私感・死生学(生死学)概論

真木正博(秋田大学名誉教授)

<梗概>
 日本は高齢化が世界でも最も進んだ国の一つで,2050年には高齢化率が40%になると予測されている。人間にとって「生老病死」の問題は,人類の発生とともに向き合ってきた課題であり,医学にとっての重要研究対象であった。しかし「生」の面を主として扱ってきた医学は,「死」について総合的な研究を十分してきたとはいえない。今や死の問題に正面から立ち向かって総合研究を進めるときがきた。これまでの体験も含めて,私の「死生学」を述べてみたい。

 人間は死者を埋葬する唯一の動物である。この埋葬儀礼はネアンデルタール人にまでさかのぼる。人類はそれ以来の長い歴史の流れの中で,死に対する態度,つまり死生観を培ってきた。サナトロジー (thanatology)という言葉がある。Thanatos(死)とlogy(学)との合成語で,death science(死科学),death study(死学)を意味する。比較的新しい言葉で,一部の辞書にはまだ掲載されていない。日本語では死生学と訳されることが多いが,なかには生死学(しょうじがく)と呼ぶものもある
 死生学とは,死生観を哲学・医学・倫理学・心理学・民俗学・文化人類学・宗教・芸術など,あらゆる側面から解き明かそうとする学際的なものである。死生学は尊厳死問題や病名を含む医療告知,緩和医療,脳死問題などを背景に,1970年代から急に注目され始めた。日本語として「死生学」の言葉が公式に用いられたのは1977年に大阪で開催された「日本死の臨床研究会」が最初とされている。
 私は今年(2015)で卒寿となるが,秋田市外旭川の介護老人保健施設(千秋苑)に常勤医師として勤務し,要介護老人の健康管理にあたってほぼ20年になる。その間,多くの高齢者の終末期看取りに立ち会ってきた。その前は産科婦人科の医師だったので,多くの妊娠分娩に立ち会い,婦人科癌などにも関ってきた。また,「生から死」の問題についての本も書いてきた。従って,私は「生老病死」について,その概略を語り得る有資格者のひとりではないかとひそかに思っている。
 日本で市販されている死生学関連の本をみてみると,あまりにも哲学的であったり,宗教的であったり,物語風であったりと,偏りが大きすぎるような気がする。また,死生学は「死の準備学」ともいわれ,生きることも重視されるべきなのに,死周辺に偏重しているものが多い。ここでは一臨床医の立場から,生と死の問題について考えてみる。

1.死生学(しせいがく)か生死学(しょうじがく)か

 死を学ぶことは,生を学ぶことでもあるから,死生学という命名は当を得たものである。また,死を主題にするものなら,死生学は正しいし,その語呂もよい。しかし,長い生が先にあって後に瞬時の死に至るという観点からすれば,「死生学」というよりは「生死学」がより妥当なような気もする。
 死生学は生命倫理などを含む比較的新しい学問ではあるが,その精神は古く仏教のなかにみられる。「生老病死」という言葉は原始仏教の経典とされる『阿含経』のなかにある。また,『般若心経』の普門品偈(解説本)といわれる『修証義』には次のように書かれてある。
 「生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり,生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし,但生死即ち涅槃(ねはん)と心得て,生死として厭(いと)ふべきもなく,涅槃として欣(ねが)ふべきもなし,是時(このとき)初めて生死を離るる分あり,唯一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし,人身得ること難し,仏法(ぶっぽう)値(あ)ふこと希なり,今我等宿善の助くるに依りて,己に受け難き人身を受けたるのみに非ず,遇ひ難き仏法に値ひ奉れり,生死の中の善生,最勝の生なるべし,最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すこと勿れ」と。ここには仏教的生死観がみごとに描かれている。
