歴史・文化からみた中国政治の行方

樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)

<梗概>

 2017年秋,中国共産党第19回全国代表大会が開催され,習近平総書記は「社会主義現代化強国」の建設を目指す長期目標を明らかにしつつ,第2期の政権基盤を強固なものにしてスタートさせた。中国に関して日本では,その経済の不透明さや社会不安などを理由に,これまで中国崩壊論が論じられてきた。その反動なのか,最近では崩壊論の崩壊などという奇妙な主張もみられるようだ。だが,崩壊論にしても崩壊論の崩壊にしても,中国の実態を正確に把握して冷静に論じているのか,甚だ疑問である。中国の独特な振る舞いを支えているのは彼らの持つ歴史・文化・宗教・思想などであり,であればこそ,それらを総合する多面的な視点からの分析が必要だろう。

1.「中国について見そこないの歴史」について

 中国に関する議論で最近の話題としては,やはり「『中国崩壊論』の崩壊」という主張を挙げたい。誤解を恐れずに極く大雑把に「中国崩壊論」を表現するなら,中国に関する膨大な情報・統計のなかから自らの考えに沿ったものを集め,それらに基づいて共産党独裁政権下の中国の将来を否定的に捉えようとしている,といえるだろう。一方の「『中国崩壊論』の崩壊」にしても“崩壊論に対する反発”という側面が色濃く感じられるだけに,かつて一世を風靡した中国経済バラ色論の焼き直しに近く,とても信は置けそうにない。「中国崩壊論」にせよ,「崩壊論の崩壊」にせよ,わが国に比較すれば人口で12~3倍,国土面積で27~8倍というボリュームの圧倒的違いを等閑視している点では同工異曲というしかなさそうだ。
 ここで些か唐突ではあるが,時計の針を,今から半世紀ほど昔の1966年に勃発した文化大革命の時代に戻してみたい。
当時,対外閉鎖されていた中国の内側を覗うことのできた唯一ともいえる香港を通じて,種々雑多な内部情報が中国の外側に伝わってきた。それら情報の真偽を確かめる手段がなかっただけに,日本だけではなく欧米諸国でも文化大革命の実態を把握することは容易ではなかった。
 文革に対し当時の日本では,共産党最上層の,具体的には毛沢東による劉少奇・鄧小平打倒を目指した権力闘争だとする見方と,政治革命でも社会革命でもなく史上空前の「魂の革命」だとする見解が対立していた。毛沢東が目指すのは失われた権力を取り戻すことではなく,国民を社会主義的に鍛え直し,私心を捨て社会主義への奉仕に喜びを感ずるような“社会主義的聖人君子”を生み出すことだ,というわけだ。これを現在の用語でいいかえるなら,前者を反中(あるいは嫌中)派,後者を親中(あるいは媚中)派と括ることが出来ようか。
 かりに当時にタイムスリップし現在に較べたら考えられないほど多かった街の書店を覗くことができたなら,店内を圧するばかりに置かれた親中派の文革礼讃本を目にすることができるだろう。それは,嫌中本が並べられた現在の書店風景とは余りにも違っているはずだ。学界でもマスコミでも,中国を論ずることは毛沢東の無謬性を礼讃し,文革に普遍的な世界性を求め称揚することだと言わんばかりの風潮だった。
 当時,学界やマスコミで文革礼讃の論陣を張っていた74人が『現代中国事典』(講談社現代新書 昭和47年)を執筆している。6人の編集委員の代表は熱烈な文革礼讃派,いわば徹底して毛沢東を支持した安藤彦太郎(早稲田大学教授)である。
 安藤の名前で記された「はじめに」には,明治以来の日本における中国に対する認識・評価の誤りが記されている。たとえば,こんな風に。

