日本のコメ政策年代記をひもとく

Revisit in the Chronicles of Japan’s Rice Policies

山口彦之(東京大学名誉教授)
Hikoyuki Yamaguchi

 

<梗概>
 瑞穂の国のコメは日本人の食文化を支えるとともに,水田農業は日本の社会生活と文化,そして美しい自然景観を形作ってきた。ところが,水田農業の規模拡大や単収増加を阻む農政は,コメ農家の高齢化と所得低下を招来し,コメづくりを衰退させた。1988年(昭和63)頃にコメ,畜産,野菜・果物の産出額はほぼ同じに並び,ついに2009年(平成21)にはコメの産出額は畜産,野菜・果物の後を追うようになった。過去を回顧すれば,コメ政策改革の最大の弱点が過剰米対策にあることは明らかである。農業分野の市場開放が取り沙汰されている現在,コメ政策は抜本的な見直しを迫られている。

1.戦前のコメ取引略史

 1730年(享保15)に,世界で最初の先物市場として大阪・堂島のコメ市場が先物取引を 開始した。その後,1886年(明治19)に正米市場が開設され,1908年(明治41)には東京 米穀商品取引所が設立された。
 1918年(大正7)のコメ騒動後に米価が低落したことを理由に,政府が市場に介入するようになり,1921年(大正10)に「米穀法」が成立して,コメの価格が下落するときには政府が市場介入するという,間接統制の時代に移行していった。この時代には,台湾や朝鮮でコメの栽培が増え,日本に移入されたので,国内産米は大きな圧迫をうけた。このころ,米穀検査制度が完備されて市場で高く売れる良質品種が要請された。国産化された窒素肥料の施用量が増大したので,良質で耐肥性の品種がもとめられた。このような背景のもとで,西日本では強稈・耐病性で良質・美味の「旭」,東北地方では耐冷・耐肥で良質の「陸羽132号」,北陸地方では強稈・耐病性の「銀坊主」が普及することになった。
 1937年(昭和12)に日中戦争,1941年(昭和16)に太平洋戦争が始まると,戦時経済 のもとで食糧は過剰から逼迫に転じてコメの先物市場は閉鎖され,1942年(昭和17)には 「食糧管理法」が成立し,コメの価格・流通を全面的に決定・統制する直接統制の時代に 突入した。すなわち,政府が農家から全量を集荷して消費者へ配給するという食糧管理(食 管)制度によって,コメ市場は統制経済に移行した。

2.戦後の農地改革と農業の変貌

(1)農地改革
 農地解放は,太平洋戦争後に,GHQ(連合国最高司令部)が日本の民主化のために進めた最大級の事業であった。GHQは,戦前から小作農の解放に執念を燃やしていた農林省の発案について,その政治的な重要性に気づいた。すなわち,小作農を解放し農地を与えて,生産活動にあたらせ,封建的な地主・小作の関係を打破することは民主化だと考えた。
 やがて戦後農政にとって最初の大事業,農地改革が1945年(昭和20)12月から開始した。1戸あたり所有面積は,在住地主ならば都府県3町歩(約3ヘクタール),北海道12町歩(12ヘクタール)とする案であった。しかし,この案は改革としては不十分であるとGHQによって拒否され,在住地主は1戸あたり都府県では1町歩(1ヘクタール),北海道では3町歩(3ヘクタール),また不在地主の農地は無条件で没収というドラスティックな改革になった。農地を分配された農家には,その代金の負担がない。農地を取り上げられて不満をもつ地主に対して,1戸あたり100万円を限度に,10アール2万円を最高額とする給付金が支給された。
 このようなわずかな交付金で農地を召し上げられた地主たちの不満は,この農地改革が基本的に憲法に違反するものであるという違憲訴訟の形で爆発した。この訴訟に対して,最高裁は,1953年(昭和28)に,日本国憲法の枠のなかで合憲の立場をとって判決を言い渡した。当時の最高裁は,農地改革が連合国の強権によって確かに進められたけれども,日本政府が独自に発想しても実現できた事業であると判断したわけである。農地の買収,売り渡しが憲法29条3項の「公共のために用いる」に該当すると,最高裁が指摘したことは重要である。農地は食料生産のために存在するものであり,所有者の利益を優先して考えるものではない。不在地主の農地が取り上げられたのは,その考えにもとづく。
 農地改革によって解放された小作農の農地は,150万ヘクタールに達した。農村の社会主義運動を支持した小作農は,自作農=小地主になり,農地改革の進展とともに保守化した。多数の小地主からなる零細な農業構造を維持するために,1952年(昭和27)に農地法がつくられ,解放された農地を所有した者は耕作者である自作農が望ましいとされた。したがって,株式会社のように,株主が所有して従業員が耕作するという,農地の所有形態は認められないこととなる。このような農村を組織化したのが農業協同組合(農協)であった。

