悪の位相に関する若干の省察
―人生の迷宮と世界の深淵をめぐる倫理的・宗教的問いかけ

土肥貞之(宗教学者・般若游神会先達)
Sadayuki Doi

 

1.はじめに

 「光多きところ,影もまた濃し」とはゲーテの言葉である。
光と闇は相対する面と相補する面とを持つ。これは古代中国の陰陽道において既に説かれてきたところである。また最新の宇宙物理学においても,闇だけの宇宙や光のみの宇宙というものは,生命や物活の認められない極限の擬死世界を意味するらしい。光と闇のアナロジーは自ずから「善」と「悪」のテーマにつながる。善と悪は対立相剋すると共に呼応連動する関係にある。悲しいかな我々迷える子羊たち・愚かなる下僕は何が善であり,何が悪であるかを明断することすら覚束ない。
 聖人・凡夫を問わず,いかなる者といえども,生涯のうちに一度も嘘をつかず,恨みの念を持たず,また,悪の現実とその影に怯えなかった者がいるだろうか。人生と世界に何故「悪」はつきまとうのか?その存在理由はどこにあるのか?ある大いなるもの(something great)は,何故,悪のもたらす不条理と不幸の数々を黙視したもうのか?これらは善意を育み,美徳を求め,幸福を願う誰しもが,人生と世界に対して抱く根本疑問ではないだろうか。こうした難題にどう対処すべきか。勿論私にその能力はない。人生とは我々に授けられた大いなる謎であり,吾が身心に息づく深き神秘である。
 しかし,私が今日まで出会った諸賢先哲の思索と体験からにじみ出た言辞のいくらかをここに書き留めることを通じて,何らかの手掛りを得ることはできないだろうか。そしてより多くの方々と共に,この問題を吟味検討する機縁が与えられればと願うものである。

2.ヤーコブ・ベーメよりの啓示

 悪をして「創造の神秘における神の中の自然」と捉えたのはドイツの神秘主義思想家ヤーコブ・ベーメ(1575-1624年)であった。「神の自己産出」のビジョンに見られる彼の神秘主義的かつ汎神論的傾向は当時のルター派の人々からは当然異端視されることになった。彼によれば,神の奥の更に奥,つまり神の根源は「無底(底なきもの)」である。この無底は他の何かによって根拠付けられることもなければ,何かを根拠付けることもない。また,神は一気に世界を創造したのではなく,否定的な要素が世界の制作に大きな役割を果たしているのだと考えた。つまり,世界が生き生きとしたものになるためには障害とその克服が不可欠であるということである。かかる世界創造の原型は俗に「産み(創造)の苦しみ」という一言に秘沈されているわけであるが,後にヘーゲルの弁証法哲学の基点になったともいわれる。即ち,「対立する力の働き合いの内に絶対者が自己を実現していく」というのがヘーゲル哲学の骨子であるからである。
 ところで周知の如く,「全き善なる神が世界を創造したというならば,何故世界には悪が存在するのか」という神学上の根本的問いかけがある。ベーメによれば,神は純粋な善ではなく暗い面も持っていると指摘するのである。この神の中の愛の光が差し込まない暗闇の領域こそが,荒涼とした不毛なる原自然をイメージさせたのではないだろうか。
 ひるがえって,ベーメの神の根源としての「無底」をどうとらえるべきか。最新の宇宙論に照らし合わせて考えてみたい。アメリカの女性科学者リサ・ランドール博士は1999年,宇宙の異次元空間をつなぐ推論として「ワープ(ねじれた・反りかえった)した余剰次元―warped extra dimensions」を提唱した。コスモロジーの研究成果によれば,次のようなことが指摘されている。銀河系の中心には光をも呑み込んでしまう強い重力を持ったブラックホールが存在する。そして宇宙は決して単一の宇宙(ユニバース)ではなく多層宇宙(マルチバース)であり,多次元の世界と考えられる等々。そうなると,ランドール博士の言うように,異次元の交流を可能にする「ワープ・ホール」の如きものを想定することはできないのだろうか。さらに,私はベーメの「無底」が,この「ワープ・ホール」の仮説に重なってしまうのである。

