歴史的・宗教的背景から見たシリア内戦の行方

天江喜七郎(元駐シリア大使)

<梗概>
 シリア内戦は単なる一国の混乱という次元に留まらない。2015年に欧州で深刻な問題となった大量のシリア難民流入やパリでの大規模テロを誘発し,世界平和を脅かしている。シリアを含む中東地域は,長い人類史を背景に持つ地域であり,ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という世界三大宗教ともかかわりが深く,宗教的対立や域外国の利害関係がからんで複雑な様相を呈している。また中東地域における新たな秩序の模索は,将来の世界の方向性を左右する重要な問題を孕んでいる。シリアでの現地経験を踏まえ,歴史的,更には宗教的背景からシリア問題を考察したい。

1.はじめに

 2010年末にチュニジアで発生した民主化運動は,その後瞬く間にアラブ世界の広範囲に波及し,2012年までにエジプトやリビアで政権交代が行われ,多くの国々で政権が不安定化した。シリアでは,2011年4月ダマスカスでデモ隊と治安当局とが衝突したのを皮切りに,ホムス,ハマ,アレッポ,ダラアなど各地に大規模デモが広がり,政権側と反体制派との間の武力衝突に発展,全土が内戦状態となった。力の空白を埋めるようにISがシリアに進出し,政府軍,反体制派との三つ巴の戦いが行われている。その結果2015年までに25万人以上が死亡,500万人以上が戦火を避けて国内で避難生活を送り,トルコ,レバノン,ヨルダンなどの周辺諸国に脱出し海外難民となったものは200万人に上っているといわれる。しかし,これらの数字がすべて確認されたものでないところに事態の深刻さが潜んでいる。
 シリア東北部のラッカに首都を定めたIS(「イスラム国」)は勢力を拡大し,バグダーディー師が政教最高指導者のカリフ就任を宣言。ISはネットを駆使して世界各国から戦闘員をリクルートし,2015年後半にはロシア民間航空機の爆破事件,ベイルートやパリで大規模なテロ事件を引き起こした。ロシアはシリアにおける反アサド武装勢力に加えてISの拠点を空爆,フランス,英国も米国に次いでに参戦した。
 12月に入り,安保理はシリア和平に関する決議を全会一致で採択,和平への里程標が示された。他方,年が明けて間もなくサウジでシーア派の高位聖職者が処刑され,それを契機にスンニ派とシーア派の対立が燃え上がり,サウジとイランが国交を断絶するという新たな事態が発生している。
 レバノン内戦は1975年より90年まで15年間続き国土は疲弊したが,シリア内戦は4年目にしてより深刻な状況に突き進んでいる。国際社会が一致団結してシリアの和平を構築しなければ,歴史的な禍根を残すことになろう。新たな不安定要素を抱えながら,2016年シリア問題は重要な転換期を迎えている。

2.戦争と征服の歴史

(1)文明の十字路
 シリア内戦の問題を考える前提として,この地域の特徴について見てみたい。
 シリアの位置する地域は,チグリス川とユーフラテス川の流域に広がる世界四大文明の一つメソポタミア文明と関連の深いところだ。そこからシリア北部と地中海沿岸に伸びる半円形は「肥沃な三日月地帯」と呼ばれ,紀元前3500年ごろからシュメール,アッカド,バビロニア,アッシリア,ヒッタイト,ミタンニなど大小の王国が興亡し,またエジプトやペルシアの版図に組み入れられた。
 イラクやシリアはすべて乾燥した砂漠地帯だと思っている人が多い。しかし,「肥沃な三日月地帯」では豊富な水量に恵まれ,バグダッド付近ではナツメヤシが地平線を覆い隠し,シリア北部のイドリブからアレッポにかけては小麦畑が青々と茂り,ラッカに近い広大な畑では木綿で一面真っ白になる・・・それほどに恵み豊かな土地なのだ。
 そのシリア北部からイラクにかけて,紀元前15世紀ごろにミタンニ王国が栄えた。民族的にはインド・アーリア系で,一時期アッシリアを支配下に置いたこともある。北方のヒッタイトの支配を嫌ってエジプトに接近し,しきりに王女を腰入れさせている。特に注目されるのは,アメンホテップ4世(アクエンアテン)の妃がミタンニから嫁いでおり,彼女が信仰する唯一神アテンをアメンホテップ4世自身も信仰し,それに反対する神官の影響を排除するため宮殿をテーベからアマルナに移転したほどだ。メソポタミアとエジプトの間には文明の深い交流があったのである。

