トルコはどこへ向かうのか

山口洋一 (元駐トルコ大使)

<梗概>

 欧州と中東地域の要という地政学的に重要な位置にあるトルコであるが,近年,エルドアン大統領は,建国以来の世俗国家としての立場を維持しつつも,イスラーム回帰の色彩を強めている。2016年7月に起きたトルコクーデタ未遂事件は,国内外の注目を集め,エルドアン大統領の強権化が欧米諸国から批判された。しかし,シリア問題をはじめ,欧州への難民問題,中東情勢等に影響力のある立場のトルコであるだけに,流動的なその情勢を注視しておく必要がある。

オスマン帝国

 イスラームを信奉する国々の多くでは,国の営みとイスラームが密接に結びついており,国家=イスラームと言っても過言ではない。現在のトルコの前身であるオスマン帝国はまさにそのような国家の典型であり,イスラーム世界帝国として六百有余年の長きにわたる命脈を保ってきた。
 1299年にオスマン帝国が誕生した当時,ヨーロッパはまだ中世の停滞から脱していない時期であったので,オスマン帝国の方が発展段階としては先駆的な状態にあった。しかしコンスタンチノープル攻略(1453年)後,帝国の支配体制がすっかり整った1468年になると,信仰至上を規定する詔勅が出された。即ち,信仰(=神の教え)対言葉(=人間の知識や思考)の関係において,前者の絶対的優位を規定したのである。こうして,それ以降は科学的な研究や哲学的思索はクルアーンの教えに反しない範囲内でのみ許され,クルアーンの教えを逸脱していると判定された多数の人物が首を落とされることとなった。こうして現状固定が続くなかで進歩が妨げられ,さしもの隆盛を誇ったオスマン帝国の文明も停滞し,ヨーロッパに対する立ち遅れが徐々に顕在化してくることとなった。
 一例として,活版印刷の帝国への伝播,普及を見てみると,グーテンベルクの発明になる印刷機械は,15世紀末には早くも帝国にもたらされたが,当初はキリスト教徒及びユダヤ教徒関係の印刷に限って使用が認められ,1760年代になって初めて一般の文書の印刷が許されるようになったのである。その理由は,当時の印刷機は紙の上に活版をあてがい,上からねじで締めあげて圧力を加える方式であったので,「アッラー」を上から押さえつけるのはとんでもないことと考えられたからであった。

世俗国家・トルコ共和国の誕生

 1923年,第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は,ケマル・アタチュルクによって倒され,新たにトルコ共和国が誕生した。この国は,当然の成り行きとして政教分離の世俗国家建設を目指した。
 オスマン帝国ではイスラームが国民生活の隅々にまで浸透して風俗,習慣,法律,教育等すべてがイスラームと結びついており,教義に反する行為や思想は差し控えられてきた。ケマル・アタチュルクにとっては,このようなイスラームこそが人々を迷信と偏見の泥沼にはまらせ,進歩を妨げているのであって,国の近代化を達成するにはイスラームとの絆を断固断ち切ることが不可欠と思われた。それには共和国を真の世俗国家とすることが必要なのである。そこで憲法でも共和国は世俗国家であると規定し,この条項は改正し得ないこととした。
 こうして新生トルコ共和国は政教分離を建前とし,西側諸国との連携を密にして近代化に邁進してきた。第二次世界大戦後は東西の冷戦構造が固まる中,NATO加盟国となって欧州南翼の防衛に貢献してきた。他方,周辺のイスラーム諸国からは,イスラーム国家らしからぬ国として,距離を置かれた。イスラエルとは外交関係を続けてきた。

