ソ連はいかに「解体」されたか?―解体の要因と教訓

中澤孝之(時事総合研究所客員研究員)
Takayuki Nakazawa

<梗概>

 ソ連の誕生と消滅は20世紀の大きなできごとの一つである。マルクス・レーニン主義に基づいて建てられた社会主義の大国ソ連が,1991年12月に大きな混乱もなく一夜にしてなくなってしまった。この事件について西側では一般に「ソ連崩壊」と称され,あたかも自然現象のように崩壊したかに捉えられている。さらに西側,資本主義,自由主義の勝利と謳うばかりで,その経緯について真剣に問おうとする者がほとんどいない。しかし近年,中国や北朝鮮はこの問題を真剣に受け止め,教訓を得ようとしているという。そこであの時点で誰がどのようにしてソ連を消滅させたかについて,内外の要因を考察してみた。

はじめに

 地球の陸地面積の六分の一を占める大国であったソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が1991年12月に地球上から姿を消してから,20年以上の歳月が流れた。70年に及ぶ歴史を持つ超大国の終わりにしては,あまりにもあっけない幕切れであった。ソ連の創設と消滅は,20世紀歴史における大事件の一つであり,その分析や検証は永遠のテーマともいえる。もちろん,ソ連がなくなった後,ソ連を構成していた共和国は独立国となりそれぞれ存在し続けているが,当時,ソ連の国民は大きな当惑の中で国籍の変更を余儀なくされたのであった。
 この事件は一般に「ソ連崩壊」と言われるが,果たしてソ連は自然現象のように崩壊したのだろうか。本稿で述べるように,ソ連は決して自然崩壊したのではない。正確に言えば,無血の世紀のクーデタによって,あの時点で無理やり解体させられたのである。その意味で,「ソ連解体」「ソ連消滅」と表現するのが適切だと思う。ちなみに日本にも「ソ連を殺したのは誰か」(中村平八氏)というタイトルをつけた論稿があるが,ロシアにもそのタイトルずばりの本が出版されている。
 その背景には,西側社会が,ソ連社会主義の欠陥や弱点によりソ連崩壊が「歴史の必然」「運命」であったと考え,それを当然視し,「ソ連社会主義の敗北」「資本主義(米国および西側)の勝利」などと結論付けて,それ以上の議論を中止してしまったことがある。
 ソ連は,早晩,崩壊する運命にあったかもしれないが,問題はあの1991年末の時点で,大国ソ連が一夜のうちに消滅したのはなぜかである。そこで本稿では,まずソ連解体の要因を二つに分けて述べてみたい。


1.ソ連解体の内的要因(国内的要因)