(2)カデッシュの戦い
 前17世紀ごろ興ったヒッタイトは,歴史上初めて鉄器を使用し,数世紀の間にトルコから北部メソポタミア,地中海沿岸部まで版図を広げた。その南下政策は,シナイからパレスチナにかけて影響力を扶植しようとするエジプトの北方政策と衝突する。前1274年エジプトのラムセス二世の大軍が中部シリアのカデッシュでヒッタイト王の軍団と会戦,戦車隊を繰り出しての歴史的な戦いとなった。その戦いの記録とその後結ばれた和平協定を記した粘土板がトルコで発掘され,カデッシュを一躍有名にした。結果はヒッタイトに有利だったが,ラムセス二世は戦勝記念としてアブ・シンベル神殿を建立した。北部メソポタミアのヒッタイトとエジプトの勢力が中部シリアで境を接していたことは,シリアが古来交通の要衝であり戦略的にも重要な地点であることの証左と言えよう。

(3)パルミラの栄光と滅亡
 時代は1500年近く下った紀元後3世紀。シリア砂漠のオアシス国家パルミラに美貌で有名なゼノビア女王が現れた。歴史家ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中でゼノビア女王を「クレオパトラに劣らず魅力的でオリエント世界で屈指の女傑」と形容している。彼女は自ら甲冑に身を固め,軍を率いてエジプトに攻め入って一部を領有するなど,パルミラ王国の版図を広げた。しかしローマ帝国からの独立を図ったために,時のローマ皇帝アウレリアヌスがパルミラへ親征,ゼノビア軍は粉砕され王国は滅亡する。当時シリアはローマとペルシアという東西両勢力の最前線に位置していたのである。

(4)十字軍の通り道
 中部シリアのホムスから地中海沿岸のタルトゥースへ抜ける幹線沿いに,十字軍の名残りを今に留めるクラック・デ・シュヴァリエがある。12世紀に聖ヨハネ騎士団が籠城したこの城を,かのアラビアのローレンスは世界で最も美しい城と称えた。
 1095年,ローマ教皇がイスラム教徒からの聖地エルサレム奪回を呼び掛けたことから始まった十字軍は,その後三世紀に亘ってシリア,レバノン,パレスチナなどの各地を波状的に侵略した。1099年十字軍は遂にエルサレムを征服,イスラム教徒とユダヤ人に対し虐殺と略奪を行った。1187年英雄サラディーンが出てイスラム軍を組織,聖戦を宣言して十字軍に壊滅的打撃を与え聖地を奪い返した。前後8次に亘る十字軍の遠征でシリアなど地中海沿岸の各地は荒廃し,地中海の交易路も衰退する。サラディーンの墓はダマスカス旧市街のウマヤード・モスクの脇にあり,ダマスカス城址の正門に立つサラディーンの騎馬像は道行く大勢の市民を睥睨している。

3.一神教のゆりかご

(1)唯一神の信仰はいかに成立したのか?
 世界の四大文明発祥地の中で,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教という一神教が生まれたのはメソポタミアである。同時代のナイル文明,ギリシア文明,インダス文明,黄河文明ではいずれも多神教が崇拝されていた。では,なぜこのメソポタミアに一神教が生まれたのだろうか。
 旧約聖書創世記によれば,アブラハムはイラク南部のウルで生まれ,一族とともにユーフラテス川に沿って北上し現在のトルコ国境に近いハランに移住。その後ハランを発って南下し,ダマスカスを経て「約束の地」カナーンに入ったとある。裕福なアブラハム一族が何故ウルでの恵まれた生活を捨てて流転の旅に出たのか?また何故ハランでの定住を諦めて次の「約束された」土地に移動したのか?「神の指示に従った」とあるが,その当時ウルとハランで何が起こったのか?
 メソポタミアでは,農耕の発達により富の蓄積が急速に進み,巨大な王権が確立されジッグラト(ピラミッド)などの巨大神殿や宮殿が建立された。また富の収奪を巡って王国同士が戦争と破壊を繰り返した。そのために強制労働や奴隷が必要となり,奴隷獲得が戦争の目的にもなった。度重なる戦争で住民は過酷な生活を余儀なくされ,さらには大地震や大洪水などが重なって,多くの逃亡者や被災難民が発生した。アブラハム一族の流浪の旅は,このような時代背景と無縁ではないと思われる。
 一神教たるユダヤ教の基礎を築いたのがアブラハムならば,建物を建てたのはモーゼだ。モーゼはエジプトから多数のユダヤ人奴隷を救い出し,過酷な砂漠地帯を数万の難民を率いて数十年間さまよった後に「約束の地」に導いた。その流浪の旅の中から唯一神に対する不動の信仰が形作られていった。ユダヤ教が一神教として確立を見たのは,前6世紀に起きた「バビロンの捕囚」の頃であり,バビロニアの習慣やゾロアスターの教義が影響したといわれる。このように,ユダヤ教は,アブラハムとモーゼに率いられた放浪の旅と,長年に及ぶ異国での捕囚といった民族の大きな苦難の中から生まれたものといえよう。

