独裁的中央集権国家の限界と中国共産党体制の今後

黄 文雄(拓殖大学客員教授)
Ko Bunyu

<梗概>

 政治,経済,軍事などさまざまな面で世界的に存在感を高めている中国であるが,海洋覇権を強く主張し行動に出始めた今日,周辺国を始め,米国その他の国々との摩擦・衝突を引き起こしている。中国の歴史をひもとけば,秦王朝の統一以来,紆余曲折を経ながらも大きな流れで見れば,今日まで中央集権体制が強化される方向に進んできた。本来中国は多元的な社会でありながら,強制統合を達成した歴代王朝は,自然の法則を破壊しただけでなく,中国が本来もっていた多元社会の自律機能まで破壊し人間の本能的創造性までも奪ってしまった。この「大一統」の思想は,論理ではなく一種の宗教信仰に近いものである。そのような歴史的経緯を振り返りながら,胡錦濤体制から新体制に移行する中,今後の行方を展望する。

1.中国の国家観

(1)支配者の支配領域が「国家」
 中華帝国の伝統的境界はきわめて曖昧であり,事実上,中華帝国は伝統的国境というものがなかった。常に歴代王朝の盛衰によって,帝国の版図が拡大したり,縮小したりした。とはいえ,中国に全く「境界線」がなかったということを意味するものではない。
 国境線は人類が近世になって初めてつくったものであり,列強の時代に国際法が確立し,近代的国境線概念が成立した。つまり国境という概念は、近代国家の人為的歴史的産物であるといえよう。それゆえ近代以前の歴史的空間の設定は,きわめてむずかしい。歴史的地域の設定はきわめて不確定であり,歴史学の範疇としても複雑にならざるをえない。
 (万里の)長城とは,まさしく中国人のもっとも代表的な伝統的境界線であり,世界に類のない壮大な人工的境界線ともいえよう。それは農耕民族と北方遊牧諸族との軍事的、政治的かつ人為的境界線であり,生産様式が異なる農耕民と遊牧民の生活の分界線でもあった。
 王権と王威の及ぼす範囲は,あいかわらず国力の盛衰によって激変した(図参照)。円心の中原は中華文明発祥の地であり,中原外周の同心円は二千年来中華文明の発展,拡張から生まれ,定着した中華世界である。
 中原の原中国人から見れば,天子の徳化,王化の力とは無限のものであり,中国の境界も王化の力とともに無限に広がる。たとえ華化されていなかった化外の地であっても,中華帝国の物理的力でなくても文化の力が及びえるところは,将来必ず華化され,そして中国になる。それゆえ理論的には,「天下あまねく,王土に非ざるものなし」(普天之下,莫非王土)ということになる。
 このような伝統的国家観をもつ中国人が,近代国家概念を理解するのは,決して容易なことではない。
 従来の中国人にとって「国家」とは,ほとんど支配者一家の支配領域を指すものである。すなわち,朝廷・皇帝と皇室,それを拡大してその官僚群および帝室の家産を管理する機構を指すものである。「国破れて山河あり」の「国」とは,ただ帝室とその体制を指すものにすぎなかった。
 戦国・秦漢以後には,国家は皇帝・皇室を中心とする政治運営において官僚の果たす比重が大きくなっていった。国家の存亡と士大夫階級(官僚階級)の利害関係とが一致するので,士大夫階級の利益を保護する機構が国家になった。国家はそこで士大夫階級による庶民抑圧機構になった。庶民は国家からいかなる利益も得られないばかりか,搾取の対象でしかなかったので,彼らは体制と国家の変更を拒否しなかった。
 だから歴代王朝の末期になると庶民は身体を張って国家を防衛するよりもむしろ反乱に参加し決起することが多かった。事実,歴代王朝は農民反乱によって倒壊していった。
 伝統中国では,「国」と「民」とは無関係なものである。「民」とは天から生まれた自然的な存在である。だから「生民」と言われる。生民の上に「朝廷」があり,それが「国家」である。国と民との利害関係は対立する場合も多いので,「剥民肥国」「国富民窮」といわれる。つまり民はしぼればしぼるほど国が豊かになり,国が富めば逆に民が貧しくなるのだ。人民中国にあてはめれば,「国家」は党の特権層を意味する。

