和平の壁は「壁と砲弾と怨恨」
―イスラエル・パレスチナ問題に思う―

川上与志夫 (帝塚山学院大学名誉教授)

 1963年の夏,米国留学の帰りに私は初めて欧州とアラブ地方へ足を運んだ。目的の一つはレバノンでの国際ワークキャンプに参加すること。欧州諸国を巡った後,ギリシアからベイルートに飛んだ。世界各国から集まった四十数名が,プロの指導のもとで教会堂を建てる重労働に従事。言葉の壁は笑顔で崩れ,心はよく通じた。四週後,ほぼ完成した会堂の庭でお別れパーティ。「この会堂は決して崩れない」「国境,宗教,民族の壁を越えて,世界平和の殿堂を建てよう」との誓いを胸に,若者たちはそれぞれの地に散って行った。この教会堂は,1981年のレバノン戦争で焼け落ちてしまった。
 キャンプの後,希望者十数名で聖書にゆかりのある地を巡った。まず訪れたのはシリアの首都ダマスカス。町の真ん中に聖書時代から「まっすぐ」と呼ばれている狭い通路がある。両側には土産店がごちゃごちゃと立ち並んでいた。外国からの旅行客に,客引きが大声で近寄って来る。生き生きした,賑やかな街並みだった。最近の報道写真によると,いまこの町は戦闘で滅茶苦茶に破壊され,地元の人たちは難民となって苦しんでいる。
 つぎにゴラン高原に出て,シリアとイスラエルの国境地帯を訪れた。広漠とした大地に異様に続くテントの波。走り回る数人の子どもたちの姿が印象的だった。アラブ(パレスチナ)人の難民キャンプだ。彼らは千数百年以上住んできた土地から追い出された。長年外地に居留していたイスラエル人が,新鋭武器を手に押し入って来たからだ。十万を超える難民は国連からの支援で,生きるのがやっとの生活を余儀なくされていた。
 43年後の2006年,私はイスラエルを訪ねる機会を得た。1993年にオスロ合議で認められたパレスチナ自治区には,イスラエル入植地が点在していた。強引な入植である。国境に延々とつづく高いコンクリートの壁。聞くと見るとでは大違いだ。イスラエルが築いたその壁には,憎悪・嫌悪・怨念・疑念などが塗りこまれているのを感じた。
 ガザ近くへ行くと,イスラエル政府によってガザから強制的に連れ出されたイスラエル人たちのテント村があった。イスラエルの中の,イスラエル人難民キャンプである。「ガザではパレスチナ人たちと仲良くやっていたのに」とぼやいていた。その数日後,イスラエル人のいなくなったガザ地区に激しい砲撃があり,多くのパレスチナ人が死傷した。
 第二次世界大戦直後から始まったイスラエル・パレスチナ問題。難民の数はイスラエルの強硬姿勢とイスラム国の暴挙で膨れ上がっている。イスラエルを後押しする国々(主に米国)には,政治的・経済的に身勝手な理由がある。神から与えられた地を奪還死守しようとする,イスラエル人の気持もわかる。しかし,物事には中庸が必要だ。壁はいらない。砲弾もいらない。太平洋戦争後,妻と娘を日本軍によって失ったフィリピンのキリノ大統領は,百人余りの日本人戦犯を釈放した。その時の言葉を噛みしめたい。
 「平和には,どこかで憎しみの連鎖を断ち切る,愛と寛容が必要だ」
(「世界平和研究」No.206,2015年夏季号)