21世紀型社会経済システムと地方創生の視点
―仏教思想からの提言

武井 昭(高崎経済大学名誉教授)

<梗概>
 西洋近代を中心に確立された「工業経済体制」は,人間中心の利益を最大化しながら,大量生産・大量消費の社会経済システムを世界に拡大してきた。しかし,いまやその限界状況が環境破壊・生類絶滅という形でわれわれの目の前に迫ってきている。21世紀型のストックシステムは,人間が「人間以外の一切の衆生」のために生きて善行を積み功徳をストックしながら,三世代同居家庭を基礎とした「供養」と「功徳」によって慈悲の心を育み,そして「地域の経済」を実感できる社会を作ることであろう。それはまさに,2500年前に釈迦が唱えた仏教の奥義を活かした現代的な生き方に他ならない。

はじめに

 近代以降これまで世紀末には節目の出来事が起きて,それを通して人類は自らの営みを反省する機会としてきた。20世紀末に起きた出来事を通してわれわれは何を反省したのか。しかし,20世紀についてはその反省が見えてこない。
 19世紀末に当時の人々は非常に大きな「恐怖」を感じた。一番典型的なものは,O.シュペングラー(Oswald A.G. Spengler,1880-1936年)の唱えた「西洋の没落」だが,多くの西洋人たちは,それまでの「西洋近代」は間違っていたかもしれないと感じ,そのような意識が当時の社会に蔓延していた。それに先立つ19世紀前半においてもゲーテなどの文学者が近代に対する疑問を呈していた。ところが,それから1世紀後の20世紀末にはそのような考え方は全然なくなってしまった。その代わり,「ポスト・モダン」ということが盛んに言われたが,いまではそれすらも色褪せてしまった。そして現在の多くの人たちは,近代(近代国家,近代社会,近代経済)について疑うことをしない。
 西洋近代は産業革命と科学技術の発達を基礎として,大量生産・大量消費を基調とする「工業経済体制」を生み出し,すでにその社会経済システムが完熟する時代を迎えて,その制度的限界がさまざまな局面に現れている。その象徴的なものが,地球破壊・生類絶滅という深刻な地球環境の危機である。そこで本稿では,西洋近代の社会経済システムを考察しながら,21世紀型の社会経済システムのあり方について仏教思想の視点から考えてみたい。それはまた現在,日本が取り組む地方創生を考えるうえでのヒントになると信じるものである。

1.西洋近代の終焉

(1)中世から近代へ
 中世までの時代は,西洋においても日本においても世界のしくみについて,此岸と彼岸,仏教でいう「えど穢土」と「浄土」の二極構造で捉えていた。しかし時代の流れとともに,現実の世の中は「穢土」と「浄土」の間の,「善」も行うが「悪」も行う「ふんべつ分別」中心の「世俗的人間」社会の比重が徐々に大きくなっていく。この「善悪」の決定的選別を猶予する「世俗的人間」の社会の比重が大きくなると,「穢土」と「浄土」の二極構造による世界観の評価が低下していく。西洋近代の「近代国家」「近代社会」「近代経済」の歴史的社会実験は,この「世俗的人間」社会中心の世界を築くことを直接の目的とするものだった。
 啓蒙主義に主導された西洋近代の歴史的実験は,「善悪」の選別を一切猶予する社会経済システムの構築を目指すものであったから,「善悪」に代わる依拠として新しい社会倫理の徳目が必要とされた。その徳目として,経済生活において妥当とされる「勤勉」と「節約」が選ばれた。この世に生を享けた人間は,誰でも安定して食べていくための経済活動が必要である。このことに「善悪」の選別はない。
 「分別」を中心に生きる「人間」の生活は,「善悪」の決定的な選別を先送りして,「善悪」の混じり合った生活を送っても,安定して食べていける経済生活ができるかもしれないと判断する人を増やしてきた。「穢土」と「浄土」の二分化で捉えるしかないときは,「とん貪・じん瞋・ち痴」の三毒(注:貪欲,怒り,倫理を見失う愚痴・無知)に苛まされる人が圧倒的に多い時代であったが,豊かな社会になって礼節を知り,三毒に苛まされる人が徐々に減少すると思う人がいるが,根本的な答えは今日でも出ていない。
 全ての人が安定して食べていけるようになることは,仏法でいう「善悪」の選別の一つの重要な基準になるはずである。その点で,「勤勉」と「節約」は,社会倫理の中核をなすものとなり,ストックシステムを形成した。とくに農業が中心の封建社会では,この「勤勉」と「節約」の徳目を最も効果的に発揮するのが農業であったから,「勤勉」と「節約」を多くストックする人が,より安定して食べていくことができるということに誰もが納得した。
 西洋近代初期の「工業経済体制」においても,「勤勉」と「節約」の徳目をストックする人に,高い利益と所得が保証されることに異存がなかったので,「勤勉」「節約」ストックシステムが歴史的社会実験として受容されたのであった。