<日本人は明治以来,中国について見そこないの歴史をかさねてきた。>
<文化大革命がおこった当初は,これを「『血と暴力』の粛清劇」として報道したり,「前近代的」な暴挙として論じたりしたものが多かったことは,いまなお記憶にあたらしい。中国見そこないの歴史を,このときまた繰りかえしたのであった。>
<さいきんの報道がつたえるように,中国の社会主義建設は,文化大革命を経過することによって,ますますその特色を発揮しつつあるようである。(中略)この革命は,たんに中国独自のものにとどまらず,普遍的な問題を世界にむかって投げかけたのである。>
<従来,中国を対象とする研究には,古典や歴史などの分野を主とするものと,現実の状況を調査研究するものとの二つの系統があり,それぞれがほとんど無関係に存在していた。これは日本人の抱く中国像が,論語や孟子の古文物をとおして構成されるものと,現実の中国を観察して得られるものとに,分裂していたことの反映であった。明治以後,このように日本人の中国像は二分されていたのである。>

 やや冗長な引用になってしまったが,毛沢東に率いられ文革に邁進する中国を礼讃する安藤らからするなら,「日本人は明治以来,中国について見そこないの歴史をかさねてきた」からこそ,文革を「『血と暴力』の粛清劇」として報道したり,「前近代的」な暴挙として論」ずるなど,「中国みそこないの歴史」を繰り返したと言いたかったに違いない。
 だが1976年9月の毛沢東の死,それから2年程を経て鄧小平が断行した対外開放政策を経た現在,1966年から76年まで続いた文革の10年間は「失われた10年」と断罪され否定されているのである。つまり当時,それまでの日本における中国認識は「中国見そこないの歴史」であったと断罪し,「中国の社会主義建設は,文化大革命を経過することによって,ますますその特色を発揮しつつあるようである」と称賛した安藤らの考えは,中国の現実によって否定されたということになるわけだ。
 いわば「日本人は明治以来,中国について見そこないの歴史をかさねてきた」と声高に叫んだ安藤らにしてから,現実的には「中国について見そこないの歴史」に新たな一ページを書き加えたに過ぎなかった。いいかえるなら,安藤らによる中国礼讃論の崩壊だった。
このような“前歴”があるのもかかわらず,毛沢東が去り,曖昧な形で後継者に納まった華国鋒の時代を経て鄧小平の改革開放路線に入ると,毛沢東時代についての誤った認識に対する確固たる検証を棚上げしたままに,鄧小平の経済至上路線を賛美することに努めるようになる。天安門事件に対しても“民主化性善説”によるトンチンカンな批判はみられたものの,やがて南巡講話を経て中国経済が動き出し,「世界の工場」から「世界最大の消費市場」へと大変貌を遂げるや,学界やマスコミのみならず政財界を通じて中国経済礼讃の渦が巻き起こった末に,やがては中国崩壊論が花盛りを迎えることとなった。
 こう文革以来を振り返って見ただけでも,わが国は相変わらずの「中国について見そこないの歴史」を歩んでいるように思える。だが,現在の中国をとりまく内外状況を客観的に判断するなら,諸問題を抱えつつもますます大国化の道を突き進んでいると判断すべきではないか。
 文革最盛期の1960年代末期,国連で中国支持の旗色を鮮明にしていたのは,アドリア海に面したギリシアと国境を接する貧しい小国のアルバニアしかなかったはずだ。それが今や一帯一路に「中華民族の偉大な復興」である。それらが中国人特有の大風呂敷であろうと,往時と現在の国際社会おける中国の影響力の違いを認めざるをえないだろう。であればこそ歴史の流れを冷静に捉え,客観的事実に基づく冷静な判断を下すべきだ。これ以上,わが国は「中国について見そこないの歴史」を繰り返してはならない。