(1)ゴルバチョフ書記長の登場
 91年12月,「ソ連解体」の発表がエリツィン主導のもとに行なわれた経緯を考えるときに,ゴルバチョフが85年の党中央委員会総会で共産党書記長に選ばれなければ,地方のボスに過ぎなかったのエリツィンの中央政界への出番はなかったであろうし,ソ連解体が91年になされることはなかった。
 ゴルバチョフは,1985年に書記長に就任した後,ペレストロイカ,グラスノスチ,新思考外交など,それまでのソ連では見られない斬新な政策を打ち出した。ゴルバチョフに対するロシアでの評価は,海外でのそれとは違い,今でもあまり高くない。その理由は,「ゴルバチョフの改革によってソ連に混乱がもたらされ,それに伴い国民の生活が苦しくなったこと。そもそもそのような改革をやらずに過去の延長線上の政治をやっていれば混乱はなかったはずで,この張本人はゴルバチョフだ」というものである。他方,海外の目からすると,ゴルバチョフの改革は国内に混乱をもたらし国民生活を苦しくしたかもしれないが,改革の方向性は正しかったという評価が多いように思う。
①ゴルバチョフの政治改革への動機
 ゴルバチョフが登場することによってソ連の政治が大きく変化した。もし彼がそれまでの歴代ソ連共産党書記長と同じように椅子に坐っていれば,もっと長くその地位にとどまっていただろう。その点で言えば,ゴルバチョフは身の危険を犯して政治改革に取り組んだのだと思う。その動機には,「今までのやり方でやっていてはソ連はダメになってしまう」という強い危機認識があった。ゴルバチョフのこの心情が国の運命を変えてしまったのである。
 彼はモスクワ大学法学部在学時代に東欧からの留学生たちと交流があり,一般のソ連人とは違い当時から開明的な思考を持ち始めていた。その一人が,チェコスロバキア留学生ズデネク・ムリナシで,彼とは5年余り交友関係をもった。ムリナシは,68年の「プラハの春」の指導者の一人であり,「人間の顔をした社会主義」の理論家,戦略家,実行者であった。彼との交わりはゴルバチョフのイデオロギーに強い影響を与えた。ムリナシはゴルバチョフを「生まれながらの改革者」だと評した。
 しかし,若い時代にそのような開明的なことを主張すれば権力構造の中でつぶされてしまうので,静かに雌伏の時を過ごした。その後,ゴルバチョフをメイン・ストリームに引き上げてくれたのが,ユーリ・アンドロポフ書記長(1914-84年,党書記長在任1982-84年)であり,「ミスター・ニエット」といわれたアンドレイ・グロムイコ(1909-89年,外相在任1957-85年)であった。
 ソ連はマルクス・レーニン主義を信奉した理念をもとにつくられた国だが,正確な意味では共産主義国家とは言えない。共産主義に至るまでの発展途上の社会主義国というのが正確なところだろう。別の言葉で言えば,ソ連型社会主義国家である。共産主義理想や社会主義の理念をゆがめたのが,スターリンであった。スターリンは,独裁政治,秘密警察による思想統制・恐怖政治,政治犯の投獄などを行った。フルシチョフの時代は,雪解けがあった。ブレジネフ時代は「停滞の時代」といわれ,その後「停滞の時代」がさらに3年続いた。アンドロポフ,チェルネンコ時代である。時来たり,ゴルバチョフは最高指導者=共産党書記長になると,この停滞から国と社会をいかに脱却させるかに腐心し始めた。
②ペレストロイカ(世直し)
 ゴルバチョフ時代のキーワードは,ペレストロイカ,グラスノスチ,新思考外交である。ペレストロイカとは,「再建設」を意味するロシア語であるが,私はそれを意訳して「世直し」と呼んでいる。ペレストロイカとグラスノスチは,コインの表と裏だと言われ,この二つが合わさって1917年のロシア革命に次ぐ歴史的な第二の革命が遂行された。しかもそれは「上からの急進的な革命」であったが,流血の暴力革命ではなかった。ゴルバチョフ以前のソ連との断絶を意味する歴史的な新政策,すなわち従来の指導者パターンからの完全な逸脱に,ソ連解体の遠因の一つを求めることができる。