イスラーム回帰とエルドアン政権

 トルコ共和国のこのような国家経営路線に軌道修正をしつつあるのが,エルドアン現政権である。この政権は従来の厳格な世俗主義とは一線を画し,イスラーム回帰の色彩を強めている。もっとも憲法において世俗主義条項は改正不可となっているので,トルコが世俗主義国家であることに変わりはない。対外関係では米欧と距離を置き,ロシアとの関係を改善している。
 こうした中で,2016年7月15日に驚嘆すべきクーデタ未遂事件が発生し,トルコ内外で注目を集めた。トルコ軍の一部勢力からなる反乱軍が蹶起し,首都アンカラの大統領府,大国民議会,警察本部などを空襲,イスタンブールでは戦車が第一ボスポラス橋を封鎖する等の行動を起こした。エルドアン大統領はこの事態に対処し,国民に対してクーデタ阻止の呼びかけを行い,これに応じた国民たちの手で反乱軍は鎮圧された。こうしてクーデタは一日足らずで収束したが,この間,死者240人,負傷者2200人を出すという大惨事となった。このクーデタは軍上層部の指令により行われたものではなく,血気盛んな一部の分子により実施された二・二六事件のようなものであり,アカルト参謀総長はじめ軍幹部は全員無事であった。
 トルコ政府は事件の首謀者は軍内部にいたフェトゥフッラー・ギュレンを師と仰ぐ者たちによるとの公式見解を示し,ギュレン関係者と目される約八万人もの警察官,教員,公務員,司法関係者等を追放し,一万人以上を逮捕・訴追した。
 しかし反乱分子はギュレン関係者のみに限らず,軍内部の反体制派が加わっていた可能性は大いに考えられる。つまりイスラーム回帰の傾向を強めている政権の動向に懸念を抱き,世俗主義を根幹とするケマリズムを信奉する軍人たちが不満分子となって動いたのである。現に事件後に政府が行った収拾策では,ギュレン運動とは関係のない世俗主義者や政権に批判的なジャーナリスト等が拘束されるケースも見られた。
 欧米諸国はこの大量粛清がエルドアン大統領の強権化であると批判したが,トルコ側は欧米のトルコ批判は「テロとの戦い」を声高に叫ぶ欧米諸国のダブルスタンダードだとして激しく反発している。
 トルコの国民一般は「この事件の早期終結は民主主義の勝利である」と評価し,国内は高揚した団結ムードに包まれたが,他方で欧米諸国ではトルコ政府に懐疑的な姿勢の国が多数を占めた。この結果はトルコを孤立させることとなり,欧米諸国の対応ぶりは明らかに失策であったと言えよう。

ギュレン運動とは

 さてこのクーデタ未遂事件の首謀者とされるギュレン師とは如何なる人物か,ギュレン運動とは一体どのようなものなのであろうか。ギュレン師は,1970年代からトルコ国内でイスラーム的善行の実践を説く説教師で,「奉仕運動」を始めた人物である。ギュレン師にはカリスマ性があり,彼を中心にイスラーム信奉者が組織化され,これがギュレン運動と呼ばれるようになったのである。ギュレン師は当初,小規模の商工業者に「善行」こそが利益につながることを説き,ネズミ講的に組織を拡大し,国内外に高校,大学,学寮を設立するなど教育活動を中心に運動を展開してきた。貧しい家庭の子供には奨学金を与えて高等教育を受けさせ,学寮を無償で提供してきた。
 ギュレン運動の組織はメンバーシップ制をとっておらず,実態がつかみにくいが,この運動に賛同して大小のプロジェクトに寄付をしたり仲間同士での頼母子講に参加したりする者,ギュレン系メディア関係者(通信社3,新聞45,テレビ局16を数え,現在は閉鎖されている),共鳴する企業(アスヤ銀行,イペキ・ホールディング等の大企業を含み,既に解体あるいは訴追されている),予備校,高校,大学の教職員,NGOキムセヨクムなど,多岐にわたる国民を網羅している。なおNGOキムセヨクムは東日本大震災発生時に,炊き出しなど被災地での救援活動を行った。
 ギュレン運動にはイスラーム国家の樹立を目指すという方向性はなく,武力闘争には否定的であったため,欧米では西欧の価値体系とも相いれる穏健な運動と好意的に評価されてきた。現にこの運動は日本やアジア各国にも学校や語学学校を開いて活動してきた。
しかしトルコ国内では,国家公務員,軍や警察などの治安機関,裁判官や検察官などの司法機関に同調者を浸透させ,国家体制全体に影響力を及ぼすようになったことが問題となった。近年発生した複数の騒擾事件にはこの運動が関与していたと断定され,ギュレン運動はテロ組織に指定されてギュレン関係者への弾圧が強化された。この間,当のギュレン師は1999年に米国に亡命し,現在に至っている。

最近の内政・外交の動向

 クーデタ未遂事件以降,エルドアン大統領への国民の支持率は70%近くまで急上昇して政権基盤は安定している。しかしギュレン関係者との疑いで解雇,罷免された多数の公務員や教員等の心情は穏やかではない。このような状況のもとに,社会の不安や分断を解決していくことが,内政上の課題となっている。大統領は2016年9月の演説で,クーデタ未遂事件以降の状況を共和国建国時の独立戦争にたと譬え,危機感をあおって国民の連帯を鼓舞した。
 トルコの対外関係はめまぐるしく動いている。
 対米関係は二つの理由から悪化している。第一に,トルコ政府はクーデタ未遂事件の首謀者とされたギュレン師の送還を米国側に要求しているが,米国はこれに応じていない。第二に,米国主導の有志連合がシリアでのIS掃討のために戦力の中核をなすクルド勢力PYD(クルド民主統一党)及びその軍事部門YPG(クルド人民防衛隊)を支援している。ところがトルコはこのPYDもYPGもテロ組織に指定されているPKK(クルディスタン労働者党)の姉妹組織であると断定しており,米国がこれを支援することに反発している。
 2016年8月にトルコ軍の地上部隊が初めてシリアに侵攻し,「ユーフラテスの盾」作戦を展開したが,この作戦についてトルコから米国には十分な情報提供をしていなかったのに対し,ロシアの同意はとりつけていた模様である。
 このように対米関係がぎくしゃくしているのに反比例して,ロシアとの関係は急速に改善しつつある。エルドアン大統領の公正発展党政権の支持基盤であるスンニ派ムスリムはロシアや中国に対する嫌悪感があるため,ロシアとの過剰な接近は考えにくいが,関係が改善してきているのは疑いない。
 トルコと中東諸国との関係は目まぐるしく変化している。とりわけエジプトとは,シン政権がクーデタで権力を掌握した後,モルシ前政権の支持基盤であったムスリム同胞団員が大量にイスタンブールに避難していることから,両国関係は当面改善しにくいのではないかと思われる。