3.倫理的問いかけ

 中国唐代,詩人白楽天と道林禅師の間で次のような問答がなされたとある。白楽天が道林を尋ね「仏法の大意は何でしょうか」と問うた。道林答えて曰く「諸々の悪事はなさず,善き事はなせ(諸悪莫作衆善奉行)」と。これを聞いた白楽天は「そんなことなら三歳の子供でも知っている」と詰め寄った。すかさず道林は,「三歳の子供も知っているが,八十の老人すら行うことを得ず」と切り返したのである。確かに善悪についていろいろ論ずることも大切ではあると思うが,こうした肝心な眼目を実践できないのであれば,ただの戯論にすぎない。要は,善悪の問題に対して知識面でどれだけ通じているかではなく,実際の生活の中で具現できるか否かにかかっているということである。仏教倫理の原点が,この問答の中に端的に示されている。原始仏典『ダンマパダ(法句経)』には,釈尊の教説として,「人は皆,己の悪行によって汚れ,己の善行によって浄められる,他の何ものによっても浄められることはない」とある。悪行は霊性を汚し破壊するが,善行は霊性を浄め成長させるというのである。例えば,古代バラモン行者以来の伝統であるヨーガの苦行とは,難行苦行によって身心に熾る霊的な熱(タパス)が,煩悩の垢を焼き尽くし,涅槃(ニールバーナ)の境地へ導くとされた。こうした実践哲学の風光が大乗仏教である禅の世界でも躍如としている。マハトマ・ガンジーは「権利のガンジスは義務のヒマラヤに発す」と述べた。我々は誰しも,善を行い,悪を避ける義務を負うているのである。そしてこそ人生において魂の自由を享受できるのである。
 因みに聖書にも,「自由人に相応しく行動しなさい。但し,自由をば,悪を行う口実として用いず,神の使いに相応しく行動しなさい」とある。仏陀もキリストもその生活倫理をめぐって軌を一にしている点に感じざるを得ない。ところで,アウグスティヌス(354-430年)は,次のようなことを述べている。「神は人間の罪そのものが彼にとって罰であるように定められた。罪を犯した人間は,ことさら神が罰しなくとも,彼自身の犯した罪によって苦しむ。悪人の敵は神ではなくて,自らの犯した罪業そのものである」と。要するに悪を避け善をなすという原則は,我々が良心の自由を勝ちとるための「愛するたたかい」における道標なのである。

