沖縄の基地被害に思うこと

A Thought about the Down Sides of the Okinawa Base

国吉司図子(沖縄女子短期大学元学長)
Shizuko Kuniyoshi

 去る2月の理事会の時に,私は普天間基地移設問題について次のような発言をした。
 今ほど沖縄の米軍普天間基地移設問題が世界的にアピールされることはなかった。私はその基地の側に住んで30年以上になる。橋本龍太郎総理の時に普天間基地移設が決まって,すでに10年余が経過しているのに何の変化もない。鳩山さんは「結論は,自分が出す」と公言しているが,そう期待はしていない。
 どうして沖縄だけが戦後60年余経っても,日本政府から継子扱いされなければならないか。ヤマトンチュ(=本土の人)はなぜ沖縄の痛みを同族の悩みとして受容できないのか。自分たちさえよければ,沖縄の人間は何言うか,くらいの態度をされると,地元の人間は口惜しさでいっぱいであることを知るべきだ。共通 の悩みとして受容する人間であってほしい。
 東京の理事会で基地被害を訴えたが,懇親会場で発言できなかった口惜しさを二度と味わいたくない。わからない人間どもに口角泡を飛ばして発言しても,うるさがられ嫌われるだけである。その晩いろいろ考えた。お利口さんになるには何もしゃべらない方がいいことは知っている。自分を喪失したくないから本意をぶちまけていることを理解して下さる方は少ない。

なぜユネスコ活動なのか

 私は沖縄戦で財産のすべてを失い,多くの身内を失った。泣く涙もなかった。死の谷を這いずり廻り,豚のエサ同然のものを食べて生き残ってきた。何のために戦争をやるのか,戦争のむごたらしさと無意味さをいやというほど味わった。それで戦争は二度としてはいけないと叫び,世界中が平和になれることを希求してユネスコ活動に50年余を奉仕してきた。しかし世界のどこかでまだ戦争が行われ,尊い命が失われ,財産を焼失してしまう。
 救援物資が配給される映像を見ると,何十年前の自分の姿を見る思いがする。「お国のために」と,いい体づくりをして子供を育て,甲種合格で出征した兄たちは還らない。丙種で出征できなかった者が生き残り叙勲を受ける差別 をどう感じるか。長兄は死ぬまで戦争のことは話したくないと言った。農家で育ち,馬と一緒に育った。馬の係りになったのが天運で,海中で馬の首にしがみつき九死に一生を得,ビルマ戦で馬糞の中に白米をみつけ,洗って雑炊にして生き延びたことだけを,帰還した晩,寝もやらず話に夢中になったことを忘れない。次兄は中支で栄養失調で戦病死。優秀で選ばれた者たちが戦争で皆死んだ。父と母は戦争の犠牲で立ち直ることなく死んでいった。沖縄を本土防衛のために捨て石にしたのは誰だ。広島・長崎の原爆を今次大戦の被害として日本国民は原爆忌を弔う。沖縄戦を,日本国も国民も口を閉ざしているのはなぜか。日米安保で沖縄の人間は地位 協定も守られていない。なぜか,なぜだろうの疑問だけが残る。

「イチャリバ チョーデー」(出会えば皆兄弟)

 これは沖縄県民の持つ精神で,どんなにいじめられても,差別 されても,その口惜しさを乗り越えて人を愛する心情であり,この精神で沖縄県民は島を訪れるすべての人をもてなす。侵略されても,侵略の経験もなくアメリカの奴隷扱いされながらも,抗議をしても無視されてきた歴史を忘れない。
 水不足で民間は時間給水なのに,米軍家族は庭の芝生に散水をする横柄さを皆さんはどう思うか。差別 は戦後始まったのではない。
 1609年,薩摩の侵略から400年以上の歴史の変遷から多くの差別 をちゃんと知っている。島津の本家は,400年を経過してから「悪かった」と今更のように詫びている。琉球処分,廃藩置県の差別 を知らないわけではない。知った上で相手を歓待する心配りは,人間的な愛で受け入れていることを知ってほしい。
 「沖縄病」という言葉があるが,沖縄に住んだことのある経験者が再び沖縄で永住するのは,沖縄人の心の優しさと美しさのためだと言われる。この度のアカデミー理事会で基地被害に悩む沖縄の心は受け入れられないことを知った。したがって沖縄の基地被害について語ることはもうない。人生の殆どを戦争の犠牲にあい,被害者意識だらけの自分が好きになれないのが現状だからだ。大阪府の橋本知事が「沖縄の問題は,日本国民の問題として云々」に対して,「ありがとう」の手紙を送ったことを改めて付記しておく。

心とは

 沖縄でサミットが行われたのはそう古くはない。森喜朗総理が辞任して小渕総理に代わり,日本を代表して小渕総理が各国の首相をお迎えした。
 アメリカの大統領であるクリントンは娘と来県した。糸満の平和の礎の前でかがんで「ゴメンナサイ」と礎を撫でた。敵国の大統領のその行為に沖縄県民はひどく感動した。
 沖縄の8月は暑い。海風が吹く糸満にある平和の礎は,沖縄戦で亡くなった20万余の氏名を刻んだ石塔である。頭から水をかぶったように汗が流れている。すかさず側を通 った大統領にハンカチを差し上げたとき,大統領は汗を拭き「ありがとう」とハンカチを返そうとしたが,「どうぞそのままお使い下さい」。その様子もテレビでアップされ放映された。何気ない人と人との通 りがかりの仕草に「これぞ沖縄」を評価したし,アメリカの大統領の人間らしい心づかいに拍手し涙した。
 平和の礎の場所がサミット会場ではなかったが,沖縄戦の戦跡を見ていただく観光ルートであった。アメリカ大統領の平和の礎に「ゴメンナサイ」と言った言葉は,大統領の人間としての心のあり方を素直に表現したものだ。
 日本の総理大臣は,6月23日の沖縄県主催の慰霊の日には参拝して急いで帰路に就くだけの行為でしかない。心は見えないままだ。何しにきたかとこちらは言いたい。沖縄には糸満だけでなく 島に慰霊の塔がいくつもある。6月23日は島中が香の煙で薄紫色になり,流す涙は測り知れないほどで,父,兄,夫,子,孫,それぞれの亡くなった霊に手を合わす。
 私は宜野湾市の京都の塔,嘉数の塔,青丘の塔を清掃し,供養祭を続けて30余年になる。沖縄戦で最初に米軍と戦ったのは,嘉数の丘の京都出身の兵士たちだった。嘉数部落の人口の二分の一も戦死した。韓国からの軍人軍属を祀る青丘の塔に合わせて3000余柱が眠る。この人たちの犠牲の上で生きている私たちは,戦死者への供養を大切な礼儀として供養し続けてきた。それが人間の心だと思うからである。

(「世界平和研究」2010年5月春季号より)