2.社会主義強国を目指す第2期習近平政権

(1)「完全毛沢東世代」の習近平
 今秋(2017年10月)に開催された中国共産党第19回全国代表大会で習近平総書記は,「富強,民主,文明,調和の美しい『社会主義現代化強国』」の建設を目指す長期目標を明らかにするとともに,第2期政権の基礎固めをして,ひょっとしたら3期目まで行くのではないかとささやかれている。
 じつは2012年の第1期習近平政権発足当時,滞在先のシンガポールで手にした現地華字紙に「(習近平は)3期目までやるだろう」と報ずるものがあったことを記憶する。日本ではそうした見方に接することはできなかっただけでなく,「習近平は共産中国最弱の皇帝」といった声さえ聞かれた。だが,シンガポールのチャイナ・ウォッチャーは当時から「習近平政権,3期15年」といった将来予測をもっていたのだ。
 ここ数年の習近平の政治を見ていると,腐敗撲滅運動を「てこ」にした権力闘争を進めてきたという側面が見られる。腐敗の根絶は,中国歴代政権にとって永年の重要課題であり,毛沢東も,鄧小平・江沢民・胡錦濤も取り組みはしたが十分な成果は挙げえなかった。それほどまでの難題解決に習近平が立ち向かったことは事実であり,一定の評価を下すべきだ。
 漢民族と腐敗の関係について,20世紀中国を代表する英語使いで知られる稀代の皮肉屋の林語堂(1895~1976年)は1935年にニューヨークで発表したMY COUNTRY AND MY PEOPLE(邦訳は『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)の中で,「中国語文法における最も一般的な動詞活用は,動詞『賄賂を取る』の活用である。すなわち,『私は賄賂を取る。あなたは賄賂を取る。彼は賄賂を取る。私たちは賄賂を取る。あなたたちは賄賂を取る。彼らは賄賂を取る』であり,この動詞『賄賂を取る』は規則動詞である」と言及し,社会を歪める「賄賂を取る」ことの常態化を皮肉っている。
 ここで,毛沢東率いる共産党が蔣介石の追撃から命からがら延安に辿り着いた1935年の時点で,中国の将来に関して林語堂が「たとえ共産主義が支配するような大激変が起ろうとも,社会的,没個性,厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは,むしろ個性,寛容,中庸,忍耐,常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し,その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」と発言していることを敢えて書き留めておきたい。
 さて習近平に戻るが,政権発足当初から推し進めてきた腐敗撲滅運動には《権力闘争》という側面は確かにある。だが社会に伝統的に根付く腐敗の根絶に対し一般庶民――林語堂の表現を借りるなら「私」「あなた」「彼」「私たち」「あなたたち」という権力のネットワークから外れた人々――は,ある面で拍手喝采しているのではないか。この点に関心を払っておく必要もあろう。
 たしかに権力闘争によって政敵を倒すことは,結果として《自己人(なかま)》を増やすことに繋がるわけであり,同時に習近平の政権基盤強化を意味することになる。もちろん過去の歴史に見られるように,腐敗・不正撲滅という政治的仕掛けは,形勢が逆転すれば自分に対する逆風にもなりかねない両刃の剣でもある。だが共産党政権における熾烈な権力闘争の歴史を目撃し体験してきた彼らにすれば,それは覚悟しているに違いない。