 ただ,ソ連自身が民主改革を行なう可能性について,当初西側諸国では誰も信じていなかった。米国のクレムリン研究者たちは長い間ペレストロイカを本気にしていなかった。
しかし,ソ連時代の末期,ゴルバチョフはすでにマルクス・レーニン主義を捨て,社会民主主義者に変貌していたと思う。そのことを示す証拠のひとつに「幻の共産党新綱領」がある。この綱領草案(1991年)は,共産党結党以来のマルクス・レーニン主義および,その歪曲の結果である全体主義との決別を宣言したに等しいものであり,西欧社会民主主義への転換を示す歴史的な文書であった。その中で「超中央集権的な国家から民族自決と自発的連合に基づく連邦への移行」も謳われている。「根本的な党民主化」の方向を指し示した。階級の利益ではなく,「全人類的な価値」の尊重にも言及。同時にスターリンの犯罪を厳しく糾弾した。しかし,91年8月の保守派クーデタ未遂事件によって,この歴史的な文書は「幻の党綱領」となってしまった。
 ペレストロイカ(世直し)の歴史的評価は今となっては忘れられつつあるようだが,私は歴史的な大転換であり記憶にとどめ置くべきものだと考えている。ペレストロイカには,経済面,政治面,文化・芸術面などがあるが,とくに真骨頂は政治的ペレストロイカである。中国の改革は,政治に手をつけず,鄧小平の「先富主義」に忠実に社会主義市場経済を進めた。しかしゴルバチョフは中国方式を取らず,政治改革という「パンドラの箱」を開けてしまったのである。
 その一つが,共産党一党独裁の放棄である。ソ連のスターリン政治の根幹であった共産党独裁であるが,それを規定したブレジネフ憲法第6条(77年)を90年3月の党中央委総会において修正したのである。修正第6条では「ソ連共産党,その他の政党,同様に労働組合,青年,その他の,社会組織ならびに大衆組織は,諸ソヴィエトに選出された自組織出身の代議員を通じ,またその他の形態で,ソ連国家の政策策定,国家事業,社会事業の行政活動に参加する」と書き換えられた。つまり,共産党以外に政党が誕生することを承認したのである。議会を基盤とする民主主義に向かう「革命的意義を持つ決定」に違いなかった。
 またソ連史上初めての複数立候補秘密投票制の国政選挙の実施(89年3月),大統領制の導入(90年3月の憲法改正)も重要な政治改革であった。90年3月の第3回ソ連人民代議員大会で初代大統領に選出されたゴルバチョフは,その就任演説で次のように述べた。
「どんな権力も,道徳的基盤の代わりを務めることはできず,そうした基盤がなければ,人間の正常な共同生活は成り立たない。過去にわが国では,実質的に,精神性は観念論だとして無視されていたが,いまはその高価な代償を支払うことを余儀なくされている。われわれは労働や学問,教育,芸術,文化に対し,それとは違った,最も広い意味での良心的な態度をとる必要がある。すべての精神的な財貨が,社会の十分な存在と発展のために絶対的な必要性あるものとして社会に受け入れられるような条件を作り出す必要がある」。
③グラスノスチ
 グラスノスチ(情報公開)は,社会的ペレストロイカともいえるが,言論の自由であり検閲の廃止である。グラスノスチ導入の直接のきっかけとなったのが,チェルノブイリ原発事故(86年4月)であった。事故の真実がなかなか公表されず,ゴルバチョフ政権は西側社会から強い非難を浴びた。実際には,現場からの事故報告が遅れたのであったが,ゴルバチョフ指導部はこの事故を反省材料としてグラスノスチの必要性を一段と強調するようになった。
 これによって,ソ連共産党への批判が可能となり,党書記長を罵倒しても反体制的な言辞を弄しても何ら咎められない。閉鎖都市ゴーリキーからのサハロフ博士夫妻の解放が象徴するように,政治犯はいなくなった。人々はいかなる制約もなく,自分の思ったことを表現することができる時代が訪れたのである。それに伴って,民族主義運動,独立運動が促され,それがソ連解体に拍車をかけた。

