地方創生の新しい視点
―姉妹都市提携と多文化共生政策の挑戦

毛受敏浩 ((公財)日本国際交流センター執行理事)

<梗概>

 戦後の国際交流の嚆矢として始まった姉妹都市提携は,すでに60年以上の歴史を持ち,現在1700以上の世界の諸都市との間でさまざまな交流が行われている。日本は世界に類例を見ない速度で少子高齢化が進み,すでに人口減少局面に入って久しい中,政府は「新たな外国人材の受入れ」を方針として示し始めたが,労働力不足の対策という視点にとどまっている。中小都市の消滅が危惧される中にあって,地方創生を考える上でも,外国人の持つ潜在力に目を向け,それが日本社会の閉塞感を打ち破るツールになるとの発想に立つ必要がある。その際,姉妹都市提携を活用した自治体移民政策も一つのアイディアとなろう。元号改正を目前に控え,日本は新しい次元に飛躍すべき21世紀の「新開国」のときを迎えている。

はじめに

 戦後間もない時期に始まった姉妹都市提携は,新しい時代の到来を告げるものだった。地方都市の市民が海外(当時は欧米を想定)の人々と直に親しく交流することは,まさに驚天動地のできごとだったのではないか。しかし,当時の人々は驚くほどの積極性を持って海外との交流に取り組んだ。それは戦争への反省とともに,自分たち自身が世界とつながることで平和を達成したいという熱意が溢れていたからである。現在,日本では世界各地と1700以上の姉妹都市提携が結ばれており,さまざまな交流が半世紀以上にわたって展開されてきた。外国人の存在が珍しく,国際交流という言葉もなかった時代に,人々の態度は決して排他的ではなかった。日本人の国際交流の原点がここにあるといえるだろう。
 近年,地方都市の深刻な財政難が大きな要因と思われるが,都市による海外との交流活動は若干下火になっている。ただし,海外,とくにアジア地域に目を向けると,(中国や韓国などの)都市を中心に都市間の交流は活発化している。
 アジア地域では,20~30年前から民主化の動きが始まり,それと連動して中央集権体制から地方自治へという流れが生まれてきた。その過程で日本の姉妹都市交流は先駆的な役割を果たし(1970-80年代),アジア地域にも地方自治の種がまかれ,それが育ってきたということもできよう。とくに中国の都市(地方政府)は都市間交流を活発化させており,日本に代わって実りを刈り取っているような印象もある。
 アジアの国々においては,グローバル化の急激な進展の中で,(国内の交流や活動に満足するのではなく)都市としてもグローバルな動きに連動しながら,海外の情報を積極的に取り込んで都市の発展に役立てようとしている。さらにグローバルなつながりを活性化することで,新たなビジネスチャンスも生まれることを期待している。
 戦後日本の姉妹都市提携は,第二次世界大戦(太平洋戦争)への反省から平和構築や敵国との和解を目指して始まったものが多い。とくに日本にとって中国や韓国など近隣諸国との関係は,歴史問題もからまって非常に難しい局面があるが,それに対して姉妹都市提携がどのような役割を果たすことができたのか,その成果を振り返ってみたい。
 また近年,労働力不足の問題が深刻化する中,海外からの技能労働者の取り込みなど,将来の移民政策とも繋がる問題が大きくなっている。今後日本においても外国人の定着化は避けて通ることのできない課題となっている。そこで日本人が外国人と共生した社会をどのように構想して作るべきか,そうした多文化共生社会のあり方についても考えてみたい。