 今回の共産党大会における次期指導部人事によって習近平が独裁体制を強化した背景には,中国という国は,集団指導体制ではうまくやっていけない伝統的な体質があるように思う。あれほどまでに多様な民族で構成された膨大な人口を抱える大国を,しかも1つに纏めて牽引していくためには,やはり強大な権力は必要不可欠だろう。「少数意見も重要だ」などといった類の情緒的姿勢では,国家は先に進まない。膨大な人口が路頭に迷うばかりか,毛沢東時代のような巨大な貧乏の共同体に舞い戻ることすら考えられよう。
 かつて絶対的権力を揮った当時の鄧小平は党のトップに胡耀邦,趙紫陽,さらには江沢民など“子飼いの部下”を据えながら,外国メディアが命名した「最高実力者」のままに振る舞い,強力な指導力を持って国を引っ張って経済発展を実現させた。法的には一介の党員に過ぎない鄧小平が,自らが指名しながら自らの意に反する行動に奔った胡耀邦と趙紫陽の2人の共産党トップを解任し,共産党幹部の序列下位ながら上海を牛耳っていた江沢民を北京に呼び寄せ党総書記に就かせたのも,「最高実力者」なればこそ。だが,「最高実力者」などという役職は党規約のどこを探しても見当たらなかった。
 共産党最高幹部の家庭に生まれ,文革に際しては苦い経験を踏み,草の根レベルの地方政府から中央政府までの権力の階段を着実に上り詰めながら激烈な権力闘争を重ねてきたはずの習近平である。だからこそ「一強体制」の構築を強く志向したに違いない。  
 習近平は1952年生まれであり,彼を含めた現指導者世代の多くは1950年代に生まれている。彼らの世代は双百運動(1956年),反右派闘争(57年),大躍進政策(58年)と,いわば毛沢東の絶対性・無謬性・神聖性が全国に徹底化されていく環境で幼少年期を過ごした。すでに幼い頃からすべての価値基準は毛沢東思想だったのである。そこで彼らを「完全毛沢東世代」と呼びたいのだが,一時代前の指導者――たとえば胡錦濤(1942年生まれ),江沢民(1926年生まれ)――たちは例外なく建国(1949年)以前の生まれであり,彼らはまるで「異文化」に接するようにして毛沢東時代を迎えたはずだ。かくして習近平以前の世代と彼の世代との間には,政治的・思想的・社会的・文化的な違いが感じられるのである。
 このような時代背景から「完全毛沢東世代」のトップ・ランナーである習近平は,毛沢東の政治スタイルについて特段の違和感もなく,むしろ幼き心に無条件で刷り込まれた毛沢東讃美のイメージを払拭することなく現在に至っているとも考えられる。「八〇世代」「九〇世代」,さらには天安門事件すらも知らない若い世代とは違って,いつまでも毛沢東は「赤い太陽」であり,マイナス・イメージで捉えることはないだろう。
 1958年から始まった「大躍進政策」のスローガンは「超英趕美」――当時世界第2位のイギリスを追い越し,第1位の米国に追いつく――だったが,実際には稚拙な鉄鋼生産運動の失敗をキッカケにして膨大な数の餓死者を出すなど大失敗に終わってしまった。この失敗が後の文革発動につながることになるが,「中華文化の偉大な復興」「中国の夢」を掲げる習近平政治が進めているのは,まさに毛沢東が目指した世界制覇への道といえる。すでに世界第2位の経済大国である日本を追い抜き(2010年),いまや米国に迫ろう,追い越そう,いや追い抜いて世界の秩序を構築しようという勢いだ。かくして習近平の心の奥底には,毛沢東ですら叶えられなかった悲願を達成しつつあるという自負心が沸々と湧き上がっているかも知れない。
 このような習近平世代(完全毛沢東世代)による政権担当は,今後少なくとも10年以上続くと考えられる。おそらくその次の世代――70年代後半以降に生まれ,改革開放初期に物心ついた世代――が登場する頃になって,ようやく中国の政治に新しい変化が現れてくる可能性があるのではないか。