(2)天下とは政治的空間
 孫文は『三民主義』民族主義第五講の中で,国族主義(民族主義)は中国固有の宗族が結合して拡大したものだと説く。家から国へと拡大した国家観は中国人の伝統的国家観といえよう。中国人からすれば,国家とは独立の人格をもつ個人からなるものではなく,血縁単位をもつ家族が拡大してつくられたものであると観念される。
 天子そのものが天下万民を統率する唯一者だという考えは,中国を世界の中心と考える思想からくるもので,古代中国人にとって天下と国家は違うものだった。中国とは天下であって,国家ではないのだ。しかしそのような考えは,決して(世界史の)主流ではない。
 近代中国の思想家・梁漱溟(1893-1988年)の「“中国”とは文化であり,国家を超越している」という考え方は,中国流の自慢の一つである。具体的に言えば,秦以降の中華帝国は天下であって国家ではなかった。「大元」以後は「大明」「大清」帝国が現れたが,「明」「清」は王朝の号であって国名ではない。中華民国が目指したのは近代国民国家であり,天下国家ではない。それゆえ清は国名ではないから国家にふさわしい国名をという論争になったのである。 
 前述したような天下観が古代中国で成立したものとはいえ,それは東アジア大陸に中華文明に匹敵する新文明がまだ出現しなかった時代にあって,中華世界の士大夫階級が夢中に天下を語るに終始した中華世界内だけのことである。資本主義が世界に拡大し,世界史が成立するようになると,中国人の伝統的天下・国家観が,近代国家観,世界観と根本的に違うことがおのずから明らかになった。
 中国人の天下観と西洋人の世界観は,一見すると類似しているようだが,概念も本質もかなり違う。中国人の天下観は,単なる物理的な空間ではなく,政治的な空間概念でもある。天上を主宰する「天」(天帝)から天命を受け,天下を主宰する唯一者が「天子」である。このような無限空間(天下)に国家が成立するわけはない。
 中国は独自の天下観に基づき無理やりに一つだけの国家をつくろうとするところから,社会争乱が絶えず起こり,人類史上もっとも争乱の激しい殺し合いの歴史を重ねたのではなかろうか。
 「中国は国家ではない」といったのは,「支那非国論」「支那無国境論」を唱えた東洋学者・矢野仁一・京都帝国大学名誉教授(1872-1970年)であった。矢野教授は,「辺境は中国の政治の及ぶ範囲であっても,恒久的国境線はないので,近代国家としての国家とはいえない。民族国家としての国民的統一に向う原理を欠いているので,多民族帝国そのままであった清の版図のまま,国民国家を形成することは無理である」と述べた。
 中国人は異民族に征服されても,征服した異民族の地を中国の固有領土として主張する傾向がある。今日中国は,モンゴル帝国や清帝国の最盛期の領土を中国の「固有領土」だと主張して譲らない。さらには異民族に征服されても,すぐ征服者の先祖を自民族の祖先として祭り上げる奇妙な伝統がある。例えば,モンゴル人である・チンギス・ハーンを明太祖の子孫たちは無理やりに元の太祖として追謚し,今でも歴史教科書で,「民族英雄」として教えている。
 人口からみても,面積からみてもヨーロッパ全体を上回る中華世界を無理やりに一つの国家にしようとするから争乱が絶えない。天下を無理やりに一つの国家にしてきた中国統一の思想こそ,中華世界の争乱の元凶であった。