1.姉妹都市交流の歴史

(1)異文化に対する強い関心
 日本における最初の姉妹都市提携は,1955年12月の長崎市と米国・セントポール市との提携であった。この提携は,セントポール市側からの要請で始まったものだったが,同市側の意図は日米の戦争の傷を癒し,平和への道を草の根レベルで探るところにあった。そこで原爆の投下された長崎市に対して締結の提案が行われ,一方,長崎市側も旧敵国の米国からの提案に対して忌避することなく,むしろ積極的に対応して実現した。この第1号は,姉妹締結の文書交換はなく,セントポール市での締結の祭典が締結日とされた。
 ところで米国によって原爆を投下され多くの人命が失われた長崎市として,戦後間もない時期に米国の都市と姉妹提携を行うことに対する心理的な抵抗はなかったのだろうか。意外なことであるが,当時の新聞記事などを調べても,そのような心理的抵抗はなく,市議会において市長の訪米を全会一致で承諾したという。長崎市とセントポール市との間で,提携以前に交流の形跡はなく,突然の米国の都市の申し出に長崎市が応答したことは,その当時,米国に対する親近感が広がっていたとみることができよう。
 一方の米国側にしても,アイゼンハワー大統領のピープル・ツー・ピープル・プログラムが始まる前に,一都市が自発的にこのようなことを始めたことは興味深い。
 1950年代には,米国からの学生を受け入れるホームステイ・プログラムも始まっていた。そのころは外国人が日本の民家に泊まることなど想像もできない時代であった。1958年に,米国のアマースト大学の学生だったジョン・ダワー氏(現在,マサチューセッツ工科大学教授)は,「果てしもなく遠くて,何となく関心のあった」金沢を訪れホームステイを体験した。そのとき日本の人たちは大歓迎して(旧敵国であった)米国の学生を迎え入れた。
 1950年代には(長崎市を含めて)21件の姉妹都市提携が行われたが,その多くは米国の都市で,それ以外は欧州の諸都市(オーストリア1件,フランス2件,ドイツ2件)であった。
 その後,1964年の東京オリンピックを契機として,一般国民の海外渡航が自由化され,海外旅行が認められたものの,当時の一般庶民にはまだ高嶺の花であった。姉妹都市提携も60年代に飛躍的に増加し,819件に上った。そして欧米中心から,次第にアジアにも目が向けられるようになり,60年代後半からその動きが出て70年代には本格化し始めた。
 韓国との最初の姉妹都市提携は,1968年10月の山口県萩市と韓国の慶尚南道蔚山市との提携であった。韓国との姉妹都市提携は,九州・中国・近畿地方の都市に多いという特徴が見られる。
 また中国とは,日中国交回復の翌年(1973年)6月の神戸市と天津市との姉妹都市提携が最初であった。1980年代,90年代に急速に提携が増え,現在では米国の都市に次いで二番目となっている。中国との姉妹都市の特徴として,都道府県単位の提携が際立っている点がある。都道府県の約8割が姉妹提携を行い,市町村レベルでは中国との姉妹都市提携のない都道府県は皆無というように,全国に広がっている。
 このような動きの背景には,それまで外国との関係をもっぱら担ってきた国(政府)の枠を超えて,地方自治体も海外と直接繋がることによって,新しい時代が開かれていくことへの期待感や希望があったのだろうと思う。

(2)変化・発展する姉妹都市交流とその成果
 姉妹都市提携による交流活動は,その当初において海外の人々と交流すること自体に意味があった。しかし一般の人々も自由に海外に出かけていけるようになると共に,NGOなど国際社会のアクターが多様化すると,交流の中身が問題になってきた。
 現代のグローバル化した環境においては都市も,企業と同様に,グローバルなネットワークの構築などを積極的に進めていかないと,都市間のグローバル競争に生き残ることができない。そのような時代的要請があると思う。
 都市同士は,あるときは競争相手でもあるが,あるときは共同してグローバルな問題に手を携えて対処していく関係にもある。例えば,環境問題では1990年代ごろからそうした都市のネットワーク的な動きがあり,環境や温暖化対策のために互いにいいアイディアを出し合ったり,ノウハウを交換したりした。あるいは,広島の平和運動のように,テーマに合わせて世界の都市と連携していく。このような動きが出てきた。
 中国の都市は日本との姉妹都市交流を活発に行っているが,日本の優れた都市開発や農業技術などを日本から学んで取り入れることを積極的に展開してきた。この点で中国は,したたかな戦略を持ってやっているように見える。
 しかし姉妹都市提携によって本当に「実利」が生まれたケースは実は少ない。経済交流につながっても,一過性のイベントに終わることが多く,持続可能な経済交流として長年継続するのはむしろ稀であった。それは,経済活動そのものが,特定の相手だけで活性化するものではなく,むしろ枠を超えて広く交流するところに経済活動の本質があるからだろう。
 姉妹都市提携で一番の成果として挙げられるのは,青少年交流ではないかと思う。青少年が相手の都市に出向き,相手国の民家にホームステイすることで刺激を受けて戻ってくることは,将来の人材育成に繋がる大きな成果であった。
 今では個人で海外に出かけるのも,情報収集も非常に容易になった。1970,80年代はそのような環境になかったし,海外に出かけることへの不安を解消する意味で,自治体が主導することで参加する人々に安心感を与えることもできた。そして行った人の次の世代にも引き継がれるし,家族ぐるみの付き合い・交流も可能だ。相手先が特定しているので,長く継続した交流が可能で,まるで親戚同士の付き合いのようなものにもなり得る。姉妹都市提携は,そうした外国との交流のプラットフォームを提供するものであって,その上にさまざまなものを載せていくとより大きな成果につながっていく。例えば,NPO,学校,病院などが姉妹都市というプラットフォームを土台にして活動することで,それが安定的で持続可能になっていくのである。