(2)「工業経済体制」の時代
 ところが,「工業経済体制」のある段階から,「勤勉―節約」ストックシステムより,科学技術の発展を上位におくことになり,「勤勉―節約」ストックシステムは誰もが納得できるものとはならなくなってきた。
 あらゆることで「勤勉」に働くことによって,その人が獲得したハードとソフトの両面の利益を全て消費するのではなく,節約して長期的全体的視野に立った備えとすることは,「人間」として正しく生きるときの「正命」(正しい暮らし)の中核をなすものである。しかし,すべての人間が「勤勉」と「節約」の徳目を実践するとは限らない。怠惰と浪費に明け暮れる人も少なからずいる。
 「工業経済体制」の下でも,「勤勉」と「節約」が,社会倫理的に見て誰もが納得するものであるといえるのは,各人の労働における「勤勉」と「節約」の程度において,それが正しく評価されるシステムが形成されるときである。しかし,それが単に大規模機械生産に貢献するだけの「勤勉」と「節約」であれば,社会倫理的に誰もが納得できるものからズレていくことになる。
 すなわち,「勤勉」に働いても市場(マーケット)でお金にならなければ「勤勉」に働いたことにならない。「節約」しても金融機関に預け入れなければ,「節約」の利益は生まれないということになった。近代の「工業経済体制」では,「勤勉」に働いたことの証は「労働生産性」で評価され,「節約」したことの証は,「貯蓄高」に集約され,そのことがあまりにも当然のこととなり,今日では「勤勉」と「節約」の問題は,「貯蓄」と「投資」の問題にすり替えられてしまっている。
 「工業経済体制」の時代になると,その維持発展のための「節約」は個人的に美徳であっても,社会的には美徳ではなく,代わって「浪費」が美徳となった。科学技術の進歩は,「労苦」(肉体的労働)からの解放を実現するためのものとなって,日常生活の隅々にまで「勤勉」に働く必要のない工業製品が使われ普及している。こうして「勤勉」と「節約」の徳目は,社会倫理としてのポジティブな価値をもつとはいえなくなるのである。
 こうして社会倫理としての「勤勉―節約」ストックシステムの性格は表面から完全に退き,「勤勉」は,かすかに「工業経済体制」の維持発展につながる科学技術の進歩の仕事に従事したり,その成果である機械生産に従事する人の労働のなかに要求されることになった。この労働さえ「勤勉」といわれることも少なくなり,禁欲的「知的廉直性」といわれてきた。「人間」の自然な感情と能力に基づく「勤勉さ」は不要になり,機械生産の生産性の向上に貢献する禁欲的な知的行為の中に「勤勉さ」を重ねようとする。
 「節約」の徳目は,今日では基本的に正反対の「浪費」にとって代わられている。辛うじて,「節約」は「工業経済体制」の下において,ムダを可能な限り省き効率的に生産することと,銀行などの信用創造の際の担保となる「貯蓄高」に評価の残滓が残っているだけだ。「工業経済体制」の維持発展が至上命令になってからは,その体制が誕生の存立基盤であった「勤勉―節約」ストックシステムを根底から否定することまでも行ってきた。
 本来,「勤勉」は心身の健康を保持するのに不可欠な活動である。また,「節約」は「人間以外の一切衆生」の利益を尊重することにある。「工業経済体制」の維持発展が至上命令化されてから,「勤勉―節約」ストックシステムによって達成されるはずだった,勤勉に働く人の健康は損なわれ,「地球破壊・生類絶滅」の危機が深化していくばかりである。こうした事態になっても「工業経済体制」の維持発展の至上命令化を根本的に改める動きは起こっていない。