(2)農協の誕生
 戦後直後の日本は食糧難の時代で,農家がコメを高い値段で売ってヤミ市場に流してしまうと,貧乏な人はコメが入手できなくて食べられなくなる。政府は農家からコメを集荷する必要に迫られた。
 戦前には,全農家を加入させて,農業,農村のほぼすべての事業,農産物の集荷から金
融までを,2つの大きな流れでおこなう系統農会と産業組合があった。戦時統制経済のもとで1943年(昭和18)に,農業団体法によって両者が統合されて,農業会が結成された。
 農林省がこれを改組して農民の自主的・民主的組織として新たに構想したのが,農協だった。それは,1947年(昭和22)に農業協同組合法が成立して具体化された。主業,兼業,規模の大小に関係なく,すべての農家が平等に扱われる「組合員1人1票制」の農協が成 立し,1ヘクタール規模の小地主をつくり出した農地改革は足元を固めていった。それと同時に,かつて産業組合がおこなった信用,購買,販売,利用などの各事業はもちろんのこと,技術指導,共済,生活改善など広範な活動が認められた。その後,農協が日本の農業に対して大きな影響力をおよぼすようになったことは周知のとおりである。
 日本は,まもなく経済の高度成長の時代を迎える。農村の住民は労働力として都会に吸 い寄せられた。このとき,農林省の首脳部は規模拡大によるコメ農業の構造改革を期待し た。農村から人が出ていくのだから農地に貸し借りが生じて規模の拡大が進み,生産性が 向上すると考えた。しかし農林官僚の思惑通りには物事が進まなかった。経済成長で全国 の土地価格が上がり,農地の価格も上昇した。これでは,農地を売るようなインセンティブもないし,貸し借りもためらわれる。また農協によって主導された生産者米価引き上げによって,生産コストの高い零細兼業農家から高いコメを買うよりも自分でコメ作りする方が有利だと考え,零細兼業農家は農業を続けた。所得倍増計画のときには,所得が倍ならば米価も倍だと強硬な主張すらされた。零細兼業農家が農地を手放さなかったので,農地は主業農家に集積されることがなく,また組合員の圧倒的多数がコメ農家である農協は農家戸数を維持したいために,規模拡大によるコメ農業の構造改革はなかなか進まなかった。
 農協が肥料,農薬,農業機械を高く販売すると,そのまま生産者米価に算入された。高い農業資材価格や米価は,農協の販売手数料の収入増加に直ちに結びついた。さらに加えて,農産物販売から葬祭業,金融業,生命保険,損害保険など,他の協同組合に認められていないものにも触手を広げる。職能組合であるのに,地域住民ならば誰でも組合員になれるという異例の准組合員制度がある。農協の共済(保険)事業は,主業農家ではなく,兼業農家や准組合員を対象として実施し,高い収益を上げた。農業は衰退傾向であったのに,農家も農協も米価の引き上げを通じて離農化や兼業化によって豊かになった。