(2)民族主義の高揚
 ソ連は,面積で世界一の国であるだけではなく,民族が100以上あるという多民族社会であった。日本人にはなかなか理解できない世界である。ゴルバチョフにしても神ではないから,多民族国家をよく治めるには限界があるし,それが彼の改革を窮地に追い込んでいった面がある。
 一番大きなロシア共和国の周辺に,ウクライナ,ベラルーシ,中央アジア諸国,バルト三国などがあり,その他小国がたくさんあった。それらを意識改革しつつ国全体を新しい方向にまとめていくことは,誰がやっても至難の業である。スターリン主義を否定して登場したゴルバチョフは,独裁政治の手法をとるわけにはいかない。
ゴルバチョフ時代の中ごろから,ナショナリズムが高揚して地方の民族主義が独立思考を強めていった。グラスノスチを徹底させたがゆえに言論・出版の自由,検閲の廃止などが進み,誰もが勝手なことを言い出すようになった。中央アジア諸国,モルドバ,ウクライナ,ベラルーシなどが独立志向を強めた。その先鋒に立ったのがロシア共和国のエリツィンであった。彼は権力志向が強く,クレムリンの主になることを望み,ロシア・ナショナリズムをうまく利用したのである。

(3)エリツィンの登場
 ゴルバチョフの最大のミスは,ボリス・エリツィン(1931-2007年,ロシア大統領在任1991-99年)を中央政界に取り込んだことであった。エリツィンは,最初,地方(スベルドロフスク州)の党第一書記であった。中央政界に来てからは,党中央委書記,政治局員候補,さらにモスクワ市党第一書記に任命された。エリツィンは,ロシア人好みの特徴である野人(ムジーク)タイプであった。一方,ゴルバチョフは洗練されたインテリタイプであったから,二人はそもそも相性が合わない。
 叩き上げの共産党員だったエリツィンは,並外れた野心家で,民主改革派という新しい隠れ蓑を武器に,急進改革派の神輿にかつがれてゴルバチョフと対決するようになった。彼の野望は,ゴルバチョフに代わってクレムリンの主になることであり,やがて「もはやソ連は要らない」と主張して,ゴルバチョフの手に負えなくなっていった。ソ連解体後のロシアにおける腐敗・汚職にまみれた「セミヤー(エリツィン一家)」政治の10年を振り返ってみれば,エリツィンがソ連の行く先を案じてゴルバチョフに楯突いたと考えることは難しい。
 その背景には,経済の疲弊という問題があった。ソ連社会は社会主義経済で運営してきたが,これには欠点が多く,硬直して効率が非常に悪かった。また農業も,大規模農場を中心に進められたが,あまりうまく行かず,ゴルバチョフ時代の前からコムギなどの農産物の輸入国になってしまった。こうした問題は,社会主義経済の構造的矛盾に起因するものであったから,ゴルバチョフ一人で解決しようとしても,簡単に解決できるものではなかった。こうした経済面における社会主義の負の遺産が,ソ連全体を押しつぶしてしまいかねないほどの重みとなっていた。このような難局にあったゴルバチョフに付け込んだのがエリツィンであった。
 エリツィンの側近にエゴール・ガイダル(1956-2009年,エリツィン時代に首相代行・第一副首相として経済改革を進めた)がいたが,彼は主に,ジェフリー・サックスの説く米国の急進的資本主義経済理論を頭から信じ込んで,社会主義経済システムからいきなり資本主義経済システムへと転換を図ろうとした。エリツィンも彼の話を信じた。その結果,92年にロシアは物価上昇25%以上のハイパー・インフレに見舞われた。
 ところで,ガイダルやエリツィンは,「資本主義」ではなく「市場経済」という言葉を使った。なぜか。資本主義という言葉は,ソ連成立以来,資本主義=悪と規定してきたのでタブーであったから,その言葉を使いそのシステムを導入するとなれば,国民からそっぽを向かれてしまう。それを恐れて彼らは資本主義という言葉を使わなかった。そこに彼らのずるがしこさ(ヒトリー)が出ている。市場経済を称していたので,国民全体がごまかされてしまった。国民の反感を買わないように細心の注意を払ったのである。何十年も社会主義経済システムによって運営される社会に生きてきた国民にとっては,そのようなことはよくわからなかった。
 ゴルバチョフの改革にしても,単純化して言えば,エリツィンさえしっかり押さえておければ,ソ連の共産党書記長としてもっと長く政権を担うことができたと思う。エリツィンに勝手な行動をさせたことが,ソ連解体の直接的な原因となった。地方の民族的ナショナリズムがエリツィンと組んで彼を押し立てたために,彼はますます自信を持って,ソ連解体へと突き進んだのであった。