(2)「中華民族の偉大な復興」とは
 習近平による腐敗撲滅が権力闘争であることは改めて指摘するまでもないことだが,では習近平にとって政治的追い落としの標的であったとしても,習近平が唱える「中華民族の偉大な復興」に真正面から異を唱えることができるのか。また習近平に対する反対勢力であれ,習近平が進める軍事的・経済的な中国の海外膨張政策や一帯一路政策を真っ向から否定できるだろうか。とてもそうとは考えられない。現実には強国を目指す中国の方向性については同じであって,かりに共産党上層に派閥があったとしても,派閥間でパイ(利権)を分け合っているだけだろう。共産党独裁を堅持するという大方針に関して敵対するような派閥闘争ではないはずだ。こうみると江沢民派とか共青団派とかいったところで,所詮はコップの中の嵐に過ぎないのではないか。もっともコップとはいうものの,余りにも大きすぎる点に関しては要注意だが。
 次に今回の共産党大会では習近平が次期指導者とされるNo.2を置かなかったと報じられているが,その背景を考えてみたい。
1969年の中国共産党第9回全国代表大会を「勝利の大会」と自画自賛し,文革の勝利,つまり劉少奇や鄧小平などから権力を奪還することに成功した毛沢東は,文革最大の功労者である林彪を後継者として正式に指名した。ところがその後さまざまな経緯の末に,71年9月になると突如として林彪による毛沢東暗殺およびクーデタ未遂事件が発生したというのだ。事の真偽は不明だが,毛沢東と林彪との間には明確な上下関係があるにもかかわらず,No.2になった時点で林彪が早く権力を引き渡すような動きを見せ,両者それぞれの取り巻きたちの間で綱引きがあって引き起こされた事件だと推測される。こういった前例が習近平をして後継者を置かず,テクノクラートを中心に政権周辺を固め,後継世代を競わせることで自らの権力基盤構築を図ろうとしたことにつながったのではないのか。
 少なくとも胡錦濤までの指導者については「最高実力者」の鄧小平が指名していたので問題はなかったが,習近平以後についてはそうはいかない。中国共産党の権力移譲については,一般に江沢民派や共青団(中国共産主義青年団)派,それに太子党との派閥争いから説き起こされることが多いが,従来とは違ったシステムで権力移譲がおこなわれているのではないか。
 ところで習近平が唱える「中華民族の偉大な復興」なるスローガンを,アヘン戦争以降の歴史への敵討ちだと読み替えることができるだろう。ここで問題となるのは,彼らは自らが歩まざるをえなかった歴史における自らの誤りを認めず他に転嫁させることではあるが,ともあれ近現代において中国があれほどまでの苦難を味わったそもそもの原因はアヘン戦争であり,アヘン戦争によって“中華数千年の栄光”が奪われたことに対する恨みをどのようにして晴らすのか。こう考えれば,アヘン戦争から現在につながる中国近現代史の底流を復仇の念が結んでいるとみることもできる。復仇,それは言葉を変えれば富強になる。他から侮られないため,他を凌駕するための富強である。