(3)コメ生産力の上昇と農業の変貌
 農業生産は,他の産業よりも早く1950年(昭和25)前後には,戦前の水準を回復して食糧事情も次第に好転してきた。その1つがコメの生産力上昇だった。
 国の指定試験地で育成された農林番号品種が戦後に各地で基幹品種として普及した。1955年代(昭和30年代)には,これらの農林登録品種がほとんど栽培面積を占めるようになり,10アールの平均収量は徐々に上昇した。1955年代(昭和30年代)は増産に最重点が置かれて“米作日本一”の多収穫競進会で全国の精農家は腕を競い合った。この時代の単収向上はきわめて顕著で,1955年(昭和30)は10アールあたり396キログラムの大豊作になった。1960年代前半(昭和30年代後半)に400キログラムを超え,1980年代(昭 和55)に500キログラムに近づき,2010年(平成22)に652キログラムとなった。
 1955年の大豊作前後の単収増加には,品種改良のほかに栽培技術の進歩がある。明治以 来,つねに先進地帯といわれてきた九州,中国,近畿地方の生産力水準が,東北や北陸地 方によって追い抜かれたことである。このころ,寒冷地で保温折衷苗代などの早植栽培技 術が普及した。東北,北陸地方で潅排水事業を主とする土地改良が進んだ。また欧米から 導入された農薬(殺虫剤DDTやBHC,有機水銀殺菌剤は,やがてその残留毒性が問題となり,使用中止になった)が病害虫の防除や除草に用いられた。
 戦後復興を終えた日本経済は,1950年代後半(昭和30年代)から高度成長の時代を迎えた。この時期に日本の農業と農村は大きく変貌した。第一に,農業の就業人口が大幅に減少したこと,ならびに兼業農家が激増したことである。戦前は比較的一定に推移していた550万戸の農家戸数,1,400万人の農業人口,600万ヘクタールの耕地面積は,戦後に農家戸数と農業人口がともに膨張したけれども,1955年(昭和30)頃にはほぼ戦前の状態にまで戻っていた。
 しかし高度経済成長が生み出した労働力需要は,農業分野から農家の新規学卒者,次に青壮年の男性,さらには女性の順に,労働力を大量に引き出していった。こうして農業就業者は,1955年(昭和30)の1,500万人弱から1965年(昭和40)の1,150万人,1975年(昭和50)の790万人,1980年(昭和55)には697万人と減少し続けて1/2以下になった。これに対して,農家戸数は1955年(昭和30)の604万戸から1970年(昭和45)の540万戸,1980年(昭和55)の466万戸とずっと緩やかにしか減少しなかった。すなわち,農業人口の流出は,中山間地を除けば一家ぐるみの離農がまれで,一般に通勤や出稼ぎの形でおこなわれたために,農家戸数の減少よりも兼業化の形で進行した。1955年(昭和30)当時は604万戸の農家のうち,主業農家が35%,兼業農家が38%を占めていた。しかし主業農家は1970年(昭和45)に16%,1980年(昭和55)に13%と減少し,その対極で兼業農家が急激に膨張した。こうして日本の農家は少しの主業農家と,所得の大半を農外収入に頼り,農業そのものは高齢者や女性が担う大量の兼業農家とに二分された。

