文化大革命発動50周年を振り返って

楊 海英(静岡大学教授)


<梗概>

 文化大革命発動から半世紀を経て,中国では文化大革命を知らない世代が増えて文化大革命の記憶が風化しつつあるとともに,政府の意向にしたがって堂々と語ることのできない雰囲気がある。日本の論壇でも無関心を装っているような状況であるが,昨今の習近平政権の政治状況をみるにつけ,文化大革命研究は現代中国を見る上でも有用な視点を今なお提供している。

 2016年は文化大革命発動50周年に当たる年であったので,文化大革命にちなんだシンポジウムなどを企画して総括してみようと考え,まず同年2月27日に東京において「中国文化大革命と国際社会―50年後の省察と展望」と題した国際シンポジウムを開催した(主催:静岡大学人文社会学部アジア研究センター)。このシンポジウムの内容を採録して『フロンティアと国際社会の中国文化大革命―いまなお中国と世界を呪縛する50年前の歴史』(集広舎,2016年11月)として出版した。
 文化大革命発動(1966年)から半世紀を経て多くの研究がなされ新たに分かってきた事実がかなり出てきたが,そうした知見も含めて文化大革命について振り返りつつその研究の意義について考えてみたい。

1.世界共産革命に向けた革命輸出の原点

 1950年代に推し進めた大躍進政策の混乱から毛沢東は一旦表の立場を退くことになり,代わって実権派が台頭した。60年代に入り中ソ対立の様相を見せる中,中国ではソ連修正主義批判を展開し始めた。
 戦後の国際共産主義陣営の動きを見ると,ソ連はヨシフ・スターリン(1878-1953年)の死後,ニキータ・フルシチョフ(1894-1971年)が後継となり,スターリン批判と平和共存路線を打ち出した。当時は共産主義と自由主義が世界を二分する形で勢力を争っており,共産主義による世界革命を成功させることができれば,全人類の解放が実現できると考えた毛沢東は,世界共産主義革命の中心は(修正主義のソ連ではなく)北京だと確信し,それを実現するためにまずは国内を固めてから世界に膨張していこうと考えた。
 国内に目を転じると,共産主義思想から離れブルジョア資本主義路線を歩む人たち(走資派)がいたので,毛沢東は彼らを一掃しようとした。そのために紅衛兵を動員して地主,富豪,反革命分子を倒すなどの暴力行為に及び「暴力革命」の様相を呈した。その結果,多くの死傷者を出した。最近の研究結果によると,犠牲者総数は1000万人,死者数は190万人に及ぶといわれる。
 国内での思想闘争に加えて中国は,国際共産主義革命を推進するために,「革命の輸出」を実行した。革命の輸出は中国国境を超えていくので,南モンゴル,新疆,チベットなど,まずは辺境地域(フロンティア)が巻き込まれていくことになる。 例えば,南モンゴルを経由してモンゴル人民共和国・ソ連へ,新疆経由でソ連へ,チベット経由でインドへ,南方へはタイ・ラオス・ビルマ(ミャンマー)など東南アジア各国へと波及し,革命の手が伸びていった。
 ソ連との関係では1960年代に入り中ソイデオロギー対立が表面化し,やがては軍事衝突へと発展した。1969年3月にウスリー川中流域の中州であるダマンスキー島の領有権を巡って大規模な軍事衝突が発生した。さらに同年8月には,新疆ウイグル自治区においても武力衝突が起こるなど,中ソ全面戦争も想定しなければならないような危機にまで発展した。
 ソ連とも接する北方の辺境である南モンゴルでは,40万人にも及ぶモンゴル人犠牲者(死者と身体障害者)を出した粛清が行われ,ソ連との衝突に備えた。
 南方では,チベットを挟んでインドとの国境紛争があった。1959年にチベットの反乱が起きると中国政府はダライ・ラマ14世によるものと非難し弾圧を始め,ダライ・ラマ14世がインドに亡命して中印対立は決定的になった。そして62年,中国軍が中印国境の東部と西部で軍事行動を起こしインドとの間で戦争状態となった。
 東南アジアには文化大革命中の「下放青年」を派遣して,各国の共産ゲリラの支援に乗り出し,共産革命の輸出を進めた。これらは国境を接した地域への革命工作だった。
 国境を接しない地域への工作はどう進められたか。
 アフリカ諸国へは,インフラ整備など経済援助をしつつ共産ゲリラへの資金援助や武器弾薬の提供も行い,「毛語録」も盛んに輸出した。キューバへは,革命ゲリラ指導者と呼ばれたチェ・ゲバラ(1928-67年)を北京に招請し感化を与えた。ペルーでは,センデロ・ルミノソという極左武装組織(毛派共産党と言われる)の指導者を同じく北京に呼んで工作した。
 日本を含む先進諸国への工作はどうしたか。米国では,黒人たちによる人種差別反対運動への支援を行った。日本に対しては,反安保闘争や反米軍基地闘争を背後から支援。左翼運動家やリベラルな知識人などを北京に呼んで,革命へと促した。先進諸国の大学生等青年たちの中には中国の革命工作によって洗脳教育された人も少なくなかった。
 以上のように,文化大革命を契機として中国共産党は,世界共産革命に向けて積極的に革命の輸出を推し進めてきたのであった。1976年に終息を見た文化大革命であったが,実は,この革命輸出工作は現在にまで続いていることを知らなければならない。例えば,日本で言えば,某総理経験者をうまく利用して中国を讃美させたり,日中友好を賞揚するようなリベラル人士を北京に呼んで感化させたりしている。また近年中国が強力に推進する「一帯一路」政策もその一環と見ることができよう。

