最近のトルコ情勢と日本の外交

山口洋一(元駐トルコ大使)

<梗概>

 ヨーロッパとアジアの間に位置するトルコは,さまざまな歴史的経緯を経て双方への帰属意識(アイデンティティ)を持つようになった国民であるが,最近イスラーム世界の一員としての自覚が高まりつつある。一方,日本との関係で言えば,トルコは親日的国ではあるが,トルコ側の「片思い」という感じがある。ユーラシアの重要な位置にあるトルコの役割を考えたときに,日本はもっと関心を向ける共にトルコに対する正しい認識を持ち,関係強化にもっと力を入れていく必要がある。

 今年が第一次世界大戦勃発の百周年に当たることを考えると,この戦争に敗れて終焉を迎えつつあったオスマン帝国を倒し,新時代を築くべく立ち上がったケマル・アタチュルク(1881-1938年)のトルコ共和国建国のための闘争を思い起こさずにはいられない。
 アタチュルクが取り組んだ大事業は,イギリス,フランス,イタリアをはじめとする強大な連合国に敢然と立ち向かい,国の独立を確保するという外に対する戦いであると同時に,オスマン帝国を倒すという内における闘争だった。しかも後者の内における闘争は,外敵との戦いに勝るとも劣らないほど,難渋を極めた試練であった。
 オスマン帝国打倒の難しさは,スルタン=カリフ制の故に倍加するものであった。即ちこの帝国はスルタン=カリフという同一人物の中に,帝政と教皇制とを同時に兼ねそなえた国家であった。従って,この国を倒すには,一人の人間に体現されたスルタンとカリフとの両方を打倒しなければならなかったのである。
 このような帝国を倒して共和国を建国するには,何を措いてもセキュラ世俗リズム主義,つまり政教分離を国是とすることが求められた。それまで,イスラームは国民生活の隅々にまで浸透し,風俗,習慣,法律,教育等すべてがイスラームと結びついていた。なにごとにつけても,教義に反するおそれのある行為や思想は差し控えられてきた。アタチュルクにとっては,このようなイスラームこそが人々を迷信と偏見の泥沼にはまらせ,進歩を妨げているのであって,国の近代化を達成するにはイスラームとの絆を断固断ち切ることが不可欠と思われたのである。
 オスマン帝国においては,国家は政治,経済,外交,軍事,宗教すべてにわたる権力を握っていたが,アタチュルクはこのうち,宗教を国家の外に出し,世俗主義国家としての共和国を樹立する事業に取り組んだのである。そして彼がこの未曾有の難事業を成就させて建国したのが,今日あるトルコ共和国である。
 以下の本稿においては,このようにして誕生したトルコ共和国が最近はどのような情勢にあるのか,そしてトルコと日本とはどのよな間柄にあるのかについて考察することと致したい。

1.西側寄りの世俗主義国家

 そもそもトルコ族は,その起源を辿ると中央アジアの遊牧騎馬民族であるが,中央アジアといってもかなり北東寄りのバイカル湖あたりに端を発している。彼らは蒙古族とよく似ており,トルコ族自身が「オレたちはモンゴルなのだ」と自称することもあったほど,蒙古族とは非常に近い民族である。彼らは東アジアからだんだんと西の方に民族移動を行い,西暦紀元元年頃には,今のキルギスタン辺りにまで進出し,他民族との通婚により金髪碧眼の白人タイプのトルコ人も現れるようになった。
 現在のトルコ共和国が占めているアナトリア,俗に小アジアと呼ばれる土地へのトルコ族の進出は,12世紀に始まり,まずセルチュク・トルコがやってきてルム・セルチュク国を成立させ,その後13世紀末になるとオスマン帝国が誕生した。この帝国は強大なイスラーム世界帝国に発展し,1453年にはコンスタンチノープル(現イスタンブール)を陥落させてビザンチン帝国を滅亡に追い込み,東ヨーロッパからバルカン,中東にわたる広大な領域を制圧して,600有余年の命脈を保つことになった。
 この大帝国はケマル・アタチュルクによって倒され,1923年に今日のトルコ共和国が建国されたのである。
 ケマル・アタチュルクが興した共和国は,それまで続いてきたオスマン帝国に対するアンチテーゼとして誕生したので,最も基本的な枠組みとしてセキュラ世俗リズム主義を掲げてきた。そしてこの国是のもとに,近代化を推進したが,そこで観念された近代化は,とりもなおさずヨーロッパナイゼーションであった。こうしてトルコは,ヨーロッパに接近し,イスラームとは一線を画する国家体制をとってきた。
 第二次世界大戦後,トルコはいち早くNATOに加盟し,OECD,CSCEの一員にもなった。EUについては,現在加盟申請中で,まだ結論は出ていないが,1995年に関税同盟が成立し,99年には加盟候補国となっている。
 このように,西側に近い関係を保ってきたトルコは,西側諸国から「中東における貴重な友好国」として重視され,殊に冷戦中は,NATO加盟国の中でもソ連と直接国境を接している国として,欧州南翼の防衛を担う責任を担い,重要な役割を果たしてきた。さらに冷戦後はイスラーム圏で原理主義が蔓延する中,トルコはそれへの防波堤として重視されてきた。