 死生学の言葉を否定する意図などはさらさらないが,日本に住みつき,多くの日本人の生活に馴染まれてきた仏教に根ざし,「生死のこころ」を念頭においた「生死学(しょうじがく)」という言葉も捨てがたい。個人的には「生死学(しょうじがく)」の言葉を好んで使っている。

2.生から死までの過程と死生観

 すべての生物にとって生は偶然であり,死は必然である。生物は生命の誕生から,成長し,成熟し,次世代を再生産(子作り)し,これを育てあげ,自らは一定の寿命の後に絶え果てる。これらの現象はそれぞれの生物種に与えられた遺伝子の支配下におかれている。多くの生物は繁殖期を過ぎれば間もなく死滅する。人間に特徴的なことは高度に発達した脳を持ち,豊かな精神生活を営み,数々の文明の利器を開発利用していることである。多くの生物は生殖能力を失うと間もなく死亡するが,人間のみは生殖能力を失ってからも,それまで生きてきた年月にほぼ匹敵するほどの期間をさらに生き延びることが可能になった。生物は,その生涯のいずれかの段階の瞬時,瞬時を生きており,それぞれの過程に応じて,できることとできないことがあり,考え方や生き方にも変化がある。
(1)受精―千載一遇の生命誕生
 地球には男女それぞれ約35億の人が住んでいる。35億人の中から,縁があって,それぞれ1人の異性を選んで1組のカップルができあがる。まさに,35億分の1の結びつきであり,偶縁のひと言につきる。この偶縁のカップルから一人の子どもが生まれると仮定してみる。一回に射精される精子数は約1億個,女性の生涯での排卵数は400〜500個程度である。1回の男女の結びつきで,1個の精子と1個の卵子が巡りあって最も効率よく受精した場合の確率は4〜5百億分の1である。避妊していたり,あるいはなかなか妊娠しなかったりした後に,たったひとりの子どもに恵まれたなどという場合は,かれこれ200兆分の1などという,とてつもない確率になってしまう。これを単なる偶然とみるか,あるいは天の思し召しと考えるかは,人それぞれによってさまざまである。私は単なる確率の問題であるとは思いながらも,やはり神(something great)の思し召しであるように思っている。卵子と精子とが合体し,受精卵となったときから,再生生命は始動する。
(2)胎児・新生児・乳幼児期
 受精卵は遺伝子の指令に基づいて子宮内で発育する。個体発生は系統発生の繰り返しである。具体的にいえば,人間の胎生3週では,その形態は魚の幼生とそっくりで鰓まである。胎生7週では両生類と似ていて手足の指には水掻きがある。3カ月および7カ月の脳はそれぞれ爬虫類およびチンパンジーのものに相当する。
 人間は妊娠40週になって巨大に発達した脳を持って生まれてくる。胎児は母体(子宮)内で内呼吸生活をしている。内呼吸から外呼吸への転換を要求される出生は児にとって最大のストレスである。このときの救いは母体からの抱きかかえであり,哺乳である。このことによって,児は母親に対する絶対信頼感を持つにいたる。
 生後6週目頃から6カ月頃までは,脳に対して外界からの旺盛な刷り込みが始まる。この哺乳期に人間として基本的な感情の表し方,基本的行動の仕方が刷り込まれる。よい刷り込みのために重要なのは母親から児への慈愛のこもった哺育行動である。
(3)就学期
 就学期はそれまでの「支えられて生かされた時期」から「自立への時期」への移行期である。年齢に応じた基礎知識を学ぶだけではなく,「人間としてなすべきこと,なさざるべきこと」,つまり,倫理道徳的なことなどを学ばせる。10歳を過ぎれば思春期が訪れ,性ホルモンの嵐に見舞われ,心身への大きなストレスとなる。
 就学期初期までは,「なんの目的で生きているのか」などと深く意識することはない。しかし,学校でのいじめなどで自殺する子も現れるなど,生きる意味などを真剣に考え始める時期になっているともいえる。思春期に入ると,自らの信ずる義や愛に従って死を選択することも厭わないと考えるようになる。太平洋戦争の最中で20歳前の私たちは天皇・国家のために死ぬことは当たり前のことと教育されていたし,自らもそう信じて疑わなかった。そこには洗脳教育の恐ろしさを感じる。
(4)熟年期
 熟年期は人生のうちでもっとも充実した活動の時期である。一般にはなんらかの職に就き,経済的な自立を求められている。生殖適齢期でもあり,結婚して子を産み,一人前に育てあげて社会に送り出す責務の時期でもある。身の周りは,良かれ悪しかれ,常に変化している。その時その時の変化に応じ,成人としての的確な判断と対応が求められる。要するに,自らの確かな視点でものごとを分別し,悔いのない生き方をすることが望まれる。