(2)スンニ派とシーア派
 唯一神を信仰する一神教は,ユダヤ教からキリスト教,そしてイスラム教へと繋がっている。ここでイスラム教の二大宗派,スンニ派とシーア派の成立の経緯に触れたい。
 預言者ムハンマド(Muhammad,570頃-632年)が7世紀に亡くなった後,イスラムの最高指導者であるカリフにムハンマドの叔父であるアブー・バクル(Abu Bakr,位632-634年)が就任し,その後アリー(Ali,位656-661年)までの4人の正統カリフの時代が続いた。ところが4代目カリフであったムハンマドの娘ファーティマの婿アリーに対して,自分こそ正統のカリフだと主張して反対を表明したのがシリア総督のウマイヤ家のムアーウィヤ(603頃-680年)だった。そして両者の間の戦いでアリーは殺され,ムアーウィヤはダマスカスにウマイヤ朝(661-750年)を開いた。ちなみに,ダマスカスにある「ウマイヤド・モスク」は現存する世界最古のモスクで,ウマイヤ朝第6代カリフ・ワリード1世によって705年に建てられたものだ。一方,イラク南部の町ナジャフにはアリーの墓廟があり,シーア派にとってメッカ,マディーナ(メディナ)に次ぐ巡礼地となっている。
 預言者ムハンマドにはファーティマの他に実子がいなかったため,アリーの息子フセインが預言者の正しい血統を継ぐものとして,父の仇を討つべく立ち上がった。ウマイヤ軍に衆寡敵せず,フセインはカルバラの戦い(680年)で敗死した。フセイン軍の捕虜は耳を殺がれ目をつぶされて放擲された。落人たちはイランに敗走しそこで自分達の信仰を守った。これがシーア派の起こりであり,「シーア」とはアリーの「党派」を意味する。イランにおけるシーア派の最重要行事「アシュラ」では,市内を練り歩く若者たちが鎖を自分の背中に打ちつけ,血を流して「カルバラの悲劇」を再現する。そこには千数百年の怨念が籠っているようで,見る者を戦慄させる。
 他方,スンニとは「預言者ムハンマドの慣行(スンナ)に従う人」という意味で,イスラム世界では圧倒的に多数派である。そのスンニ派から見ると,ダマスカスは自分達の故地であるにもかかわらず,そこにシーア派の一派アラウィーのアサド政権が君臨していることに感情的な反発がある。アラウィー派はシリア全体の12%のみで,逆にスンニ派は60%を占めていることから尚更である。またアラウィー派はキリスト教の影響も受けており,また輪廻転生を信じるなど,イランのシーア派(12イマーム派)とも教義を異にしている(注)。

