする生命エネルギーの発露である。既成の概念を借りて言うならば,祈りとは「真」「善」「美」の積極価値が統合された浄化と自然良能のエネルギーである。これに対し呪詛は「偽」「悪」「醜」の消極価値が盲動した毒害と敗滅のエネルギーである。前者が向かおうとするところは良心の自由という麗華が花開き,幸福という果実が微笑む真の楽園であるのに対し,後者は魂の堕落と罪業の渦に溺れたあげく遂には奈落の底へと呑み込まれる運命にあると言えよう。そして「実存」とは非本来的我が本来的我へ透過しようとする企てであり,頽落態に苦悶している良心が自由と安心を取り戻そうとする本能的志向を根拠としている。つまり,実存とは「祈ることを運命づけられた存在」に他ならない。
 ところでわれわれが言葉で表現しようとする時に最も苦慮するものの代表に「愛」がある。愛なるものはさまざまな位相を持つだけに,その人の境涯に応じた定義が可能であると思う。万人の罪を負い茨の冠を忍受し,代受苦をよしとされた気高き神の子の至上の愛などは,凡心からして敬服の限りである。クリスチャンの鏡であるマザー・テレサの「慈善活動というものは決して形を変えた自己満足で成し得るものではなく,結局は内なる神との対話なのです。一人の路上の孤独な魂を救うことが万人の魂を救う道に通ずるのです」というメッセージは,観念としての愛ではなく,実践としての愛を体現した人にしてはじめて言い得た消息である。誠に匪賊雑輩の窺い知ることのできない霊性である。
 今ここであえて身近な言葉で「愛」を言い表すとしたら,「あわれみ」「いつくしみ」「いたわり」「おもいやり」「気づかい」である。最初の二語は仏教の説く「抜苦与楽」の心であり,人の苦しみを抜いてあげたいというあわれみ(悲)の心であり,楽しさを与えて癒してあげたいといういつくしみ(慈)の心である。つまり仏教の慈悲とキリスト教の愛は人類の精神史上最も尊貴なる二つの宝ではないだろうか。この二大秘宝こそが祈りの発信源なのである。そして他者や動植物に気をかけることも,たとえ素朴でさりげないものであっても祈りの位相の一形態なのである。
 「人権とは慈悲のことです」と説きミャンマーの民衆を啓蒙したのがスーチー女史である。彼女は,慈悲という仏教文化の土壌に民主化の種を播きながら,人権という花を育てようと苦心してきたのである。今回の来日に際しても,「政治家や指導者は民衆に嘘をついてはいけない」と述べていたのが印象的であった。他方かつて,旧守系の政界トップが非公式の席上で「政治家の役割は,誠心誠意国民をだますことにある」と宣ったそうだが,(もしそれが事実ならば)たとえ善意に解釈して「嘘も方便」的底意を込めた発言であったとしても,両者の政治意識のギャップに対して苦笑して済まされるものではない。古今東西(程度の差はあるにせよ),理想と徳義を欠いた政治に踊らされ泣いてきたのは民草であり,その裏でほくそ笑むのは,利権威名を糧とし身分格差の楽園で常春の夢を貪る一部の為政者や支配者層であったからだ。それはともかく,人権とは人間らしく生きようとする本能に基づいた根源的意識である。しかし人権にイデオロギー(主義としての思想)が関与すると問題は多少ややこしくなる。イデオロギーというものは自己の立場の正統性と優位性を顕示するために,闘争性や排他性を帯びる傾向が強いからである。「イデオロギーは20世紀の宗教である」とは山本七平氏の卓見である。したがって人権問題を人間学的視座から総合的に検討しようとする場合,障害となるのである。戦術とかプロパガンダ(宣伝)の要素が介入し,人権問題が政争の具に用いられると,本来の人権の焦点がぶれることにもなる。人権の領域が愛の本質,そして実存的霊性と共鳴し合うという原点を見失ってはならないと思うのである。人権とは,人間の心に希望と生きていく勇気と喜びを与える原点であるゆえ,何人といえどもこれを奪うことは許されない。