2.「近代国家建設」の試みと孫文の限界

 19世紀末から20世紀初めの頃,清朝の人々の国家意識を象徴的に示す次のような話がある。清朝末期に近代化を進めるために多くの中国人が日本に留学に来た。早稲田大学には清国留学生部があったが,そこに属する卒業学生たちが書いた書類に「国籍」を書く欄があった。それを見ると「支那」「中華」などさまざまであった。このことからも分かるように,当時の中国人の(近代的)国家意識は希薄であった。
 清朝末期から辛亥革命後樹立された中華民国の時代に,欧米近代国民国家をモデルにした国民国家を目指す動きが出てきた。例えば,国名について「大華」「華夏」「中華」など,どのような名称にすべきか多くの論争があった。孫文一派の革命同盟会の中でも当時まだ国名は決まっていなかった。革命同盟会の中の革命派である徐錫麟と秋瑾らは満洲族を追い出すという考えをもつ大漢民族主義者たちで,「新中華帝国」という名称を主張した。また国学者・章炳麟は「中華民国」を主張したものの,革命同盟会の中ではなかなか通用しなかった。
 国民党の中には,康有為や梁啓超,張謇など科挙合格者がたくさんいて(進士レベルのエリート層),立憲派,維新派を形成していた。一方革命派は,匪賊出身が多く武闘派だった。孫文は中国の伝統についてはあまりわからず理論派ではなかった。そのため章炳麟など理論的で議論のうまい維新派の論調に押されてしまい,最終的には中華民国となった。
 辛亥革命の後,どのような国家を造るかを考えた。孫文は,最初米国型の連邦国家を考えたが,その後はフランス型の共和制に変わっていった。さらに孫文はレーニンを尊敬していたこともあり,ロシア革命後の社会主義体制こそが新民主主義国家だと考えるようになった。
 孫文は頭山満(1855-1944年)の裏工作によって来日し(1924年)神戸で講演をしたことがあった。そのとき孫文は頭山満と二人で長時間にわたって話をしたといわれるが,その内容はわかっていない。ただ私の想像では,孫文がロシア革命に傾斜したことに対して頭山は,「裏切り者!」などと相当非難したのではないかと思う。
 孫文は,モンテスキューの三権分立とリンカーンの「人民の,人民による,人民のための政治」の理念から,「三民主義」(民主,民族,民生) と「五権憲法」(司法,立法,行政,考試,監察)を主張して,中華民国建設の理論的基礎にした。
 日本の中国研究者の中にも三民主義を共産主義に代わるものとして高く評価する人が少なくない。しかし,権力分散というのは多ければ多いほどよいというようなものではない。三民主義の理想によって成立した中華民国体制は,国民大会と立法院の権限が不明確で,行政・立法・司法以外に,更に伝統的科挙の名残から「考試院」,伝統的官僚監視機構から「監察院」など,五院の分立による過剰な権力分散から権限が互いに抵触し,政府権力機構の間で混乱をもたらした。だから欧米と中国のつぎはぎの「三民主義」の理想と空想が政治混乱と国家不安の元凶にもなったのである。
 孫文は「先知先覚」の領袖が,一党(国民党)を指導し,一党が国民を代表するという主張であり,民主主義議会制度の原則である多党制も直接公民選挙制も実行しようとはしなかった。中国共産党もこの孫文の主張を継承している。

3.集権的統治の生理

(1)民主主義は小国の政治制度
 日本では民主化運動家が活躍する姿を見て,中国も近い将来(政治的に)民主化していくのではないかと観測する人が多い。しかし歴史を見れば,それは正確な洞察とはいえない。もちろん,アメリカ独立革命とフランス革命以降の近代の歴史を見れば,大きくは自由と民主化を求めてきた歴史であった。古代ギリシアのポリス,欧州中世のベニスなどの都市国家などでも民主政治が行なわれていた。ベニスの民主政治は現代でも及ばないほどのものであった。
 一般的に民主主義とは,小国の政治制度の「かたち」である。国が大きくなると,米国のような合衆国,インドやドイツのような自立性の強い連邦制,国家連合などの「かたち」以外はなかなか難しい。人口が多ければ口も多くなる。辛亥革命後の中華民国では,600以上の政党(会派,クラブを含む)が乱立していたのでどうしようもなかった。
 それゆえ孫文や広東人グループは「広東独立」を唱え,青年時代の毛沢東は,「大中華民国」に反対して「湖南共和国」を主張。さらに「各省の人民自決主義」を主張して,22省,3特区,2藩属地を27の国に分離独立せよと唱えた。
 だから(将来の)中国は一つよりも多ければ多いほど良い。分区独立,分省独立の方が好ましい。さらに分省独立よりも分県独立の方が容易かつ現実的かもしれない。事実,香港は1県規模でありながら,経済的には成功を収めた。一つの中国よりも多数の中国の方が,中国人の人権保障,人格の尊厳がよりうまく守られ,社会の発展がより早く達成でき,未来に一層希望があると思う。中国の解体は,これからの中国人の最大の歴史的課題であり,中国人にとっての真の意味での「全から個」の解放となる。