2.トルコ人の自意識と最近における変化

 このような国柄のトルコであるから,これまでのトルコ人のアイデンティティ,つまり自意識は「中央アジアの遊牧騎馬民族の末裔である」という自覚と「ヨーロッパの仲間なのだ」という思いが支配的であった。アジアとヨーロッパの双方への帰属意識が持たれていたのである。
 他方,彼らは国境を接してすぐ南に広がるアラブ世界とは一線を画し,「自分たちはアラブとは違うんだ」という気持ちをもち,もっとはっきり言う人は「アラブ人は嫌いだ」とさえ言ってはばからなかった。世俗主義に徹する国柄のトルコにとって,政教一致のアラブ諸国としっくり行かないのは当然の成り行きであるが,それに加えて,「オスマン帝国の時代には,アラブを大切にしてきたのに,ヨーロッパの帝国主義が勢いづくや,その尻馬に乗ってオスマン帝国に銃を向け,離反したのは怪しからん背信行為だ」と受けとめられているのである。現にオスマン帝国の時代,アラブ人はムハンマド(モハメット)を生んだ民ということで特別の扱いを受け,税金も免除されてきた。帝国の国庫収入の三分の二はバルカン・東欧から,三分の一はアナトリア(小アジア)から得られており,アラブからは一切徴税していなかったのである。アラビア語の学習も盛んで,現在は西洋のアルファベットで記されているトルコ語の表記にも,当時はアラビア文字が用いられていた。それなのにアラブの国々は,近代になると一転して,ヨーロッパ勢の力を借りて分離独立して行ったのである。イギリス映画「アラビアのロレンス」はまさにその模様を描いている。
 ところが最近,彼らの自意識には微妙な変化が見られるようになってきた。これまでイスラーム原理主義への防波堤として位置づけられてきたトルコは,イスラーム色の強い現在のエルドアン首相の下でも,依然としてイスラーム原理主義と一線を画してはいるものの,イスラーム世界の一員としての自覚がかなり高まり,西側自由世界とは少し距離を置くようになっているのである。
 そもそも2003年にトルコの国民が,イスラーム色の強いエルドアン政権を発足させたこと自体,それまでの国の舵取りを大きくギアチェンジさせることを示唆する出来事であった。爾来,政権与党の座にある公正発展党(AKP)は親イスラーム政党ではあるが,世俗主義を根幹とする憲法に立脚した現在の国家体制を変えようとまではしていない。しかしこれまでの徹底した世俗主義のあり方を内政面で見直すとともに,対外関係においても,従来一貫して続けてきた欧米諸国との協調一辺倒の路線を幾分軌道修正している。
 2009年のダボス会議では,エルドアン首相がイスラエルのガザ攻撃を巡ってペレス大統領を強く批判し,アラブ諸国から称賛を浴びた。それというのも,同年,トルコのNGO団体がガザの封鎖状況打開のために支援船をガザに派遣したところ,イスラエル軍が攻撃し,9名のトルコ人活動家が死亡するという事件が起きていたのである。トルコ側はこれに激しく抗議したが,イスラエルは謝罪を拒否し,この結果双方とも大使を召還し,両国間の軍事協力関係も停止するなどして,両国関係は非常に厳しい状況に立ち至っている。
 内政面では,世俗主義であったがために課されてきた種々の制約が徐々に自由化されている。例えば女子学生の大学でのスカーフ着用の解禁(2010年)などは象徴的な事例である。
 何故このような変化が起きたのであろうか。それというのも,トルコに対するヨーロッパ人の偏見は一向に変わらず,EU加盟も進展する気配すら見せない状況に,ついにトルコの人たちはしびれを切らし,ヨーロッパとは一定の距離を置き,イスラーム世界の方に顔を向けるようになったのである。つまり「ヨーロッパ人のトルコ観」,ここに最大の原因がある。EU加盟問題の足踏み状態もまさにこれが禍していることは疑いない。
 ヨーロッパ人は,トルコをやや距離を置いた冷ややかな目で見ており,なかなか自分たちの仲間として受け入れようとはしていない。このようなヨーロッパ人のトルコ観は,長年にわたって根強く続けられてきた。これまで近代化は西欧化ということでヨーロッパに熱い視線を投げかけ,帰属意識を持ってきたトルコ人としては,自分たちを阻害するようなヨーロッパ人のトルコ観が一向に変わらない状態が続くのには,流石に辟易してしまったのである。