2.毛沢東のカリスマ性と中国の指導者

 毛沢東(1893-1976年)はカリスマ性をもつ指導者で,毛沢東の薫陶を受けて育ったのが紅衛兵世代であった。紅衛兵には,「老紅衛兵」と「造反派紅衛兵」の二種類があった。「老紅衛兵」は,文化大革命の初期に造反して立ち上がった人たちで,主に高級幹部の子弟たちだ。一方,「造反派紅衛兵」は普通の庶民の子弟たちだ。文化大革命で主として暴力行為を振るったのはどちらかというと老紅衛兵であった。例えば,彼らは孔子廟を暴いたり,文化財の破壊,人間を殺しその血で「赤色テロ万歳」などの文字を書いて意気軒昂したものだった。ところが文化大革命が終わると,彼らの罪は全部「造反派紅衛兵」に転嫁され,すなわち「犠牲の山羊(スケープゴート)」にされてしまい,老紅衛兵たちはみな権力の座に返り咲いたのだった。習近平主席の父親・習仲勲もその一人だった。
 老紅衛兵たちは一時失脚するのだが,正確に言えば文化大革命の途中から復権の途に就き始めていた人もいた。彼らは毛沢東に対する恨みを持ってはいたが,権力の座に残るためには毛沢東は捨てられない。心の中では愛憎半ばする複雑な思いがあっただろうが,毛沢東を守り彼の手法を踏襲してやるしかなかった。
 そうした毛沢東のカリスマ性の影響を受けて,毛沢東亡き後も「リトル毛沢東」のような政治家が次から次へと現れてくることになる。そのような指導者が権力の座に居続ける。その特徴を露骨に表しているのが現在の習近平主席といえる。
 政治をどう動かすかを考えたときに,身近な政治の師は毛沢東だから,中国人は毛沢東のやり方・スタイルしか知らない。毛沢東にどのような仕打ちを受け翻弄されたとしても,毛沢東のやり方は模範であり,モデルであって,それを真似るしかない。それゆえみな毛沢東に回帰していく。中国近代史における毛沢東の位置は非常に大きなものがある。