(3)「工業経済体制」の完熟段階
 「工業経済体制」の維持発展の至上命令化によって,「勤勉―節約」ストックシステムは全く別のものになっているにもかかわらず,根本的に改められるまでに至らないのは,科学技術の発展が工業生産や医学の成果につながり,「豊かな長寿社会」を実現させたからである。真の「健康」とは言い切れないが,過去において達成されたことのない「長寿社会」が実現していることで十分に代替できるとした。この長寿社会の実現を可能にしているのは,「科学技術」の発展である。
 今日の先進国の「工業経済体制」が完熟段階に入っていることは,多くの人が認めるところである。このことは,今日の科学技術の発展によって発生した,排気ガス,原発の放射能,あるいはファンド・マネーを中心とするカネ余り,情報過多,など消費生活での「安全性」に不安が生じ,「安心」できない部分が払拭できなくなったことに表れている。何よりも「工業経済体制」および「豊かな長寿社会」の持続可能性,つまり「安定性」には危惧の念が高まっている。便利な生活に拠らない「持続可能な発展」(安定社会)が,最広義の「健康」を基準にして形成されることは確かである。
 20世紀型の「勤勉―節約」ストックシステムであるか,21世紀型の「勤勉―節約」ストックシステムであるかは,「健康」と「安定」という総合的評価をする社会経済的状況が形成されているかどうかにかかっている。その20世紀型から21世紀型への転換の担い手は,現行の20世紀型の利益を享受していない人たちである。
 20世紀型ストックシステムの中心は,企業や家計でもなく資本家でもなく,科学技術の発展を促進することに関係する人たちで構成されるテクノストラクチャーにシフトしていった。そしてそのテクノロジーの先端を行く者と,テクノストラクチャーの基盤づくりの責任を持つ官僚が実質的な主役の座に居座るようになる。しかし,「工業経済体制」が完熟段階に入ると,テクノストラクチャーを構成する人たちの過剰感は顕著になってくる。
 テクノストラクチャーを構成する人たちの「勤勉―節約」ストックシステムは,「頭脳労働」に特化していき,身体の健康を保証するはずの「肉体労働」を低賃金で危険な労働に追いやり,「工業経済体制」の下でのストックシステムは,建前とは別に機能しなくなった。「工業経済体制」の下での「頭脳労働」における「勤勉」と「節約」,「肉体労働」(単純労働)における「勤勉」と「節約」のいずれにおいても,心身の「健康」にはつながらないものであった。
 「頭脳労働」と「肉体労働」の峻別は,労働力市場で貨幣所得の格差を広げてしまい,それがバネになった形で「工業経済体制」を維持発展させるため,「勤勉―節約」ストックシステムに悪化する作用を生み出す歪みを生じている。「工業経済体制」が確立されるまでは,その歪みは内包してはいてもまだ顕在化するどころか,この体制の長所が評価された。「工業経済体制」が確立されると,その歪みが表面化し,さらにこの体制の維持発展が至上命令化されるようになると,この歪みの方が目立ってくる。しかし,こうなると歪みの改善とは逆に加速する方向に向かうようになる。

