『文明論之概略』における歴史観

河端春雄(哲学者)

はじめに

  福沢諭吉(1835-1901年)の著述のなかで最も読まれたのは,『西洋事情』と『学問のすゝめ』であるが,それらは「従来の著訳は専ら西洋新事物の輸入と共に我国弊習の排斥を目的として,云わば文明一節づつの切売」(『福沢全集』第1巻緒言)であって,人生観,歴史観などを体系づけて叙述したものではなかった。『文明論之概略』が出版された明治8年ごろになって,はじめてそれらが成熟した形で語られるようになった。
 『文明論之概略』以後の著述は,その趣旨において変わるものではなく,個々の問題について具体化したものである。いわば生涯の絶頂に立って前後を見渡すべき位置にあるといえるだろう。この論文で扱うべき問題は,『文明論之概略』に表れた福沢諭吉の歴史観と,明治初期における文明史観を分析し,位置づけることである。
 『文明論之概略』は,あくまでも文明批評であって,歴史哲学あるいは文明史ではない。が,その根底には明治初期における文明史観が最も顕著に流れているのだから,『文明論之概略』の内容を分析することによって,福沢の文明史観の本質に触れることが可能であろう。

1.『文明論之概略』の参考文献

 いま,ここに福沢諭吉が,いかなる文献を座右にして『文明論之概略』を執筆したかを考察したい。福沢は,西洋,とくに英国に発達した個人主義,功利主義の倫理を取り入れたといわれる。それら西洋の文献をどのように読み,いかなる点を強調し,またいかなる点を拒否したかを原典と比較することによって明らかにしたい。
 福沢諭吉の文章は,中江兆民が「福沢の文,天下之れより飾らざるなく,之より自在なるはなし」というように達意の文章であって,翻訳臭がなく,どこまでが翻訳であり,どこまでが創意なのかは文脈によっては推測し難い。明らかに出典としてあげているものは,ヨーロッパの文献では,F.P.ギゾー(F.P. Guizot,1787-1874年)のものが二箇所,H.バックル(H.T. Buckle,1821-61年)の『英国文明史』,J.S.ミル(J.S. Mill,1806-73年)の『代議政治論』および経済書が各々一箇所ある。日本のそれでは葛山伯有の『旧制沿革考』,中井竹山の『逸史』に対する批評が一箇所,『日本外史』,『読史余論』への批評が,それぞれ二箇所ある。これらのうちでとくに影響を与えたのは,F.P.ギゾーとH.バックルであることは,次に述べることによって明らかであり,いまここに比較してみようとするのも,この二書についてである。

 『文明論之概略』には「歴史」について,次の二箇所の記述がある。
 まず「彼の文明,半開,野蛮の名称は世界の通論にして世界人民の許す所なり」と述べ,この三段階とは「是れ人類の当に経過すべき階級なり或は之を文明の齢と云うも可なり」とあり,それによって歴史の推移を生物の生長過程と同様に見做していることが分かる。明治2年出版の『掌中萬國一覧』では,混沌,蛮野,未開,文明に分け,その説明によれば,混沌と蛮野は『文明論之概略』の「野蛮」に,また未開は「半開」に当ることはいうまでもない。ただ『掌中萬國一覧』では,日本がいかなる段階にあるかは記述せず,米国を「開化文明の真境」と間接に日本の位置を示しているのは,あからさまに文明批評を筆にできない社会情勢の反映として注目すべきことである。
 このような見解は,明治初期の洋学者には,ほぼ常識化した図式であって,『明六雑誌』(第3号)に森有礼が「開化第一話」として同様の説を述べている。ベルツの『日記』には「教養ある人士も過去に引け目を感じているのである。『何も彼も野蛮至極であった』と一人が云った。他の一人は余が日本歴史に就き質問した時に,明白に『我等は歴史を持っていない。我等の歴史は今から始まるのだ』と叫んだのである」と,明治9年10月25日付にある。
 が,いわゆる文明について,一面において讃美すると共に,他面そのもつ暗黒な反面を指摘したものもなくはなかった。例えば,明治2年に出版された中井桜洲の『西洋紀行航海新説』には,「英京古城ノ近傍セフーンダイルス街及イズリントン其他各所陋巷ニ」賤民の集会する所があるのは,「文明国中免レサル疾患」であると指摘している。また「死屍野ヲ蔽ヒ鮮血河ヲ溺シ,死力ヲ尽シテ戦フ有様ハ又文明国ノ一大怪事ナラズヤ」と述べている。近代資本主義社会の欠陥に批判的な眼を向けた例もあったが,顧みられることが少なく,いわゆる「文明論」が滔々として流れ入り,文明史と名づける歴史書が市中に氾濫した。文明,半開,野蛮という歴史発展の図式が,いかなる文献によって明治初期の知識人に常識化されたかは,当時読まれた洋書とか,またそれの翻訳によって指摘することは困難である。が,この見解は,A.ファーガソンによって図式化された啓蒙期の所産であって,19世紀の資本主義勃興期のヨーロッパの歴史書に多かれ少なかれ共通した思想である。それが明治初期の変転期にあって,鮮明に浮かび出てきたものと考えられる。

