宗教多元主義と異宗教コミュニケーション
―遠藤周作『深い河』を中心に

永田正治(歴史研究家)


<梗概>

 宗教交流を後押しする思想である宗教多元主義は,広範な支持を得る一方,学者や宗教指導者の間に神学論争を引き起こした。しかし,そもそも宗教交流とは,生活のなかで他宗教者と共存しなければならない,一般信者にこそ求められるものである。他宗教者と交流する信者にとって宗教多元主義は,抽象的神学問題ではなく,現実的信仰問題なのである。本稿は,遠藤周作の『深い河』をもとに,宗教交流を実践する信者という視点から,宗教多元主義と異宗教コミュニケーションの問題を論じた。

1.宗教多元主義)

 宗教多元主義(religious pluralism)は,イギリス出身のキリスト教長老派の牧師・神学者であるジョン・ヒック(John Hick,1922‐2012年)が提唱した思想である。「神は多くの名前を持つ」という言葉が,ヒックの思想を明確に表現している。神,天,アッラー,エホバ,仏,親神,宇宙の大生命など,さまざまな名で呼ばれる森羅万象の根元的存在が,本来一つであるという主張である。
 多くの宗教に,深遠な教義,正しい導き,救いがあり,宗教者は自分の宗教のみが真理で,人間の救済が可能であるという独善に陥ってはならず,他宗教の価値を認め交流,協力し,ともに平和世界の建設を目指すものである。これは1970年代から世界に紹介され始め,今日,宗教理解の新しいパラダイムをつくり出した思想といえる。
 宗教多元主義の概要は次のようなものである。まず,宗教には排他主義がある。救いは自分たちの宗教のみにあり,他の宗教の価値を認めず,信じても救われないと考える。現在のキリスト教は,他宗教の価値を認めるが,長く排他主義的立場をとってきた。
 次に,包括主義という考えがある。他の宗教の価値は認めるが,どこまでも自分の宗教が中心で,他の宗教は自分の周辺を回っているという,差を設ける。ヒックはこれも「穏やかな排他主義」であると評した。
 宗教多元主義は,自分の宗教を中心に据えるのではなく,「究極的に同一の神的実在」を中心に全ての宗教が回っていると捉える思想である。自分の宗教を中心に見るのではなく,「神」を中心に宗教全体を見るという,世界認識が天動説から地動説に変わったような,宗教観のコペルニクス的転回である。これにより宗教は,「神」の下に平等になりうる。
 これを聞くと多くの宗教者は,「果たして自分たちが宗教多元主義に立てるか?」との疑問がわくであろう。普通,誰でも自分の宗教が一番だと思っているからである。それが本音であり,また自然なことである。宗教の現実のあり方は,他宗に寛容であっても包括主義,あるいは他宗の価値を認めない排他主義である。 
 そのためヒックの思想は,キリスト教内部から多くの批判を受けた。そもそもキリスト教の唯一性は,神の独り子として降臨し人類を救う約束をしたイエス自身の言葉が根拠である。あえて宗教多元主義に立たなくとも,キリスト教の教えで文明の危機を救うことができる,などである。
 宗教多元主義とは,宗教の「平等思想」といえる。すべてのコミュニケーションが,人間の価値は平等という認識がない限り,正常に行われないように,異宗教者間のコミュニケーションも,神仏の下に宗教の価値が平等であるという共通認識がなければ,正常なコミュニケーションはできない。
 だれでも自分と家族が一番大事と思うのは,生物としての人間の宿命である。しかし,社会生活を円滑に送るには,その自然な感情を克服し,人はみな平等という思想をもたなければならない。宗教の関係も同じである。異宗教交流を行うには,自他の価値が平等という認識の上に相手を尊重する姿勢が求められる。
 他宗教者と交流しなければならない宗教者にとっては,宗教多元主義の神学的考察よりも,ヒックが示した「宗教の平等思想」と,如何に向き合い,役立たせるかということが重要である。