 そのために毛沢東は中国共産党を立ち上げて中華人民共和国を建国させた。共産党独裁国家を築きあげれば絶対に西欧諸国に負けないと考えたものの,奮闘の末に毛沢東が辿り着いたのは「巨大な北朝鮮」でしかなかった。
 それを引き継いだ鄧小平は,共産党一党独裁以外の毛沢東による一切の政治的しがらみを取り払って富強を目指した。習近平の進める路線は鄧小平路線の超豪華拡大版こそ,「中華民族の偉大なる復興」なのである。
 中国がGDPで日本を追い越したころ,シンガポールで目にした現地の華字紙に「中国は日本を超えた程度では喜べない。清朝は当時の世界のGDPの30%を占めていたし,時代を遡った宋の時代はなんと80%を占めていた。そのレベルにまで戻ってこそ万歳を叫ぶべきではないか」という趣旨の論文が掲載されていたことを思い出す。
 習近平の掲げる「偉大」は,かつての中華帝国の栄光を取り戻し,中国を再び偉大な地位に就けさせるということだろう。中国人の歴史に対する見方は,日本や他の国の人とは根本的に違う。中国人の歴史認識は「自分達のやり方でやっていってどこが悪いのか」である。米国のみが世界の超大国の時代は,米国の力に対して「ノー」とは言えなかった。依然として米国は強大な国力を保持しているものの,明らかに中国の国力は相対的に高まっている。かくしていまや中国に対して決然と自らの立場を表明するようになり,その身勝手な行動に異を唱えることのできる国が見当たらなくなりつつある。トランプ政権にしても力による中国掣肘など,やはり不可能だろう。
 いまや習近平政権はどのような世界秩序の中で,自らがどのような位置を占めるべきかという明確なビジョンを掲げ,それに従って着々と世界戦略を展開している。それが他国にとっては身勝手極まりないものであったとしても,である。たとえばAIIBであり一帯一路だ。ところが一連の「中国の夢」を抑える力を持つ大きな力は,米国を含め現在の世界には見当たりそうにない。我が安倍政権もまた,かつての路線を転換したかのように一帯一路への接近を図る始末だ。
 中国に世界の大国としての責任と自覚を持たせようという考え方もあるが,そうさせるためにどうすればよいか。中国以外の国々が結束して軍事力や経済力で対抗しながら変更を逼るべきだが,それは容易なことではない。ならば中国の指導者が大国としての責任ある振る舞いをするよう“学習”するのを待つしかなさそうだ。その第一歩としては現在の膨張政策の挫折が考えられるが,そうなった場合に中国は逆に諸外国に原因を押し付け非難する一方で,多くの国民は海外に流れ出す。いずれにしても厄介極まりない事態が起こるはずだ。どちらにしても八方塞がりであることに変わりはない。やはり当面は,世界は中国という厄介な存在を抱えながら進むしかなさそうだ。