4.宗教的問いかけ

 聖パウロは言った。「信じて行えば,汚れたものなど何ひとつありはしない」と。そして巨人ゴリアテと対決する若きダビデは,「神と共にあれば,いかなる悪をも恐れまじ」と自らに語りかけたのである。イエスは,父なる神を(古代アラマイ語で)「アッバ」と呼んだとされる。あたかも幼な子が父に甘えるように。イエスは善悪の彼岸に吹きわたる神の風に,まるごとその身をまかせる境地にあったのではないだろうか。イエスもパウロもダビデも,神を純粋に信じ,その愛を体現することにおいて罪悪から解放されるという絶対信仰の中に生きたのである。
 仏教も原始仏教から大乗仏教へ移ると,天台,華厳などの深化円熟した思想において「性悪・修悪」の認識が生じてくる。『華厳経』には,「菩薩は一切の悪を忍受し,衆生に向いて平等にして動揺なきこと地の如し」とある。また,天台の「十界互具論」では,仏界の中にも地獄・餓飢・畜生の三悪道の世界が内具すると説くのである。それでこそ,仏は三悪道の苦しみや,悲惨さを理解することができるというわけである。さらに日本の鎌倉時代になると,実存哲学的傾向は一層深まり,親鸞は「悪をも恐るべからず,弥陀(阿弥陀仏)の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」(『歎異抄』)と説いたのである。そして「善人なほもて往生をとぐ,いわんや悪人をや」に見られる「悪人正機」の説は衆知の如くであるが同時代人の日蓮も,罪業の不安におびえる信徒に対し,「そなたが地獄に堕ちると決まったならば,わしも一緒に地獄へ行って,共に法華経を広めようではないか」というようなことを述べたらしい。こうした点に,ただ単に過激な法華僧に留まらず,彼が多くの熱烈な信者を得た,秘めたカリスマ性がうかがえるのである。
 他方,イエスは「わたしが来たのは義人を招くためではなく,罪人を招くためである」と述べているが,仏教とキリスト教が双方の類型的相違を越えて,深遠なる次元において宗教的共鳴をなしているのを知ることができるのである。いずれも高等宗教と呼ばれるに相応しい根拠がここに認められるのであり,今後も両宗教は人類の有力で貴重な指導原理として伝えられていくに違いない。
 ところで,「悪」は,これを憎めばますます増強するものである。従って,恨みや怒りといった対抗性や反発力では屈伏させることのできないものであろう。しかし,慈愛の光(宇宙の根源から来る神秘のエネルギーの反照)によって,これを抱き込み改心させることによって,悪は消え去るのではないだろうか。革命(revolution)という破壊力では悪を打ち負かすことはできない。それを為し得るのは回心(conversion)という霊的パワーである。これは,既に見てきたとおり,釈尊やイエスをはじめ,古今東西の覚者・聖人の説きたもうた至高の道法でもある。因みに,マザー・テレサは「私は反戦の集会には出席しません。平和のための集会を開くのなら招待して下さい」と述べたという。つまり,プロテスタント・パワーが放つ改革力といえども,愛のヒーリング・エネルギーが秘め持つより高次の霊妙力には及ばないことを伝えたかったのかもしれない。僭越ながら,我流の表現を以て定義することが許されるならば,「慈愛に裏付けられた祈りのエネルギーは光(フォトン)に形を与え,悪の闇を消去させる−〈Big conversion by photon movement〉」のであり,「祈りは信仰の源泉にして,慈愛は宗教の精華である」とまとめたい。

5.「悪と自由」をめぐる哲学的問いかけ

 思想史・精神史において,悪という名の密入国者達に対し,条件付きの哲学的市民権を与えようとする動きがあった。以下,その大まかな流れを描写してみることにしたい。
 「神は人間を鍛えるために自由を与え,人間は悪を知ることにより善を知る」(ジョン・ミルトン,1608-1674年,イギリスの詩人・『失楽園』の著者)。
 「彼は世界のなかに禍を見,悪を見る。しかるに両者が生への意志という現象の異なる面にすぎないことはなかなか認識しようとしないのである」(『意志と表象としての世界』アルトゥル・ショーペンハウアー,1788-1860年)。
 「まったく,人間は木と同じようなものだ。高く明るい方へ,伸びて行けば行くほど,その根はますます力強く,他の中へ,下の方へ,暗黒の中へ,深みの中へ,悪の中へと伸びて行く」&「―なぜなら悪こそは人間の力だからだ。」(フリードリッヒ・ニーチェ,1844-1900年)。
 そして,カナダの作家であり,『赤毛のアン』シリーズの著者であるルーシー・モウド・モンゴメリは,悪の本体をして,「宇宙に作用している強い,悪意ある知的な力」(『アンの夢の家』)とまで言っているのである。
 ところで,啓蒙思想の完成者といわれるイマニエル・カント(1724-1804年)はキリスト教の原罪観を踏まえて,人間の「根本悪(das radikal B?se)」を指摘した。カント曰く,「自由をもって始まる人間の歴史は同時に悪より始まる」と。周知の如く,自由と悪の関係については,アダムとエバの失楽園の神話的解釈をめぐって重要な哲学的課題となってきた。アダムとエバが初めて身につけた衣装としてのイチジクの葉は,世界の空間化・時間化の根源を意味し,人間的な「知・情・意の認識」そして「文化」や「歴史」の始まりを象徴するものである。そして悪の来訪によってはじめて「死」があらわれたのである。
 「自由よ!この名においていつも余多の罪が犯されてきた」とはロマン・ロランの謂であるが,自由は善への自由であるのみならず悪への自由でもある。自由を友にするか敵にするかは自己の実存的決断にかかっている。ドイツの諺である「自由の最悪の敵は放縦である」とは自由を無制限に追求すると自由の自己否定に陥ることを警告しているのである。しかし,カントによれば,人間の具える良心こそは善悪を直感的に判断する純粋で自発的な能力を備えており,これが「純粋理性」や「実践理性」あるいは「善意志」という形で我々に道徳的な行為を促すのである。「真の善を知ることは,真の己を知ることである」とカントは教示するのである(西田幾多郎は「善とは人格の実現である」と言っているが,人格主義という立場で両者は哲学的呼応をなしている)。
 ヘーゲル(1770-1831年)になると善の実現のために欠くべからざるものとして,悪には歴史的「必要悪(necessary evil)」の役割があるのだと,弁証法的論理に組み入れられてしまうのである。さらにシュリング(1775-1854年)に至っては「自由即悪」としての「根源悪(善をよって以って善たらしめるところの悪)」の見地から,悪にむしろ積極的特権を認めているようにすら思える。人の世は善悪対立の不完全な世界であるが,完全調和の世界は善悪の対立を止揚した超越の境地としてあらわれるとしたのである。果してここまで辿ってくると悪が秘め持つ謎の深淵と迷宮を決して侮ってはならないことを暗示していると言えよう。