(3)近隣諸国との姉妹都市交流
 日本と東アジアの諸都市との姉妹都市提携は,太平洋戦争の戦後処理としての国交回復の問題もあって,戦後直ちにできる状況にはなかった。姉妹都市交流ができるのは,そうした国と国との戦後処理に一つの区切りがついてからとならざるを得ない面があった。
 中国や韓国との姉妹都市交流では,一部国交回復の以前から始まったケースもあった。日本と韓国の最初の姉妹都市提携は,既に述べたように萩市と蔚山市との提携であり,日韓国交正常化の3年後(1968年)のことだった。しかし国交回復の3年前(1962年),萩市長は山口県の韓国視察団の一員として訪韓した際,蔚山市長に姉妹都市の申し出をしたのだった。やはり国交回復のない中の姉妹都市提携は難航し,最終的には国交回復後に実現した。
 一方,中国について言えば,国交回復前から,飛鳥田一雄・横浜市長(当時)は,自治体の立場で日中交流を推進していた。この動きには,飛鳥田市長が後に社会党委員長にもなるような人物で,思想的な背景と共に,横浜には全国有数の中華街と国際港があり,中国とは歴史的にもなじみが深いという事情があった。1966年には横浜市選抜高校サッカーチームの訪中,71年には横浜での日中交歓卓球大会の開催もあった。そして国交回復の前の71年6月に上海市に姉妹都市提携を呼びかけたものの実現までは至らず,結局国交回復の翌73年11月に横浜市長を団長とする横浜・上海友好訪中団が上海を訪れて,友好都市締結の調印がなされた。
 ここには国の関係が政治的に難しいのであれば,都市がイニシアチブを取って友好関係を進めようというパイオニア精神だけでなく,友好交流のさきがけ,呼び水になるような模索過程があったと思う。
 また米国との姉妹都市交流は,米国側から声をかけられて始まったが,それを通して交流のよさを実感したことで,アジアの都市との姉妹都市交流は,日本から声をかけて進めていこうという意識もあったと思う。

2.定住外国人=人的資源という発想への転換

(1)一過性の交流を超えて
 日本の姉妹都市交流が近年低調になりつつあるということは,別の観点から言えば,姉妹都市というしくみを使いこなせていないということでもある。姉妹都市交流というと,語学ができる,お金に余裕があるなどのイメージが先行する。しかしこれからは,高齢者の介護問題など,特定のイシューに関して姉妹都市に出かけて行き,そこでの取り組みの現状を視察しながらノウハウを共有するという発想も必要だ。
 さらに,最近国政の課題にもなっている労働力不足を海外から補うという考え方を参考に,アジアの都市と姉妹都市提携を結ぶことで,そこから働き手に来てもらうというアイディアも考えられる。
 例えば,技能実習生の受け入れではさまざまな問題が起きているが,姉妹都市からの働き手であれば,受け入れに際して市の当局者もかかわるので,そう簡単に問題にはならないはずだ。それが解決されれば,中には長期に滞在してもらうことにもつながるだろう。
 今までの姉妹都市交流は一過性の交流が多かった。これからもっとダイナミックに人の移動ができるようになると,日本への定住ということも出てくるだろう。また日本人が相手の都市に出かけてそこに定住するということもあり得る。