(2)「天下大一統」思想による専制への道
 ケーベル(Raphael von Koeber,1848-1923年)は自由を基準に,一人だけが自由で万民が奴隷の「東洋型」,少数だけが自由の「ギリシア型」,全員が自由な「ゲルマン型」に分類した。東洋型の典型が中華帝国の皇帝制である。古代ギリシアや中世地中海沿岸の都市国家のような民主政治ほどではなくても,中国にはかなり言論の自由な時代もあった。それが百家争鳴・百花斉放の春秋戦国時代であった。この中国思想の黄金期に,ほとんどの思想の原型が出揃っている。しかしそれでも民主主義は存在しなかった。中国の独裁制は時代の流れとともに強化・進化していった。
 最も代表的な独裁政治への進化の例が,君臣の礼である。古代,君主と臣下は同席で膝を交えて政治を語った。だんだん君主の力が強くなると,君は座り臣は立ったまま政治を語るようになる。やがて君が高々と座り,臣下は跪くようになる。清朝のころには臣下のみならず外国の使節にまで三跪九叩頭の礼(跪いて額を地に3回打ち付ける動作を3回繰り返す)を強要した。
 また唐代には,中書,門下,尚書の三省が設けられていた。中書省は天子直轄の行政機構で,門下省は貴族勢力を代表する。門下省は中書省から送られてきた天子の詔令を審議する行政機構で,不当な内容,あるいは貴族階級の利益に反するところがあれば「封駁」,つまり中書省に送り返す権限を持つ。唐の政治は天子と豪門・貴族の合議制だったといえる。
 後になって中書・門下が併合して「同中書門下平章事」に改組され,宰相の権限を行使するようになる。門下省の権限はこの行政改革によって削られ,貴族勢力は衰退した。そして天子は科挙制度の推進で貴族勢力を牽制したのである。
 宋以後は文官が武官に代わり,科挙出身の官僚が政界に進出する。武人・貴族・豪族ではなく官僚が支配する時代に入った。軍事三流といわれた宋代だが,国防では初めて人民全体を包括するようになる。また天子の禁軍が直接国境防衛に出征,天子の威令が始めて地方まで及んだ。科挙官僚をテコにした独裁的中央集権体制が樹立したのである。
 中国の独裁制が更に発展するのは明の太祖以降である。中書省や宰相制度まで廃止され,天子自ら宰相権を兼ねた。六部尚書も皇帝直属となり,軍事は大都督から五軍都督府に再分割され,各都督府も皇帝の直属になった。さらに錦衣衛などの特務機関を創設して官民を隅々まで監視する体制を築くなど,皇帝の権力は空前の域に達し,絶対的中央集権制度が確立した。
 清朝の時代には,皇帝独裁の軍機処がつくられ,軍国主義国家としても頂点に達した。近代西洋が,絶対君主制から近代国民国家へ発展したのとは真逆の方向といえる。
 もっとも,人類史が常に民主化に向けて発展するとは限らない。古代ローマも共和制から帝政に移行している。しかし,ローマ帝国の皇帝は,一人の元老(筆頭元老)として元老院を代表する存在に過ぎず,どちらかといえば唐の天子に近い。
 人民共和国以後,国家指導者は「皇帝」と呼ばれることもあるが,これは正確ではない。むしろ毛沢東や鄧小平,胡錦濤などは「超皇帝」,あるいはロシア帝国の「ツアーリ」に近いだろう。
 歴代王朝の「天下大一統」は常に独裁専制の集権的統治に及んできた。逆に言えば,独裁制を敷かない限り中国では統一は不可能なのである。言い換えれば,中国では物理的統一のみが可能であり,自律的統一は不可能なのである。

