「イスラーム国」に託された運命―歴史と文学から

金子民雄 (歴史家)

<梗概>

  昨今,「イスラーム国」をめぐるさまざまな事件が世界各地で頻発し,グローバル・イシューとなっているが,日本人にとっては,昨今の日本人を巻き込む事件が起こったのをきっかけに,マスコミを中心に多くの情報があふれるようになった。しかしイスラームに関する正確な情報や知識の普及はまだまだというのが現状だろう。直接的な情報から得る知識だけではなく,文学や歴史を通じて中東・イスラーム世界について理解することは,遠回りのようでありながら本質に迫るアプローチかもしれない。

日本と中東とのかかわり

 仏教国であるわが国は,キリスト教国ともイスラーム諸国とも思考では異なる。キリスト教は明治政府が1868年に成立して(江戸時代の禁制を経て)初めて解禁になった。わが国とて開国してからまだせいぜい150年も経っていない。ましてイスラームの国々など知るすべもない。
 イスラームが預言者ムハンマドによって唱えられたのは,西暦610年のことだった。その約100年後に奈良に大仏が建造されたのだったが,このころ,奈良にはおびただしい数のペルシア(イラン)人が来ていた。ただ彼らがどんな宗教を信奉していたのか,よくわからない。彼らは交易のためにはるばる東の果て日本にまで,どんなルートをたどってきたのか,明白ではないが,陸のシルクロードよりも,たぶん,このころ新しく開発された「海のシルクロード」をたどって,船で日本に来たのであろう。
 一般に知られている「陸のシルクロード」は,陸路のため遠い旅も困難だった。玄奘三蔵がたどった7世紀ごろが,「陸のシルクロード」のほぼ最後期で,これでこのルートもほぼ終わったと思ってよいだろう。そしてこれを引き継いだのが「海のシルクロード」だった。このコースは,紅海からアラビア海を抜け,インド洋を通り東南アジアに入るものだった。このルートでアラビア半島の香料や,インドやトルキスタン方面,セイロン島の宝石が盛んに運ばれ,さらに14~17世紀に入ると,タイを中心に焼かれた陶器の交易が盛んになった。これらは西はエジプトから東は東南アジアを抜けて,日本にまで達していた。茶の利休が珍重したという茶器の「宋胡録」も,もとはタイのスワンカロークで焼かれたものだという。どのルートを辿ってもたらされたかは不明であるが,奈良の正倉院にはペルシア産のガラス製品が遺されている。
 わが国が正式に中東,とくにペルシアとの交流が始まったのは,なんと19世紀も末期の明治13年(1880年)からだった。明治政府が外務省の理事官だった吉田正春(1852-1921年)と,陸軍参謀本部の古川宣誉(のぶよし=大尉,1849-1921年)を派遣したことから始まる。彼らは帰国後に各々旅行報告書を出版したのだが,なにしろ当時の日本人にはペルシアなど<遠い世界の果ての国>であり,ほとんど関心を呼ばなかったようである。
 古川宣誉は『波斯(ペルシア)紀行』(明治24年),吉田正春は『回疆探検 波斯之旅』(明治27年)を各々出版したが,これは現在から見ても大変貴重な記録が入っている。この旅行が実現したのは,ときのペルシア皇帝のナスール・ウッディーン・シャー(在位1848-96年)が,たまたまヨーロッパ旅行帰途,ロシアの首都サンクトペテルブルクに滞在中,千島樺太交換条約の交渉でロシアに来ていた特命全権公使の榎本武揚(1836-1908年)と書記官の西徳二郎(1847-1912年)がシャーと会い,この折,シャーが日本の使節団をペルシアに派遣しないかと,勧めてくれたことの由らしい。
 この折,西徳二郎は日本からペルシアへの使節団が旅行しているとき,自身は中央アジアを日本人として初めて旅した人物で,のちに『中亜細亜紀事』(全2巻,明治19年)を出している。こちらも日本人の目を通して,中央アジアのイスラーム圏を記録した貴重な資料だった。
 ペルシアに向かった古川宣誉と吉田正春はホルムズ海峡を抜けてペルシア湾に入り,ここから陸路を通って,バグダッド,テヘランに向かった。ここで彼らは西徳二郎と同様に,果てしない沙漠を初めて体験した。