(4)反ゴルバチョフ・クーデタ未遂事件(91年8月)
 クーデタ未遂事件がソ連解体への導火線に火をつけた。ゴルバチョフが91年8月に,保養地フォロスに滞在している間に,保守派が反ゴルバチョフ・クーデタを企てたが,失敗に終わった。モスクワにいたエリツィンら民主改革派がクーデタを阻止したのだ。この事件をきっかけにロシア共和国政府とソ連中央政府,ロシア共和国大統領エリツィンとソ連大統領ゴルバチョフの権力バランスが完全に逆転し二重権力が生まれた。クーデタ直後にゴルバチョフは,ソ連共産党活動停止と書記長辞任を決意。エリツィンはソ連共産党とロシア共産党解散命令(11月6日)を出した。ソ連体制を支えるバックボーンが失われた。
その後,11カ国(バルト3国とグルジアを除く)が相次いで独立を宣言した。ロシア共和国に次ぐ第2のウクライナ共和国は,91年7月16日主権宣言を行い,8月24日に独立を宣言。さらに12月1日,独立の是非を問う国民投票により,国民の90%以上が独立に賛成した。エリツィンは,こうした動きを見極めながら,一気にソ連解体に向けて進んだのである。

(5)ベロヴェーシの森の陰謀
 最後のとどめが,ベロヴェーシの森(ポーランド国境からわずか3キロの,ベラルーシのミンスク郊外にある)に集まったエリツィンなどのスラブ三首脳が最後の密議を開いて,ゴルバチョフに最後通牒(ベロヴェーシ協定)を突きつけたことであった。
 1991年12月8日,エリツィン・ロシア共和国大統領,シュシケヴィッチ・ベラルーシ最高会議議長,クラフチュク・ウクライナ大統領のスラブ三首脳がベロヴェーシの森にあるビスクリの別荘に集まり秘密会議を開いた。その結果,密議の合意事項「ソ連解体(国際法としての主体ソ連邦は存在を停止)と独立国家共同体(CIS)創設」を発表した。これがベロヴェーシ協定(ミンスク協定,ブレスト協定とも呼ばれる)である。
 ソ連国民は一夜明けて目を覚ましたらソ連という国がなくなっていたのである。9カ月前,3月の国民投票では93%の国民が投票し(グルジアなど6共和国を除く),76.4%がソ連邦維持に賛成票を投じたのであった。その意味で言えば,ベロヴェーシ協定の内容は国民の総意に基づくものではなく,「国家転覆」「宮廷クーデタ」に相当するものである。
 ゴルバチョフにとって郊外の別荘で聞いたこのニュースは全く予想外のことではなかったが,彼らのやり方にはショックを受けたらしい。エリツィンはまずブッシュに電話し,その後シュシケヴィッチがゴルバチョフに電話して合意の内容を伝えたからだ。ゴルバチョフは「米大統領と話を済ませておいて,ソ連の大統領が何も知らないとは何事だ。恥を知れ」と怒ったという。
 またカザフスタン共和国のナザルバエフ大統領は,事前に全く相談を受けなかったこと,(三首脳が)中央アジアと南部の共和国の背後に隠れて重大な決定を下したことに怒り,ベロヴェーシ協定は「中世への逆戻りだ」と表現した。
 このベロヴェーシ協定に関する各共和国における批准手続きを見てみると,ベラルーシとウクライナの議会はほとんど審議なしで批准し,ロシア共和国の議会はわずか1時間の審議で慌てて批准した。「ソ連消滅」を審議すべき,ソ連人民代議員大会は遂に開かれなかった。一つの国の解体を決めるにしては,きわめて異例のことである。ゴルバチョフにしても,ソ連人民代議員大会を招集しベロヴェーシ協定を無効と宣言し,改めて国民投票をしてソ連邦の存続を守り通すことができたはずであるが,そうしなかった。
 最後に,ベロヴェーシ協定の逸話を紹介する。
 12月7日にベロヴェーシ協定を作りその作業が終わった後,夕食をとりさらに酒が好きな3人組とそれぞれの側近たちは酒を飲んだ。そして宿舎に戻ろうとしたエリツィンは,建物の2階に上がる階段の途中で突然,後ろ向けに倒れ落ちそうになった。かなり酩酊していたようだ。そこに居合わせたシュシケヴィッチは,エリツィンを慌てて支えて,事なきを得たという。このことは,クラフチェンコ(当時,ベラルーシのシュシケヴィッチの下で同国外相を担当)の回想録の中に記された話である。そして「彼の体格から見て,下に落ちていたら悲劇となったであろう。神の手が働いて,シュシケヴィッチは“守護天使”の役を果たした。もしエリツィンが階段の下まで転げ降りていたら,ビスクリ会合の結果は違った形で歴史に残ったかもしれない」とクラフチェンコは書いている。