3.コメ過剰の時代

(1)自主流通米制度
 1967年(昭和42)にコメの自給がようやく達成した。米価の引き上げによって消費が減 少するが,一方では生産が増加するので,コメは過剰になった。いまや,コメ政策改革の 最大の弱点は過剰米対策にあった。政府は1969年(昭和44)に自主流通米制度を開始し,その一方で生産過剰をなくして政府買い入れを抑制して財政負担を軽減するための減反政策に結びつく生産調整の第一弾として,その年に「稲作転換パイロット事業」が着手され, 1971年(昭和46)からは国による生産調整の本格的実施,すなわち休耕政策が始まった。
 そのころは農協倉庫に古米として保管されたままの在庫量が最初にピークを迎えた時期だ った。国民は,消費者の立場から高い米価,さらに納税者の立場から減反補助金と二重の 負担を強いられることとなった。
 自主流通米は全量が政府の管理下に置かれているが,その制度はコメの選択を消費者自身に任せる。自主流通米として出荷される銘柄米(産地品種銘柄)は,いうまでもなく,良 質で,消費者に好まれるコメでなければならない。その指定基準には,食味などの評価が 一般的に高いほか,売買当事者の双方の合意を得ることなどが必要条件となった。需要と 供給との関係は販売ルートの広がりに影響されることが大きく自由市場に近かった。 コメが余り始めたときだったので,産地品種銘柄によって市場での取引が左右されると すれば,銘柄米に指定されなければ,その品種の将来を保証されたことにならなかった。
 自主流通米制度のなかで,「ササニシキ」と「コシヒカリ」はつねに品質が最上級のコメ, すなわち“Aランク米”として評価されてきたが,53年(1978年)産米から余り出した。
 この年に全国で売れ残ったAランク米は30万4千トンに上った。これら最上級の米が史上 初めて投げ売りされた。美味しい米が安く売られることは消費者にとってこれほどいいこ とはない。だが,売る側にすれば,これは大失態だった。すでに自主流通米として農家か ら高く買ってあったコメを投げ売りにした損失は,結局,全国農業協同組合連合会(全農) と各県経済連,そして各農協が負わなければならなかったからである。
 自主流通米の売れ行きが頭打ちになり始めると,市場での「ササニシキ」の評価が急速に冷え込み出した。特販米として投げ売りされたコメのうち,とくに多かった銘柄は「ササニシキ」だった。53年(1978)産米で,「ササニシキ」は18万6千トン,「コシヒカリ」8万トンの2倍強にのぼった。その原因は,「ササニシキ」の作付けが急速に増加したことにある。
 1993年(平成5)の大冷害に弱かった「ササニシキ」の生産量の半減による農家の「ササニシキ」離れが進み,ならびに「ササニシキ」の粘り不足が「コシヒカリ」にひけをとり消費者による「ササニシキ」離れが起こった。まもなく「コシヒカリ」が逸出して,コメの収穫高の約4割を占める時代が到来した。

(2)農地の転用
 日本が経済の高度成長時代を迎えると,農村に住む人たちは労働力として都会に出かけていった。この機会に農地の貸し借りによって規模の拡大が進み,安いコストで競争力の ある農業が実現すること,つまり構造改革が農林省の官僚によって期待された。しかし事 態は思惑どおりに進行しなかった。経済成長によって日本中で土地の価格が上がり,それ とともに農地の価格も騰がった。国が強権発動によって地主から取り上げてあたえられた 農地が財産になったのだ。他人に売りたくないし,貸し借りもしたくない気持になる。こ のようにして,日本農業の構造改革は挫折した。
 次に,各地の農地が次第に蝕まれていった。高速道路や新幹線,工場や社宅,アパートやスーパーをつくる用地が必要だった。農地を農業以外の用途に使うときには,農地は守らなければならないから当然,転用の規制がある。農地法の規定によると,市町村の農業委員会を通した申請によって都道府県知事が許可し,4ヘクタール以上の面積になると農林水産大臣の許可が必要である。ところが,経済成長の最中に,公共事業のための農地の転用は無条件で認められることになった。高速道路や新幹線の用地,また県などの自治体がおこなう学校建設の用地は,そのまま認められた。さらに,農林省は水田を他の目的に使用する基準を緩和して,国道に沿った100メートルの範囲内なら,希望すればほぼ自由に利用できるように改めた。つまり,制度が変更されて,国道沿いの水田を潰して,工場,商店,スーパー,住宅など,何でも建てることが可能になったのだ。
 1957年(昭和32)に600万ヘクタールほどあった耕地面積は,経済の高度成長にともなって農業以外に農地が転用されることなどによって今日までに四分の一も減った。減反面積の見返りに水田の転用が認められた例もある。2010年(平成22)の耕地面積は459万3千ヘクタールと報告されている。
 耕地の減少面積数のなかには,耕作放棄地とよばれて,農作物を何も栽培していない農地が存在する。1985年(昭和60)には耕作放棄地が13万5千ヘクタールで全農地の3%以下にすぎなかった。しかし,いまでは中山間地域だけでなく,近郊農地でも拡大し,2010 年(平成22)には39万6千ヘクタールにも広がり,それは滋賀県の面積に匹敵し,全農地の1割に達する勢いである。1985-2010年(昭和60−平成22)の四半世紀のあいだに, 土地持ち非農家が18万2千ヘクタール,自給的農家が9万ヘクタール,販売農家が12万 4千ヘクタールをそれぞれ耕作放棄している。したがって,耕作放棄地の発生原因として一番に,引き受け手の不在,他に農業者の高齢化や農作物価格の低迷などが考えられる。土地持ち非農家と自給的農家だけに増加傾向が続いていることは,相続対策や転売期待をおもいながら,農業を継続している不在地主や元農家が少なからず存在する可能性が否めない。