 家族の養育のために,自分は絶対に死んではならない,せめて子どもが一人前になるまでは頑張らなければならないなどと考えるようになる。もし,不幸にして自分が死亡するようなことがあっても,子どもの養育だけはしっかり守ってあげようと,生命保険に加入したり,健康検診を受けたりして,懸命に生きようとする。子育ての時期には親は絶対に死んではならない存在である。不幸にして病気になった場合は,誰しもが最善最高の医療を受けられるような社会仕組みであってほしい。
 熟年期には新たに考えなければならないことが生じた。かつての人生50年の時代とは異なり,百寿になることも希ではない長寿時代に入っており,長い老後における心身的,経済的備えもしなければならなくなってきた。
(5)更年期
 思春期は性ホルモン発現の嵐にさらされるが,更年期は性ホルモン衰退の時期で,心身不調を招きやすい。男性よりも女性に顕著な更年期障害を伴う場合が多い。諸種の生活習慣病なども顕性化しやすくなる時期である。
(6)高齢期
 高齢者とは65歳以上の年齢の者をいう。75歳を境に,前期高齢者と後期高齢者とに分けられる。現代は前期高齢者とはいってもまだ若く,よく動けるし,また働ける。後期高齢者となると,さすが体のあちこちにガタが生じ,同年輩のものがポツポツと欠け始め,自分にも出番が?などと思うようになる。心身機能は使っていれば,かなり長持ちさせることができる。使わなければ,あるいは病気や怪我などのために使えなくなれば,間もなく老人症候群とか廃用症候群に陥って衰えてしまう恐れがある。
 平成25年の日本人の平均寿命は男80.21歳,女86.61歳と発表された。これは世界最高級の長寿レベルである。日常的に介護を必要とせず,自立した生活ができる生存期間を健康寿命というが,これもまた,日本は世界トップレベルにありあり,2014年で男性71.19歳,女性74.24歳となっている。平均寿命と健康寿命との間には約10年の開きがある。程度の差はあるにしても,この10年間は要介護状態にあるということになる。健康寿命を延ばし平均寿命との差が限りなくゼロに近いのが理想である。つまり,死ぬまで元気のピンピンコロリがよい。
(7)要介護期
 すべての生あるものはいつか必ず死に至る。死亡前には,期間の長短や障害度の差はあれ,誰しも要介護状態に陥る。現在の日本には介護保険制度があるので,要介護状態になったときは自治体,地域包括支援センターや介護施設などに相談してみるとよい。世界から注目されるような優れた制度であり,改善改良を重ねながら維持継続すべきものと考えている。
(8)終末期
 終末期とは最善の医療を尽くしても,病状の進行を抑止できず,早晩死を迎えると判断された時期をいう。その判断は,一般的には医師によってなされている。必要に応じて,複数以上の医師および看護師,介護士,患者本人(多くの場合,家族や知人が代行),弁護士などを含む第三者の諒解のうえでなされる。
 終末期には,つぎのような場合がある。
? 重い慢性疾患を合併しており,それが徐々に進行増悪し,ついに終末期を迎える場合で,例えば,筋萎縮性側索硬化症などはその典型的なものである。現時点では不治の病とされており,診断されたときから,長い先の死を予告された状態になる。こんな惨めなことは他にあるまい。にもかかわらず,この難病に向き合って,立派に生き抜き,立派に最後を迎えられる患者自身やそれを支援する家族の方々がおられることに頭が下がる。
? 急性期治療中または治療後に,病気の進行が抑えられずに終末期を迎える場合で,癌患者ではよく起こる事態である。多くの先進国の死因としては癌死がトップであり,末期癌に対する終末期医療・介護は現代の最重点の課題である。
? 血管病変とされる心筋梗塞や脳卒中などがある。これらの疾患では急死することも希ではないが,後遺症のために長期の要介護状態を余儀なくされることが多く,患者自身および家族の負担が大きく,その予防が重要である。
? 種々の重症感染症,とくに肺炎は高齢者の第一の死因である。
? 天寿高齢者の臨終期
