世界における農産物自由貿易の意義と日本の食糧問題の行方

伊東 正一(九州大学大学院教授)
Shoichi Ito

梗概

 日本は,戦後の復興から貿易立国として経済を発展させてきたが,その一方で多国間自 由貿易の枠組み構築に対しては,とくに農業分野の保護を掲げて消極的な対応も見せてきた。近年外交課題の一つに上がっているTPP に対して賛否両論の熱い議論がなされている。自由貿易体制に最も閉鎖的な分野とされる農業分野であるが,世界の食糧事情の現実とその背景を直視すれば,国内的視点にだけとらわれていては見えない,国の存立にとってもっと重要なことが見えてくるように思われる。

 食糧需給について言えば,一般に先進国は消費者の立場を優先して考え,発展途上国は 供給サイド(生産)のことを優先して考える傾向が見られる。つまり国が発展するとともに,それまで供給サイドのことで精一杯だったものが,消費サイドを重視する社会に熟してくるわけである。例えば,東南アジアのタイでは消費者サイドのことがほとんど考えられていないが,欧米では消費者サイドに立った食糧に関する研究・分析がさかんに行なわれている。ここでは,発展国である日本の食糧問題に関して消費者の立場からどう見ていけばよいのか―について考えてみたい(なお,本稿は2011 年12 月23 日に福岡で開催された「福岡アカデミーフォーラム」で「TPPとわが国の進路:国内外の食料需給の方向性」と題し,口頭発表したものをまとめたものである)。

1.TPP(環太平洋連携協定)

(1)TPP の背景
 2007 年〜08 年にかけて世界の穀物価格が暴騰したことがあったが,そのとき世界各地で暴動が起きた。暴動が起きた国々を見回してみると,そこに共通な点は経済的困難を抱えた発展途上国ということであった。一方,先進国といわれる国々では,暴動が起きるところまでは至っていない。こうしてみると食糧問題は,単に農産物の需給関係だけで見るのではなく,農産物の国際価格変動など経済の視点からの分析が重要である。
 今話題になっているTPP(Trans-Pacific Partnership Agreement)は,もともと2006年にシンガポール,ニュージーランド,チリ,ブルネイの4 カ国の経済連携協定として出発したものだ(通称「P4 協定」)。その後,APEC 諸国に開放されていたことから米国が関心を示し,オーストラリア,ベトナム,ペルーも加わって8 カ国が中心となり,P4 を発展させた広域経済連携協定を目指す「環太平洋パートナーシップ協定」の交渉を始めた。さらに,マレーシアが参加。2010 年には日本にも参加の話が来てTPP への(交渉)参加を表明することになった。またカナダ,メキシコも参加の意思表明を行なった。
 TPP の要点を簡単に言えば,10 年以内に域内の関税をゼロにするということである。とくに農産物について言えば,域内で自由に取引できるようなしくみを作ろうというものだ。GATT/WTO の多国間の貿易自由化交渉では,ケネディ・ラウンドや東京ラウンドなど,これまで7年くらいで交渉がまとめられ合意にたどり着いたが,2000 年以降は各国の利害が衝突して交渉がなかなか進まない状況に逢着したために,最近ではFTA やTPP のような二国間あるいは数国間の経済協定へと方向が変ってきた経緯がある。

(2)農業分野への影響
 TPP によって域内関税がゼロとなり農産物の市場開放が行なわれたときの日本農業への影響について,農水省は,関税率10%以上,生産額が10 億円以上の19 品目(コメ,コムギ,甘味資源作物,牛乳乳製品,牛・豚・鶏肉,鶏卵など)を対象として試算を行なった。それによると,農産物の生産減少額4 兆1000 億円,食料自給率40%→ 14%,農業の多面的機能の損失額3 兆7000 億円,GDP 減少額7 兆9000億円,就業機会の減少数340 万人などである。
 TPP によって最も影響を受ける日本の農産物はやはりコメだと思う。先の農水省の推計では,コメは年800 万トンの生産量が十分の一程度にまで落ち込むという予想である。しかしこうした予測に関しては,正確なところは誰にもわからない。世界のコメ輸出に関して,輸出量でみると,米国,ベトナム,豪州などが大きく,米国から数百万トン,ベトナムからも百万トン程度,それぞれ日本に輸出される可能性がある(日本を含むTPP 交渉国の現在のコメ需給状況については,図1,2 を参照のこと)。
 真の食糧安全保障の観点からいえば,われわれの食料がしっかりと確保(供給)されることが前提となる。そこで,現在の日本の食料自給率(カロリーベース)40%についてどう考えるかである。あるとき米国からの帰国途上の機内で,ある日本人高齢者と話をしたことがあった。そのときその人はしきりに「将来の食料がどうなるか,とても心配だ」と不安を訴えていたのが印象的であった。
 そこで以下に,世界の食糧生産の現状についてのデータを紹介しながら,日本の食糧問題について考えてみたい。