(3)物理的統一の悲劇
 統一の時代,政治的には中央集権,経済的には巨大な収奪と浪費,社会的には発展の停滞,そして思想的独尊・弾圧によって文化は衰退する。これらの事象による王朝の崩壊と再建の循環が繰り返されてきたのである。
 国土の面積が広ければ,地域的な経済・文化発展の差異と格差が大きくなる。広大な中国は経済・社会・文化から見て本来多元的であった。そのような多元的社会を無理やり一元的に統一するからこそ,争乱が多い国になっている。
 また人が多ければ意見も多くなるから,雑音を封じ込んで国家を保つために焚書坑儒や思想独尊,「文字獄」といった言論統制・弾圧が行なわれる。始皇帝の焚書坑儒の後,漢の武帝以後はそれを上回る「儒教独尊」で百家の説を排除するようになった。後漢の時代は「師承」,つまりただその師の跡を継ぐだけで越えてはならないとされ,「祖述」「稽古」しか許されなくなっていく。マルクス・レーニン主義や毛沢東思想独尊の中国では,改革開放後にますます思想が混沌としている。
 現在でも,伝統的な内中国だけでは資源確保も国防も不安定なので,人類最後の植民地地域として,伝統的領土の3倍にも上るチベット・新疆・モンゴル・満洲など,巨大な新領土を固守しなくてはならない。「中華振興」のスローガンを掲げる理由は,まさにそこにあるのではないか。
 始皇帝以後の中華帝国の皇帝制は,基本的に中央集権体制である。地方分権ではなく中央に一極集中するところが貴族社会と異なる。中央は皇帝を中心とする血の継承制で,地方には官僚が派遣される任命制である。清朝崩壊後も,二千年来のこの体制は基本的に変わっていない。
 皇帝制における継承法は,長子相続による立太子をはじめさまざまで,歴代王朝によって若干異なる。人民共和国以後,宮廷は共産党の中央政治局に代わり,後継者の選任は指名制だ。初代の毛沢東が後継者・華国鋒を指名し,三代目の江沢民や四代目の胡錦濤も鄧小平に指名された。伝統的な継承法とほとんど変わっていないのが分かる。
 中世以後,中国の地方官僚は科挙後も相変わらず任命制だった。それは地方官僚が,地方勢力と結託するのを防ぐために,短期任官と「よそ者」であることが理想とされたのである。ゆえに「官」(キャリア)は異郷人が基本で,任地の民衆とはほとんど言葉が通じない。そこで通訳を務めたのが「吏」(ノンキャリア)である。
 世界に民主制が広がり,国政選挙が一般的に行なわれる現在,中央集権体制を強化させているのは中国共産党だけである。中央の強化のために伝統的な回避制や不久任制が求められ,江沢民時代には「輪調互換制」が強化された。
 これは人事異動の奥の手で,地方から中央へ,中央から地方へと官僚を選任する。ことに地域権益が対立する地方の指導者を入れ替え,相互牽制,相互監督・監視させる。中央は地方対立のバランスの上に立ち,官僚の人事異動によって権力を一層強めていく。