宇宙の七大疑問

 5年前の秋,書店で偶然目にとまった文庫本があった。文学者のエドガー・アラン・ポー(1809-1849)が尊敬するドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトに捧げた奇書『ユリイカ―物質的宇宙ならびに精神的宇宙についての論考―』である。その論旨は,宇宙はやがて収縮するであろうというものであるが,これは現代宇宙物理学での仮説のひとつ「ビッグクランチ」説を先取りしたものであるといえる。もしこの宇宙収縮説が将来証明されるとすれば,先述した如くサイクリック宇宙説(宇宙輪廻説)も立証される可能性も出てくる訳である。そうなれば私は宇宙が生死を限りなく繰り返すという意味で作業仮説的な程度においてではあるが「宇宙本能」の存在を指摘したいと思う。そしてかつてドイツの数理哲学者であるライプニッツ(1646-1716)が提示した「予定調和」の説がこの「宇宙本能」の仮説とどことなく響き合う気がしないでもないのである。ただ「宇宙に意志があるや否や」の問いについては今のところ何とも答えられない。逆にもうひとつの「ビッグリップ」説が言うように限りなく膨張した果てに虚無に帰してしまうのならば,宇宙は一過性の摩訶不思議な出来事であり,最後は「寂威帰空」という何とも儚い幕切れがあるのみである。
 宇宙論の黄金期といわれる今日,宇宙をめぐる謎を五つ挙げれば,「始まり」,「終わり」,「何で出来ているのか(宇宙の中身)」,「法則」,「私たちの存在」であるそうだ。私はさらに「対称性の崩れは何故どのように起きたのか」及び「多世界解釈と並行宇宙論」の二点を追加して宇宙の七大疑問としたい次第である。
相対性理論と量子力学という相反する二つの理論を統合することによって成立可能とされる万物理論の完成を待つには,まだまだわからない事だらけであり,時間もかかりそうである。ただ確かなことは,人も地球も天の川銀河も有限性の運命から免れることはできないということである。
 その天の川銀河の外には千億の銀河系があり,それぞれその一個の銀河には数千億個の星々があるとされる。そして,地球と似た環境(ハビタブルゾーンあるいはゴルディロックスゾーンといい,地球の場合は太陽から約1億5千万km離れていて,遠からず近からずといった微妙な条件が,生命体を誕生させた要因であるとされる。そして生命を誕生維持させる三大要因として,「液体状の水」「化学物質」「エネルギー源」が挙げられ,ハビタブルゾーンに存在する惑星は,そのための好条件にあるのである)にある星は数多あるのではないかと考えられている。
 仮にもしもの話であるが,いつの日か,かなり進化した異星人達と交信・接触できる時が来たとしたら,彼等に果して宗教というものを持っているか否かを問いたい。「進化の過程で必要性を失ったので,すでに廃止した」という返答が来るか,あるいは「勿論,持っている」というならば一体どのような信仰世界を構築しているのかを知りたいものである。それは同様に,われわれ地球人が文明の発展と知能の進化に伴って,宗教を必要としなくなり,信仰や祈りと無縁な存在となっていくのか,逆にますます実存的霊性を深め,祈りを高めていくのかという問題と通底するのである。私の微弱な直感では後者であり,長くつらい道程を経て霊性的成長を遂げた地球人は,万物理論という真理の光の照合のもとに,洗練させた宗教世界にその魂を飛翔させているのではないかと予感する。そして当然,呪詛や狂信に酔える邪教や多くの迷信と思い込みを悪用して不実と虚栄の楽園に遊戯することを目論むカルト教団のようなものは姿を消していることだろう。

アインシュタインの宗教観

 最近エキサイティングなデビューを果たした「ヒッグス粒子」は,すべての物質に質量(重さ)を与える粒子であるところから「神の粒子」とも呼ばれる。ヒッグス粒子なくしてわれわれの存在もないわけである。いわば物質世界の類い稀なるリーダーである。私たち人類世界にもアインシュタイン(1879-1955)のような知的天才リーダーの再デビューが望まれる。ヒトラーやポルポトの如き人物や民を虐げ蹂躙する暴君や独裁者たちの再来は御免だが,弱肉強食の遺伝子に衝き動かされて未だ殺し合いを止めることのできない修羅の巷に天才が出現して,優秀な科学者や悩める哲学者を教導して一日も早く万物理論を明示してもらいたいものである。
 それはさて置きアインシュタイン博士が常々抱いていた二つの疑問があった。一つは「神がどのような原理に基づいてこの世界を創造したのか?」もう一つは「神が宇宙を創造した時,選択の余地があったかどうか?」である。しかしここで誤解してならない点は,アインシュタインの述べた神の本質についてである。つまりそれは既成の通念や雑多なドグマ(教条)という古着を重ね着させられて窮屈な思いをしている古色蒼然とした神とは違うのである。
 博士の発言のいくつかに耳を傾けその宗教観を探ってみよう。「私にとって神という言葉は,人間の弱さの表れであり,その弱さが生み出したものにすぎない」。確かに一理も二理もあり,大天才に対して言葉を返すようで恐縮であるが,「では人間が精神的に強くなれば信仰は要らなくなるのでしょうか。むしろより一層信仰を洗練させ深めるのではないでしょうか?」という疑問が私には湧いてくるのである。もう一つは「(私が信じるのは),存在する事物の秩序立った調和のうちに現れるスピノザの神であって,人間の運命や行為に関心を持つ神ではない。私には,自分が創造したものに賞罰を与える神は考えられない」と。
 アインシュタインが哲学的共鳴を受けた,ポルトガル系ユダヤ人のスピノザ(1632-1677)は「神に酔える哲学者」と呼ばれた人である。彼は「神即自然」の立場から「神人合一」による解脱の境地を目指したユダヤ的求道者でもあった。しかし不幸にも当時のオランダ宗教会議において異端とみなされ「無神論の大王」の極印を押されるとともに,その著書は禁書とされたのである。ジョルダーノ・ブルーノやガリレオ・ガリレイが人々に理解されなかったように,スピノザも世に容れられることはなかったのである。彼は自著『エチカ』の結びに「すぐれたものはすべて稀有であるとともに困難である」という意味深い言葉を残している。学生時代,スピノザの深遠にして高次の汎神論的思想に強い感銘を受けた私は,この文脈がよく理解できる。つまりアインシュタインにとっての神とは,神秘に満ちた大いなる宇宙の真理,即ち将来大宇宙の最高根拠としての万物理論が描き出すであろうところの神を指向していたことが読みとれるのである。