3.ヨーロッパ人のトルコ観

 ヨーロッパ人のトルコ観には三つの要素がある。
 第一は,自分たちの勢力圏に中央アジアからやってきた闖入者であるとする受けとめ方である。今のトルコが占めている領土は,97%がアナトリア(小アジア)で,イスタンブールからバルカンに少し入る部分が3%を占めている。これらの領域は,まさに古代ギリシア,ヘレニズム,古代ローマ,ビザンチン帝国と,ヨーロッパ世界発祥の原点となる文明がずっと栄えてきた土地である。従ってヨーロッパ人は,ここは自分たちの領域なのだという思いを強く抱いている。そこへ中央アジアから遊牧騎馬民族が馬でパカパカやってきて,12世紀にセルチュク・トルコ,13世紀末にはオスマン・トルコが居座り,自分たちは追い出されてしまったのである。こうして,「トルコ族はヨーロッパ文明圏への闖入者だ」と見做されるようになった。現に,トルコにはトロイ,ペルガモン,エフェソス等々,ヨーロッパ人には忘れがたい古代ギリシア・ローマの遺跡が数多く存在している。
 外敵の侵入をほとんど受けることなく過ごしてきたわれわれ日本人には,ヨーロッパ人のこの感覚は,なかなか理解できないかも知れないが,仮に蒙古襲来の文永・弘安の役(1274年・1281年)で,神風が吹かず,鎌倉武士の善戦も空しくして日本が敗れ,九州の一角が,占領されて現在も蒙古族が居座っているとしたら,日本人は心穏やかでいられないに違いない。そんな思いを想像してみれば,ヨーロッパ人の心情も理解できるであろう。
 第二の要素は,オスマン帝国の軍事的脅威である。モーツァルトやベートーベン,シューベルトなどは「トルコ行進曲」「軍隊行進曲」を作曲しているが,オスマン帝国の軍事的脅威は長年にわたって,ヨーロッパ人にとっての悪夢となってきた。とりわけスルタンの親衛隊であるイェニチェリ軍団は,向かうところ敵なしで世界最強を誇ってきた。バルカンから東ヨーロッパのハンガリーやルーマニアはオスマン領となっていたし,ウィーンも16世紀と17世紀の二度にわたって包囲され,落城寸前まで追いこまれた。従ってヨーロッパ人は,オスマン帝国軍が攻めてくるのを一番恐れていたのである。
 今でもヨーロッパのお母さんは赤ん坊が泣き止まないと「いつまでも泣いているとトルコの兵隊がやってくるよ」と言って叱る。日本でも昔は「泣き止まないと蒙古が来るよ」と言っていたようだが,蒙古襲来は13世紀の出来事だったのに対して,オスマン帝国は1923年まで存在していたので,遥かに現実味のある話なのである。
 オーストリアのグラーツという町の大聖堂に,15世紀のトーマス・フォン・ビラッハというドイツの画家が描いたキリスト受難の絵がある。最近それを修復するために下ろしたところ,フォン・ビンラッハが絵の裏側に落書きをしているのが見つかった。曰く「神よ,ペストとイナゴとトルコ人から我を守り給え」。人を根絶やしにするペスト,穀物を荒らしまくるイナゴ,それと並ぶ怖いものとしてトルコ人を挙げているのである。
 三番目は,キリスト教世界とイスラーム世界との確執である。キリスト教とイスラームはユダヤ教と並んで同根の三宗教である。この三宗教は,仏教やヒンズー教などのように,他を排除しない寛容な多神教と違い,一神教なので非常に対立意識が強く,排他的性格の宗教と言える。そこで彼らの間では,古来,聖地をめぐる抗争が絶えず,頻繁に宗教戦争が起こり,中世には二世紀にわたる十字軍の歴史(1096~1291年)もあった。このキリスト教世界のイスラームへの対立感情がオスマン帝国に向けられ,今日のトルコとヨーロッパの国々との間柄もそれを引きずっている。
 イスラームの国はたくさんあるのに,何故キリスト教世界の対立感情がトルコに向けられるのであろうか。その理由は,オスマン帝国が踏襲してきた「スルタン=カリフ制」にある。オスマン帝国の政治的な首長はスルタンであるが,カリフは,オスマン帝国に限らず,イスラーム世界全体のトップであり,カトリックにとってのローマ教皇に当たる。
 イスラームの誕生以来,カリフはずっとムハンマドの血を引く人物が継承し,その間にはシーア派とスンニ派の分裂が起こったりした。13世紀末に興ったオスマン帝国でも,当初,カリフは自分たちのスルタンとは別の存在であった。
 ところが1517年にスルタンのセリム一世が,当時エジプトを支配していたマムルーク朝を倒して,ここをオスマン帝国領に編入した際,カイロで細々と続いていたカリフのムタワッキルをイスタンブールに拉致して幽閉し,自らカリフ尊称を名乗ってしまった。言ってみれば,カリフを乗っ取ってしまったのである。それ以来ずっとオスマン帝国のスルタンは即カリフであるという「スルタン=カリフ制」が続けられてきた。ムハンマドの血筋とは縁もゆかりもないスルタンがイコール,カリフであるという制度が打ち立てられてしまったのである。この結果,キリスト教世界のイスラーム世界に対する対立意識は,専らオスマン帝国へ向けられることとなり,それが今日のトルコに引き継がれているのである。
 以上に述べた三つの要因がヨーロッパ人のトルコに対するわだかまりとなっており,その結果,ヨーロッパ人はトルコに距離感を持ち,少なくともこの国を自分たちの仲間としては受けいれないような独特の精神構造をもつに至っているのである。