(2)人口減少対策としての姉妹都市提携
 近年,地方都市の消滅ということが話題になったが,(県庁所在地などを除くと)地方都市で人口が増えているところは,外国人の定住によって増えているのがほとんどだ。2015年の国勢調査によると,82%の都市が人口減少局面に入っている一方で,47都道府県すべてで外国人の定住者が増えている。日本の人口減少傾向が強まる中で,外国人の定住者のみが増えているのである。こうした現実を直視する必要がある。
 そこで姉妹都市交流も,これまでの視点に加えて,人口減少対策の観点からもう一度見つめなおす必要があるのではないか。今年の「骨太の方針」(「経済財政運営と改革の基本方針2018」,2018年6月閣議決定)であまり議論されていないのが,地方の人口減少対策に外国人をどう活かすかという視点だ。政府の議論で出てくるのは,人手不足対策としての外国人労働者という視点である。
 カナダやオーストラリアでは,国レベルの移民政策だけではなく,州レベルの移民政策もある。州ごとに必要な人材の職種は違うので,州の事情に応じて人材を募集する。そのためその州に限定して住むという移民政策もある。日本でもそのようなことは不可能ではない。例えば,秋田県で農業関係の人手が足りないとして,フィリピンから100人の移民を呼び,年限を限って県内での仕事をしてもらうということである。
 姉妹都市というつながりを使ってアジアの地域から人を呼び込むという考え方である。単に労働力として見るのではなく,小学校同士が姉妹校になるとか,交流して顔の見える環境を作りながら,来た人を歓迎して受け入れる。逆に日本人も相手の都市に出かけて行って現地を視察してくる。今までの姉妹都市交流とは違った次元の,もっとダイナミックな関係である。これだけ外国人の受け入れが本格化する時代の到来を前に,半世紀以上の姉妹都市交流の土台を結びつけることは,大きなシナジー効果を生む可能性がある。

(3)高齢社会における定住外国人の活用
 日本の人口減少傾向はこれから加速していくのであり,むしろこれからが本番といえる。国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口」によると,2017年から37年までに1300万人減少する。2020年代に入ると年間620万人の減少となり,その後は,820万,920万人と減少傾向が益々強まっていく。10年で1000万人が減少する時代の到来である。しかも高齢者の割合が増え続けるので,日本社会は持続可能ではなくなっていく。
 秋田県のある市長は移民を一つの政策に掲げている。その市長室に行くと,2035年の同市の人口構成予測が示されていて,もっとも多い層が80歳以上,次が70歳代という。この現実を見れば,日本人だけで持続可能な社会にしようにも不可能だ。これは秋田県の一部の市町村だけの話ではなく,日本全国10万人規模の都市はほとんど似たようなことになるといわれている。
 今年7月の西日本豪雨災害で亡くなった方の約7割が65歳以上だった。新聞報道によれば,1F部分が浸水して2Fに逃げようとしても(高齢者という)体の理由で2Fに上がれずに犠牲になられた人が少なくなかったという。こうに見てくると,今後高齢者同士で助け合うという仕組みは限界だろう。そうなると,やはり若い人が地域にいないと最後には高齢者が見捨てられることにもなりかねない現実がある。若い人が必要だとすれば,それは日本人でなくても,外国人であってもいいのではないか。
 熊本地震(2016年4月)のとき,若いカナダ人で南阿蘇村に定住し消防団員として活躍したという話がある。日本人であろうと,外国人であろうと関係なく,若い人が地域にいないと社会生活が成り立っていかない。