(3)「シーア派ベルト」とサウジの危惧
 このように,スンニ派とシーア派は全く異なった道を辿ってきた。今日,シーア派はイランを盟主として非スンニの多くの分派を糾合し,一大勢力圏を築きつつある。イラクでは,少数派のスンニ派出身のサッダーム・フセインが権力を握っていたが,フセイン政権崩壊後は多数派のシーア派(人口の6割)が政権を担っている。シリアでは人口の12%ほどのアラウィー派が長期に亘って政権を掌握していることは先に見た通りだ。レバノンでは,南部一帯に勢力を扶植したシーア派のヒズボッラー(神の党)が大きな影響力を有している。アフガニスタンでも,イランに隣接するヘラート州はシーア派が多数を占める。このように,東はアフガニスタン西部からイラン,イラク,そしてシリアからレバノンに至るまで,数千キロに亘る「シーア派ベルト」が形成されつつある。加えて,湾岸のバハレーンやイエメンでもシーア派が多数を占めるなど,その影響力は侮れない。
 次に,スンニ派を見てみよう。かつてのイスラムの盟主トルコは,オスマン帝国崩壊後広大なアラブの領土を切り取られ,政教分離して世俗化・西洋化した。一方,メッカとマディーナの聖地を有するサウジアラビアが,石油利権を背景にイスラムの盟主としての地位を占めるようになった。ただサウード家はムハンマドの血統(クライシュ族)を引いておらず,また厳格なワッハーブ派を国教にしているので,エジプトやモロッコなどのアラブ諸国とは性格を異にしている。そのサウジにとって,「シーア派ベルト」の形成とアラビア半島南部のシーア派武装勢力の跳梁は,スンニ派に対する脅威以外の何ものでもない。

4.シリア内戦の構図

(1)域外国の関与
 シリア内戦には,これまでに類を見ないほど,域外・域内の国々や団体の利害が複雑に絡み合っている。域外の国としては,米国とフランス,そしてロシアが深く関与している。
 米国とフランスは,1983年レバノン内戦の際の国際平和維持部隊としてベイルートに米海兵隊とフランス陸軍空挺部隊を駐留させていたが,イスラム過激派の自爆テロで合わせて300名以上の兵士が死亡した。ヒズボッラーとその背後にいるシリアの関与が疑われている。
 さらに,米国にとってアサド政権は,ヒズボッラーやハマスなどイスラエルの安全に脅威となる「テロ組織」を支援する厄介な存在であり,「アラブの春」を好機としてアサド政権打倒を目指し反体制派に武力支援を行っている。フランスは米国の中東政策には批判的だったが,9.11テロ事件と後述のハリーリ・レバノン首相の暗殺を契機に米国の政策に同調する姿勢を明確にした。一時期フランスはレバノンからの全面撤兵を決めたバシャール・アサド大統領に期待したが,「アラブの春」以降はアサド批判を強めるに至った。その背後には,アサド政権から追われてパリに亡命した元シリア要人や文化人の存在があることも見逃せない。
 次に,ロシアのシリア内戦への介入は,プーチン大統領の強い意向を反映したものだ。元来,ソ連はアラブ社会主義政党のバース党に対し物心両面の支援を行ってきた。ソ連の崩壊とともに力の空白が生じ,「アラブの春」でシリアは大きな転機を迎える。プーチンの考えでは,シリアはロシアにとって中東での数少ない橋頭堡であり,地政学的な重要性を有する。アサド政権が崩壊すれば,その足場がなくなり米国とNATOの中東支配を許してしまうとの思いが強い。イランの核政策の転換に影響力を行使したロシアが,シリア内戦の収拾とIS討伐に指導力を発揮できれば,中東での影響力を回復することができる。またプーチンはネタニヤフ首相との関係を深めている。ソ連時代に移住したロシア系ユダヤ人がイスラエルで大きな政治勢力となっていることは,ロシアとイスラエルの関係にとって好材料となっている。