4.日本との関係

 トルコは親日的な国として知られているが,実際にトルコの人たちはわれわれ日本人をどう見ているのであろうか。有り難いことに,トルコの人たちは,神話化された日本観とでも言えるほど,日本と日本人を理想化した姿で受け止めている。
 彼らが日本人の特性としてよく挙げるのは,勤勉,有能,規律正しい,信義に篤く約束を違えない,時間に正確で礼儀正しい,勇敢で尚武の気風に富む,自己犠牲を顧みずに社会や国家に奉仕する,清潔好き等々,話を聞いているこちらが面映ゆくなるくらい結構づくめの理想化した日本人像を抱いている。「自分たちも見習って,日本人のようになるのが理想だ」とまで言っている。イスラーム信奉者の中には,「日本人こそ真のイスラーム教徒だ」と言う人すらいる。それというのも,「アラーの神が人間の特性として期待する勤勉や自己犠牲,清潔などを一番よく体現しているのは日本人であるから,日本人こそ真のイスラーム教徒なのだ」という訳である。彼らはこのように日本と日本人を極端に美化し,いわば日本を神話化したイメージで受け止めているのである。
 他方,日本人はトルコをどのように見ているかというと,オスマン帝国のことは一応学校の歴史の授業で学んで知っており,観光旅行で行ってみたい国といった程度の思いはあるものの,この国に特別熱い眼差しを向けるというほどの親近感まではもっていないというのが一般的日本人と言える。両国間で,相手国に対する思い入れに,かなりの温度差があることは否めない。
 トルコと日本の間柄は,極めて良好な関係にあるが,このように,両国民間で相手側を見る目に温度差がある実情を反映し,日土関係の現状は,ややトルコ側の片思いという感じを持たざるを得ない。
 トルコは,官民あげて対日関係の増進に力を入れており,要人の往来をはじめ,貿易,投資,観光,学術・文化交流など,あらゆる分野で積極的な姿勢をとっている。とりわけ日本からの投資の誘致には力を入れており,トヨタやYKKなど多くの企業がヨーロッパへの輸出基地として,トルコに工場を設けて操業している。教育面ではアンカラ大学やボアジチ大学(イスタンブール)などで日本語・日本研究が盛んに行われているばかりか,日本語の学習をする高校までできている。
 これに対し,日本側の関心はトルコに比べるとだいぶ低く,トルコ側の期待に十分応えるような積極的姿勢で関係強化に乗り出しているとは必ずしも言えない実情にある。