4.中国人の正体性「漢字族」―多元的社会

 漢族には少なくとも二千年以上の歴史があるが,漢族は民族未形成で「民族」とはいえず,漢字という共通の意思疎通手段をもった「字族」に過ぎない。民族形成の前提となる自生的経済統合はなく,音声的言語も違い,文化的差異も大きく,衣食住の様式,風俗習慣も大きく地域で異なっていて,民族社会としての一体性はない。
 中国人の民族意識の形成は,近代になって西欧文明に対抗して初めてできたものであった。すなわち,章炳麟や孫文の大漢民族主義,康有為や梁啓超の漢満蒙回蔵各種族を超越する大中華民族主義が生まれたのである。
 ここで中華人民共和国の9割以上を占める漢族は民族としての条件に欠けることについて,とくに言語の観点から,歴史を振り返って確認したい。
 西洋で生まれた人類学の分類法で行くと,「語系」「語族」などがある。例えば,シナ・チベット語系,漢語系などがあるが,言語による人種や種族の区分法としては決して適当な用語とはいえない。というのは,漢族や漢人は語族とはいえないからである。共通の「漢字」があっても,漢語はそれぞれ違う。「漢字族」の間で漢語は全く通じないことも少なくない。だから「語」による分類よりも「字」による分類の方がふさわしい。
 筆者流の分類法でいうなら,「漢字族」の類概念の下に,北方語族群,粤語(広東語)族群や閩語(福建語)族群,客語族群という種概念があるべきだ。これらの言語は,周知のように通訳がいるほど離れていて互いに通じない。
 単音の漢語は言語としては最も原始的なもので,東アジア大陸の諸語族の交易で使われた最も原始的でわかりやすい単語から生まれた共通語であったに違いない。それに対応する漢字もそうだったのだろう。
 最古の漢語「雅言」の「雅」は「夏,賈,価,牙」と同音であり,言語学者によると,古代漢語は夏人の言語を土台とする各語族が物々交換をするときに使われる「市場語」ではないかと推論されている。だから漢文もただの文字の不規則な羅列だけで,注釈なしでは意味内容がわからない曖昧な不完全な表記文字体系といえるのではないか。
 漢字族は,元をただせば夷狄戎蛮の子孫であり,東アジア諸語族の混合文化集団であり,漢字を文化の交信手段とする超言語的な人間集団である。
 中原で生まれた漢字文明は,四夷を漢化の対象として拡散を続け,秦漢帝国時代には漢字文明として完熟したものの,六朝400年間の天下大乱に大きく変貌した。文化的には仏教の流入によって,人間観も人生観も世界観も大きく変わり,漢字文明が大きく変貌しただけではなく,言語的にも,北方漢語は五胡の侵入によって漢語の発音が大きく変わった。
 北魏と梁だけが仏教国家になったのではなく,隋唐はどちらかというと仏教帝国であった。一時的に東アジア地域は,仏教色一色に塗りつぶされていたといえよう。この時期に,言語・文学・芸術だけでなく,人種的には最大の雑種的人間集団が作り上げられた。
 文化的には仏教の影響は見落とせない。世俗化した漢字文明は仏教思想の中華世界への流入によって乱世の魂の救いの思想として,胡漢の民の宗教意識が高まり,それが新しい隋唐文明を創出する精神的基礎となった。もしも仏教が日本のように定着したら,中国人は独善的中華思想ではなく,もっと自己の文明を相対化してとらえられることができたに違いない。
 400年にわたる天下大乱と五胡の侵入によって北方漢語の基礎構造は,伝統漢語からアルタイ語系に変わり,五胡言語の音韻が古代漢語の「雅言」に取って代わった。つまり古代漢語のアルタイ語化である。秦漢帝国の子孫も,その400年の天下大乱の中で流散したのである。南方漢語も漢人の南下によって百越と混交し,漢語が大きく分解し,漢字族の各漢語族群も大きく変貌した。
 しかしこの漢字文明は盛唐時代を過ぎてからその拡散力に限界を来たし,日本を始め契丹,西夏もそれぞれ独自の文字を創出して漢字文明圏から脱出した。近世,近代になってから朝鮮,越南もあいついで脱出した。朝鮮は中華文化に心酔し,先祖伝来の姓名を放棄し,「改姓名」までして漢人に擬し,「小中華」を自負したが,とうとう漢人に同化されなかった。
 中華帝国の最後の主役である「漢字族」は「中華民族」の急造に失敗した。これに対して漢字文化をあくまで拒否してきた中華世界の「非漢字」系諸族は,独自のアイデンティティ,独自の文化と経済利益を守るために漢字族と激しく抗争していくに違いない。
 漢字文化は聴覚の文化ではなく,典型的な視覚の文化である。いままで漢字は漢語系諸語群間のコミュニケーションのメディアとして,なくてはならない唯一の交信手段であった。漢字族は,漢字文明の拡散とともに発展し,漢字文明の衰退とともに没落するのも,それが漢字を交信のメディアとする漢字族の歴史的宿命ともいえよう。