アラビアン・ナイトから見える中東世界

 現実の中東を知るには,現実に旅することだが,それはそう簡単なことではない。そこで最もよい方法は「アラビアン・ナイト」(千一夜物語)を読むことだろう。種々様々,おびただしい民族,その風俗・習慣を知る最上のテキストは,「千一夜」にまさるものはないに違いない。しかし,あんな子ども向けの本から何が分かるのかと,当然,嘲笑と反発が出るに違いない。実は,この原本は第二次世界大戦が終わるまで,好色本としてわが国では翻訳は出来なかった。卑猥だからといってカットしていったのでは,中東地域,イスラームの生活について知るすべがない。
 ではわが国ではすっかり時代に遅れてしまっていたのだろうか。ところが興味深いことには,日本が開国して間もないころに,「アラビアン・ナイト」が訳されていたのだった。微妙な部分は略されてはいるものの,なんと1875年(明治8年)に『開巻(かいかん)驚奇(きょうき)・暴夜(あらびや)物語』と題して,英訳版から抄訳されている。ところが,これからまもなく明治16年には,いま一冊『全世界一大奇書』と題して出版されている。どれほどの人が,この本に親しんだかは不明ながら,丸々と翻訳は無理だったろう。
 突如出現した「イスラーム国」の正体が,一体どんなものなのかまるで想定できない。<理想的なイスラームの国>と解説していた人もいたようだが,次々とテロ事件を起こしていたのでは,その運命はだいたい定まったと言えよう。彼らの行動があまりに過激であったのでは,「泥棒を捕らえて縄を綯(な)う」などの譬えではとても間に合わないであろう。次々と犠牲者が社会に蔓延してしまうに違いないのだから。ではどうしたらよいか。これが「イスラーム国」の緊急な対処となるに違いない。
 マルコ・ポーロが伝えているように,かつてイスラームの暗殺教団に対し,モンゴル軍は一人も残さず抹殺してしまった。これでさすがの教団も消滅してしまったが,このテロ集団も完全に掃討出来ればよいが,人種差別がどうのという人権主義が出てくるだろうから,問題解決は至難なことだろう。日本人からも犠牲者が多数出ている。中東は日本人にとって石油に関わっているだけで十分という時代は,明らかに終わったに違いない。

日本人になじみのないイスラーム世界

 昨今,「イスラーム国(IS)」という聞き慣れない言葉ができて,一般の日本人にはさっぱり意味が分からなかった。しかもこれが「国家」であり,中東のイラク北部に2014年6月に出来たというのだから,一体これが本式の国家なのかどうかすら,さっぱり分からない。たぶん,これだけなら日本人は聞き流すだけでまともに考える人もいなかったろうが,ここで捕らえられた二人の日本人が虐殺されたとなると,無視するわけにはいかなくなる。しかもそれから間もない今年3月に入ると,チュニジアで三人の日本人が犠牲になり,さらにアラビア半島のイエメンで大量の人たちが殺害され,いずれも「イスラーム国」の影響を受けたテロによる殺戮事件となると,遠い火事とばかり思えなくなってくる。
 日本人にとってイスラーム,いわゆる回教について知らない人はいないだろうが,この宗教について詳しく知る人は少ないであろう。これまでイスラームは日本人にとって,本当に縁遠い存在だったからだ。まして第二次世界大戦以前では,中東などは日本人にとって<知られざる国>だった。この地域がいやが上にも重要になったのは,ここで採掘される石油資源に依存するしかなくなったからだった。イラン,イラク,サウジアラビアなどは,かつて砂漠地帯にある,せいぜい「アラビアン・ナイト」の幻想的な世界であり,以前であればここから産出される石油がわが国の存在を左右するなど,とても信じられなかった。ここの石油が枯渇したらもう日本の運命もおしまいである。日本人にとってイスラームの統治する中東が,最も重要なところだと改めて知らされたのだった。
 ところがここで突然,降って湧くように「イスラーム国」が出現したのだった。恐らく日本人にとってこれが一体何を意味しているのか,誰にも分からなかったろうと思う。イスラーム圏を研究する人たちは日本でも少なくないが,この「イスラーム国」の出現を予測していた議論は,誰からも耳にしたことはない。
 イスラームには,シーア派とスンニ派の二大宗派があることは知っているが,この二つの宗派が大変仲が悪いということは,われわれ日本人には理解することが難しい。例えば,日本にはイスラームの研究者も少なくなく,信者も当然いる。ところがこの場合,スンニ派かシーア派のどちらかに所属しているだろうから,議論になると単純でなくなる。「イスラーム国」はスンニ派に属するから,中立の立場で議論が出来なくなる場合が生じる。マスコミではこのことを十分知っていないと,議論で噛み合わなくなる。
 第一次世界大戦が終わって中東地域からトルコ(オスマン帝国)の勢力範囲がなくなった。次いで第二次世界大戦の結果,なんとか英仏両国は米国の援助で勝利したものの,世界の主要な中東諸国やインド,アフリカの植民地を失った。この地域はだいたいがイスラームやヒンドゥー教の世界だった。しかもこの複雑な中近東に新しくユダヤ教のイスラエルが建国され,ますます民族宗教が複雑化し,これまでの歴史観や宗教観では,とても統治も支配も出来なくなった。これが21世紀の中東情勢である。中東は,かつて「火薬庫」と言われたが,まさしくその火薬庫の本丸が「イスラーム国」と言えよう。
 中東情勢で改めて再認識すべきは,同じイスラームの国であるトルコの存在であろう。そしてここにきて従来のトルコの国家政策が微妙に変わってきているのではないだろうか。トルコ政府が従来の政教分離政策と脱亜入欧を基本として歩んできた方針を,どうやら変えてきたらしいのである。詳しい事情は分からないが,西欧諸国はNATOでは加盟させたアジアに属するトルコを,EUからは加盟させることを拒否した。明らかにキリスト教国のEUは,アジアのイスラームを排除したわけだ。現在の「イスラーム国」との関係で,トルコの存在を無視することは出来ないはずだが,これを阻止したのはEUということになる。
(2015年3月22日)
(『世界平和研究』No.205,2015年2月1日冬季号)