EUとトルコの相互不信の構造

 EUとの関係は難民問題と加盟交渉を巡って,悪化している。トルコとEUは2016年3月に,「不法移民とされた難民はトルコに強制送還し,トルコはこうして一旦受け入れた難民を元の国籍国に送還する」という合意を行った。その代りにトルコは60億ユーロの資金援助を供与され,トルコ人にはEU内のビザなし渡航が認められるということになった。しかしこの合意にはEU各国に根強い反対があり,実際には履行されず,合意は空証文と化している。
 トルコのEU加盟交渉の方は,相変わらず全く進展していない。その最大の理由はヨーロッパ人がトルコに対して根強い偏見を持っていることにある。彼らは三つの要素からなるトルコ観を抱いている。
 ヨーロッパ人は先ず何よりもトルコ人を,本来自分たちの領域であったところへの闖入者だと受けとめている。今日トルコ共和国の領土の97%を占めるアナトリア(小アジア)の地においては,古来ヒッタイト,アッシリア・コロニー,フリギア,イオニア,ペルシア,古代ギリシア,ローマ帝国,ビザンチン帝国と,数々の民族が栄枯盛衰を繰り返してきた。このようなアナトリアの地に,中央アジアから遊牧騎馬民族であるトルコ族がやってきたのは,たかだか11世紀以降のことに過ぎない。そして1299年に建国されたオスマン帝国は急速な発展をとげ,1453年にはコンスタンチノープルを陥落させて,ビザンチン帝国を滅亡させた。こうしてギリシア,ローマ,ビザンチンと長きにわたってヨーロッパ勢力の支配下にあったこの地は完全にトルコ族の支配するところとなったのである。現にイスタンブールをはじめ,トロイ,ペルガモ,エフェソス,サルディス,アフロディジアス,アスペンドス等々,ヘレニズムやローマやビザンチンの遺跡は数限りない。ヨーロッパの人たちにとって,古代ギリシア・ローマはヨーロッパ文明発祥の源と考えられている。この自分たちの文化が栄えていた庭にトルコ族がやってきて居座ったという意識を持っているのである。
 二つめの要素はオスマン帝国の軍事的脅威である。ヨーロッパはバルカン全域からハンガリーまでも帝国の勢力下におさめられ,ウィーンも二度にわたって包囲され,陥落寸前まで行った。オーストリアのグラーツにある大聖堂には,15世紀の有名な画家フォン・ビラッハの絵が飾られているが,この画家は自分の絵の裏に「神よ,ペストといなごとトルコ人から守りたまえ」と書き残している。ヨーロッパでは,泣いている子供にお母さんが「泣き止まないと,トルコ人がくるよ」と言ってしか叱るのである。
 三つめの要素はキリスト教とイスラームの確執である。ユダヤ教とキリスト教とイスラームは同根の一神教ということで,互いに反目することが多い。とりわけキリスト教徒とイスラーム教徒の間では,聖地をめぐる対立・抗争が絶えず,中世における度重なる十字軍の派遣となり,血なまぐさい争いが行われてきた。こうしたことから,イスラームに対してヨーロッパ人が抱く感情は警戒感から敵愾心に近いとすら言い得る。オスマン帝国においては,当初は帝国の首長たるスルタンに対して,イスラーム世界のトップであるカリフは別の人物がなっていたが,エジプトへの遠征を行ったセリム一世(在位1512~20年)は1517年にカイロを掌中に収め,エジプトを支配していたマムルーク朝を崩壊に至らしめた。その折,カイロに続いていたカリフのムタ・ワッキルをイスタンブールに拉致して幽閉し,セリム一世が自らカリフの尊称を受け継いでしまった。爾来,スルタン=カリフ制が確立し,帝国のスルタンは同時に全イスラーム世界のカリフを兼ねてきたのである。こうしてヨーロッパ人のイスラームに対する感情は,オスマン帝国に向けられてきたのであり,今日におけるトルコに対する感情もそれが尾を引いている。
 以上の通り,トルコの内外情勢は流動的であり,今後の推移は予断を許さない状況にある。一体トルコはどこへ向かうのか注視して行かねばならない。
(2017年11月16日)(『世界平和研究』No.216,2018年冬季号)