(4)21世紀型ストックシステム
 20世紀型のストックシステムが機能しなくなる程度に応じて,「工業経済体制」の歴史的存在理由もなくなっていく。21世紀型のストックシステムとしては,東洋思想に根強い「供養―功徳」ストックシステムがある。「工業経済体制」後の社会経済システムは,この「供養―功徳」ストックシステムを基礎にしたものにならざるを得ない。
 現在,先進諸国を中心に高度に経済発展を遂げつつある国々は,「工業経済体制」が完熟し,次の時代の社会経済システムの構築が不可欠になっている。その時の基準としては,「豊かな長寿社会」から「健康安定社会」にシフトし,「勤勉―節約」ストックシステムの根本的な見直しと,「供養―功徳」ストックシステムを中心としたものにシフトしていく。要するに,「供養―功徳」ストックシステムを中心としたものの上に立って初めて「勤勉―節約」ストックシステムもノーマルなものになっていくのである。
 分別を駆使して生きる「人間」が「人間」らしく生きていくには,全ての人が「勤勉」と「節約」という徳目を十分に発揮させることが不可欠だ。「工業経済体制」の確立期および発展期はその可能性があったが,この体制の維持発展が至上命令化されてからは,「比較優位」原理の上の「規模の経済」原理が置かれ,この二つの原理と同時に達成できる大企業とテクノストラクチャーを構成する人たちだけの「勤勉―節約」ストックシステムへと傾斜していった。「工業経済体制」の完熟により,この体制に代わるものが模索されなければならない段階に入ると,あらゆる分野で人間として耐え切れない危険区域に入り込んでいくことになる。
 ソ連・東欧諸国の「社会主義経済体制」は崩壊したが,「資本主義経済体制」が生き残ったわけではない。米国,ドイツ,フランス,日本などの「国民国家」(nation-state)が残っただけのことである。今日のEUの状況や1992年の日本のバブル崩壊以後の状況を,「資本主義経済」の崩壊と言わないのはなぜか。そもそもどういう状況になったときに,「資本主義経済」の崩壊というのか。今日の先進国の状況をどう捉えるのが適切なのか。結局,「国民国家」の成立を以って始まる「西洋近代」という歴史的社会実験が続いている限り,「資本主義経済」の崩壊はない。21世紀の今日の先進諸国は,いずれも限界を超えたローンの発行で,「ソブリンリスク」(国の信用リスク)の危機が叫ばれている。いよいよ西洋近代の歴史的社会実験の閉幕が近づきつつある。

2.人間の利益中心からの脱却

(1)「人間以外の一切の衆生」の利益を優先する社会倫理
 19世紀後半の第二次産業革命頃から,「工業経済体制」の維持発展が至上命令化されることになり,それから150年余り経つと,この体制は完熟し地球上でこれまで培われてきた自然・文化・社会を破壊し,生類絶滅の危機を招いている。この危機を回避するには,多くの人は「持続可能な発展」の究明に求めるしかないと気付いている。しかし,「工業経済体制」の維持発展にとって代わる体制観や,社会倫理観を具体的にイメージすることができない。
 仏教が開発し発展させてきた「持続可能な発展」の黄金律として,「一切衆生―衆滅―宿業世間」さいど済度をわれわれは提唱してきた。人間中心ではなく,「人間以外の一切の衆生」の「利益」を優先するとき,初めて人間に倫理観が芽生えてくる。その倫理観が衆生済度につながり,今日のような地球破壊と生類絶滅の危機の済度(救い)にも繋がる。「人間」の「利益」よりも,「人間以外の一切の衆生」の「利益」を優先するとき,「りやく利益」という形で倫理の心が生じ,それが社会的にストックされ,やがて社会的倫理が歴史的現実となる。
 「人間」の「利益」が中心であっても,「神」の「利益」にかなうことを優先するときには,「勤勉―節約」ストックシステムという形で社会倫理が形成される。「神」に関わることなく,機械で全く同じものを大量に生産する「工業経済体制」は,「人間」の固有の世界である科学技術の発達のみに依存して,この体制を至上命令化してきた。これによって「人間」同士の間の,社会倫理の希薄な性格になった社会を作り上げてきた。
 「神」の「利益」と「人間」の「利益」の関係を,西洋近代は「工業製品」の便益をもって代替することを企ててきた。そのことに完全に成功したものの,結果として「人間」が持つ「人間以外の一切の衆生」の「利益」を守ることができず,地球破壊と生類絶滅の危機を益々増幅させている。この危機を克服するには,「人間」よりも「人間以外の一切の衆生」の「利益」を優先する,「りやく利益」の考え方に立つ社会倫理の心を取り戻す必要がある。
 自己の「利益」ではなく,他者の「利益」を担う行為をするときの「利益」を「りやく利益」という。「人間以外の一切の衆生」は,自己の「利益」になる行為しかなし得ないが,そのことが結果的に他者の「利益」にもなるというだけのことである。「人間」が自己の「利益」のみを追求していけば,地球破壊と生類絶滅に繋がることになる。
 「人間」は人間だけの「利益」を追求してはならない。西洋近代は,「神」との関係を相対化して,「人間」だけの「利益」を追求するだけで,安定した秩序が得られるだろうという可能性を探ってきた。その結果,社会倫理の希薄の度を増すばかりで,「人間以外を含めた一切の衆生」の存亡の危機を招くことになった。ここまできて人間は,「人間以外の一切の衆生」の「利益」を優先する社会倫理観をもとにした社会経済システムを構築するときが来た。
 仏教は,「人間」が「人間以外の一切の衆生」の「利益」を優先することが持続可能な発展をする唯一の考え方であると説いてきた。仏教のいう,「人間以外の一切の衆生」の「利益」を優先するとき,はじめて<慈悲>という社会倫理が生まれる。仏教は「人間以外の一切の衆生」の「利益」を「持続可能な発展」に求めたが,西洋近代はそれを軽く見てきたのであった。