(3)古米の輸出
 米価引き上げで消費が減り生産が増えたために,コメは過剰になり,農業倉庫には古米が居座り出した。前年に収穫されたコメは,翌年の11月から正式に古米になる。自主流通米はすべて新米だが,政府米は国が決める需給計画によって古米を混入しなければならない。政府の古米持ち越し量は1970年(昭和45)に最高の720万トンを記録した。その後に,国が生産調整を実施したので古米の在庫は減り始め,約60万トンの水準を保った。しかし,1978年(昭和53)から水田利用再編対策が始まって,大幅な減反が開始されたにもかかわらず,古米在庫量は再び増加しはじめた。水田は減らしたのに,古米の量は逆に増えてしまった。それは,稲作技術の進歩によって生産性が飛躍的に向上したこと,また同時に日本人の“コメ離れ”が確実に進行していることを明らかに物語っていた。
 このようなコメ過剰,古米急増,コメ消費の減退の事態に対して,農協や食糧庁がコメの“見直し運動”をやっと始めた。1980年(昭和55)6月,食糧庁がつくった『データにみる日本の食糧』というリーフレットは,“米型の食生活を見直そう”というもので,全国の小,中,高校に配布された。1976年(昭和51)から始まった学校給食への米飯導入をさらに普及・推進するためだった。農協側もコメ消費拡大運動として,コメ販売農家から1俵あたり5円ずつの拠出運動を開始し,全国で13億円にのぼった。全国農業協同組合中央会(全中)はこの資金をもとに,学校給食用食器を補助したり,各地のコメ祭りに補助したり,消費拡大のためのPRなど,きめ細かく運動をつづけた。
 大量に残った古米の処理について,政府は1979-83年(昭和54-58)度までの5年間で,50年産米から53年産米までの650万トンを輸出・飼料・工業用の3つの用途に分けて処理することを計画した。輸出用は52年,53年産米,飼料用は50年,51年産米,工業用は52年産米をあてる。しかし計画はうまく進行しなかった。
 1979年(昭和54)から1980年(昭和55)春にかけてコメ輸出国の米国が日本のコメ輸出にクレームをつけたことから始まった。政府の54年度古米輸出は20万トンを予定していたが,インドネシア,韓国,バングラディシュなどからの引き合いが相次ぎ,輸出量は93万トンまでに達した。世界のコメ貿易量は年に1,000万トン強にすぎない。90万トンを超える日本の輸出量は,これまで韓国,インドネシアなどに年間220万トンほど輸出していた米国には脅威で,「日本が生産者米価よりも極端に安い価格で輸出しているのはダンピングだ。韓国やインドネシアなどへの輸出は,米国の計画的輸出に支障をあたえる」と,日本にコメ輸出の自粛を求めてきた。当初,米国は輸出ゼロを要求していたが,世界のコメ需要が強く,コメ輸出は東南アジアやアフリカの経済的,政治的安定に必要であるとの見解で両国が一致し,結局,4年間で160万トンの輸出ということで話し合いがついた。日本のコメ輸出にワクがはめられたのだ。