 特別な合併症を持たない天寿高齢者では,食が自然に細り,乏尿状態となり,苦しむ様子もなく,7〜10日間で静かに眠るような安らかな表情で生を閉じることが多い。
(9)不治の病の告知と患者の心理
 病名告知を受けた余命数週間から数カ月間の患者の感情の変化について調査したエリザベス・キュブラー・ロスの有名な臨床心理学的研究が『死ぬ瞬間』と題して1969年に発表されている。それによると,次の5段階の心理的経過があるという。
? 衝撃と否認 
 患者が死の病であることを知ったときは深い衝撃を受ける。そして,そんなはずはないと否認の気持ちが働く。しかし,部分的にせよ自分の病を徐々に受容するようになる。
? 怒り 
 病状の悪化につれて「なぜ自分だけがこんなことにならなければならないのか」と,自分に対して,そして家族や周囲に向かって怒りの気持ちが湧いてくる。
? 取引 
 神仏への喜捨や私財の提供による社会貢献などにより,その交換として治癒を願ったり,延命を願ったりする。その心理機転には生涯における自分の行った行動に対する罪悪感や宗教観が関与する。
? 抑うつ状態 
 病状の進行による焦燥や不眠,非現実的な罪の意識などにより抑うつ状態となる。
? 受容 
 死の直前に急に意識が鮮明になり,心身共に静かな状態になり,心安らかに,尊厳を保って死を迎える。
 不治の病を告知された患者の上述のような心理機制は理解できる。しかし,最後は受容して静かに死んで行くからといって,そこに至るまでの患者の心身の苦しみを,患者自身が,そして患者の身内が易々と受容できるとはとても思えない。ましてや,第三者ともいえる治療者自身が人の死に関わる問題に対して「私は癌患者の全例に告知しています」などと胸を張って一律に対処することなど,医師だからといって許されることだろうか。
 癌の告知を受けて自殺した人もいる。告知を希望して末期癌であることを知らされた某医師が,「生ける屍となってしまった。知らされずにいた方がよかった」と述懐した実例もある。告知をするには,きわめて高度の素養や技術が必要であり,安易なものではない。
 なお,ロスの晩年は死後への過剰に霊的な言動や意固地なほどの自己表出が目立って亡くなったという。
(10)人の寿命
 生物の生命は基本的にはそれぞれ種族毎の遺伝子の支配下にあり,それぞれに決まった寿命が与えられている。加齢とともに遺伝子の影響は薄まり,周囲環境や生活習慣の影響が加わってくる。
 人間の最高長寿者はギネスブックによれば,フランス人女性のジャンヌ・ルイーズ・カルマンの122歳,ついで,日本人の泉重千代の120歳である。中国の羅美珍は127歳だったというが,生年月日に問題があるのか,ギネスブックには載っていない。122歳まで生存していた人がいたという事実があるからには,人間誰しも122歳頃までは生存する力を秘めているといえる。しかし,最長寿国といわれる日本人の平均寿命は,男女平均83歳であり,日本人の平均寿命と世界最高長寿者との間には約40年という大きな差がある。多くの人は最高の天寿達成を妨げるいろいろな因子,つまり短命化因子に曝されて命を縮めているのである。短命化因子にはつぎのようなものがある。
? 遺伝的負の要因
 前述のように決定的遺伝子異常によって,受精卵死が起こることが知られている。遺伝子の異常によって老化が異常に早まる病気も知られている。このような遺伝子異常による短命は不可避のことと考えられていたが,遺伝子研究によって,曙光がみえ始めている。
ことの是非は別にして,遺伝子操作によって,人間は150歳ころまで生きる可能性があると推測されている。もし,実現したとしても,それは生産能力旺盛な成熟期の延長ではなく,単なる非生産的老齢人口の増加だけなら,幸福な世の中とは思えない。世界的食糧不足も招きかねない。
? 死因統計からみた短命化因子
 死亡原因は国別や年齢によって差異があるが,先進国では癌,心・血管疾患,肺疾患,脳卒中が四大原因であり,いずれも生活習慣が大きく関係している。若いときには不慮の事故や自殺などが重要な原因になっている。さらなる長寿獲得のためにはこれらの死因対策が必要となる。米国疾病対策センターによると,五大死因である癌の21%,心血管疾患の34%,慢性閉鎖性肺疾患の39%,脳卒中の33%,不慮の事故死の39%は予防可能であると指摘している。