5.「良心」を喪失した中国人

 中国は,文革の一時期「批林批孔」が吹き荒れた時代があったものの,孔孟以来倫理道徳を人類最高の価値とし,現在でも「孔子学院」を世界中に拡大しながら中華文化復興運動を展開している。
 それに対して「道徳最低」を提起したのが,作家・王力雄(1954- )である。彼は,「四最論」すなわち,中国の危機は,「人口最多,資源最少,欲望最大,道徳最低」であり,すでに過去のような易姓革命による王朝再生の土台を失ったと述べたのである。
 中国政府要人も同様のことを指摘している。鄧小平や陳雲,朱鎔基元首相らは,憂慮事として「社会道徳の崩壊,文化の頽廃」を挙げ,一世代だけで解決できる問題ではないとした。
 さらに「中国人は良心がない民族だ」(没良心)と断じたのは,『支那人の性格』(1896年,原題Chinese Characteristics,1894年)で知られる米国人宣教師アーサー・スミス(Arthur H. Smith,1845-1932年)であった。彼は中国で30数年間宣教活動をしながら,中国人に良心の存在を見出すことができなかったと述べた。スミスは敬虔な宣教師として信仰心が篤く,内なる良心(=神への誓い)から宗教的道徳を語った。
 しかし儒教の仁義道徳は外からの強制だから,「仁たれ」「義たれ」と強制すればするほど良心が麻痺し,独善的か偽善的な人間しか生み出せなくなる。しかも,その「仁」「義」がどういうものなのか,孔子さえ概念規定していない。『荘子』の「盗跖篇」では,孔子と盗跖の対話を通じて,盗賊にも仁義道徳があるという結論が出されている。仁とは何かと議論を二千年重ねてきても,「見仁見智」,つまりそれぞれの解釈を互いに尊重するというところにとどまっている。
 鬼神を信じない中国人は,世界で最も世俗化した民族である。神がいないと畏敬するものがなくなるので,世に恐いものなど存在せず,いかなる悪逆非道も行なえることになる。中国政府や中国人は極端に宗教を嫌い,カルト集団を恐れる。それは歴代王朝が,たいてい宗教集団の蜂起によって滅亡した歴史を持っているからだ。
 中国では古代から家族・宗族を中心としており,厳密な意味での「社会」は存在しない。地縁よりは血縁的な家父長制度を核にしてきたから,種族意識や民族意識もなかなか芽生えてこない。だから,中国人の信仰の対象は,「神」というより漠然とした「天」,または一家一族の祖先(鬼)である。宗廟を中心に一族が結束するのは,華僑社会でもみられる。社会主義革命を経てもこればかりは変えることができなかった。このような家族・宗族主義から生まれたのが儒教であるから,中国には家族道徳はあっても,社会道徳,国民道徳は存在しない。
 大中華の中国と小中華の韓国は,いくら民族と国家を語ったとしても,儒教の影響もありせいぜい家族や宗族の範囲でしかやれない。家族・氏族が国家を上回ることはない。個人と家族が一番重要になっている。中国・韓国は孝を最大価値として尊んでいるが,韓国はとくにその傾向が強い。ゆえに家族のことが最大で,国家や民族のことはあくまでも「建前」に過ぎない。
 ところで,ロシア型社会主義革命がユーラシア大陸東側で成功したのは,儒教文化圏においてのみであり,仏教やイスラーム文化圏には広まらなかった。それはなぜか。儒教思想とマルクス思想には,性格的な類似性や共通性が多いためである。ともに世俗化した主義・思想であり,非宗教・反宗教のコスモポリタン的天下思想、理想主義,ユートピアは天上ではなく地上にあるとする点,教化主義,エリート層を主役とする点などである。
 儒教には「建前」を重んじ,一旦看板を掲げるとなかなか下ろさない傾向がある。たとえ有名無実でも形だけを「名を正さん」とし,あとはどうでもいいという形式主義だ。その代表が「礼」の思想である。
 一方,日本には徳を越える伝統文化がたくさんある。例えば,伊達政宗の家訓に「仁が越えれば惰弱になり,義が越えれば頑迷になり,勇が越えれば暴虐になり,智が越えれば狡獪になる」というものがある。日本には伝統文化を再興することで再生の道がある。

6.中国共産党体制の今後―習近平は「ラスト・エンペラー」?