2.食糧問題と経済原則の関係

(1)世界の食糧増産の潜在性
 コムギの生産量についてみると,1990 年に史上最高を記録したが,その後7 年間はそれを下回り,1997 年にようやく史上最高となったが,その後再び7 年間それを下回った。コムギの新たな史上最高は2004 年になってからであった。コメは,1999 年に史上最高を記録したが,その後6 年間はそれを下回った。その後はコムギもコメも漸増傾向を見せている(図3)。
 それではなぜそのような長期にわたる減産が起きたのか。実は,その変化の要因は世界の気象条件というよりは,農産物の国際価格が安かったためであった。つまり,国際価格が安くなり生産者の生産意欲も低下したことによる結果であった。価格が低下しても生産コストも下がれば儲けも増えるので生産は増えるが,そうでなければ農家の生産意欲は高まらない。食料生産といえども,経済原則・市場原理がしっかりと反映していることが分かる。これはコムギもコメも同様だ。トウモロコシもこの期間は増産のスピードが落ち込んでいる。農業生産は,気象などの自然環境条件だけに左右されるのではなく,経済原則の影響も大きいことを知らなければならない。日本のマスコミが食糧問題について報道するときに,こうした価格変動など経済的条件について言及しないことが多い。その点については,よく留意しておく必要がある。
 世界の穀物生産についてみると,近年コムギを超えてトウモロコシの生産量が非常に拡大し世界一の穀物となっている。これはトウモロコシは,食用としてばかりではなく,家畜のエサやエネルギー源としての用途・需要が急激に増えているためである。ダイズも同様で,需要が非常に増えている。
 ところで,エサ用に使う穀物は基本的にトウモロコシだが,それはなぜか。コメやコムギの国際価格と比べて,トウモロコシは一貫して価格が安かったためであった(後述)。それが理由で,エサやエネルギー源に使われるのである。もしコメやコムギも価格が安くなれば,エサにも使われるに違いない。
 コメの単収についてみてみると,日本は1980年代前半までは世界一の単収を誇っていたが,その後米国に抜かれ,現在は米国が一番である(図4)。中国は,単収が驚くほど急激に伸びており,近いうちに日本を追い越すだろうと思われる。中国の単収の増加は,コムギ,トウモロコシについても似たような傾向が見える。このように,世界各国における農業生産はどうにもならないのではなく,技術開発と努力によって生産性は伸びることを示している。
 農業の潜在性について実例を挙げて説明したい。
 アフリカ大陸の南東部に位置するのモザンビークは,人口約2000 万人(2008 年),面積は約8000 万ヘクタール(日本の2.1 倍),可耕地約4000 万ヘクタールを有しているが,現在の耕作地はわずか300 万ヘクタール程度であり,4000万ヘクタールくらいは開発可能な耕地がある。ブラジルも5000 万ヘクタールほどの開発可能な土地がある。このように世界各地には,まだ多くの潜在地が残されている。
 それでは,過去半世紀における人口の増加率と食料生産量の増加率を比較しながらみて みたい(図5)。世界の人口増加率は,60 年代は2%ほどであったが,2000 年代になると1.2%まで低下した。コムギの90 年代以降を除けば,それ以外の穀物生産量の伸びは人口増加率を上回っており,食料増産から見ると人口増加に対して需給が良くなっていることがわかる。