宇宙の本質の悟りと自己の発見

 推定約138億年という宇宙史の中で,現在は星々が最も豊かで活気を放っている時節であるという。つまりわれわれを取り巻く宇宙は青春期のピークを謳歌しているのだ。その一方,美徳と悪徳,価値と反価値とが未だ混沌とした21世紀に生きる人類は,その意味でも明と暗への命運を別つ重大な岐路に立っているのかもしれない。その進路を決するのは果して父なる神か,それとも人類の英知なのだろうか? かく問うても,「あれかこれか」の拙速な二者択一で済む問題ではないことは勿論である。J.B.S.ホールデン(英国の生物学者)が言っているように,「自然はわれわれが考えている以上に奇妙なものだ。いやそれどころではない。とても考え及ばないほど奇妙なのだ」から。
 今日大切な点は,全知全能の神は実在するか否かに拘泥することではない。むしろ,いつの間にか人々によって「神」というファンタスティックな尊称を冠されるようになった「ある大いなるもの」とは一体何であるか。また,それを改めてどう捉え,どのように受け止めるかという問題にあると思う。それは,神を信じる人々にも,信じない者たちにも,共に等しく課せられた全人類的宿題である。その解答へのひとつの手懸りとして,アインシュタインの如き悟性と,マザー・テレサのような心性を類い稀なる精神の先達として,共に受け継いでいく必要がわれわれにはあると思う。
 推定約46億年前,地球は最初,火の玉として姿をあらわした。やがて豊かな水に満たされ,まもなく生命が誕生した。こうした悠久にしてドラマチックな時の流れの中で,遂に人類が足跡をしるすのである。ところが今日すでに,人類は「無限」というゆりかごや「永遠」という神話世界の夢から眠りを驚かされ,また,「不変」という楽園からも追放された時空のディアスポラになろうとしている。つまり,「有限性」の相の下に横たわる険しい山脈に挑みはじめた旅人であり,「変化」の風と「生滅」の波に揺らぐ大海原に小舟を漕ぎ出した冒険者であるといえよう。その行く末と運命については何ものも計り知ることはできない。
 今や,それだからこそ,科学・哲学・宗教・芸術など,各界における自覚と良識を有する先覚者が,天与の危機感と高貴な使命感のもとに力をあわせ,謙虚で建設的な対話を積み重ねていくべき時を迎えている。それによって,大宇宙の科学的真理と宗教的霊性,哲学的叡智と人間の美意識とが共鳴し統合されるような高次の新天地を開拓してゆくべきであろう。そしてこそ,この宇宙における生命誕生の目的と,人類出現の意味と役割について,なにがしかの答と展望が見い出せるのではないだろうか。
 宇宙とは私を含んで存在する総てである。ゆえに,宇宙の真理と本質を知ることは,新たに自分を発見することでもある。とともに慈愛と祈りに止揚された我と汝が「実存の交わり」を確かめあう時でもあるのだ。 そして,「宇宙的実存」をめぐる予兆と自覚に促されて,大いなる黎明と歓喜の船出にわれわれの霊的な活路を託す日も,それほど遠くはないと信ずるものである。

「宗教のない科学は不具であり,科学のない宗教は盲目である」。
―――アルバート・アインシュタイン
(2013年10月21日)
(『世界平和研究』No.200,2014年2月1日号より)