(4)減反による生産性阻害
 減反政策は稲栽培の生産性向上も妨げた。一定の総消費量のもとで単収が増えると,コ メ生産に必要とする水田面積は少なくなる。そのようになると,減反面積は拡大しなけれ ばならなくなり,減反補助金が増大してしまう。このために,単収の増加,つまり多収性品種の育成は品種改良の本筋から外れることになった。
 10アールあたりのコメ生産量は,1970年(昭和45)と2005年(平成17)の30年間に 431キログラムから527キログラムに増加した。この期間の生産力の向上は,機械化の進 展と水田の区画整備による。1970-74年(昭和40年代後半)に田植から稲刈り,脱穀,乾 燥まで機械でおこなう機械一貫体系が確立し,労働時間が大幅に短縮した。1970年(昭和 45)にはコンバイン所有率はほんの0.8%にすぎなかったが,2009年(平成21)になるとほぼ7割までに増え,以前は10アールの稲刈り・脱穀労働に38時間もかかっていたのに4時間ばかりで済んだ。また1989年(平成1)からは,無人ヘリによる農薬散布が実用化した。一方,30アール程度以上の区画整備率は,1964年(昭和39)には2%だけであったけれども,2009年(平成21)には62%まで進行して機械化の効率性を大いに高めた。
 2010年(平成22)に,中国はGDPが日本を追い越して,世界第二位の経済大国になった。この年の中国のコメ単収は10アールあたり659キログラムを記録している。これは,日本のコメ単収,10アールあたり652キログラムにほぼ等しい。
 同じように,新興国でコメ単収の伸びは目覚ましい。最近20年間,1989/90-2009/10年(平成1−22)のあいだに,ブラジルは単収が10アールあたり191キログラムから407キログラムに,カンボジアも単収が143キログラムから284キログラムに,ベトナムも単収が320キログラムから599キログラムに倍増している。これらは,多収穫のコメ品種を開発したことによる努力の成果である。

4.自由化の時代と農業振興

(1)自由化へ移行
 1981年(昭和56)に食糧管理法の改正がおこなわれて,40年の長期間にわたって続けられてきた配給制度がようやく停止した。ついに1995年(平成7)には,コメの価格と流通を統制していた食糧管理制度が廃止された。この食糧法改正によって,流通規制が大幅に緩和され,それまで免許制だった卸・小売りが自由化された。コメを扱う業者数が増加して競争が激化したために,コメの価格が下落した。
 コメは収穫されると,その大半が全国の各農協に出荷される。約7割が全国農業協同組合連合会(全農)などの全国出荷団体に納められ,そこから9割が相対取引で卸売業者などに出荷される。残り1割がコメの公設市場である全国米穀取引・価格形成センターに上場し落札されて卸売業者に渡り,スーパーなどの小売店や外食店に販売されて,ようやく消費者の手元に届くようになっている。
 この食糧法の改正をうけて,全国の各産地で“売れるコメ作り”に向けた取り組みが加速した。特別栽培米や有機栽培米の米袋が小売りの店頭に並ぶようになった。特別栽培米は農薬や化学肥料の使用量が通常の半分以下のコメであり,有機栽培米は過去3年以上,化学肥料を使用しない田でつくられたコメである。安全で安心な,うまいコメが売れる。
2004年(平成16)に施行された改正食糧法は,今後,成果主義に移行して販売実績によって翌年の生産量が決まるようにした。流通はますます自由化に進み,政府買い入れは備蓄に限定された。

(2)産地間競争
 コメの卸・小売りが自由化になり,コメの味を追求する品種開発が進められた。1975-1984年(昭和50年代)は食味の良い品種として「コシヒカリ」と「ササニシキ」が消費者に評価されて,新潟コシ対宮城ササとして互いに勢力を争った。1993年(平成5)の大冷害に弱かった「ササニシキ」は生産量が半減したので,農家がササニシキ離れを惹起してしまう。「ひとめぼれ」という耐冷性品種が開発されて宮城県の奨励品種に採用されたが,「ササニシキ」に比べるとそれほど伸びなかった。こうして,1956年(昭和31)育成の「コシヒカリ」が30年以上にわたって日本一の栽培面積と生産量を誇る状況が続いた。
 「コシヒカリ」は,元来,イモチ病に弱かったために,新潟県はイモチ病耐性のBL系統を開発して,2003年(平成15)に一斉に切り換えた。厳密にいえば「コシヒカリBL」という別品種であるにもかかわらず,「コシヒカリ」を襲名させた。一部の消費者から“これまでのコシヒカリの味とちがう”とクレームがついて農家に不安の念が高まっている。
 高温が続くとコメは白濁部分を増大し,最高品質の1等米の比率を低下させる。この 背景にあるのは温暖化である。2010年(平成22)産米の1等米の比率は,全国平均で61%, 1999年(平成11)産米の62%以来の低い値になった。高温障害は東北以南の都府県に広 く被害を発生させている。新潟県では1等米の比率が30%以下とかなり低くなり,「コシヒカリ」は高温障害に弱い品種であることが認められた。コシヒカリ神話にかげりが現われはじめた。
 全国各地で品種開発の熾烈な競争が展開されている。早くから温暖化の影響が現われた佐賀県は,2009年(平成21)に高温障害に強い品種「さがびより」を開発し,食味ランキングで最上級の特Aと評価された。同じように,山形県も,2009年(平成21)に高温障害に強くて,ほどよい甘みとさらりとした食感が楽しめる,食味ランキングで特Aの「つや姫」を開発し,宮城県と大分県も奨励品種として採用した。また,これまで稲作に適していないとされてきた北海道では,「ななつぼし」が北海道品種として初めて特Aに入った。