(2)「供養」と「功徳」のストックシステム
 人間も「人間以外の一切の衆生」と同じく,刹那生滅・生滅流転してやまない。こうした中で,「持続可能な発展」を成し遂げるためには,父母―祖父母の「供養」をすることである。父母の供養はともかく,祖父母の供養は現代において年々希薄になっている。西洋近代では,父母と子の同居を単位とする<核家族制度>が基準になり,祖父母と同居する三世代同居型の<中家族制度>は認められなくなった。
 核家族は親と子の関係だけで,家庭の中に子どもを(無条件に)弁護してくれる人がいない。親が離婚しても,子どもは置いてきぼりを食らうだけだ。しかし祖父母がいれば,「子どもがかわいそうだから・・・」と言って,親を諭してくれる。こうして三世代によって初めて繋がるのであり,ここに働く倫理的なものが「功徳」である。ゆえに「功徳」がない限り循環は生まれない。三世代同居だけが「共生の道」につながる。
 「供養」は祖父母や父母が死滅した後,その子どもや孫が生前のことを想起するときに自然に湧き起こってくる気持ちからの行為をいう。祖父母―父母―子の関係は供養の典型であって,この典型例にとらわれず,あらゆるものごと(生物,モノ)の死滅後にその生存中の記憶に残っているものを偲ぶ感情からの行為も「供養」といい,それはまた長く続くことに対する道徳でもある。
 生存中の意味ある関係において,一方が死滅し,他方が生存しているとき,その意味ある関係が想起されるという形で,その意味ある関係が継承される。祖父母―父母―子のような血縁関係だけの継承を供養というのではない。しかし,血縁関係の記憶をもとにした「供養」が継承されて初めて持続可能な発展が可能となる。血縁関係における記憶をもとにした「供養」を基礎として,人間を含めた「人間以外の一切の衆生」は持続可能な発展に繋がる記憶をもとにした「供養」を中心とした社会文化を形成する。ヒンズー教,道教,神道の習俗はまさにその例である。
 血縁関係における「供養」だけのとどまらず,「人間」と「人間以外の一切の衆生」との関係において,「人間」が主体的に「人間以外の一切の衆生」の「利益」を優先する行為を選別することが,「善行」となることを仏教は明らかにした。「人間以外の一切の衆生」は能動的な活動をするわけではない。「人間」の方が「人間以外の一切の衆生」の利用を,必要で最適なものに工夫することによって「人間」にとっても「利益」となる。
 「供養」は「伝統」や「文化」のエキスであるといえる。これに対して,それぞれの生存者が死滅したものごとと別に,「人間以外の一切の衆生」と一体になるという心をもって,精進工夫して行うことが「功徳」である。
 また,自分が一生懸命生きるときに善いことをやるのが「功徳」で,それは人間としての原点である。悪いことをすれば「ごう業」となるが,善いことをすれば「ぎょう行」となる。仏教でいう「修行」は善いことをすることだ。「ごう業」が深いとは,悪いことが積み重なることだから,善行をストックしていかないといけない。そのシステム転換によって「ぎょう行」がストックされていくのである。 
善悪の選別は「人間」だけが行うものであるが,その善悪の基準は「人間」だけの判断に委ねられてはいない。「人間以外の一切の衆生」と人間が,どこまで一体になれるかによってその基準が決まる。
 「人間以外の一切の衆生」と完全に一体となることは不可能だ,それができるのは神のみだと,西洋では考えられているが,東洋では不可能ではあるが可能性はゼロだと断定しない。諦めないであき明らめ続けるとき,その生き方が現実の歴史の中に刻印され,多くの人の記憶するところとなり,「供養」され「功徳」が積まれるようになる。しかし,それでも「人間以外の一切の衆生」と完全には一体となれないから,無上を目指して精進工夫するしかない。そしてそのような心を「ぼだい菩提心」という。刹那生滅し生滅流転してやまない中で,少しでも長く持続可能な発展につながるような知恵を発揮し続けるので,その人の行為は「善行」となり,「功徳」となる。
 釈迦が見つけたのは,「人間」と「人間以外の一切の衆生」との関係だった。人間が生き,人間になるということは,「人間以外の一切の衆生」と一体になることである。日本人は,例えば,机を叩いたときにおもわず(机に対して)「ごめん!」という言葉が出てくる。この論理が仏教でいうところの「慈悲」である。「慈悲の心」とは,「人間以外一切の衆生」と一体になったときの心なのである。しかし,西洋人の論理からすると,「痛いのはお前の手だろう。机は痛くないだろう」ということになる。
 「人間」だけが「人間以外の一切の衆生」の存亡を規定する。その場合に,「人間」の利益よりも「人間以外の一切の衆生」の利益を優先する以外に,「人間」を含めた「人間以外の一切の衆生」の持続可能な発展はない。現実にはこのことを正しく自覚する人は少ない。しかし,どんなに少なくなっても,「人間」が「人間以外の一切の衆生」の利益を優先し衆生済度すること以外に道はない。東洋では,こうした状況の中で人間は長い時間をかけて,社会全体として「供養」と「功徳」の行為が少しでも多くストックされるシステムを構築してきた。
 「人間」よりも「人間以外の一切の衆生」の利益を優先するときにのみ,衆生の一部である「人間」も「人間」らしく生きることができる。仏教の考えでは,「人間」が「人間」らしく生きることができるかどうかは,「供養―功徳」の行為が社会にどれだけストックされているかによって決まるとする。このシステムを「供養―功徳」ストックシステムと呼ぶ。このシステムこそ,西洋をはじめ世界的に持続可能な発展の社会倫理システムであるという,「勤勉―節約」システムの上位にあるものといっても過言ではない。