2.『深い河』と宗教多元主義

 「異宗教交流する一人の信仰者」という立場から宗教多元主義を考えるとき,遠藤周作の晩年の大作『深い河』(1993年)が参考になる。カトリック信者である遠藤は,ジョン・ヒックの『宗教多元主義』を読み,「この衝撃的な本は一昨日以来私を圧倒し」と表現するほど強い影響を受けこの小説を書いた。
 大津という,カトリック信者の青年が,神父を目指しフランスで修道生活をするが,イエスの思想に宗教の違いなどあっただろうかと疑問を抱くようになる。それは宗教多元主義的な問いかけで,「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく,ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います」,「ぼくは???異端的でしょうか。あの方に異端的な宗教って本当にあったのでしょうか。あの方は違った宗教を信じるサマリヤ人さえ認め愛された」と考える。
 包括主義に対しても,以下のように否定する。「他の宗教の立派な人たちは,いわば基督教の無免許運転をしているようなものだとあるヨーロッパの学者がおっしゃっていましたが,これでは本当の対等の対話とは言えません。ぼくはむしろ,神は幾つもの顔をもたれ,それぞれの宗教にもかくれておられる,と考えるほうが本当の対話と思うのです」。
 そして彼は遂に,インドに渡り,ガンジス河沿いの街で奉仕をするようになる。ヒンズー教の行者とともに,行き倒れた巡礼者,貧者,売春婦などの死体を運び,火葬しガンジス河に流し,弔うことである。「― 玉ねぎ(イエスを指す:著者注)がヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教のなかにも,仏教のなかにも,生きておられると思うからです。思っただけでなく,そのような生き方を選んだからです」と,自分の生き方がイエスの教えにかなうものと確信している。そのため,ヒンズー教の行者とともにヒンズー教式に死者を弔っても,自分がカトリック神父であるという自己認識に変わりはない。
 またイエスの愛をガンジス河に譬える。「ガンジス河を見るたび,ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんな醜い人間もどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます」。
 イエスは死後,キリスト教圏だけでなく,世界で人々を救って来たとし,「―あの方はエルサレムで刑にあった後,色々な国を放浪しておられるのです。今でさえも。色々な国,ですが。たとえば印度,ベトナム,中国,韓国,台湾」。
 大津は危篤の老婆を背負いながらイエスに祈る。「あなたは,背に人々の哀しみを背負い,ゴルゴダまでのぼった。その真似を今やっています」。そして彼は,死体をむやみに撮影しようとした日本人カメラマンと,それに怒ったインド人のトラブルに巻き込まれ,死を迎える。
 以上のように『深い河』は,キリスト教の核心である「イエスの愛」で,宗教多元主義を肯定したものである。