(3)戸別所得補償制度
 海外では,1993年(平成5)にEUは政府が保証する最低支持価格水準を大幅に引き下げて直接支払う所得補償制度を導入した。米国も,1996年(平成8)になると,農業法を改正して,減反を廃止し価格支持から直接支払いへ改革をおこなった。
 日本では,コメの価格と流通を統制していた食管制度が廃止され,コメ先物市場を創設しようという機運が高まった。2005年(平成17)に東西の商品取引所がコメの先物市場を農林水産省に申請した。しかし農協の反対に遭い,当時の自民党政権のもとでは認められなかった。農協は,先物価格が高くなると農家が減反に協力しなくなると主張した。しかし実は先物市場が認められると,農協は現物操作によって米価が維持できなくなるからだった。すでに述べたように,農協は全国米穀取引・価格形成センターでコメの入札取引をおこなっていた。入札取引による米価維持には限界がある。農協は米価低落にストップをかけたいので,同センターの利用をやめて,卸売業者との相対取引に移行した。農協は圧倒的な市場占有力をもって,卸売業者と相対で取引すれば,米価に強い影響力を行使できるからである。利用されなくなった同センターは,2011年(平成23)3月に廃止された。
 しかし,事態は思惑どおりに進まなかった。政権についた民主党はマニフェストに戸別 所得補償を掲げているので,一定の農家保証価格と市場価格との差額を国費で補填しなければならない。そのためには,算定の基礎となる市場価格を透明にする必要があった。
 商品取引所は,再度,米価の客観的な指標を提供するために,コメの先物市場を申請し た。農協の相対取引への移行が再申請の理由をあたえてしまった。民主党に政権が移った 転機に,農林水産省は申請を認可した。もちろん農協は先物市場反対の全国運動を展開し た。しかしながら,徒労に終わった。
 2003年(平成15)までの民主党の選挙公約は,減反の廃止によって価格を引き下げて, その影響を受ける主業農家だけに対象者を絞って直接支払いをおこなうというものだった。だが,2004年(平成16)の参議院選挙の民主党マニフェストでは,「対象者を絞って」という要件を除外した。2007年(平成19)には,民主党はすべての販売農家を対象にする戸別所得補償の導入と減反の廃止を主張して参院選に大勝した。
 民主党の農業改革には減反廃止による価格引き下げがあったはずなのに,2008年(平成 20)には減反維持へ転向することを表明する。そして2009年(平成21)の総選挙で減反を支給条件とした戸別所得補償の導入に節を曲げた。減反による高い米価に戸別所得補償が上乗せされる。規模の拡大や単収の増加を阻むような農政では,いつまでも国民の負担は減少しない。