(2)周辺国の関与
 ここではイラン,トルコ,イスラエルそしてサウジの関与について述べたい。
周知の通り,イランは1979年のホメイニ・イスラム革命後,外交的孤立感を味わってきた。米大使館人質事件もあってイランは米国の経済制裁の下におかれ,外交関係は断絶したままである。1980年のイラン・イラク戦争で劣勢に立たされたイランを軍事面で支援したのはシリアであった。シリアとイラクとはバース党の思想を汲む兄弟党でありながら対立していた。またシリアとヒズボッラーの関係もあり,イランはアサド政権を助けて革命防衛隊をシリアに派遣している。
 トルコとシリアの関係は微妙である。シリアはトルコ最南部ハタイ県の所属を巡って領土の返還を要求していた。また,シリア国内のクルド人を使ってトルコ内のクルド独立運動を支援してきた。バシャール・アサド政権になってその活動は抑制されてきたが,トルコは「アラブの春」以降アサド政権の退陣を求め,トルクメン人など反体制派への支援を行った。2015年11月にロシア空軍機がトルコにより撃墜された理由は,トルコの領空を侵犯したためとされているが,その場所はハタイ県の上空であり,またロシア機がトルコの支援するトルクメン人の反体制派地域を空爆したためともいわれる。
 イスラエルはゴラン高原の返還を要求するアサド政権の弱体化を図っており,「アラブの春」をその好機と捉えシリア政府軍への空爆に参加してきた。しかし他方で,アサド政権崩壊後,ムスリム同胞団のような宗教色の強い政権が樹立されることには抵抗を感じていると見られる。
 サウジは従来,シリアとは良好な関係にあった。そのサウジがアサド政権を敵視するようになったのは,ハリーリ・レバノン首相の暗殺と関係がある。
 レバノン首相を長期間務めた有力政治家ラフィーク・ハリーリ(1944-2005年)は,若い頃サウジで土木建築業界に身を置き,その後頭角を現して1970年代に実業家として成功,1980年代には『フォーブス』の富豪ベスト100にランキングされた。彼はスンニ派のレバノン人であり,サウジとの二重国籍を有していた。
 ハリーリ首相はサウジ王族の全幅の信頼を得て,長期の内戦で廃墟と化したベイルート市街地の復興に着手,サウジからの膨大な投資を得てレバノンは往年の輝きを取り戻していった。然るに2004年,ハリーリは内戦終結後もレバノンに居座り続けるシリア軍の撤退を求めたが,シリアとヒズボッラーの抵抗にあい首相を辞任した。その後もレバノン政界に影響力を保持し続けたが,翌2005年2月,道路に仕掛けられた爆弾テロによって暗殺された。事件にはシリア駐留軍トップの関与が疑われ,アサド大統領は遂にシリア軍の撤退を余儀なくされた。しかしサウジのアサド不信は収まらず,シリア内戦ではアサド政権打倒の立場を鮮明にして反体制派への支援に踏み切った。

(3)シリア国内の戦闘グループ
 国内ではアサド政権の政府軍,反体制派,IS(「イスラム国」)及びクルド人ペシュメルガの各グループが入り乱れて戦っている。
 まず,シリア政府軍であるが,2011年の内戦勃発で多くの将兵が軍を離脱して反体制派に合流したこと,2012年に爆弾テロでシリア軍上層部が暗殺されたことなどから,シリア軍の弱体化が喧伝され,アサド大統領の亡命の噂までが流布された。しかしこれは,アル・ジャジーラなどが意図的な事実未確認に基づく報道を行ったことが原因だった。それとは反対に,シリア政府軍の装備や士気は,最近ロシアやイラン,ヒズボッラー等からの支援を得て高まっているように見受けられる。
 次に,反体制派には,アサド政権の下で民主化運動が弾圧され武力闘争に切り替えた穏健派グループがある。このグループはシリア国民評議会とその指揮下にある自由シリア軍とで構成されており,米国,EU,トルコ,サウジなどから支援を受けている。しかし反体制派武装グループには,アルカーイダ系のヌスラ戦線(スンニ派)のほかに数十のゲリラ組織が含まれており,そこでは統一的な行動が取れていない。
 一方,ISはカリフ宣言を行ったバグダーディー師の下で,戦闘員のリクルートから訓練,実戦に至るまで統制が取れているように宣伝している。しかし,各国によるIS拠点の空爆に加えて,シリア政府軍とイラン革命防衛隊による失地回復で,ISは次第に追い詰められているようだ。クルドのペシュメルガ部隊は,ISをシリア北部の国境地帯から押し戻したと報じられた。

5.和平への道

(1)アサド政権は,一部報道とは反対に,まだその存立基盤は強いと見られる。アサド政権が強力な軍事力と秘密警察力で体制を維持している面もあるが,ハーフェズ・アサド前大統領の時代から30年以上も国内の政治的安定を確保し,国民生活の向上にある程度の成功を収めてきたことも事実だ。
 アラウィー派は便宜上イスラム教シーア派の範疇に入るが,前述の通り様々な宗教の影響を受けている宗教だ。またアサド政権には,モアレム外相のようなスンニ派や,シリア正教徒に属する要人も少なくない。議会の多数を占めるバース党は社会主義をベースとした政党であり,過激なスンニ派のヌスラ戦線やISとは全く相容れない。将来,仮にムスリム同胞団などのスンニ派が政権を掌握する場合には,アサド政権中枢のアラウィー派だけでなく政権に協力したスンニ派やキリスト教徒たちも迫害されるのではないかとの恐怖を強く抱いている。確かに国際社会では,アサド政権は民主化運動を弾圧した独裁政権とのイメージが強い。しかし米欧やサウジなどの反体制派支援にもかかわらず「アラブの春」以来政権を維持している現実をどう解釈すれば良いのか。ロシアの支援だけで政権を維持することは到底不可能と思われる。モンブリアル・フランス国際問題研究所所長は最近のインタビューで,「アサド政権を排除することなくシリア和平のための連立政権を考えることが現実的である」と述べているが,蓋し至言であろう。