3.一世と二世の信仰

 私は,カトリック信者である遠藤周作が,他宗教にカトリックと同じ価値を認めることに対する葛藤を知ろうとした。しかし,彼にはそのような葛藤がない。そこで気づいたのは,遠藤がカトリックの信仰二世ということである。自分の宗教に冷静,客観的というのは,二世の信仰によくみられる特徴といえる。
 むしろ彼は,同じカトリック信仰であっても,どんなに残虐な迫害を受けても転ぶことを許さない西洋の父性的神観と,転ぶことを許す日本の母性的神観の違いをテーマに,『沈黙』(1966年)を書き,カトリックだけが救いの道であるか,という疑問から『深い河』を書いた。遠藤は自分の宗教を客観的に見,鋭い問題提起をしたのである。
 逆に信仰一世は,入信の過程で,回心という精神上の大変革を達成したので,それをもたらしてくれた教えに強い執着がある。そのため,他の宗教が自分の宗教と同じ,高い価値をもつと認めることには葛藤がある。人ごとのように書いている私自身もその一人である。
 ふつう,宗教者の信仰観変化をみると,入信初期においては,その宗教に強いこだわりがあり,他の宗教まで顧みる余裕はない。長く信仰するにともない,伝道の難しさや宗教の置かれている厳しい現実に直面し,考えが柔軟になり,他宗教の立場も理解するようになる。しかし回心をもたらした宗教に対する熱い思いは心に残る。
 一世にとって,異宗教交流を行うには,自分の宗教を愛する「感情」と,他の宗教も高い価値があるという「理性」を調和する必要がある。理性が感情を克服するには,明確な論理が必要である。宗教多元主義は,「宗教の価値はおなじ」という理性的判断を体系化し,強化してくれる思想である。
 一方,二世は宗教多元主義によって,「宗教」というものの素晴らしさを学ぶことができる。二世は幼いころから家庭の中で「教団」の素晴らしさを教えられる。しかし「教団」の素晴らしさ以前に「宗教」の素晴らしさがあるのである。
 今日,各教団は,二世が「宗教心」を失うという信仰の継承問題に悩んでいる。それは,教団次元の狭い意識で信仰継承を図ろうとするからではないだろうか。ひとつの教団の「教義の継承」と,個々の教団を超えた,大きな「宗教心の継承」は車の両輪で,別々に考えるべきではないのである。
 誰にとっても,宗教的価値観を尊重する「宗教心」は必要である。「教団教義の継承」と,人にとって不可欠な「宗教心の継承」はひとつのものという,本質的で巨視的な信仰継承思想が必要である。すなわち「信仰」を,教団の教えを信じることだけでなく,人として自然で当たり前の心のあり方と見,長い目で信仰継承をとらえる態度が求められるのである。
 今日,人々の思想は柔軟で多元的なものになっている。このような時代には,神仏を知る意義,人間の宿命である生老病死の苦からの解放,家庭の幸福,信仰共同体の恵みなど,多くのテーマから宗教信仰の良さを伝えられなければ,21世紀の信仰継承は難しい。
 また,ひとつの価値観で,人にイエス・ノーを迫る宗教は時代おくれで,発展に限りがある。子どもの信仰についても,単一の価値観でふるいに掛けてはならない。信仰への門は大きく開かれたものであり,狭き門ではないはずである。
 二世は,宗教そのものが偉大な価値を持つというヒックの思想から,ひとつの教団を超えた「宗教心」の尊さを学ぶことができる。それは自身の教団に対する評価の低下ではなく,むしろ再評価につながる。遠藤が異宗教を知るにつれカトリック信仰が深まったように,大きく開かれた寛容な宗教観は,自分の教団をより深く愛することを可能にするのである。
 それは宗教多元主義というものが「究極的に同一の神的存在」,すなわち神によって全ての宗教がかけがえのない価値を持つという,神と宗教を心から愛する「宗教愛」の思想だからである。宗教そのものが素晴らしく,そして自身が属する教団も素晴らしいのである。この先進的な宗教理解は,今日の宗教がかかえる信仰継承問題の解決に肯定的役割を果たすことができる。

4.宗教多元主義をめぐる問題

 『深い河』から分かることは,宗教にとって宗教多元主義の受容は,教義の核心に触れる問題だということである。そのため遠藤も宗教多元主義を肯定するのに,「イエスの愛」というキリスト教の核心に迫らねばならなかった。
 それはイエス自身が,宗教多元主義を肯定する言葉を残していないからである。『深い河』も,イエスの愛のあり方から,他宗教に対するイエスの考えを推測するしかなかった。これは仏教,儒教,イスラーム,ヒンズー教など,他の世界宗教でも同じである。すなわち宗教にとって宗教多元主義の受容は,「未開拓の領域」なのである。
 そこからこういうことが言える。教祖が言及しなかったのであるから,教団が確立した時代は,集団の特性上,宗教多元主義の受容は容易ではないということである。宗教の歴史を見ると,宗教対話や協力は極めて稀なことであった。
 それどころか,プロテスタントはカトリックを批判して登場し,大乗仏教は上座部(小乗)仏教を批判して現れた。鎌倉仏教の宗祖も,他宗を批判した人が多かったのである。宗教の歩みは宗教多元主義とは程遠いものだった。
 これは宗教発展史の宿命である。世界三大宗教も,イエスや釈迦,ムハンマドの教えを,弟子たちが「唯一」,「絶対」なものと信じ,人々にもそう教え宣教し,多くの民族宗教を排除した。宗教が発展するためには,他宗を批判し自分を主張しなければならない歴史があったのである。そのような過程を経,今日,普遍的教えを持つ世界宗教によって分けられる,宗教文明圏が成立した。
 以上のような歴史をみると,安易に排他主義や包括主義が遅れていると考えるべきではないということが分かる。他宗教を排他主義,包括主義などと批判すれば,それもまた新しい形の排他主義に陥ってしまうのである。
 宗教の中には,平和的であり純粋であるが,他宗による救済を認めない教団もある。そのような教団とも,「平和」や「道徳」の価値は共有できる。よき隣人として,人間的なレベルで,交流,共存する方法はいくらでもある。
 宗教多元主義は,それを尺度にして他宗教を判断するのでなく,自分の宗教観を,他宗教を尊重するものに変える思想である。すなわち,宗教者が自分の宗教だけを愛するという感情を克服し,「教団愛」とともに,愛の範囲を広げ「宗教愛」を持てるようにする思想である。