3.中国の世界戦略

 中国は,世界各国に対して力の空白やねじれ状態を巧みに利用して手を差し伸べながら利を得るという巧みな外交を展開している。具体的な事例を挙げて簡単にみておきたい。
 カンボジアに対しては,中国の望む方向に動けば中国からの投資が拡大され経済発展が促されることを実証することで密接な関係を築く。この方針に従って,中国は現在のフン・セン政権を支持している。かくてフン・セン政権は長期安定化し,諸外国からの投資も増える。ただし最終的利益は中国が享受することになろう。播いた種の実は刈り取る。
 最近,アフリカ南部ジンバブエのムガベ大統領が辞任に追い込まれたが,中国の深い関与が伝えられる。彼は1980年代に同国大統領に就任して以来,世界からは「独裁者」と呼ばれていたが,中国は長年にわたって支援してきた。だが中国にとって「不都合な存在」になったことから今回の政変につながり,とどのつまりは政権を追われる羽目に。腐ったリンゴは捨てる。
 ロヒンギャ問題に揺れるミャンマーでは,最高権力者のアウンサン・スーチーがロヒンギャ問題に有効な解決手段を講じないと非難すれば,前のタン・シュエ軍事政権と同じく彼女もまた中国に助けを求めて中国と手を結ばざるを得なくなる。いまや彼女は軍事政権に反対する民主派の闘士ではない。一国の指導者となった以上,5300万人余(2016年)の国民の生活を第一に考えなければならないのだ。
 ミャンマーの周辺国にはインドとタイがあるが,インド・ミャンマーの間の貿易は微々たるものであり,タイは経済進出に腰が引けている。こういった状況においての欧米による非難は,アウンサン・スーチーを中国の側に追いやることにつながる。この地域における一帯一路を確固とした形にするためにも,中国にとっては彼女の取り込みは至上命題だ。であればこそ欧米諸国が短兵急な考えから非難を繰り返すことは,彼女を“第2のタン・シュエ”にすることになる。それだけは断固として避けるべきだ。
 フィリピンもまたミャンマーと同じような立場に立っている。現在,中国には30万人ほどのフィリピン人非合法出稼ぎ女性が働いている。多くは家政婦とみられるが,教育程度が高く英語も話せることから,子どもの英語教育のために雇う家庭が多いと伝えられる。彼女らを合法化しようとする動きがみられるが,ある意味で中国はフィリピン労働者30万人を人質として取っているようなものであり,ドゥテルテ大統領としても南シナ海問題で強硬な態度に出るわけには行かないだろう。かくて反中姿勢を抑制することとなる。
 こうした中国の海外戦略の背景には中国人同胞(華人,華僑)の存在があり,そのネットワークを中国政府が巧みに利用している面がある。華人企業家は政治の方向に拘わらず,ビジネスとして成り立つなら投資活動を進める。台湾においても,中国共産党を嫌悪するから大陸とビジネスをしないという企業家は少数派だろう。
 たとえば香港の大財閥李嘉誠(香港最大の企業集団・長江実業グループ創設者兼会長)は,最近中国大陸からその基盤を引き上げたと報じられた。そこでわが国では「彼は中国市場の将来性を判断した上で,ビジネス・ターゲットの有望市場を欧州やカナダに移した」と分析し,中国経済・市場の崩壊を説く声も聞かれる。
 だが,これまでの李嘉誠の振る舞いからして,大きな商機を現在の中国市場ではなく他に認めているということだろう。じつは彼の一族と習近平の関係を日本人的な単純明快さで判断することは誤りだ。習近平としても,華人世界のビジネス・リーダーとしての李嘉誠を明確に敵に回すことは愚策であることを承知しているだろう。将来の布石を考え,両者の関係は継続している。これが彼ら流の「双贏(ウィン・ウィン)関係」と考えるべきだ。
 日本の東南アジアをみる見方は,いまだに毛沢東時代における日本とアセアンとの関係から抜け出ていないように思える。だが当時の中国は対外閉鎖状態であり,東南アジア経済を牛耳っていた華人企業家は中国市場にアクセスできず,共産党政権成立前のような“祖国”とのビジネスが困難だった。そこで彼らはビジネスのカウンターパートとして日本を選んだ。当時の東アジアの国際環境は日本にとって極めて有利に展開していたわけだが,中国が対外開放に踏み切り政治を捨て経済に大転換を果たしただけでなく,やがて積極的に海外展開を見せるようになるや日本優位の状況は一変する。華人企業家にとって活躍の舞台は中国市場にまで広がることとなった。日本に加え,新たなターゲット――そこは自らの血のつながる文化的土壌が共通する――を持ったわけだ。
 華人企業家にとってのビジネス環境の変化を,日本企業は視野に入れておかなければならない。比較優位は比較劣位に転落する可能性を秘めていることを,常に想定しておく必要がある。