? 戦争や天災
 戦争は,その規模によっては,膨大な数の犠牲者を生む可能性がある。軍人だけではなく,一般市民,婦女子までも巻き込む。終戦直後の昭和20年の日本人の平均寿命は男24歳,女38歳程度だったとの報告がある。終戦後の昭和22年には男50歳,女54歳と回復していることから,戦争犠牲による短命であったことは明らかである。
 現在の世界の長寿国をみると,いずれも最近は大きな戦争をしていない。戦争がないということは,その国の平均寿命の延伸に関係している。世界一の経済大国であり,医療先進国といわれる米国の平均寿命が世界34位と低いのは驚きだが,世界の警察として,ベトナム,アフガニスタンやイラクなどで多くの戦争犠牲者を出したことも影響しているのではあるまいか。オバマ大統領は「今後,世界の警察役は止める」といっているそうだが,実現すれば長寿国ランクはぐっと上がるだろう。戦争とまではいかなくても,民族間紛争,異宗教間紛争,個人間諍いによる死亡も見逃せない。「いさか諍いの中からは何も生まれないーNothing is born from any conflict」ということを世界的なスローガンにしていかなければならないと思っている。
 一方,天変地異も宇宙のどこかでいつも起こっている現象であり,不可避の宇宙の営みともいえる。地球でも地震,津波,台風,洪水,火山爆発,隕石落下などが起こっている。
? 自殺
 日本人の自殺率は高い方である。OECD(経済開発協力機構)には34カ国の先進国が加盟しているが,自殺率の高い国は韓国,ハンガリー,ロシア,そして日本となっている。日本では,20〜39歳の死因の第1位が自殺である。5〜19歳では不慮の事故死が多い。
自殺は予防が可能なものが多く,WHOでは社会で防止すべきものとしている。その他自殺原因として,希ではあるが,謝罪死,殉死,洗脳死などもある。
<付>昔,食いぶち減らしの目的で老親を山に捨てる掟があったという。深沢七郎の『楢山節考』に描かれているが,捨てられる老婆「おりん」の掟に従う毅然として従容たる姿は涙なしには読めなかった。このような死も昔はあったのだ。

3.死の問題

 生物学的ないし医学的にいうと,死とは心拍と呼吸が停止し,早晩,生体の代謝機能も失われ,脳をはじめあらゆる臓器がそれらの機能を停止した状態である。近年,人工心肺装置の装着によって,新たな死の形態が生まれた。それはいわゆる脳死である。これは脳幹を含む全脳死の状態であるが,人工心肺によって心臓と肺が機能し,血液循環が保たれ,いろいろな臓器がそれらの機能をある期間維持できている状態である。このことによって,臓器移植の機会が高くなった。だが,脳死を人の死とは認めない人々もいる。
(1)死に方の形態
 人の死には自然死と異状死とがある。大部分は病死とか老衰死などの自然死である。
異状死とは「診療継続中の患者がその疾病により死亡した場合以外」ということになっている。異状死の法的定義はない。日本法医学会(1994)は異状死として届け出るべき場合を「異状死ガイドライン」として発表している。この場合の異状とは病理学的な異状のことではなく,法医学的な異状のことであり,死体自体から認識できるなんらかの異状な所見ないし痕跡が存在すること,死体が発見されるに至ったいきさつ,死体発見場所,状況,身元,性別などの諸般の事情を考慮して死体に関し異状を認めた場合を含むとしている。この種の異状死には,他殺や自殺,災害死,不審死(孤独死などを含む)などの場合が相当し,検視の対象となる。
(2)死亡場所の変遷
 死は生物の避けられない運命であり,いずれは自分自身のこととなる。望むらくは,百寿もの健康長寿を保ち,長患いなしで,息子や娘,孫たち,可能なら曾孫たちに語らい,見守られて,自宅の畳の上で枯れ木が倒れるように静かに,静かに死にたいと願っている。しかし,現実は核家族化,狭い住宅事情,少子化傾向,経済優先,宗教離れの昨今であり,自宅での家族に囲まれての静穏な死などは望外のこととなりつつあり,孤独死さえ増加しつつある世相である。因みに,死亡場所の変遷を調べてみると,つぎのとおりである。