3.自然との共生・地方創生・人間回復への道

(1)「生」より「滅」を重視
 それでは「供養―功徳」ストックシステムについて,現実に実践しやすい状況をいくつか挙げてみよう。
 第一に,「一切衆生済度」の考え方よりも,「一切衆滅済度」の考え方を第一義にすることである。
 ここに出てくる「さいど済度」は,キリスト教などが唱える「救済」とは考え方が異なる。キリスト教は神が人間を上から救うという方向だが,仏教のいう「済度」は方向が逆で,「人間以外の一切の衆生」を大事にすることによって,結果的に「人間以外の一切の衆生」とともに自分も「済度」されると考える。しかしそれを粗末に扱えば,自分も済度されない。「人間以外の一切の衆生」を大切にすることが,善行を積むことであり,その一つ一つが積まれて行けば社会的な「功徳」になっていく。
 この意識を拡大すれば,ゴミ問題や環境破壊の問題は本質的に解決されていく。この心を持つと,「ゴミが悲しんでいる」いう気持ちにつながる。日本の伝統の一つに行われている動物供養や針供養などもその延長線上にあるといえる。
 このような小さな善行が社会の中にストックされ,供養がストックされていけば,その度合いによって国の安定が決まってくる。それが「供養―功徳」のストックシステムであり,仏教の発想,生き方なのである。
 そして「一切衆生済度」とは,「生滅」のうち「生」,人・物・金・情報が「生まれる」こと,それが発展するという意味での「生きる」ことと理解され,それを現実に実践するときの智慧を出すことに向かってきた。しかし今日では,それよりも「一切衆滅」の次元で済度する必要の方が重要である。「一切衆生」の意味(生)よりも,その裏返しの「一切衆滅」の意味(滅)を問い続けるときに「一切衆生」の意味が生きてくるのである。
 2500年前に誕生した仏教は,生あるものは必ず滅する,初めがあれば必ず終わりがある,生滅流転を主唱した。今地球は危機的な状態で,えこう回向(壊滅)のときを迎えつつある。このときこそ,<次の釈尊>が生まれる段階である。いまこそその段階の生き方,すなわち「一切衆生衆滅」を考えなければならない。西洋近代のおかげで「衆滅」する時期が早まっている。自分も滅びることの意識をもつことが大切である。