5.親日の由来

 トルコ人が親日になった大きな理由は歴史的ないきさつ経緯にある。
 明治時代の1890年(明治23年),日本に範をとって近代化を進めようとしていたオスマン帝国のスルタンは,軍艦エルトゥールル号を遠路日本に派遣して,日本への友好使節団を遣わした。使節団は明治天皇からも歓待され,友好の実をあげたが,帰途,和歌山県串本町の沖で難破し,587名が遭難して生存者わずか69名という惨事に見舞われてしまった。この時,串本の住民が生存者の捜索,救助,介抱,遺品の回収などに手を尽くしたのをはじめ,明治天皇以下,官民あげて万全の対応を行った。遭難者の遺族には義捐金が集められ,一人ひとりの遺族に届けられた。遭難事故は不幸な出来事だったけれども,日本人の手厚い応対ぶりはトルコ人に感銘を与え,日本は実に素晴らしい国だという印象を植えつけた。
 日露戦争で日本が勝ったことも親日になった大きな理由である。オスマン帝国が西洋列強の勢力拡大の波に翻弄されていた時代であったので,ロシアに対するアジアの新興国日本の勝利はトルコの人たちにとって,わが事のように喜ばれた。トルコ人の苗字にTOGOさんという人がいるが,これは東郷平八郎に由来した苗字なのである。トルコ外務省にも「トーゴーさん」はいるし,イスタンブールやアンカラに大きな店を構える革製品の高級ブランド店の名前も「TOGO」である。
 1917年にロシア革命がおこると,当時ロシアに在住していたトルコ系のタタール人が難民として日本に渡来し,横浜や神戸に定住した。この人たちも日本がどのような国なのかをトルコ人に伝え,日本についての好ましいイメージ作りに寄与した。
 やがて共和国になってからは,ケマル・アタチュルクが自国の近代化を図る上で日本を模範とし,明治天皇をたいへん尊敬していたことも,彼らの日本観に好影響を与えた。
 第二次世界大戦後,朝鮮戦争(1950~53年)が勃発すると,トルコは韓国側に立って出兵し,西側協力の確固とした姿勢を打ち出した。戦争に参加したトルコの将兵は,戦地への途次の立ち寄りとか,休養のための滞在,或いは傷病兵となった場合の療養などで,多かれ少なかれ日本での滞在を経験した。そして彼らは日本で手厚く遇され,ほとんど例外なく日本について好印象を受けて帰り,母国の人たちにそれを語り伝えた。その後は,日本の経済発展を目の当たりにして,日本に見習えという風潮は一段と高まった。
 このような歴史的背景が,今日におけるトルコ人の日本観を形作っている大きな要因になっていることは疑いない。
 これに加えて,トルコ人の対ヨーロッパ・コンプレックスがある。既述の通り,ヨーロッパ人はトルコに距離感もって対し,身構えた姿勢をとっているので,トルコ人の方もヨーロッパ人は自分たちを同胞として暖かく受け入れてくれないと感じている。これと対比して,日本とは真の友達になれるということで,ヨーロッパ人への意識が,逆に親日感情を増幅させているのである。言ってみれば,対ヨーロッパ・コンプレックスの反作用として,親日になっているという側面がある。
 もっとも,対ヨーロッパ・コンプレックスといってもこれは決して劣等感ではなく,場合によっては優越意識に近い思いですらある。一種のヨーロッパに対する憧れと同時に対抗意識も併せ持つわだかまりとも云える複雑な感情なのである。