2.外的要因(国外的要因)

 以上を内的な要因とすれば,もう一つ外的要因があった。それは,米国のレーガン政権(在任1981-89年)の対ソ秘密工作である。レーガンは冷戦が真の戦争であることを悟り,それまでのデタント政策を拒否して「力による平和」という外交戦略を推進した(レーガン・ドクトリン)。例えば,アンゴラ,ニカラグア,アフガニスタンなどでの反共活動支援,ポーランドの独立自主管理労組「連帯」への働きかけなどである。
 さらにアンドロポフ時代(書記長在任1982-84年)になると,レーガン政権はソ連を始末する秘密戦略文書「国家安全保障防衛指針」(NSDD)を立てた。すなわち,ソビエト・システムの基本的な経済的・政治的な弱みを攻撃する計画の作成に取り掛かり,直接軍事力を行使しない対ソ攻撃計画も秘密裏に作成した。とくに,対東欧政策(対ポーランド・東ドイツ政策)によってソ連の弱体化が促進させられた。この政策は,その後のブッシュ政権にも引き継がれた。これが最終的には効果があったと思う。
 そのポイントの一つが,SDI(戦略防衛構想)であった。SDIは実際には実現できないようなものであったが,レーガン大統領はこれを本気で推進すると主張し続けた。それはソ連の軍人たちを混乱させる戦略であった。このレーガンの戦略を受けて,ソ連では対抗措置を講ずるために膨大な軍事予算をつぎ込もうとしたために,民生部門への予算が不足する中,財政バランスが悪化の一途をたどることになって,国家財政の逼迫を招いた。これによってソ連の足腰がさらに弱まったと思う。
 内在する弱みに付け込んで外圧によるシステムの一層の弱体化を図るというレーガン政権の方針は,ソ連体制に決定的致命傷を与えた。レーガン政権発足4年後に政権を担当したゴルバチョフも,施政6年余でそれを修復することはできなかった。