2.欧州文明の長所としての個人主義と実学

 『文明論之概略』第3章の「文明の本旨を論ず」に,文明について説明している箇所がある。この部分は,F.P.ギゾーの『ヨーロッパ文明史』のほぼ全訳と見做すことができる。
 したがって,福沢諭吉の文明の進歩についての見解は,F.P.ギゾーによって解釈して差し支えないだろう。その学説は,文明の進歩をどのように考えていたかについて,原文を参照したい。

Two elements, when, seem to be comprised in the great fact which we call civilization; -it reveals itself by symptoms; the progress of society, the progress of individuals; the melioration of the social system, and the expansion of mind and faculty of man.

 この要素の関係については,人間の知性の発達は社会の利益になるものである。社会状態の改善は人間性に益するものである。それは切断することはできない。つまるところは,個人の進歩ということに他ならない。他の箇所での表現に,(there is a general civilization of the whole human race―)a course for humanity to run― a destiny for it to accomplishが『文明論之概略』に「文明とは結局人の知徳の進歩と云て可なり」といっているのは,日本語としてF.P.ギゾーの言わんとしたことを,余すことなく表現したと言い得よう。文明開化という標語によって,ややもすれば皮相な西洋模倣に終始しがちな明治初期にあって,近代市民社会の基本原理である個人主義の本質を把握していた。
 智と徳との関係について,そのいずれが文明を進める力であるかについて述べているのは,第6章「智徳の弁」と第7章「智徳の行はるべき時代と場所とを論ず」の2章である。もし,ヨーロッパと日本とを比較するならは,徳性においては大差はないが,その相違は牛と猫との如くであって,「方今我邦至急の求は知恵に非ずして何ぞや」が,その結論である。知性の進歩が歴史の原動力であるというのは,H.バックルによって得た概念であり,その歴史観の要点となるのは,次の如く表現されている。

Since civilization is the product of moral and intellectual agencies, and since that product is constantly changing, it evidently cannot be regulated by the stationary agent; (because, when surrounding circumstances are unchanged, a stationary agent )can only produce a stationary effect. The only other agent is intellectual one.

 それでは福沢が智と呼んでいるものは,如何なるものであったろうか。『文明論之概略』では西洋の学問とを比較して,「西洋諸国は実験の説を主とし,我日本は孔孟の理論を悦び,虚実の相違固より日を同じふして語るべきに非ず」と述べている。ここでは,実学を虚学と対立した概念として用いており,自然科学を指している様にも見做される。また,『学問のすゝめ』第1篇では「一科一学も実用を押え,其事に就き,其物に従ひ,近く物事の道理を求めて今日の用すべき」学問をすすめている。ここでは,実学を実用的な学問と解しているようにも思われる。
 福沢が,こうした概念規定を明確に意識していたが,どうかは別として『文明論之概略』における虚実の実は,実証的精神とその精神によって獲得された知識の総体であり,ヨーロッパ文明の長所はここにあると考えたのである。