3.今後の中国の行方

(1)堅固なピラミッド型の社会構造
 既に述べたように中国における毛沢東のカリスマ性は否定しがたい大きなものがあるが,それは毛沢東個人という部分を越えて,歴史的な権力体質ともいうべき側面でもある。
 中国の歴史を振り返ったときに,秦の始皇帝以来の王朝の権力構造・体質は,絶対的権力を持つ皇帝の周囲に側近(官僚体制)があり,それを物理的に支える軍事組織がある。そして人民はそうした支配体制の下に敷かれている。このような構造は,古代から今日に至るまでほとんど変わっていない。
 中国共産党においては,毛沢東が権力の頂点にあって,共産党員が官僚体制を築いて支え,その物理的な装置が人民解放軍という軍隊だった。その下に多数の人民が支配されてきた。この体制は古代王朝以来の構造とほとんど変わっていない。王朝名が「中国共産党」という別の看板に変わったに過ぎない。
 ところで,日本でよく提起される「中国崩壊論」は「崩壊期待論」に過ぎない。現在,中国共産党員が約1億人近くいて,社会の隅々まで及んで根を張っている。共産党は利益集団であり,それが社会の支配者となり巨大化している。ごく一握りの集団であれば,ひっくり返すこともできるだろうが,それができないほどに巨大化してしまった。あらゆる面で共産党員が優遇されており,共産党に入れば豊かになれ,ピラミッド型組織の中で出世できるという組織化された運命共同体,利益集団になっている。それが数十年をかけて中国社会に根を下ろしているので,たぶん歴代中国王朝と比べても,一番高度に制度化され爛熟した程度になっているのではないか。

(2)民主化の可能性
 改革開放政策が進められるようになって「中国が経済発展して人民が経済的に豊かになれば(政治的)民主化もなされるだろう」とよく言われてきたが,それは相当の時間を要するプロセスであって,簡単には実現できないと思う。ある社会に民主主義が定着するには,それ以前に自由民権,人権思想,ヒューマニズムの思想が定着し,そのような環境が整備されることが必要だ。ところが中国の政治は,歴史が始まって以来,人間(庶民)中心ではなく,あくまで皇帝(特権階級)中心だった。
 ピラミッド型の社会構造が非常に堅固であるために,平等精神はなかなか実現されない。もちろん中国も資本主義市場経済と連動してやってきているので,豊かになろうとしているし,国家や一部の階級は確かに豊かになった。問題は,豊かになったのがピラミッドの上層部だけだったことだ。つまり権力者だけが豊かになったのであって,庶民はそうではなかった。そうすると民主平等というところまではなかなか達することは難しい。経済的に豊かになれば民主主義思想や人権思想が自然と芽生えてくるだろうという楽観論はどうかと思う。
 反体制知識人の中には,中国がなかなか民主化できないのは,中国的な思想や制度に問題があると指摘する人もいる。チベットのダライ・ラマ14世は,チベット文化から見るとその点が問題だと指摘しながら,中国政府に対して平和的対話を呼びかけてきたが,中国政府は応じていない。中国政府はそのような平和的対話はうさんくさいものだと思っているし,そもそも対話すらも成り立たない状況にある。そこに中国との付き合いの難しさがある。

(3)国内における殖民政策
 人口で見ると,漢族が全人口の9割を占める中で,少数民族の立場はかなり小さくなっている。現代中国成立の前後のころは,中国の6割を占める辺境の土地に人口1割の少数民族が住んでいたから,ある面でバランスが取れていた。ところがその後,中国政府が国内殖民政策(漢族の移住政策)を積極的に推し進めた結果,少数民族の地域でも漢族の割合が急激に増えて人口比で逆転するような現象があちこちに現れてきた。内モンゴル自治区,新疆ウイグル自治区,チベット自治区でもそうで,しかも「同化」が進んでいる。
 「同化」とは,漢族と少数民族の婚姻という次元に限らず,中国語使用の強制,風俗習慣の中国化,公務員登用に際して中国語能力を強制することなどで,そうした「文化的同化政策」を積極的に推し進めている。ダライ・ラマ14世は,それを「文化的ジェノサイド」と呼んだ。
 文化的同化政策を徹底した結果,多様な文化が消えつつある。多様な文化,価値観が消えていくと,いろいろな民族や文化が僅かに残ったとしても,みな「中華民族」「中華文化」の中に包含されてしまう。そして「中華民族の偉大な復興」という看板を立てているので,漢族と他の少数民族との対話は難しくなっている。中国政府は同化を優先しており,内部の多様性を維持しようとはしていない。文化的ジェノサイドが進行している限り,対話は一層難しくなっている。