 国民皆保険制度のなかった昭和30年頃までは,医療費負担が過大なため,一般には自宅死亡が9割以上で,病院・施設内死は1割にも満たなかった。自宅死では,死に行く者の全経過を家族全員で見守り,死の現実を体感した。そこには,親族や両隣との深い絆があった。現在では自宅内死亡は1割程度で,ほとんどは病院・施設内死亡となっている。死に行く多くの人々は,病院でモニター(患者監視装置)のための配線や治療のための配管でがんじがらめにされ(スパゲッティ症候群),家族からも遮られて息を引き取る場合も少なくはない。死後は葬儀屋一任のお見送りで終わりとなっており,いかにもわびしい。
もっと,いろいろな個人の望む死の在り方,死後の対処の選択もあるのではないか。多くの人は,単なる延命のための治療は要らないと考えているが,現実には死に行く本人の意向とは無関係に,家族や治療者側の意向で延命のための策がなされていることが多い。そこには「ひょっとしたら助かるのではないか」という家族の医療に対する強い願望がある。また「助かるかもしれないのに,医療を放棄する」ということに対する罪の意識も働いていると思われる。一方,医療者側には「死は医療の敗北」との観念が強いから,たとえ無意味な医療と感じたとしても一秒一刻でもと延命策に努力することになる。それは日本人の優しい気持ちの現われともいえる。 
 最近の病院は急性期医療が主になり,急性期医療で寛解すれば,その後の長期入院は敬遠され,患者は在宅医療や介護施設でのケアに回されることが多くなっている。従って,今後は介護施設内死亡や在宅死が増加すると予測される。
(3)介入死
 特殊な死の形態として介入死(安楽死,尊厳死,延命治療中止問題など)がある。
? 安楽死 
 これは助かる見込みのない病人を,本人の希望にしたがって,苦痛の少ない方法で人為的に死なせることであり,欧米の一部では容認されているが,日本では法的に認められていないので,ここではこれ以上は言及しない。
? リビングウィル
 リビングウィル(living will)とは「個人が意志表示能力をなくしたときに,自分の望む,あるいは望まない治療についての意向を書き記したもの」と定義している(世界医師会「ヘルシンキ宣言」,2003)。いわば「生前発効の遺言書」である。
? 尊厳死 
 尊厳死とは「本人の選択によって単なる延命医療の介入を希望せずに死を迎えること」であり,直ちに死に結びつくわけではないので自然死とされている。
 安楽死や尊厳死は本人の選択とはいえ,それに関わる医療者や家族にとっては,一種の自殺幇助的な意味合いの場合もあり,簡単に結論を出せる問題ではない。
? 延命治療の中止
 無益な医療の中止または差し控えとは「死の過程を人工的に引き延ばすことを避け,自然経過による死を許容することを目的とする」(国際ホスピス・緩和治療学会1999)とある。つまり,無益な医療の中止による死は自然死として容認する考え方である。
 延命医療中止の問題が時々マスコミに取り上げられているが,これも簡単な問題ではない。人工呼吸器は救命のために施されるものであり,結果として助かる場合も数多い。しかし,なかには無意味と思われる結果になることも少なくはない。得られる結果の予測は必ずしも容易ではない。単なる延命医療に相当すると考えて,初めから人工呼吸器を装着しなければ,それを外す必要もないし,罪にも問われない。しかし,人工呼吸器を装着しないこと自体が治療放棄ではないかと非難される可能性はある。いまの日本の医療では,当否は別にして,「やり過ぎ」も「足らな過ぎ」も批判される。現時点では,判断は複数以上の患者家族,弁護士などの第三者,複数以上の医師などによる合議にゆだねる他はなさそうである。いずれにしても,医療が法を無視することも,法やマスコミが医療に容喙し過ぎるのも問題である。
(4)死者の人称・死者との関係密度
 死は死者との関係密度が高いほど深刻な意味合いを持つ。死者が一人称,つまり私そのものであれば,まさに人生最後の一大事である。
 死者が二人称である場合はどうだろうか。愛する貴方(恋人,わが子,妻,夫,親など),友人,恩人など,心の拠り所としていた方が亡くなった場合,その喪失感や悲嘆感は大きく,時には後追い自殺すらも招きかねない。相手が自分と親しければ親しいほど,関係が密接なほど,その相手はより強く自分の心の一部になっており,それだけに喪失・悲嘆感は大きくなる。生死学では,このような遺された者への配慮(grief care,グリーフケア)も重視されている。