3.ソ連解体の教訓

 ソ連が消滅して20年余りが経過したが,ロシアの政治はこの間,試行錯誤の繰り返しであった。いまやイデオロギーはみな放棄してしまったから,イデオロギーを先立てて主張し議論することはない。現在のロシア共産党も,マルクス・レーニン主義のイデオロギーにこだわってはいない。今後もロシアでは社会主義を信奉するようなグループが勢力を持つことはないと思う。過去の歴史的経験を通じて,ロシアの人たちは,不自由な社会を作り出したコミュニズムに対する嫌悪感をもっているからである。
 ロシア型民主主義も,次第に西側の民主主義に接近しつつある。とくに世論を無視できない社会になりつつある。強権政治が行われているように見えても,世論の支持なくしては政治運営はできない。ただ政治でカネを使った不正選挙(カネによる有権者の買収など)が行われやすく,金権選挙によって多数を支配する現象がみられる。政治・経済の混乱の中で,まともとはいえない手段で蓄財した人たちがカネを使って勢力を結集したのが与党ともいえる。一方,野党はほぼカネがないので,民意をひきつけることが難しい。プーチンの率いる与党「統一ロシア」はカネを持っている。
 今後はロシアをはじめとして,旧ソ連諸国や,中国,北朝鮮をグローバル社会に取り込んでいくことが大きな政治的課題と思う。
 ところで「ソ連解体」の事件は,北朝鮮や中国にとっては大きな教訓だと思う。最近,中国では習近平総書記が広東省を視察した際に「ソ連はなぜ解体したか」と問い,その教訓をくみ取るべきだと強調したという(2012年12月)。
 北朝鮮の若い指導者・金正恩第一書記は,軍部に取り囲まれていてなかなか自己主張がしにくいのではないか。彼にはスイス留学の経験があり,外(自由)の空気を吸っている。その点が祖父や父親とは違うところだ。北朝鮮が核実験やミサイル発射など行なった事実は非難されるべきだが,対北朝鮮戦略としては,ソ連の例に学んで,国民の意識を変えるという点にも,もっと関心を注いでいく必要がある。最近,米プロ・バスケットボール選手デニス・ロッドマンの訪朝があったが,スポーツの交流もその一つと言える。外からの空気を送り込めば,国民も少しずつとはいえ,今の体制がおかしいということを感じ始めるに違いない。
 かつてフルシチョフ時代に「台所論争」というのがあった。これは1959年,モスクワのソコルニキ公園で米博覧会(見本市)が開かれ,ニクソン副大統領(当時)がオープニングのセレモニーに参加した。このできごとが,ソ連の人々の意識変革と社会の変化の最初であったと元駐日大使のパノフ氏が私に語ったことを思い出す。
 博覧会では,米国の台所用品や日用品などが展示され,ソ連の人々がそれに触れた。当時のソ連にはない素晴らしいものばかりであったが,ニクソンは「これら米国ではどんな労働者でも買うことができるごく普通の商品である」と言い,それに対してフルシチョフは「われわれにもある」と意地を張ったと言う。これがいわゆる「台所論争」である。この見本市を契機に,米国の用品を見たソ連市民は,米ソの経済格差を実感するとともに,ソ連体制への疑問を持つようになったという。これを一例とすれば,ピョンヤンでそのような見本市のようなものを開催すれば,何らかの影響を与えられ,閉鎖社会に風穴を開けられるのではないか。
 力に対して力で対抗するという側面も大切ではあるが,それ一辺倒ではなく硬軟織り交ぜた戦略が重要だと思う。経済制裁にしても,今はグローバル時代であり抜け道はいくらでもあるので,なかなか実効性のある制裁に結びつかない。
 拉致問題も同様だ。日本が経済制裁をやってもあまり効果は期待できないだろう。蓮池さんのお兄さんは,最初「拉致被害者の家族会」に加わっていたが,途中から手を引いた。その主な理由は,その会と周辺の人たちが非常に頑なで,強気一点張りの考えだけで進めようとして北との対話の必要性を認めないことに失望したと私に打ち明けてくれた。
 横田夫妻の件で言えば,横田めぐみさんの子ども(孫)の存在がわかり写真も送ってきたときに,横田さん夫妻はなぜ北に行かなかったのか。もし北に行って孫との接点という糸をつないでいれば,次の手を打てたかもしれない。周囲の反対とともに,騙されるかもしれないと考えて行くことを拒否したわけだが,まずは接点を持てば何らかの打開策が見出せた可能性もある。横田さんご夫妻には気の毒だが,北との交流のチャンネルを封じてしまったことは大きな失点であった。この点,蓮池さんのお兄さんも同じ意見をもっていた。交渉には弾力的な考え方も必要だろう。
 「ソ連の創設と消滅」は社会主義の実験であった。資本主義にも,社会主義にも,それぞれ良い点も悪い点もある。資本主義か,それとも社会主義か,と問うて,二者択一するのは賢明なことではない。両者のいいところを取り入れた社会を目指すのが賢明な選択ではないか。地球は狭くグローバル化し,ネット社会がますます発達する中で,隠しごとができない時代になった。過去の歴史に学び,よいところを伸ばし,悪いところを切り捨てて改良して,より良い国づくりを目指すことが重要だろう。
(2013年3月5日)
(「世界平和研究」2013年夏季号より)