(4)国レベルの多文化共生政策の不在
 長期的な人口減少傾向に伴う持続可能な社会の危機という観点から見ても,外国人を受け入れることは不可避の選択だと思う。それ以外のことをやり尽くした結果がこのような現実であり,それを受け止めて今後は外国人と共生しながら一緒にこの社会を営んでいくことを,政府としても積極的に考えていく必要がある。国がそのような方針を示せば,地方自治体としてもやりやすい環境が整うと思う。
 これまで多文化共生政策について国の方針が定まっていなかったために,定住外国人の人たちは「二級市民」のような扱いを受けてきた。しかしこれからは,外国人と一緒になって地域社会を盛り上げていかないと成り立たないことを,広く国民に理解してもらうことが大切だろう。
 例えば,長野県の「多文化共生推進月間」,愛知県の「あいち多文化共生月間」など,地方自治体では多様な多文化共生のための施策を先行実施している。しかし国が多文化共生政策について明確な方針を示してこなかったので,地方だけでは迫力に欠ける。
 今年の「骨太の方針」で政府は(2018年6月),「新たな外国人材の受入れ」の方向性を示したが,それはあくまでも人手不足対策のレベルで,あえて「移民政策とは異なるもの」と明示している。しかし国際交流の現場を30年以上歩んできた自分自身の経験から言えば,外国人は日本人にはない価値観や国際的なネットワークを持っている。そうした外国人のもつ日本人にはない豊かな資源を活用するという発想が必要だ。
 今までの発想は,日本社会に100%合う人,日本語ができる人ならば受け入れるというものであった。しかし日本語が少したどたどしかったとしても,能力の面では日本人にないポテンシャルを持つのであればその能力を活かすことは可能であろう。仮に外国人を労働力として見る場合にも,彼らのもつ能力を活かした,もっと有効な働かせ方があると思うし,単なる労働力という視点を超えた目で外国人をみることも大切だ。
 また外国人によって日本の若い人は刺激を受け活性化するし,世界に目を向けていくきっかけともなる。これまでの姉妹都市提携によってもそうしたことは可能であった。いま人手不足だから外国人を入れようという発想だけにとどまっていてはダメで,外国人受け入れは,日本社会の活性化という意味でも大きな意味がある。
 さらに敷衍すれば,日本が外国人を受け入れた社会をつくることで,「新しい国の形」になっていくきっかけにもなる。かつて日本は,渡来人をたくさん受け入れて,日本文化が発展していった。考えてみれば,京都の文化はそのオリジナルをたどると外国に由来するものが少なくない。日本文化には,異文化に接するときにより大きな飛躍発展をしてきた歴史がある。
 バブル崩壊以降の失われた何十年を経て人口減少局面にある日本は,国全体が閉塞感に覆われている。そこに外国人が入ってくることは単なる労働力を補うという次元の話ではなく,ここで日本として新たな次元に飛躍することを意味する。人手不足対策だけで移民政策を進めると,必ずブローカーのような存在が現れてくる。姉妹都市提携は,お互いに顔の見える関係を作りその中での交流を行うので,オープンな形での受け入れのツールになりうると思う。