 「次期皇帝」習近平には,内外から「ラスト・エンペラー」との声も上がっている。なぜ習近平はラスト・エンペラーと見なされるのか。グローバルな視点から見たときの問題点をいくつか列挙する。
(1)中華人民共和国の社会主義革命政権が成立してからすでに60年以上が経過し,次代皇帝の欽定制度がほぼ確立したにしても,民意を問うシステムが確立しない限り次代皇帝としての正統性はやはり弱い。仮に「権力貴族」たちの守護神になれるとしても,共産主義の根幹である「平等」に固執する毛沢東主義者の擁護は得られない。
中国では毛沢東,鄧小平の時代以後,権力者の力・カリスマ性がだんだん弱まってきた。江沢民,胡錦濤の時代を経て,次の習近平はもっと弱まっていく。その中でも国家主席は,党・政・軍を牛耳るのだが,習近平は胡錦濤以上に強い権力を振るうことはできないだろう。
(2)人口・資源・環境など政治や国家を超える問題について,もし大国としての国際責任や貢献を果たしたい場合は,従来の「愛国主義,民族主義,中華振興」の国是国策を修正せざるを得ない。しかし,習近平にはその能力も条件もない。
(3)中国の経済成長率は今後下降線をたどるに違いない。中国の経済が一番良かった時代は江沢民時代で,胡錦濤の時代は横ばい。昨年から成長率もだんだん鈍化しつつあり,習近平の時代になるともっと弱体化していく。
 これからの中国は,仮に日本のような「失われた20年」を回避できても,国家指導者の交代だけでは,経済発展のひずみである貧富の格差,汚職,日本以上に深刻な少子高齢化など,ますます昂進する難題を解決することができない。
(4)軍の自己主張がますます強くなる中国で,習近平では革命世代のように実質的に党・政・軍を牛耳ることが不可能に近い。政治,経済,外交,軍事など国際環境が大きく変化する中で,米国の軍事力が西太平洋や南シナ海にシフトしつつある。それに対して習近平がうまく対応できるか。
(5)太子党出身の習近平は,共産主義青年団(団派)にも上海閥にも軍にも超派閥的に阿諛迎合し,後継レースでは独走してきた八方美人だという定評がある。だが,いざ各派の権益分配競争の難局に直面したときに,それこそ「八方美人型」ボスの正念場となろう。もちろん分配競争に突入すると,政局がますます不安定になり,毛沢東主義者の逆襲もありうる。八方塞の難局に立たされる可能性が高くなるだろう。
 権力の中枢である常務委員会を,9人から7人に削減しようとの動きがあるが,それは胡錦濤の案のようだ。次期政権は,習近平(太子党)と李克強(団派)の合体だから,胡錦濤の時代より運営しずらくなるのではないか。ライバル関係にあるふたりの力関係が逆転する可能性もある。
(6)「網民」はネット世代を意味するが,これは官と民の体質の象徴である。現在の中国では年間10~20万件前後の暴動が起きており,官と民の対立要素が不確定要因となっている。これらが習近平の時代になるとさらに不安定になる。たとえ習近平が三権を掌握したとしても,全体としては不安定にならざるを得ない。とくに軍はすぐには権力を譲らないだろう。
(7)中国は,人口,資源,格差,環境など抱える問題が多すぎる。最低この4つは見なければならない。これらは人類共通の課題でもある。
(8)胡錦濤の時代は,コンビが温家宝首相だから同質性が高く,ゆえに政敵の陳良宇・上海市書記と薄煕来・重慶市書記をつぶすことができた。習近平の時代になると,団派の李克強は天を倶に戴かない天敵だから,楚漢の争いや呉越の争いの劇場が開演を迫る。
 天安門事件以後,米国に亡命した小説家・鄭義の『中国的毀滅』によると,中国の1年間の経済成長によって3年分のGDPに相当する環境が破壊されているという。経済成長を続ける限り,ますます国家壊滅の道を進むという矛盾がある。
 一例として,環境と食べ物の深刻な問題がある。国際中医学会の最近の報告によれば,「出産適齢期の夫婦1億2000万組のうち,約3000万組が不妊症に陥っている」という。環境汚染からくる種族の劣化が現実に昂進している。改革開放がスタートした頃は,不妊症の割合は3%だったものが,わずか20年余りで25%にまで急増したのである。もしこの状態を改善しないと,50年後には種の絶滅に直面するとまで警告している。そのため中国から海外に脱出する人が年間200~300万人いるという。
 もう一つは,精神疾患の問題である。17歳以下の子どもについてみると,3500万人以上の精神疾患が見られ,成人の精神疾患者を含めると全国で1億人いるという。しかもそれが増えつつある。早い予想で10年後,遅くても20年後には,4億人に達するといわれる。
 こうした進行中の社会問題もよく見ておく必要がある。政治,軍事,経済だけを見ていてはだめだ。こうした社会の土台にある根本問題が深刻である。もちろん中国の統計や数字には疑問もあるのだが,それを差し引いてもこうした点を良く見ておく必要がある。中国の将来を展望するときには,数量的側面だけではなく,質に関わる点をよく直視すべきである。
(2012年8月10日)
(2012年11月1日『世界平和研究』2012年秋季号より)