(4)イスラームの抵抗運動との比較
 最近のイスラーム過激派の問題を中国の国内殖民政策との対比で考えてみよう。イスラーム過激派による抵抗運動の原因を考えたときに,彼ら自身にあるというよりは,むしろ西欧諸国側により根本的な問題があったと思う。西欧列強諸国はイスラーム世界に入り殖民地政策を行った。その後遺症はなかなか消えない。西欧諸国にはイスラームを理解しようという姿勢があまり見えない。加えて,殖民地支配による資源の略奪は,今日に至るまで継続している側面もあって,西欧諸国とイスラーム世界との依存構造がある。それに対するイスラーム側の反感があるのではないか。過激派がテロを起こすなど抵抗しているが,その根本原因は西欧諸国側にあると思っている。
 (漢族中心の)中国政府が今まで通り過激な同化政策,革命の輸出,覇権主義を行っていけば,もしかすると少数民族もイスラーム過激派のように抵抗運動を始めるかもしれない。もしそうなった場合には,ものすごい紛争,動乱になる危険性がある。既にその兆候は現れつつある。対話が不可能になってしまっている。
 イスラーム過激派VS西欧諸国の構図が,少数民族VS中国政府(漢族)となっている。イスラーム過激派と西欧諸国は双方が強硬姿勢になって対話が成り立たない状況になっている。中国(漢族や共産党政府)にも対話姿勢がないから,イスラーム過激派VS西欧諸国のように,少数民族VS中国政府の構図による混乱が続く可能性がある。

4.最後に

 2016年は文化大革命発動50周年を記念する年であったから,この問題に長年関わってきた一研究者として何かをしようと思い,冒頭に記したような国際シンポジウムなどを開催した。しかし残念ながら日本の論壇は沈黙を保ったままで,不自然を禁じえない。
 かつて毛沢東が「革命の輸出」を行ったとき,日本はその輸出先の一つで,非常に大きな影響を受けた。すなわち,反安保闘争や反米基地運動,大学における左翼学生による暴力行為,マスメディアや思想界への影響などである。それが果たして,日本にとって建設的な役割を果たしたかどうか,清算しなければならないのに未だ清算できていない。文化大革命について清算しようという姿勢がないのは,たぶん自身に波及してくるのを恐れてのことに違いない。
 文化大革命発動から50年が経過したからと言って,ここで全てを総括することには無理がある。10年に及ぶ革命であったのだから,同じようにさらに10年かけて総括すべきだろうし,あるいはそれ以上かかるかもしれない。
 たとえ文化大革命をここで総括できたとしても,現在の中国共産党は今なお引き続いて文化大革命の手法をやり続けているので,過去のできごとにしてしまわずに,現在から将来に向けても延々と問い続けていく必要がある。(今のような支配体制が維持される限り)中国共産党のやることは変わらないと思う。文化大革命について考え反省することは,現在進行形の中国を分析する一種の「座標軸」といえる。それは中国王朝史を貫く「不動の座標軸」でもある。その視点に立つときに,そのときどきの中国と重なって見えてくる。ここに文化大革命研究の意義があると思う。
(2016年11月22日)
(初出:『世界平和研究』2017年冬季号,No.212)