(5)移民に対する誤った認識
 一般の人たちは,「外国人が増えると犯罪が増える」という俗説を信じているところがあるようだが,実は外国人による犯罪件数は,2005年がピークで,現在は三分の一くらいまで減少した。その一方で,日本に住む外国人は増え続け,近年外国人観光客は年間約3000万人を数え,昨年の定住外国人増加数は約18万人であった。
 もし外国人犯罪について心配するのであれば,膨大な数となった3000万人の訪日外国人について心配すべきところだが,それについて心配する人はまずいない。ところが,定住外国人となると,その犯罪が増えるのではないかと心配する。それはバランスを欠いた議論といわざるを得ない。人口比では百分の一以下の集団に対して過剰な心配をしながら,訪日外国人はもっと増やしていこうと考える。
 私は「新宿区多文化共生まちづくり会議」会長をやっているが,新宿区は人口の約12%が外国人だ。外国人からみで最も大きな問題は何かというと,(犯罪ではなく)ごみの出し方の問題で,次いで騒音,駐車場などの順となっている。こういう現実を直視すれば,外国人受け入れはそれほど恐れることではない。
 むしろ外国人が定住するに際してオリエンテーションが十分なされていないことが問題だと思う。例えば,ドイツでは,外国人が定住しようとするときには必ず600時間のドイツ語学習と100時間のドイツの文化や風習についての学びを義務化している。その講習を受けないとビザの更新もしない。韓国も同様に,415時間の韓国語学習を無料で提供している。韓国はまだ人口減少局面には入っていないが,近い将来そうなることを見越して,移民政策を充実させている。ところが日本はそうした措置を何もしていない。
 それではなぜ,ドイツはそういうことをやるのか。それは外国人がドイツ社会に貢献できる人材になりうると考えるからであり,そのために一定の先行投資をしているわけだ。
 そのような措置をしっかりやれば,そんなに大きな問題にはならないと思う。日本は人口が1億2000万人だが,欧州の人口の少ない国に10万人単位で移民が入るのとはレベルが違う。1000人いる学校に年間2~3人の外国人が入ってくるような感覚であろう。それによって学校の雰囲気が大きく変わることはないはずだ。日本の人口の10%が外国人になるのには半世紀以上の歳月を必要とする。その間にしっかりとした受け入れの仕組みを整えていけばよい。
 欧州のように人口の10%が外国人だという状況までまだ何十年とあるのに,それを今心配して移民に対して門戸を閉ざすのは果たしてどうかと思う。もちろんいきなり,相当数の移民を一気に受け入れることは賛成しないが,段階的に増やしていくのが懸命なやり方だろう。移民を入れない限り,今後の日本社会は高齢者ばかりで,社会がまわっていかなくなってしまう。

3.政治的葛藤をどう克服するか

(1)「公共財」としての姉妹都市提携
 戦後70年以上の歳月が経過しながらも,日本と中国・韓国との間には歴史にかかわるさまざまな問題があって,それがときに政治問題化することがある。それに伴って姉妹都市提携や多文化共生の現場に影響が及び翻弄されることも少なくない。そこから完全に逃れることは難しいが,交流の根底には相手国の市民との草の根交流に基づく相互理解があるはずだ。
 これまでの日韓交流の足跡を見れば,それを乗り越える絆の強さはあるように思う。草の根交流を何十年とやる中で,相手国の人たちとの間にしっかりとした信頼関係が築かれているからだ。国のレベルでは領土や歴史問題でもめていても,姉妹都市間ではしっかり交流することが重要だということの共通認識がある。しかしいまは雰囲気が悪いので,一時中断するが,信頼関係まで断ち切れたわけではない。そのような心情的紐帯ができていることは,非常に重要である。
 将来二国関係が良くなったときに交流を再開しようとしても,両者の間の良好な土台がないとうまくいかない。政府が急に外国人受け入れを表明しても,多文化共生の歴史的経験がないと,交流をやろうにもいろいろな問題が起こりやすい。
 実は地方自治体では多文化共生政策を過去に20年以上やってきた歴史があり,さまざまな経験を積んできている。国が多文化共生政策をきっちり立てれば,地方における土台があるところでは,うまくいく。同様に姉妹都市交流においても,いま日中関係が少しずつ改善しつつある中で,それまで日中の姉妹都市交流をやってきた土台があると,いざそれを進めようとなったときにうまく対応ができる。
 サンフランシスコと大阪市の(慰安婦像をめぐる)姉妹都市解消のようなケースについて考えてみると,今回は大阪市長が独自に判断して進めようとしているが,そもそも姉妹都市関係というのは,自治体だけがやることではなく,自治体と市民が共同で行う事業である。盟約を結ぶのは,(市民の代表としての)市長であったりするわけだが,あくまでも自治体と市民の共同事業という考え方に立つ。市役所の職員の交流ではなく,実際の交流の主体は市民である。大阪市の場合は,すでに50年以上も交流をしてきた歴史がある。別の言葉で表現すれば,一種の「公共財」となっている。それを一人の市長の独断で壊していいものかという見方がある。
 もしさまざまな問題があった場合に,交流を一時中断するというのであればいいわけで,一時の感情で完全に解消してしまうのはどうかと思う。過去の交流の積み上げを遺産として大切にすべきであるし,そもそも市長にそのような権限があるかということでもある。