6.魂に響く先哲の名句に導かれて

 「善は法則に適って必ず正であるが,正は必ずしも善であるとは限らない」。これは,アリストテレスの言辞とされる(カントではないか?との意見もある)。例えば嘘ひとつをとっても,エゴと自利を前提とした嘘は虚言・妄言にしか過ぎず,反道徳的対象として非難される。しかし,他者を救うためや希望を与えるためにつく嘘は,善意の嘘(white lie)として,誰しもこれを責めることはできないのである。例えば,イギリスの作家O.ヘンリーの短編『最後の一葉』では,病床にある友人を絶望させまいとして,心優しき一人の老画家が為す美しき嘘の物語が綴られている。また,大乗仏典『法華経』の「譬喩品」においては,火災に見舞われた幼き子供たちを火宅より救い出すために,父親がとっさに叫んだ嘘のことが描かれている。これは子供たちの救命という大目的(本懐)を成し遂げるための手段(方便)という仏教法理を物語化したものである。巷では「嘘も方便」という語句で伝わっているが,決して詐欺師たちやその筋の策略家たちの用いる常套手段として黙認してはならないものである。この名言は,善悪の理法も,それが現実に適用される際には,時と場所と状況などを充分に配慮しなければならないということを教えてくれるのである。善とは「愛を伴った正義」のことに他ならず,立体的・多層的な重力を持った世界であり,理論理性の申し子である正義が放つ引力を上回り包み込むものである。例えば「歴史的正義」というものも,時代が移り,価値観や客観的評価が変われば,「歴史的不正義」へと反転するのである。
 これまで,根本悪(カント),必要悪(ヘーゲル),根源悪(シェリング)等々,悪のさまざまな様態を駈け足ながら見てきた。最後に,悪の位相に関する哲学的アプローチとして,是非とも学兄各位に紹介したい名句がある。それは,かつて私がダンテ(1265-1321年)の『神曲』の中に見い出した次のような一文である。「絶対の意志(良心)はけっして悪にくみしないものであるが,悪にくみするのは,それを拒んではかえってもっと大きな悪におちいるのを恐れる場合のみである」というものである。悪に関する議論の中で,かつてこれほどデリケートにしてエレガントな表現に出会ったことはなく,深い感銘を禁じ得なかった金句である。まさしく「詩人哲学者」との敬称を賜ったダンテならではの言葉ではないだろうか。