 死者が三人称の他者である場合はどうだろうか。ニュースにもなるよう惨事による気の毒な死に対しては,たとい死者が第三者であろうとも,現場にお花を捧げたり,礼拝したりする優しい気持ちを多くの人々は持ち合わせている。そして,人は二度とこのような事故や惨事を繰り返してはなるまいと祈る。また,いくらかでも記憶のある方の死に対しては,冥福を祈る気持ちや驚きの気持ちが働く。その他の無縁の第三者,とくに高齢者の自然死に対しては多くの場合ほとんど無関心である。
(5)恐怖の死
 死は本能的な恐怖の対象である。死の危険を察知した動物は本能的に恐怖を覚え,とっさに敵からの逃避,あるいは敵への攻撃の姿勢をとる。死についての恐ろしい想像はさらに恐怖の念を増幅させる。
 自分が死ぬことを知っている動物は人間だけである。人はいつの時か,必ず死ぬことを知っていながらも,元気なうちは,死について考えることをできるだけ避けようとしている。なぜだろうか。恐ろしいからである。また,死の観念は人が生きていくうえで厄介なものであり,人に意気消沈をもたらすだけである。だから,死のことなどは避けたいし,考えたくもない。
 人間にとって,死とは生前に所有した物質的,そして精神的なもののすべてとの別れであり,身内や知り合いとの関係の消滅でもある。そこには喪失感と恐怖感が付きまとう。失うべきなにものも持っていなければ,死に対する恐怖はなくなると,宗教は教えてくれている。しかし,なにものも持たなくなる前に,人はとうに死んでしまっているはずである。死は何時やってくるかもわからない非情なものである。一方,死の時が予知されてしまったら,これまた大変なことである。すべての人はいずれ死を経験することになるが,経験した死はもはや認識することはできないし,他に伝えることもできない。
 死に対する恐怖感は本能的なものであるから,「死を恐れるな」といってもそれは無理である。死を恐れ,忌み嫌うからこそ,死の原因となる病気に対して人類は飽くなき戦いを挑み続け,宗教が生まれ,不老長寿の薬などを求め続け,医学が発達し,殺傷の争いごとを避けようとしてきた。しかし,これらの何れも完全解決はされてはいない。依然として,死を招く不治の病はあるし,人間同士の死闘や異宗教間闘争や異民族間の争いがあり,天変地異は絶えることがない。
(6)納得のできる死
 最近,「理想の死に方」とか「うらやましい死に方」という言葉をよく耳にする。『文藝春秋』(2013年12月号)にも後者のタイトルの特集が組まれていた。世に「うらやましい死」などはなく,「納得のできる死」ならあると,常々考えていたので応募してみた。
 死に対する恐怖は理性を越えた本能的情念であり,「うらやましい死」などはありえない。すくなくとも,他人の死に対しては言ってはならないことだと思う。しかし,万人に漏れなく死が訪れるからには「納得のできる死」という表現は許されよう。その条件は,? 生活の質を保ちながら天寿の域に達していること,? 心身ともに苦痛はなく,? 周囲に感謝のできる状態であることなどである。若くして,苦しみながらも難病と戦い,最後まで立派に生き抜く方もいる。これは「尊敬すべき生き方」ではあっても,「納得できる死」あるいは「うらやましい死」とはいえまいと書いた。
 選考結果は,「うらやましい死に方」などはないと主張した拙稿は当然ボツになった。しかし,選者の五木寛之(作家)氏はその特集の冒頭につぎのようなことを述べておられた。
 「うらやましい死に方」なんてものはない,と今回の応募者のお一人が書いておられた。その言葉が,いまも尾を引いて私の頭の奥に残っている。たしかそうだろうと思う。まして残念な死に方,うらやましい死に方などと区別できるわけはないのである。しかし,それにもかかわらず,今回の募集に寄せられた多くの文章を読んで,私は思わず大きなため息をつかずにはいられなかった。「なんとうらやましい逝き方」と,つくづく感じたのである,と。
 ダライラマ14世は「安らかな死を望むなら,自らの心に,生き方のなかに安らぎを培っておかなければならない」と述べていた。有終の美という言葉がある。最後までやり通し,立派な成果をあげることである。人間の死は「納得のできる死」であり,「有終の死」でありたい。

4.死後のこと