(2)原油相場と穀物価格の相関関係および投機性
 2008 年7 月に原油価格が145ドルを記録したが,当時穀物価格も同様に上昇した(図6)。その後,同年12 月には原油が35ドルに下落すると穀物価格もそれにつられて下落した。このように原油価格と穀物相場が非常にリンクしていることがわかる。さらに,原油価格,穀物価格の変化の関連性が,とくに2007 年ごろからはっきりしてきたように思う。原油が投機的に動くためにそれにつられて穀物も投機的に動くようになった。そうなると穀物の生産コストはまったく関係ない。災害などによって穀物の生産地が打撃を受ける,生産が豊作となるなどの要因によって,穀物価格が変動することもあるが,おしなべて原油価格と穀物価格は連動している。とくにトウモロコシがエタノールの原料として使われるようになって,トウモロコシと原油が間接的代替財になったことは大きい。
 次に,コメに関して国際価格がどのように動いているかについてみてみよう。
 米国の状況が国際相場を代表しているが,米国の代表的なコメ生産地であるアーカンソ ー州のコメ(アーカンソー長粒種)の価格は,2008年5 月には900ドル/トンを突破したが,現在は600ドル/トン前後で推移している。一方,日本人にもなじみのあるカリフォルニア米(中粒種)はそれよりはるかに高い価格で推移している。それはなぜかと言うと,日本がカリフォルニア米を輸入しているためだ。日本は年間76.7 万トン(玄米換算)のコメを輸入しているが,その半分がカリフォルニア米なのである(図7)。
 米国と日本のコメの国内価格を比較してみると,日米ではだいぶ差がある。このような現実を見ると,もし日本の農産物市場が開放されれば,米国産のコメが多く入ってくるだろうという予想は当然出てくる(図8)。
 世界におけるコメ・コムギ・コーン・ダイズの実質価格の変動を見てみる(図9,10)。われわれが過去数十年間の価格変動を見るときには,実質価格で比べるのが重要である。実質価格は,インフレ率などを考慮して価格を補正したもので,簡単に言えば,現在の貨幣価値を基準として過去を見たものである(図10)。この図を見ると,1974 年ごろのオイルショック時代の変動は,2008 年の穀物価格の高騰と比べてもずば抜けたものであったことがわかる。
 世界の農産物においても,価格が高騰すると生産が伸びる傾向がある。コメについて言えば,2008 年の穀物価格高騰のあと,世界のコメ生産が2.8%ほど伸びた。90 年代後半にもコメ価格が高騰して生産が年平均で2.5%ほど増えた。そして,2008 年の世界の全穀物の増産率は,価格高騰の影響により5.1%増であった。経済の変動と生産との連関性をよく示している。その後も,トウモロコシとダイズは世界的に増産されている。
 こうした事実からわかることは,価格の低迷は減産を引き起こすが,価格の上昇は世界の農家を目覚めさせ大量の増産を引き起こすのである。

3.最後に−世界に開かれた日本のための基盤

 いま世界の総人口は70 億人を超えたが,今後人口爆発は来ないだろうと予測されている(図11)。世界の人口増加率は着実に減少傾向を示しており,現在1.2%くらいだが,やがて1%を切るだろう。そうなると2050 年ごろに世界の人口は90 数億人になるとされ(国連推計),2100年ころになってもせいぜい100 億人前後を推移していくのではないかと言われている。「人口爆発」がさかんに言われたのは1990 年ごろで,当時2050 年には108 億人になると予測されていた。それに伴って世界の食料不足が懸念されたのであった。しかし,その後は下方修正が加えられ,中には人口減を予測する向きもある。
 そのような世界の趨勢の中で,日本の食糧危機は本当に来るのか。私は「人間が怠けな い限り食糧危機は来ない」と思う。時に「有事の際には・・・」と言われるが,それでは「有事」とは何か。当然ながら,戦争,自然災害などだろうが,戦争は本当に起きるのか。しかし,本当に戦争になればそれは言語道断であり,そういうことが起こること自体が許されない。
 もう一つの有事である自然災害はどのようにして克服するのか。例えば,現代科学を持ってしても台風を阻止することはできないし,数時間後の地震を予測することさえできない。それが現在のわれわれ人類の技術のレベルなのである。米国でもわずか50 〜100 メートル幅で動くとされる竜巻(トルネード)の猛威を止めることができない。それだけ自然の力,神の力は凄まじいものだ。
 それに対してわれわれはどうすべきか。食料の安定的な供給を保持しようとすれば,リスクの分散を図ることである。そのためには世界と手を結んで食料供給のソースを拡げるための自由貿易を推進することが重要である。内にこもるのではなく,世界への広がりの中で解決を図るしかない。仮に日本が自給率100%を達成したとしても,自然災害や有事に見舞われて食料が不足したときには,国が閉ざされていては,どうすることもできないのである。
(2011 年12 月23 日)

■いとう・しょういち
1953 年宮崎県生まれ。宮崎大学農学部卒,米国アーカンソー大学およびテキサスA& M 大学大学院にて博士号取得。日本農業新聞社,米国ワシントン・国際食料政策研究所勤務等を経て,1991 年鳥取大学農学部助教授,03 年同教授,06 年九州大学教授となり,現在,同大学院農学研究院教授。専攻は,農政学,国際食料需給政策論。主な著書に『世 界のジャポニカ米:その現状と潜在的生産能力』『世界の穀物統計』など。ホームページにより世界200カ国・地域の「世界の食料統計」などを公開
(http://worldfood.apionet.or.jp)。