4.微妙な中朝関係

 中国にとって北朝鮮は,現在のような関係を維持しておくことがベストなのではないか。北朝鮮の核・ミサイルは日韓および米国に向いているだけではなく中国にも向いていると語る識者を見受けるが,過去の経験から北朝鮮は中国に対する攻撃がどのような形で跳ね返ってくるかを理解していると見るべきだろう。やはり当面,中国は北朝鮮を「生かさず,殺さず」という状態に置いておくのではないか。費用対効果の面で,それがベストの選択だろう。
 じつは金正恩の祖父である金日成の時代から,北朝鮮を締め付けすぎるや北朝鮮はロシアへの接近を模索して来た。北朝鮮がロシア一辺倒になっても困る。歴史的にも微妙で複雑な立場に在る中国が,トランプ大統領から北朝鮮への強硬姿勢を求められても,安易にワシントンの意向のままに動くことは考え難い。もし大きな変化が起きるとすれば,北朝鮮の指導者に異変が起きた場合か,あるいは中国が北朝鮮を捨ててまで得になるような利をワシントンから引き出すことができる場合だろう。まさに金王朝の命運は朝鮮半島をめぐる米中の「双贏関係」が成立するか否かにある。
 じつは中国人は朝鮮人が嫌いであり,朝鮮人は中国人を信用していない。これは民族のDNAに組み込まれた素朴な感情といってもよさそうだ。たとえば延安で活動した朝鮮人共産主義者の回想録である『アリランの歌』(ニム・ウェールズ,キム・サン 岩波文庫 1995年)には,「革命の聖地」とされた延安に向けて旅立とうするキム・サンに向って兄が送った餞の言葉として「われわれ朝鮮人はすべて理想主義者であり,理想主義は歴史を創り出す。中国人はあまりにも拝金主義者であるためキリスト教民族とはなれず,やがてその物質主義のため亡びるであろう」と記されている。
 これまで中朝が密接な関係にあった背景には,義勇軍を名乗った人民解放軍が朝鮮戦争に参戦して以来の中朝の間の「血で結ばれた同盟(血盟)」という関係がある。だが,その関係は現在ではほぼ形骸化しているといっていい。いまや習近平政権は過去を清算し,中朝は特別な関係ではなく「普通の大国と小国の関係」にしようとしているのではないか。
 ところで2017年2月の金正男暗殺事件以降,金正男の死体やその他関連情報について最初に出てきた情報は,主にマレーシアの華字紙からだった。ここで考えるべきは華字紙の変化である。
 近年の傾向としてとくに厳しい経営環境にある紙媒体の華字メディアに対し,中国資本の流入が顕著だ。かくて資本が報道内容を左右することになる。いまや東南アジアの華字メディアの多くは中国資本の影響下に置かれた。その顕著な一例がタイの華字紙である。かつて主流であった反共論調は大きく後退し,いまや中国礼賛花盛りである。この点に留意しておく必要がある。他は知らず,こと東南アジアの華字メディアに関する限り報道の中立性など皆無と考えておくべきだ。
 中国は対外政策を進めるに当たり多面的なチャンネルを駆使した工作を進めてきた。中国を分析する際,やはり多面的な視点をもつことが必須である。であればこそ日本は米国やロシア,それに東南アジアを含めた周辺国との関係を睨みながら今後の長期総合戦略を考える。そのためにはもっと優秀な人材を投入して,世界がどう動いているかについての情報を集めることから始めるべきだ。

5.歴史・文化を踏まえた対中政策

 日本は今後,対中関係に限らず,その時々の情勢に左右されながらの対症療法的な対応から脱却すべきだ。多極化する世界の中で何十年もの先を見通しながら,日本の立ち位置を考えた大戦略を立て,どのように生きていくべきかといったグランド・デザインを持つことが必要だろう。様々な政策をパッチワークのように掲げるようでは,やはり将来は暗い。
 これまで日本は文化と政治を別々のものと考える傾向が強かったが,これからは歴史・文化をわきまえた上で政治を分析していくことが求められる。歴史・文化面で中国の方向性を的確に捉え,それを政治や経済の政策に生かすことが可能となる。
 また日中関係における従来からの歴史的に《特殊な二国間関係》という立場を解消し,国際社会の中での日中関係という視点から捉え直すべきだろう。
 1970年代から80年代にかけての中国外交の柱は日本だった。対日交渉の際,なんらの外交努力をすることもなく,「日中戦争の惨禍」なるものを前面に押し出すことで,当時の中国が必要な資金と技術を日本からタダ同然に引き出すことが出来た。あの戦争に多くの日本人は負い目を感じ,技術や資金面での協力を惜しまなかったからだ。これを贖罪外交というべきだろうが,日本は贖罪外交に振り回され続けてきた。「子々孫々までに友好」などというタメにする政治言語に翻弄され過ぎた。
 だが今や経済大国化した中国にとっての日本の割合は,経済面においてもかつてのような高い比重を占めてはいない。であれば様々な国の中の一国となった今こそ,日本は従来の対中姿勢を全面的に検証し,政治・経済だけではなく,歴史・文化など多角的な情報取集に努め,冷静に的確な分析を下し,中国と中国人の振る舞いを総合的に把握することに努めるべきだろう。それがわが国の将来を決定することにつながるはずだ。
(2017年11月22日)
(『世界平和研究』No.216,2018年冬季号)