(2)「規模の経済」から「地域の経済」へ
 第二に,「規模の経済」の追求ではなく,「地域の経済」の追求をすることである。「規模の経済」の追求は,一切の社会倫理性と無関係な客観的物理的な関係を優先することであり,そのことの持続可能性については問わない。それに対して,社会倫理性が問われるのは,「人間以外の一切の衆生」の利益を優先する心を抱く場合のみであるから,「地域の経済」を追求するという行為になる。そもそも<経済>とは,「勤勉」に働くことによって得られる利得と,「節約」することによって得られる利得の関係が,安定して食べていくことのできる活動の全体を指す言葉であるからである。
 「工業経済体制」下においては,大量生産によって同じモノをつくる規模の経済だから,安くて便利で質がよければいいという発想であり,それはまさに消費者の論理だ。そこには地域住民の発想はなく,「地域の経済」を実感する状況もない。消費者の論理だけを追求していけば,地域の商店街は消えてしまう。地域の温かさ,よさを実感できる経済が,「地域の経済」である。
 日本語には「地方(ローカル)」と「地域(リージョン)」という言葉があるが,私は「地域」という言葉を使う。国内の<国―都道府県―市町村>の構造で言えば,都道府県が「地域」に当る。国家間ではEUなどがリージョナルなものになる。ヨーロッパ諸国では,現在でも「地域」の概念がしっかりと根を張り,例えば,パンや生鮮食料品など,地元産のものを買って消費しており,リージョンの再生の可能性を秘めている。
 また「地域の経済」というときの「地域」は,「人間以外の一切の衆生」と「人間」が共生することのできる空間である。「人間」が,「人間以外の一切の衆生」の利益を優先するときにのみ得ることができる,「持続可能な発展」を享ける最終的な空間を「地域の経済」という。「人間以外の一切の衆生」の利益を優先するときに「にんげん」が得られる「持続可能な発展」に優る利益はない。こうした一見矛盾のように思われる利益のことを「りやく利益」といい,それは「供養―功徳」ストックシステムによって可能になる。
 「工業経済体制」の時代には,地域における比較優位の人・物・金・情報は,中央に集中し,その利益は地域に対して地方交付税・交付金という考え方に基づいて還元すれば地域の利益になると思われてきた。しかし真に「地域の経済」を考えた場合には,地方交付税・交付金制度を廃止し,その地域における「工業経済体制」の維持発展の至上命令化以外の経済活動は,「地域の経済」としてその利益を,その地域に住む人たちのために活用できる状態に戻すことである。
 地方交付税・交付金という形での「工業経済体制」の維持発展による利益は,所詮著しく限られたヒト・モノ・カネ・ジョウホウの還元であって,トータルな人・物・金・情報に代替できず,地域の荒廃を加速化するだけだ。地域の荒廃を防ぐためには,トータルな存在である人・物・金・情報がつながる空間を回復することである。そしてその地域という空間において,トータルな人・物・金・情報の自然なつながりが形成されるとき「地域の経済」の最適な発展が実現される。
 比較優位の人・物・金・情報が中央に集積することによって「規模の経済」を発揮することは誤りではない。誤りとなるのは,こうしたことが自然な発展の域を超えて,不自然な発展になるときであって,「工業経済体制」の維持発展が至上命令になって以降のことであった。そのときから「地域の経済」の利益を剥ぎ落とすことになったのである。