6.今後の日土関係,日本への期待,日本の役割

 最後に,今後の日土関係のあり方とそこでの日本の役割について考えてみたい。
 既述のように,両国関係はトルコ側の片思い状態にあるので,これを是正するよう,日本人は自分たちのトルコ観を改善して,この国についての正しい認識をもち,関係強化にもっと力を入れていく必要がある。政府も欧米の顔色をうかがってばかりいるのではなく,独自のスタンスでトルコ政策を積極化して行かねばならない。
 その際,特に注意すべき点として,われわれ日本人が,トルコ問題に限らず,世界中のあらゆる事柄にわたり,過去の歴史から現在の状況まで,西洋人の色眼鏡を通して眺める性癖に陥っているという事実がある。西洋のマスメディアの尻馬に乗って報道する日本のマスコミは,この風潮を一段と煽っている。日本政府もこの点については同様で,日本の外交が欧米追随に堕していると言われても仕方ない,情ない実情にある。
 ひところは武士道が注目されたり,ジャポニズムがもてはやされたりして,日本は独自の文化を誇る個性豊かな国と見られていた。ところが最近ではこのような個性が失われ,「日本は不可解な国」だとか「顔の見えない日本人」などと言われるようになっている。日本及び日本人のアイデンティティを取り戻して,これを世界に明示し,独立自尊の主権国家としての外交を展開することがなによりも肝要となっている。
 欧米は日本の対外関係において重要なパートナーであり,良好な関係を保つことは重要であるが,彼らの認識が歪んだ,誤ったものである場合には,わが国独自の立場を打ち出し,むしろ彼らの誤りを正す姿勢をとらねばならない。欧米との協調を謳い文句に,彼らの顔色を窺い,いわんや彼らに指図されて外交を行うなどは言語道断である。
 トルコとの関係においては,この独立自尊の外交姿勢が特に重要となっている。それと言うのも,われわれ日本人はこの国を正しく理解していないきらいがあり,日本政府ですら,トルコを巡る諸問題を欧米白人世界の歪んだ認識に影響されて,正しく受け止めていないケースが少なくない。トルコが抱えているアルメニア人虐殺やクルド問題,キプロス紛争などの諸問題について,日本のマスコミも日本人も西洋人の認識をそのまま鵜呑みにしてしまい,トルコの言い分に耳を傾けた上での正しい理解をしていないのが現状である。日本政府も同様と言わざるを得ない。
 例えば,キプロス紛争に関しては,毎年国連でトルコを非難する決議が採択されている。「1974年からトルコ軍が進駐して北半分を占領しているのが諸悪の根源であり,トルコ軍が撤退しさえすれば,問題は解決する」という趣旨のギリシア側の言い分をよりどころにした偏った内容の決議である。キプロス独立(1960年)の際,少数民族であるトルコ系住民のステータスも十分に保障した条約がトルコ,ギリシア,イギリスの三国間で結ばれたが,多数派のギリシア系は,その後この条約を全く無視して,トルコ系住民の抹殺に乗り出した。そこでトルコは致し方なく,自国民保護のために条約上の権利を行使して,軍隊派遣に踏み切ったのである。このようないきさつ経緯を無視して,ギリシア側の言い分だけによる決議が毎年国連で評決に付されているのであるから,日本はこのような決議には反対すべきであり,百歩譲っても棄権すべきなのに,トルコ政府の要請にも拘わらず,欧米協調路線を続けている。
 アルメニア人虐殺やクルド問題についても,西洋サイドの論点だけが大手を振って世にのさばり,日本人はこれをそのまま信じてしまっているが,実際には西洋諸国の言い分とは大違いで,われわれはトルコ側の主張にも耳を傾け,問題を客観的に正しく捉える必要がある。
 このような状況なので,日本は西洋人の色眼鏡を通してしか世界を眺めず,欧米のご機嫌とりを演じる姿勢とは,そろそろ訣別しなければならない。とりわけトルコとの関係では,独立自尊の国として,独自のスタンスに立って,対外関係を処することが重要となっている。西洋人の歪んだ認識とは一線を画し,毅然たる姿勢で,トルコとの関係をもっと積極的に推進していくことが,まさにトルコからわが国に期待されているところであり,この期待に応えることこそ,日本が担うべき役割だと確信する。
(2014年5月29日)
(『世界平和研究』No.202,2014年8月1日号より)