3.地理的唯物論を拒否した福沢

 以上,どのように『文明論之概略』のなかにヨーロッパの思想が取り入れられているかを考察したのであるが,次に福沢が祖述すべく拒否している一面を考察してみよう。
 J.バックルによれば,文明の発達は人間知性の進歩の結果に他ならぬというのは,ヨーロッパに限ってのことなのである。すなわち,気候,土壌,食糧は,富の蓄積及び分配を通して文明と社会状態を決定する必須条件となる。アジア及び南方諸国では土壌の肥沃に基づく富の蓄積によって文明が進歩するに反して,ヨーロッパでは,気候の影響による規則正しい労働の習慣によって文明が発達する。前者にあっては,文明の依存する自然力は,その力が大であるにかかわらず制限されており,且つ停滞的である。後者の文明は,その依存している人間の力は制限されていない。したがって,アジアの文明はある程度以上は進むことが不可能に反して,ヨーロッパのそれにあっては限りなく進展し得るとした。
 社会の状態については,食糧の化学的成分と気候との関係から「熱帯の諸国では賃銀が低く,寒帯のそれにあっては高くなる傾向がある」。しかるに,収益は利子,地代,賃銀より成るのであるから,賃銀が低いということは分配の不平等,ひいては上層と下層の政治権力,社会的勢力の差を大ならしめる。
 次に自然の一般的状態(general aspect of nature)については,もし自然の状態が地震火山活動,疾病等によって強い力を発揮するときは想像力が強く働いて,理解力(知性の論理的な働き)が抑止される。これに反して,自然の一般的状態が小規模であり,力弱い場合は実験,観察が容易であり,探求的,分析的精神が発達し,自然を支配する法則を発見して,人間が自然を支配するに至る。
 ヨーロッパ以外の文明が,想像力に富んでいるが理解力に乏しいのは,こうした自然の一般的状態に起因するというのが,H.バックルの所論である。
 J.バックルの祖述者は,彼の学説が地理的唯物論であることに,極力反対するところである。
 彼の『英国文明史』改訂版を出したJ.M.ロバートソンは,「彼が教えたところによれば,初期の文明において気候,土壌が食物の供給,人口密度の程度,経済状態を決定し,又労働の持続性を持つかどうかに影響を与える。しかし,何人もヨーロッパにおいては,自然法則を相殺して余りあるところの知的法則の作用を,J.バックル程強く主張したものはなかった」と述べている。が,もしかりに,J.M.ロバートソンの反対論が評されるにしても,それはヨーロッパに関する限りのことであって,それ以外にあっては,依然として地理的唯物論であることは変わるところがない。
 福沢は,このような地理的唯物論と,それに基づくヨーロッパ優越の理論については全く触れず,むしろ疑問の態度をとっている。「西人の著書に亜細亜洲に擅権の行はるる原因は,其気候温暖にして土地肥沃なるに由て,人口多きに過ぎ,地理山海の険阻洪大なるに由て妄想恐怖の念甚だしき等に在りとの説もあれども,此説を取て直に我日本の有様に施し,以て事の不審を断ず可きや,未だ知る可らず」といっているのは,それであって西人の書とは明らかにH.バックルを指している。地理的環境によって,法の精神が異なるものがあるということは,明治初期にあっては,かなり普及した観念公式であった。『明六雑誌』第4号に,箕作麟祥が「人民の自由と土地の気候と互に相関するの論」と題して,モンテスキューの『法の精神』の一部を抄訳し,また明治8年には何礼之によって『法の精神』が『万法精理』として訳出されている。
 実証主義的な精神に徹してゆけば,このような唯物論に至ることは,さほど困難なことではない。にもかかわらず,福沢がこうした唯物論をとり得なかったのは,ヨーロッパとアジアにおいては,その文明の進歩する法則が異っており,地理的環境によってアジアは永遠に半開であり,不平等な社会組織の下に呻吟すべき運命を甘受できなかった,非合理的要請に基づく取捨選択であったと解することが許されはしまいか。

4.倫理的規範に立つ歴史観

 このように考察するとき,福沢諭吉の説いた「独立自尊」は,単に個人についていっているのみではなく,国家についても該当する標語であったと見做し得る。
 『文明論之概略』において,歴史の動きを「進めんとするも進むべからず,留めんとするも留むべからず」と,その原因を近因と遠因とに分け,水の沸騰や人の呼吸作用と同じ方法によって考察すべきだとした。「西洋の語にてスタチスチクと名く」る方法によって,その利害得失を明らかににようとしているは,H.バックルの『英国文明史』に述べているところである。ドイツ近代歴史学派が移植されて,ルートヴィヒ・ライスが東京大学の講義に「バックル及びバックルの追随者が若しも歴史叙述の労作の基本的仮定を正しく理解したならば,彼等はその大きな誤りを犯しはしなかったであろう。即ち,我々は自由意志と道徳行為を一致せしめ得るものであり,又変化し,外面的に矛盾しているにかかわらず,常に自己同一のものであるという確信を我々に強うるが如き存在のみが,真に歴史分析の主題たり得る事が出来,まことにこのような存在は,歴史的分析による方法では把握され得ない」と批判したのは,明治20年以後のことである。
 福沢諭吉の歴史観は,倫理的規範によって歴史を定義しようとする。江戸時代の朱子学派の実用的な歴史叙述に対する抗議として,その任務を果たし得たのである。が,歴史主義的思考あるいは歴史学方法論の確立には無関係であり,明治中期以降のオーソドックスな歴史学には寄与するところが少なくなかった。
 しかし,『文明論之概略』の性格が文明批評であって,学的著述ではないのだから,純粋に史学史の観点から評価することは当を得ていないであろう。フランスの立憲王党の領袖でもあったF.P.ギゾーの政治的立場は,そのまま福沢諭吉の立場でもあって,市民勢力を育てあげ,さらにその政治的主張を代弁した批評家としての意義は,これとは別に考察されねばならぬであろう。
 国家の独立ということも,福沢諭吉にあっては市民勢力をもとにして考え得るものであり,近代国家形成の上に果たした役割こそ,むしろ本質的なものといわねばならない。
(2014年10月7日)(『世界平和研究』2015年冬季号,No.204より)