(2)実体験が先入観を超える道
 姉妹都市交流は,多文化共生と同じように,実際に外国人とつきあってみると,彼らも(自国民と同じように)いい人だということが肌でわかる。それでは,外国人に対してネガティブに見る人とポジティブに見る人の差はどこにあるのか。どちらかというと,ポジティブに見る人は,外国人と実際に付き合い交流をしたことがある人に多く,他方,ネガティブに見る人は,経験のない人に多いということがアンケートでも分かっている。
 姉妹都市交流で相手国の人のことが分かってくれば,相手のことを悪く言わなくなるし,信頼感も生まれてくる。そういう環境を作っていくことが,日本とアジアとの関係をしっかりしたものに作っていく上での土台になると思う。
 観光で外国に行くようなレベルではなく,実際の人と人との交流のレベルでの付き合いの経験である。とくに若い人たちが,現地に行ってホームステイをすると,一過性の交流ではなく,深いところでイメージが変わっていく。原体験としてそうしたものを持った人が増えていくことが,将来の二国間関係をよくし発展につながる。日本人は2トラックの考え方ができないといわれるが,それを補うのが姉妹都市交流ではないか。信頼関係の構築である。
 佐賀県に「地球市民の会」というNPO法人があるが,韓国とホームステイ交流をやってきた。あるとき日本語のできる韓国の女子学生を佐賀に招こうとしたところ,あるおばあさんが「韓国人は大嫌いだ。もし来るのなら会わない」と言っていた。その後韓国の女子学生が訪日して数週間ホームステイし交流することになった。帰国するときになったら,そのおばあさんが「もう帰るのか?私がお金を出すからもう少し延泊してくれないか」と言ったという。韓国の若者は高齢者に対する尊敬心があって,実際高齢者に対して尊敬心を持って対する。そのおばあさんは,女子学生のそのような孝行の情に感動したのだった。このように実体として交流することで外国人に対するイメージが大きく変わるきっかけにもなる。
 姉妹都市交流にかかわるのは国民の1割にも満たない少ない人々ではあるが,交流を通してその価値がわかった人たちが世の中に向けて声を上げるべきだ。例えば,日韓関係が今ぎくしゃくしている中で「いまは静かにしておこう」というのが現在の風潮である。そういうときには反韓・嫌韓の声がより大きくなりがちで,それに翻弄されてしまう。こういうときこ「そうではない韓国人を知っている」と声を上げていくことが,社会の雰囲気を変えていくきっかけになるのではないか。しかしそうすると叩かれるということでしり込みしてしまいがちだ。成熟した隣国との関係を築くためには,そういう人たちがもう少し増えて声を上げていけば,周りの人たちも確かにそうだなと感じていくかもしれない。
 逆に,日本に来た中国人や韓国人の中にも日本人との交流を通じて日本に対するイメージを変えていく事例も少なくない。草の根の交流がやはり重要で,政治的な思惑を持って発言する人たちに対して反論する人が出てくるに違いない。健全な世論を作る意味でも,重要だと思う。

最後に

 もちろん理想どおりいくかはわからないが,外国人にとっても魅力ある日本になっていかなければならない。そのためには,定住外国人を支援の対象と見がちなこれまでの「多文化共生政策」から,外国人のもつ潜在力に目を向け,それが日本社会の閉塞感を打ち破る起爆剤になるとの発想が必要だろう。つまり定住外国人について,単なる外国人労働者,在留管理の視点を超えて,日本に住む生活者・地域住民という認識への転換である。
 認知症対策の一つに「新オレンジプラン」があるが,これにならって異文化コミュニケーションについての理解を深めてもらうべく異文化国際講座のような形で一定時間の学習を行い,それを修了した人に何かの証しを与える。そうすることで国全体としての多文化共生に対する国民的理解が深まるに違いない。
(2018年7月25日)
(『世界平和研究』No.219,2018年秋季号)