(2)2015年12月18日,国連安保理はシリア和平に関する初めての決議案を満場一致で採択した。それは18カ月以内の自由で公正な選挙へ向けての行程表とその性格を明らかにしている点で画期的といえる。その反面,アサド大統領の処遇や反体制派の範囲など不明な点があることも事実である。アサド政権と反体制派が参加する「政権移行プロセス」に関して,米国,ロシアを中心にイラン,サウジ,トルコなどが協議に参加して合意を形成することが大切だ。またISの影響力の封じ込めに向けて,安保理を中心に明確な方針が取られるならば,シリア内戦の収拾へ向けて大きな一歩を踏み出すこととなろう。

(3)他方,イランが各地でシーア派を扇動しているとのサウジの懸念には根深いものがある。2016年初頭,サウジでシーア派指導者がテロ扇動の罪で処刑されたことに抗議し,テヘランでデモ隊がサウジ大使館になだれ込んだ事件が発生した。サウジはイランとの外交関係を断絶する措置を取ったため,スンニ派とシーア派の対立は一気に国家間の対立に発展した。この問題の解決には,両派の宗教指導者による話合いが不可欠であると同時に,外交的には,米国やロシアが安保理などでの話し合いを通じてイランとサウジの対立緩和に努力すべきである。

6.日本の役割

 2016年はシリア内戦の収拾と和平へ向けて重要な年となるであろう。
 安保理非常任理事国となる日本は,シリア内戦や中東和平など国際の平和と安全の問題の討議に参加し,国際社会が取るべき政策についてどしどし意見を出すべきだ。
 シリア内戦を収束させる現実的な道は何か。日本は自らの立場で考えることが求められる。日本の中東政策は大筋において米国の意向に従ってきた。しかし日本は米国の政策の足らない点を指摘し,より普遍的な政策となるよう提案することを躊躇すべきでない。それは米国にとってもプラスになると信じるからだ。
 シリアに関して言えば,米国のアサド政権に対するレジーム・チェンジが現実的な政策か否か再考する余地がある。アサド政権が退陣した後,政権の受け皿として何があるのだろうか。明確な受け皿がない場合,更なる治安の悪化と事態の漂流を招くのではないだろうか。イラクの教訓をかみしめるべきだと思う。
 2003年の対イラク戦争を振り返って,最近ジョージ・W.ブッシュ元大統領はイラクに大量破壊兵器はなかったことを認めた。英国のブレア元首相もその事実を明らかにして反省の言葉を述べた。日本政府は未だこれにコメントしていない。安保法制を変更して集団的自衛権を容認した以上,中東政策に関し米国と日本の立場が一致しない場合でも,集団的自衛権を発動するかどうか判断を余儀なくされることがある。対シリア政策に関しても,何が日本の国益に合致するかきちんと議論し,国民に選択肢を提示した上で政策決定を行うべきではないだろうか。                 (2016年1月5日)
(『世界平和研究』2016年冬季号,No.208)

(注)アラウィー派 
一般にシーア派の系統に属するとされるが,同派のどこから分派したかは明らかではない。また,輪廻転生説を取り入れるなど他の宗派と大きく異なった狭義を持ち,イスラム教と「異教」の境界線上にあるとする意見もある。教義としては,イスマイル派,マズダク教,マニ教,キリスト教,シリア地方の土着宗教の要素が合わさったと考えられる独特の教義を持つ。とくにキリスト教からは大きな影響を受けた。パンとワインを用いる聖餐に似た宗教儀礼があり,クリスマス・イースター・ペンテコステなどキリスト教と共通の祭日を祝っている。(『ウィキペディア』より一部引用)