(3)「生活の質」の向上
 第三に,「生産の質」から「生活の質」への発想の転換である。西洋近代において「工業経済体制」による大量生産によって便利で豊かな生活が保障され,貧困が克服されたが,この豊かさを維持発展させ続けるには,科学技術の更なる発展によってさらに便利な生活の実現を目指すしかない。しかしいくら便利になっても,それが即「生活の質」の向上につながるわけではない。かえって「豊かさの中の貧困」がもたらされることも少なくなかった。
 便利すぎる生活のために,人間として社会倫理性が育たなくなり,また大量に生産することによる「人間以外の一切の衆生」の犠牲が大きくなった。必要以上に便利な生活を送ってきた先進諸国は,まさにこのようなときを迎えている。結論的に言えば,必要程度の工業製品の生産に戻るだけだが,それはこれまで作り上げてきた制度が音を立てて瓦解することを覚悟しなければならない。
 「生活の質」の向上は,「人間」と「人間以外の一切の衆生」が少しでも長い「持続可能な発展」を目指すものである。つまり「生活の質」の場合の「生活」の「生」は,「人間」と「人間以外の一切の衆生」が少しでも長く共生することを目指す。「生活」の「活」は,その共生を実現するときに向けての活動が,「供養」と「功徳」ということになる。
 「生産の質」の向上と「生活の質」の向上の関係は,本来補完関係にあり,相反する競合関係にはない。それが正反対の競合関係になるのは,機械で全く同じものを大量に生産する「工業経済体制」の下における「生産の質」の向上の場合のみである。それでもある段階までは,「生産の質」と「生活の質」の競合関係は潜在的可能性に過ぎず,「生産の質」の向上は貧困問題の克服および「生活の質」の向上にもつながると多くの人は錯覚していた。
 科学技術の発達でより便利な生活を実現することは,所詮個人にとっての便利であって,人間にとっても「人間以外の一切の衆生」にとっても利益にはならない。個人にとってより便利な生活よりも,「人間以外の一切の衆生」との共生こそが,人間らしい生活を可能にするのである。「生活の質」の向上には,「人間以外の一切の衆生」との共生を基準にした「利益」を実感する能力を自覚することである。

4.おわりに

 西洋で確立された「個人」と「個人」の関係からなる「工業経済体制」は,その体制の維持発展を至上命令化してから,「人間」と「人間以外の一切の衆生」との関係によって形成されてきた社会経済システムを食いつぶしていき,結果として,人間自身と「人間以外の一切の衆生」の存亡の危機を深めている。 
 この危機から抜け出すには,「供養」と「功徳」のストックの多い社会集団を再評価することである。その原型は,寺院や神社よりも「家族関係」に求められる。近代社会では<核家族制度>が基礎になっているために「供養」の心は徐々に萎えていく。これでは一切の他者の利益を優先する「功徳」の心も萎えていかざるを得ない。家族関係において「供養―功徳」ストックシステムを回復することが基本ではあるが,それは原型であって,社会的に「供養」と「功徳」がストックされるようになってはじめて「工業経済社会」の弊害を緩和する社会経済システムとなる。
 2011年3月11日の東日本大震災においては,「供養―功徳」ストックシステムが機能したが,時間の経過とともにそのシステムは機能しなくなっていった。今日の先進諸国の国家財政の危機は,東日本大震災以上の非常事態に陥っている。いや,それ以上に地球破壊や生類絶滅の危機は深刻の度を増している。この事態を済度するには,「供養―功徳」ストックシステムを機能させることが不可欠だ。
 「工業経済体制」の維持発展が至上命令化することによって惹起された,近代化が残した問題に対しては,一時的な対応では済まされない。抜本的な対策が講じられず,誰もが事態の悪化に身を任せているのが現実である。東日本大震災のとき,宗教団体や宗教者は積極的に活動したのに,なぜ今日の先進諸国の危機的状況に対しては傍観しているのか。
 人間はいかに分別を働かせても,とん貪・じん瞋・ち痴の三毒に苛まされることから免れられない。それだけに,「人間」が「人間以外の一切の衆生」と共生を可能にする社会経済システムを根底に据えて置かなければならない。西洋近代は,「持続可能な発展」の黄金律を放擲するという暴挙に出た。その結末が,今日,地球破壊・生類絶滅の危機などと如実に現れてきた。「個人」と「個人」の関係でも,この黄金律に抵触しない限り存続することはできる。西洋近代の過ちを糾すには,「人間」と「人間以外の一切の衆生」との共生が可能になる「供養―功徳」ストックシステムを基礎とする,三院一社を拠点にしてきたときのような社会経済システムを再構築することである。
(2015年6月5日,初出:「世界平和研究」2015年秋季号No.207)