(4)環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の課題 TPPは貿易自由化のための協定であるから,日本の農業にとって非常な打撃だが,その他の産業,とくに製造業にとっては必要なので,これを推進すべきであるとされている。
 すでに述べてきたように,日本の農業で最大の歪みはコメである。片手間ではできない労働集約的な野菜の担い手は,ほぼ8割を主業農家が占めており,畜産,酪農も同じように約90%の主業農家が担っている。ところが,2010年(平成22)コメの産出額シェアは38%が主業農家,26%が準主業農家,36%が副業的農家となっている。販売農家は農地が30アール以上または農産物販売金額が年間50万円以上,このうち年間60日以上農業をしている65歳未満の農業従事者がいて,農業所得が主たる(半分以上の)世帯が主業農家, 農業以外の所得が主たる世帯が準主業農家,そして60日以上従事する65歳未満の農業従 事者がいない農家が副業的農家である。高齢化が進んで,副業的コメ農家の割合は76%に 達するが,副業的農家の農業所得はわずか25万円程度で年金収入のほうが多い状況である。
 日本のコメと米国のカリフォルニア米とは品質的に近いけれども,日本人が食べているのは短粒種,カリフォルニア米は中粒種で異なるコメだ。米国では約1,000万トンのコメが生産されるが,その約70%は長粒種で,中粒種が29%,短粒種はほんの2%にすぎない。
 長粒種は玄米の長さが6.6-7.5ミリメートルで精米の長幅比が3.0:1以上のもの,中粒種は玄米の長さが5.5-6.6ミリメートルで精米の長幅比が2.0:1−2.9:1のもの,短粒種は玄米の長さが5.5ミリメートル以下で精米の長幅比が1.9:1以下のものであり,それぞれのコメ粒の形は異なる。
 米国の輸出400万トンのうち,中粒種と短粒種を合わせても,20%の80万トンにしかな らない。オーストラリアでもコメ生産がおこなわれている。干ばつにせよ洪水にせよ,稲 作にとって致命的だが,オーストラリアのコメ単収水準は高くて価格競争力も強い。“自由 化”に向かったときに,日本市場に参入してくることはほぼ間違いない。北半球の日本と は季節が半年ずれており,6月には新米の出荷が可能である。その意味では,オーストラリア産米は,“超々早場米”としての条件をもつ。このコメは中粒種なので,米国の中粒種, つまりカリフォルニア米の潜在的な競争相手として存在する。
 TPPは“関税同盟”とよばれる経済協定である。加盟国間では関税率を引き下げるけれども,非加盟国とのあいだでは従来どおりである。したがって,後者をみると,「排他協定」 である。加盟国間の貿易は促進され,加盟国間の経済にプラスの影響をあたえる。しかし, 非加盟国との貿易は,加盟国との相対的な関係では以前に比べて不利になるから,マイナ スの効果をもつといえる。
 日本が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に参加することでどんな利益が得られるか。まず米国やオーストラリアから農産物の輸入が増大することが考えられる。これは一般にTPPの問題点であるとされているが,それは国内農業を保護する観点からの評価である。日本としての食料の安全保障政策,つまりセーフティ・ネットが立てられていないことに原因がある。日本の消費者の立場からすれば,安い農産物が入手できることの利益は非常に大きい。ただし,この実現には,日本が一方的に農産物関税を引き下げる方法もある。
 もしもTPPを締結して米国が輸入関税を引き下げると,米国への日本の工業製品輸出は増加するだろうか。すでに,工業製品に対する米国の輸入関税はかなり低くなっているので,輸出増加は期待できないだろう。経済危機のあと,日本から米国への輸出は著しく減少したが,それは米国国内で自動車の購入が減退したことと,円高が進行したことにもとづいている。
 いま,日本の最大の輸出国は中国である。TPPへ参加することは,米国との比較において,中国との貿易が相対的に不利になることを意味しており,最大輸出国との貿易が阻害されることになる。日本と米国は友好関係を維持することがきわめて重要であるけれども,同時に対中経済関係や国内問題をよく考慮し,国益を踏まえてうまく進めることが求められている。

5.今後の課題

 市場開放に向けてコメ政策のあるべき戦略は,統制システムから市場システムへの転換,生産調整の廃止,米価の変動・下落に対応して政府によるセーフティ・ネットの構築,コメ作りの担い手に対する直接支払いへの転換が考えられる。これらを組み合わせて政策体系をつくり上げて,早く実行することだ。大規模経営でなければ生産コストは安くならない。コメ生産コストに高いウェイトを占める農業機械の耐久性やサービス体制が,過半数を占める兼業農家向けにおこなわれてきたけれども,これからは大規模経営の主業農家が使用する農業機械の開発を急がねばならない。
 日本のコメは商品価値が高いので,規模を拡大して効率化によってコストを削減し,品
質の向上によって食味を追求して増収すれば,海外で勝負できるだろう。

(20ll年10月21日)

(「世界平和研究」2012年2月号,192号掲載)