 真の死を経験して,この世に生きている人はひとりもいない。したがって,真の死の経験を語れる人はいないはずである。つぎに,科学的,宗教的および人間的な立場から死後のことを考えてみる。もちろん,推測の域をでるものではない。
(1) 科学的に考えれば 
 科学的に考えると,すべての生物は死後,その死体の構成成分は,遅かれ早かれ無機質となり,いずれは土に帰ることになる。死者自身にとっては,生前に所有したすべてのものの喪失であるかのようにもみえる。しかし,それは言い過ぎかもしれない。死者にとってはかけがいのない数々のものが現世に残されているはずである。子孫という財産はその最たるものである。死者に子孫があれば,遺伝子は子に受け継がれて生き続けることは間違いない。それは科学的復活といえるものである。
 その他にも,良きにつけ悪しきにつけ,それぞれの故人はなんらかの足跡を残して,人類の歴史のひとこまに関与しているはずである。また,遺されたものにとっては,死者が親であったり,最愛の人であったり,恩人であったりすれば,心のなかから消え去ることはない。だからこそ,ネアンデルタール人の昔から葬送の儀が行われてきたのだといえる。
(2)宗教的に考えれば
 宗教における死後の世界は大ざっぱにいって,次のようなことが語られている。
 仏教は釈迦牟尼という実在の人間の教えである。宗教というよりは哲学に近い。仏教では,死者は三途の川を渡って,生前に善行を積んだものは極楽浄土に行き,悪行の持ち主は地獄に突き落とされるという。しかしながら,同じ仏教でも「善人なほもて往生をとぐ,いわんや悪人をや」と説く親鸞の教えなどもある。
 仏教では死者の霊は遠い,遠い浄土の世界に行くとも,近くの森や山に住み,お盆の時に帰宅するともいう。
 わが身に死が迫ると,亡くなった祖先が「お迎えにくる」という話もよく聞く。それは,科学的に考えると,ありえないことだが,否定してはなるまい。人間は死ぬにあたって,お先祖や仏様に助けを求め続けているからこそ起こりうる現象ともいえる。
 キリスト教にも死後の世界はあり,生前の報いが死後に現れるとか,復活があるともいわれている。
(3)人間的に考えれば
 人間感情として,死後も魂は生き続けると考えると気に安らぎが生まれる。しかし,人の死後,その霊が肉体を離れて生き続けるのかどうかはだれにもわからない。幽体離脱とかと称して,魂が肉体から離脱する現象を経験したという人の話を聞くことがあるが,ごく限られた人のことで,一般的ではない。また,米国の然る物理学者が死後の世界を証明したとの話もあるが,一般の人は,「死後ではなく死語でしょう」と言っている。
 人間に加護と救済を授ける神や仏が形として実存しているとは考え難いが,人間が人間らしく心安らかに,幸福に,そして己を律しながら生きて行くためには,信仰の対象としての神や仏の存在は不可欠のものである。
 神や仏は人間の生死感と密接な関係があり,人間が悩みに悩んだあげくの果てに行き着く先が神であったり,仏であったりする。それは神であっても,仏であっても,どちらでもよい。いろいろと考えても,死後のことなどわかるはずはないのだが,先祖への供養の気持ちだけは持ち続けたい。そう思って,わたし自身は朝晩欠かさずに,仏様に手をあわせている。
 尊敬する友人・武藤?司氏の『週刊アキタ』(2015.3.15)の文章に,作家・藤本義一氏の犯罪調査報告が紹介されていた。「犯罪少年たちの家庭にはひとつの共通した特徴があった。それはどの家庭にも仏壇や神棚がなかった」というものである。
(2015年6月19日)
<参考文献>
? 梅谷薫『小説で読む生老病死』医学書院,2003年
? 島薗進・竹内整一『死生学』東京大学出版会,2008年
? 広井良典『死生観を問いなおす』ちくま新書,2001年
? 深沢七郎『楢山節考』新潮文庫,1964年
? 真木正博『生から死まで』秋田協同印刷,2001年
? 真木正博『続・生から死まで』秋田協同印刷,2014年
? 真木正博『卒寿のこころ』秋田協同印刷,2015年
? 的場恒孝『医療文化への誘い』金芳堂,2006年
? 森清『生死の作法』岩波アクティブ新書,2002年
10)山本俊一『死生学 他者の死と自己の死』医学書院,1997年
(「世界平和研究」No.206,2015年夏季号)