5.「こころの異宗教理解」がスタート点

 宗教は,時代と地域の影響を受ける。ながく宗教間対話の重要性は認識されなかったが,20世紀後半から強く叫ばれ始めた。それは,宗教をめぐる状況が大きく変化したからである。
 今日の世界は,宗教,人種,文化の多元化現象が凄まじい勢いで進み,単一な価値観では,多元化した世界を把握できず,宗教も成り立たなくなった。これこそが,宗教が直面する現実である。
 宗教多元主義は,現代の状況が宗教に要請する思想である。そもそもヒックが宗教多元主義を発想したのも,12年間,異民族が多く住むバーミンガムに暮らし,他宗教者との共存問題に直面したからである。
 では,宗教者が宗教交流に望む「出発点」とは何であろうか。それは,他宗教を知ることである。知ることにより,他宗教に対する誤解が解かれ,心理的に接近し,他宗の優れた内容が自分の一部になる。
 「知る」は,「学ぶ」が前提である。書籍で学ぶことができるが,異宗教者から直接学べば理解は飛躍的に高まる。他宗を理解し,他宗から学ぼうとする意志こそが,異宗教コミュニケーションのスタートになるものである。
 そして,異宗教理解にはふたつの側面がある。一つは,違いを知り,他宗教の良き部分を学ぶものである。これは教義的なものが中心になり,知識や情報が必要とされる「知」で異宗教を理解するものである。 
 もう一つは,同じところを知ることである。これは特に知識を必要としない「心」で異宗教を理解するものであり,誰にでもできる。他宗教者も,自分と同じように愛や寛容,人を助ける気持ちを持つことを知るのは,偏見のない,開かれた「心」で分かるのである。宗教は違いより同質な部分が多いので,むしろこれが重要である。宗教が同じということを「心」で感じとることが,異宗教理解のアルファでありオメガといえる。
 まず,宗教の同質性を実感し,次に違いから学ぶのである。そして,世界の宗教者が,聖書,仏典,論語,クルアーンや新宗教の教えなどを,真理探究的な交流により相互に学び合うべきである。この動きが大きな流れになれば,宗教一致は画期的に前進できる。
 今日,世界には宗教過激派によるテロが頻発している。まさに人類は,暴力をいとわない排他主義の脅威に直面しているのである。他者との共存を拒絶する極端な宗教的排他主義に対抗できるものは,開かれた対話で他者との共存をめざす宗教的融和主義である。世界に平和をもたらすには,テロの憎悪を克服できる利他愛に基づく融和的思想と行動が求められる。
 宗教多元主義は,融和的宗教対話,交流を行う世界大の環境を整えることができる思想といえる。世界の宗教者が宗教エゴを克服し,宗教が「究極的に同一の神的実在」を中心とする兄弟であることを自覚し,世界平和実現のために団結し行動することが,21世紀に生きる宗教者が果たすべき使命である。
(2016年12月9日)
(『世界平和研究』2017年冬季号,212号)