7.結びにかえて

 人生と世界に目をやれば,不条理という姿をとって突然襲いかかる悪,戦争,政治的抑圧,社会的不正,公害,貧困,そして病苦等々,我々に不安と不幸をもたらす諸悪の跳梁跋扈。翻って目を脚下に転ずれば,暴力,狂気,エゴや無関心などの増殖による霊性の荒廃と退化という恐るべき最悪の敵が身を潜ませている。
 私事を述べて恐縮であるが,私は地方の大学で25年間,倫理学と宗教学の科目を担当してきた。私が赴任した某大学は,大学とは名ばかりで,むしろ中央と連動した利権の迷宮と言った方がいいような伏魔殿的組織であった。その腐敗ぶりと奇異なる人間模様を詳述することは遠慮するが,ある民事裁判をきっかけに某ジャーナリストによって「愚者の楽園」という有難い名称まで頂戴した。そうした修羅場で私は魔女的役回りを強要され,苦悶葛藤を余儀なくされてきた。(私からすれば),一種の煉獄じみた環境を背景に,宗教という名の聖なるものと俗なるものが共振し,黎明と幽冥が交錯する神秘なる小宇宙を游弋することになった(宗教文明学的問題意識を以てみるならば,アンブローズ・ビアスの「宗教は希望と恐怖を両親として生まれた娘」という諧謔的指摘は的を突いていると言うべきかも知れない)。それゆえ,研究論文は専ら宗教学分野に偏重しがちとなり,倫理学的テーマに関しては,まとめる機会を失してきた。そうした流れの中で魔女狩りごっこに疲れ切った私は,数年前,場末の「愚か者小劇場」という狂虐のステージを飛び降りて帰京することにしたのである。・・・閑話休題。
 悪に関しては,倫理上のみならず,宗教学的かつ哲学的な大課題であるゆえに,機会があれば混沌たる問題意識を斟酌・括約しそれなりの形を与えてみたいと願っていた。ところで既に見てきたとおり,カントやシェリングが指摘した根本悪とか根源悪の概念ではカバーできない悪もある。例えば,ハンナ・アーレント女史がナチの戦犯アイヒマンをめぐって指摘した「悪の陳腐さ」とは,根本的な悪などとは違った日常の中にカビの如く繁殖する不気味で不快な悪である。アイヒマンのような無機質で凡庸な人物は,もし平和な世であったら,極く平凡な一人の市民として暮らしたであろう。
 私も愚者の楽園で「中間暴力」の実相を如実に見聞することができた。たとえ悪が平然と行われていようとも,それと対決することを避け,黙視・黙過する人間の心理や態度をして「中間暴力」といい,それは「ひつじ効果」と関連して,結局は根源的暴力を利し支えることになるのである。そして,本質的に恥や良心の痛みなどの能力を欠いたソシオパス(社会的病質者)というべき何人かの人物とも遭遇し,さまざまな敵視・攻撃も浴びせられた。
 人類史上最悪の犯罪のひとつとして,広島・長崎に原爆が投下されたが,その際に「これは,早く戦争を終わらせ,これ以上犠牲者を出さないための必要悪だ」という声(まるでルシファーのささやきではないか!)があったと聞いたが,罪なき幾多の人命を核兵器を以て瞬時に奪い去る蛮行が果して必要悪の一語で正当化されるものなのか?私には奢れる勝者による狡猾な論理のすり替えとしか思えないのである。必要悪という隠れ蓑のもとに,取りかえしのつかない悪業をなしてしまったとしか言いようがない。
 世は相変わらず,善と悪による一進一退のルールなき泥仕合が繰り展げられている修羅の巷であり,人間は未だ悪夢の中でうなされている哀れな子羊としか思えない。それゆえに悪しき夢から早く目を醒ますべく聖なる雷光の清く美しき閃きと靭き轟音が切に望まれるところである。さまざまな危機的状況をかかえた今日,真・善・美の開拓者たちによる地球倫理の再認識と構築及び宗教的覚醒が緊要とされる。それは人類にとって清潔な水と空気が欠かすことの出来ない生理的欲求であると同様に,我々誰しもが等しく秘め持つ根源的願望と,それ等を清明な祈りへと昇華させずにはやまない本来的人間としての自覚,及びかかる存在根拠を共有する為の実存的要請にほかならないからである。
 折しも機運が熟したのであろうか,この度,積年の宿題に向き合う機会を得,拙いながらも一答を成し得たことは幸甚の至りである。即今の心境を禅語の「雲収山嶽青(雲収まりて山嶽青し)」の一句に託し,小論の結びとしたい。
(本稿は,2014年8月31日に東京で開催された日韓統一思想研究会で発表された論文)
(『世界平和研究』No.203,2014年11月1日秋季号)